「バンジョウトウセイ譚」 第一話 芝蘭結契
あらすじ
「ボクと結婚して欲しい」とある日謎の女性から唐突に求婚された主人公、清水鈴鹿。彼は親や兄弟など家族のいない孤独な少年であり、その生い立ちゆえに愛情や生き死にについて関心がなく無気力な人生を送っていた。しかし、女性との出会いを機に、鈴鹿の物語は突然に動き出すこととなる。彼は世間には秘匿された組織である「幕府」に入り、この世に不可解な現象や災害、事件、事故を引き起こす存在とされている「夷」と戦う存在である「夷伐者」となって戦いに身を投じていくことになるのだが……
これは、一人の女性と運命的な出会いをしたことによって動き出す、孤独な少年が愛や生死を知る物語。
プロローグ
「ああ、やっと見つけた。ボクの愛しいひと。どうか…………どうかボクと結婚して欲しい」
白く滑らかな磁器のような肌をした手を差し伸べてくる彼女から発せられた第一声はそのようなものであった。
学校の屋上で腰が抜けてへたり込んでいるのとはちょうど対照的な形で手を差し伸べられている状態。時刻はもうすっかりと帳の降りた深い夜だ。おそらく午後10時くらいであろうか。
その夜の闇とは対照的に白く、艶やかなロングヘア。この世のものとは思えないような造形の肢体と顔。
とても美しい女性だというのが清水鈴鹿の抱く彼女への極めて純粋な第一印象であった。
非常に、全く意味の不明な状況だ。そりゃ確かに世の中にはまだまだ人類が未踏の領域があり、解明されていないことも多い。その中にはもちろんスピリチュアルな話題というものも存在するのだろう。しかしだ、どうして自分がこんな訳の分からないことに巻き込まれて、知らない女性から求婚されているのだろうか。
まるで現実離れした状態に、鈴鹿はまとまらない頭をフル回転させて言葉を振り絞った。
「………………はい?」
その非常に気の抜けた返事が、鈴鹿の発した第一声であった。
これ以外の返事をこんな状況で返せる奴がいるのなら是非ともあってみたいものだ。このときを思い返したとして、おそらく僕は僕を褒めるだろう。よく声を発することができたなと。
こんな、先程まで僕を襲っていたバケモノが側で殺された状況で。
はらり、はらり。まるで薔薇のように真紅の「愛の花」が激しく咲き乱れ、残酷にも美しく散っていくバケモノの血しぶき。
「あの……僕、あなたの名前すら知らないので……まずはそこからでいいですか……?」
やや困惑気味な表情を携えてそう答えを返す。
至極真っ当な返答であると思った。これ以外に正解があるのかと疑いたくなるくらいには。
「……あはは、確かにそうだよね」
鈴鹿の返答に対して、彼女は真っ当な正論を言われて納得したようにくしゃりと笑う。
その笑いの動作は一見とても軽快で、溌剌なものであったが、その表情にはどこか悲しみも含んでいるようであった。
どうしてそんな、表情とは裏腹な顔をするのだろうか。彼女の求婚の目的も、表情の謎も何1つわからないままだ。けれど、なぜだろうか。そこに隠された真意を知りたいと思わされるような不思議な表情だ。
未だに止まらぬ真紅の花吹雪、夜の闇に支配された屋上を照らす月光、それをスポットライトのように浴びて踊る彼女の長い髪。
そんな幻想的なシーンの中、彼女はゆっくりと口を開けて自らの名前を言い放った。
「ボクの名前は………………」
第一話 芝蘭結契
「人生って難しいなあ」
教室の隅、窓側の席に座っている鈴鹿は校庭を歩いているワンピースを着た女性を見てふとつぶやく。開け放たれた窓から入った風がカーテンをひらひらと揺らしている。
ぽつりとつぶやいた言葉はそこから夏の蒸し暑く澄んだ空気の中に溶けていった。
東京都の郊外、田舎でも都会でもなく、地方の街と言われれば納得してしまいそうな場所に鈴鹿の通う高校はあった。
偏差値は中の上くらい。至って普通の高校生。
普通の高校生。もしそうならであれば悩むことは少ないのだろうかと鈴鹿は意味のないことを考える。
「今日も元気に不貞腐れてるなあ」
呆れたように一人の女子生徒が話しかけてくる。
女子生徒と言ってもこの学校ではそこそこの有名人。すれ違えば自然と目で追ってしまうような端麗な容姿。肩にかからないくらいに切られた黒髪にやや垂れた目を携え、健康的な夏服からは季節に似合わない白く透明な腕が覗いている。
それがこの女子生徒、化野愛花である。そして彼女こそが鈴鹿のこの学校における唯一の友達と言える存在であった。
「元気に不貞腐れてるってなんか矛盾してない?」
時刻は放課後。夏場ということもあってまだこの時間は日が落ちきっていない。窓際の席に座る鈴鹿の横に立つ愛花に首だけを向ける。
「矛盾してないよ、まさに清水くんって感じじゃない?」
「えぇ、全く自覚ないんだけど、どこら辺が?」
「見た目は良いのに愛想なさすぎて友達いないところとか……?」
愛花は生徒のいなくなった鈴鹿の隣の席の椅子を引き、そこに腰を下ろすと、校庭で練習している運動部を見たのだろうか、ふと校庭を一瞥する。
