日々を自分で生きていく
7/26(日)の日記です。
映画を2本みた。
1本目は、「聴く隣人のいるところ」。
島根県江津市、 浅利富士の中腹に佇む全寮制の愛真高校。
その高校でのある1年間を撮ったドキュメンタリー映画。
洗濯は手洗い、食事も3食自分たちで作る、寮にスマホは持ち込めない。
規則を変更したいときは、全員で話し合いを行う。
監督自身も愛真高校の出身で、高校生活の3年間と卒業後の人間関係の築き方にギャップも感じたそう。
確かに、あれだけ丁寧に対話に取り組み続けることは、難しいと感じてしまう。
素晴らしいけれど、難しい。
「他者を諦めない」とはどういうことだろう。
「諦める 反対語」と調べたら、「粘る、拘泥する、望む」と出てきた。
他者を粘る。
関係を続けようとすることかな。
2本目の映画は、「わたしの聖なるインド」。
ムスリムの女性たちは、なぜ、100日以上にわたり道路を封鎖し続けたのか?
ヒンドゥー至上主義が台頭するインドを揺るがすドキュメンタリー
他者に対して違和感を抱くこと。
その違和感とはなんなのか。
自分にとっては違和でも、相手にとっては普通のことなのかもしれない。
その普通のことをコントロールする権利は誰にあるのだろう。
誰しも自分の権利を守りたい。
でも、自分の権利を主張することが誰かの権利を奪うことにつながっていたら。
そんなときにこそ、「対話」ができたらいいのかもしれない。
宗教、ジェンダー、セクシュアリティ、人種。
自分を構成している要素。
どんな要素を持っていようと後ろめたさを抱きたくはないし、ある特定の要素を持っていることに後ろめたさを抱かせるような社会に生きたくはない。
後ろめたさを抱えることもなく、生き抜くために自分の苦しみを他者と比べることもない。
そんな世界にしていくために何ができるだろう。
一個人としては、「日々を自分で生きていくこと」だと思う。
力はいらない。
映画館からの帰り道、「今は鎧が精密化しているのかもしれない」と思った。
最近、自分と他者、社会などとの「境界線」に興味があって、その厚さや変化の仕方に注目している。
境界線や皮があることで自分の身を守ることができる。
でも、身を守ることに過剰だったり、外からの攻撃が激しすぎて、その鎧が硬くなる。
鎧の精密化とは、鎧の硬さはそのままに厚みがどんどん薄くなっていくこと。
まるで丸腰のように見えても薄くて硬い鎧を纏っているから、どんなに近づいても他者と触れ合うことはない。
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