「普通の」の正体(2)--”多様性””個性”という言葉が覆い隠す「要求」の構造
前回は、「普通とは“要求や要望”である」と解析しました。
今回は、その“普通”という言葉の中に巧妙に隠された「個性」や「多様性」のすり替え構造を解体していきます。
SNSや教育現場などで、次のような主張を目にしたことはありませんか?
「普通ってなんですか? 人と違うとダメなんですか?それを受けいれるのが多様性社会なのではないんですか?」
「私(子供)は障害があります。多数の人とは違う事はあるけどそれは個性なんです。私達だって苦しいんです」
という主張。あるあるかと思います。
この主張は、“普通”という大衆心理に訴えることで、要求や要望を通そうとする意図と、「個性・多様性」という社会的正当性の主張が混ざり合ってしまっているのです。

つまり、これらも本質は「要求、要望」なんです。
これを”個性”や”多様性”に繋げて、主張を個人ではなく社会問題に置き換えようとしているんですね。
なぜこのような行動になってしまうのか。
「自分達自身や家族で解決できなくて、苦しんでいるから分かって欲しい」
という、「ヘルプメッセージ」なんです。
こうでもしないと、”誰も真剣に話を聞いてくれない””誰も理解しようとしてくれない”という現実に打ちひしがれているから、こうするしかない。とも言えます。
◆主張の表と裏を冷静に見極める視点が必要
しかしながら、冷静にならないと何も解決しません。
これらの主張には欠けている視点があるからです。
機能主義的視点:象徴的な属性(「障害」「健常」「普通」)ではなく、具体的な行動の機能(社会への影響)に着目する事。
公正な評価の視点:障害の有無にかかわらず、”逸脱した行動(例:暴力、窃盗)”は、社会規範からの逸脱として一律に評価されるべきである。
「迷惑」の客観的精査:感情的な不満としての「迷惑」ではなく、他者の権利侵害や社会の円滑な運営を妨げる度合いとして「迷惑」を精査する。
このように、障害だからどうこうという事ではなく、「行動の評価と個人の属性(障害の有無)」は分離して考えるべきなのです。
行為の評価:暴力を振るう行為は、それが障害のある子供や大人だろうと、ない子や大人であろうと、「他者に損害を与え、社会の安全や治安を乱す行為」として評価され、対処される必要があります。
「暴力を振るって金品を奪う子供や大人の行為」は、障害の有無にかかわらず、社会的な「普通(トラブルなく過半数が合意する規範)」から大きく逸脱した行動であり、「普通」とは言えません。
属性への配慮:ただし、障害を持つ人や子供の逸脱行為の場合、その原因や対処法を考える際に、「特性」への配慮が必要になります。例えば感覚過敏が原因でパニックを起こしている場合、そのパニック自体が周囲に迷惑をかけているとしても、解決策は”叱責”ではなく、”環境調整やサポートになる。”という感じです。
◆「迷惑」の精査と「特徴の大きさ」
「迷惑を被るのか」「安心して楽しく行動できるのか」という精査と特徴の大きさは、社会規範の許容範囲を決める上で重要です。
迷惑の精査:単なる違い(例:授業中に立ち歩く)と、「権利侵害・安全の脅威」(例:暴力を振るう、器物を破壊する)を区別する事。後者は「普通」の妥協点から大きく逸脱します。
特徴の大きさ:行動の逸脱度が過半数の人が許容できる「妥協点」をどれだけ超えているか。この逸脱が大きいほど、特別な介助やサポート(あるいは罰則)が必要になります。
この視点を取り入れる事で、「障害者=特別に許される」でも「障害者=即座に排除されるべき」でもなく、「すべての人の行動を、その社会的な影響という客観的な基準で評価し、必要に応じて適切な支援や介入を行う」という、より公平で建設的な議論が可能になります。
◆「区別」と「差別」の論理的境界
「区別」と「差別」を理解していない人がいますが、明確に違います。
区別とは、合理的な目的(集団の学習進捗保証や会社の進捗保証と個人の専門的指導)に基づきます。
例えば、多動症の子供なら通常学級から分ける事がありますが、以下の理由で「区別」となります。
目的の合理性:分離によって、通常学級の進捗障害という集団の障害を防ぎ、同時に専門的な環境でその子の”最善の利益(専門的指導)”を図るという二重の合理目的がある。
適材適所の認知:その子の特性に最適な教育環境を選ぶというポジティブな側面がある。
しかし、この主張が「差別」と批判されるのは、現代の教育哲学が「統合教育」という、別の価値観に基づいているからです。批判派の論点は以下の通りです。
「被害」の再定義:規律正しい子どもの「進捗阻害」を被害と見なす一方で、多動性の子どもが社会から排除されることや、共に学ぶ経験を失うことを、より大きな「被害」と見なします。
「区別」の弊害:意図が「指導」であっても、結果として「分離」は烙印を生み、その子の自己肯定感や社会性の発達を阻害し、将来的な社会統合を難しくするという懸念があります。
社会の責任:多動性の子に合わせて環境(座席配置、休憩時間、指導法)を調整し、集団全体が多様な行動を許容する能力を身につけることこそが、社会の側の責任であり、真の「多様な社会の妥協点」であると主張します。
つまり、批判する側は、「個人の尊厳」と「社会からの分離を避けること」を最優先の価値としており、「妥協点」の定義に「共に学ぶ権利の維持」を含めるよう要求しているのです。
⇒「差別」と「区別」の境界は、制度の線ではなく、“その目的をどこまで他者と共有できるか”という社会の成熟度によって決まるのです。
この問題は、どちらか一方が完全に正しいというものではなく、「集団の効率性」と「個人の尊厳・統合」という二つの重要な価値のどちらを、社会の「普通」(妥協点)として優先するか、という価値観の対立に他なりません。
◆要求の無秩序な容認は社会が無法地帯になる。
「配慮」と「容認」は同義ではありません。
社会の秩序を守りながら、個人の特性を尊重するために必要なのは“冷静な線引き”です。
障害によって暴力行為がでるなら、それは「介助」であったり「特別教育」という枠組みで是正していく問題です。
「障害があるから暴力行動を容認してください。障害はないけど、暴力的な性格なので容認してください。」
では、社会は無法地帯になってしまいます。
というか、誰しも暴力行動を振るう人と一緒に勉強しようとか、一緒に仕事をしようなんて思わないのではないでしょうか。
障害の有無にかかわらず、暴力行動は容認されません。社会が個人の特性を配慮することと、逸脱行為を無条件に受け入れることは全く別の問題です。
行為の評価と責任の所在:暴力行動は、それが障害の特性や性格に起因するものであっても、他者の安全と権利を侵害する行為であるという評価は変わりません。社会が目指す「妥協点としての普通」は、「他者を傷つけない」という最低限の安全規範の上に成り立っています。
「容認」ではなく「是正と支援」:障害特性や性格が原因で暴力行動が出る場合、社会が取るべき対応は「容認」ではなく、「介助」や「特別教育」という枠組みでの是正(介入)と支援です。
「責任」の免除ではない: 障害や性格は、その行動に対する法的・道徳的な責任(加害者としての責任)を完全に免除する理由にはなりませんが、原因と対処法を考える上での重要な背景となります。
「支援」の義務: 社会は、その暴力行動の背景にある要因(コミュニケーションの困難、感覚過敏、環境へのストレスなど)を理解し、その原因を取り除くための専門的な支援を提供する義務を負います。
法と福祉の目的:「障害があるから、こういう性格だから容認する」という態度は、長期的にはその人自身をも社会から孤立させ、排除の対象としかねません。
福祉の目的: 障害を持つ人が社会の一員として安全かつ安定して生活できるように環境を整備し、スキルを身につけてもらうことです。
社会の目的: すべての人が安全で安心して暮らせる秩序を維持することです。
したがって、暴力行動には、特性を考慮した上で、専門的な方法で行動の変容を促すという毅然とした対応が必要です。この視点こそが、「無法地帯」にしないための鍵となります。
※この記事では、わかりやすい例として暴力行動を挙げました。
◆次章へ
「普通とは要求であり、多様性もまた要求である。」
その要求が“善意”に包まれるほど、私たちは見誤り、社会は“新しい普通”を作り出す。それは、“同調圧力”と何が違うのだろうか。
“理解されたい”という叫びが、多様性の名の下で“同調せよ”という支配へと変わるとき、私たちはまた、自由の名のもとに不自由を生きることになる。
そして、誰かの正義が多数の暴力へと変わる歴史を繰り返す。
次章では、ソクラテス、プラトン、韓非子、荀子が見抜いた“多数の暴力”を掘り下げていきます。
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