清水鈴鹿という人間の特徴は、男性の平均身長より少し大きい173センチくらい、髪の毛は清潔に整えられているものの、くせ毛が少し目立つ黒髪に、少しつり目の中性的な顔立ちの高校生。容姿はどちらかと言えば人の視線を惹きそうな整ったものだったが、とにかく愛想のない雰囲気が立ち昇っている。
つまり、愛花は鈴鹿のような愛想のない人間でも仲良くできる超絶コミュ力人間か、もしくはただの変な物好きの人間ということになる。そう考えると少し笑えてしまう。
「はは、何だそれ、だとしたら化野さんはそんな奴にも仲良くできる物好き?」
鈴鹿が軽快に笑って見せると、愛花はむっと眉間に皺を寄せて、抗議の眼を向けてくる。
「なんかすごいバカにされた感があるんだけど!」
そう言い放つとともに身を乗り出し、座った椅子が傾く。
周囲は放課後が持つ懐かしさを帯びた青色の雰囲気に包まれながら、一人、また一人と生徒が立ち上がっては教室の外に出ていった。
出ていく生徒は別れの挨拶を交わす者や部活に向かうと言う者、これから街に繰り出して遊ぶ予定の者など様々であった。
やがて人がまばらになっていくにつれて他の生徒の話し声が強調され、自然と耳に入りやすくなる。
「見てみろよこれ、やばくない?」
一人の男子生徒が少し興奮したようにもう一人の男子生徒にスマホの画面を見せている。
「ああ、これめっちゃバズってたよな。東京のいろんなとこで魚とか変なものが降ってきたっていう」
ネットを中心に流行っているらしいその映像を見た男子生徒は興奮している生徒とは対照的に冷静に答えていた。
「そうそう、ファフロツキーズ現象だよ!」
再生していた動画を停止すると、スマホをポケットにしまい、その内容について熱弁していた。
「お前、そういうのほんと好きな」
熱弁されている生徒はまた始まったかと呆れた顔をしながらうんうんと頷いている。
鈴鹿たちは自分たちの話をしながらも、男子生徒たちの話を聞くともなく聞いていた。そして鈴鹿は聞き耳を立てていると思われたくないと考え、特に言及はしなかった。
しかし愛花はどうやら違うようだった。
「世の中不思議なことってあるよねえ」
愛花は男子生徒の方を一瞥すると、鈴鹿の答えを確かめるかのような目で返事を催促する。
「化野さんってそういうの信じそうなタイプだもんね」
鈴鹿は手をひらひらさせながら少し小馬鹿にしたような返答をする。
「誰が毎朝占い確認してそうって!?」
愛花が食い気味なボケを披露し、鈴鹿はその勢いに少し気圧されてしまう。
「いや、言ってない言ってない」
「それじゃあさ」と愛花は前置きを据えて話し始める。
「最近学校とかSNSで話題のさっきの人たちが言ってたおかしな現象とか、変な生き物の話……それから最近学校に出るって言うワンピースを着た女性の幽霊も信じてないの?」
明らかに先ほどとは異なる真剣な口調。先ほどまでいた生徒もすでにいなくなっており、鈴鹿と愛花のみの教室には静寂が横たわっていた。
鈴鹿はその雰囲気に少し戸惑いながらも、その真剣さに応えようと努める。
「そもそもそんな話があるなんて全然知らなかったよ」
「そっか。それならいいいんだけど!」
先ほどの真剣な表情からは一転して愛花はいつもの調子に戻って朗らかに笑ってみせる。
言い終えるや否や、愛花は座っていた席からガタッと音を立てて軽快に立ち上がり、帰りの支度を促すように学校カバンを肩に下げる。
「さて。そろそろ遅いですし帰りましょうか」
愛花は誰もいない教室を満たす夕焼けの光に彩られながら、きらきらと輝いていた。
「ああ」
鈴鹿は愛花の方を見るともなく同じように立ち上がり、持ち帰るべき荷物を肩掛けの学校カバンの中に押し込んだ。
「あ、そだそだ」教室のドアの方へと歩みを進めていた愛花は何かを思い出したように鈴鹿の方を振り返る。
「やっぱり清水くんはもっと愛想良くすれば、みんなから好かれると思うよ」
悪戯をするように笑う愛花は見た目こそ麗しいが、まるで小悪魔のようだなと鈴鹿は思った。
「はは、余計なお世話だよ」
「それもそっか!」
くだらない何の要領も得ない会話。これが唯一の友達とするべきの会話なのかは他に友達のいない鈴鹿にはわからなかった。しかし、鈴鹿はこんなくだらない毎日が続くならそれで満足だと、そう思っていた。
そして、誰かに好かれることや誰かを好きになることなど今の鈴鹿には到底器用にできることではないのだ。なぜなら、それを教えてくれるはずの人が鈴鹿にはいなかったのだから。
◇
黄昏時。日没近くで徐々に温度が下がりつつあったが、それとは反比例するように街中は夕焼けの赤色に染まり、その端から闇が顔を覗かせている。
街に住まう人々が帰るべき場所に向かって皆足早に歩き、そこに混ざるように鈴鹿も家路についた。
「愛想を良くすればみんなから好かれる……かあ」
今日の夕食は何にしようかと二人分の献立を考える鈴鹿の頭の中には愛花の言葉が繰り返されていた。
清水鈴鹿には親兄弟がいない。幼い時分、どのような理由でいなくなったのかは定かではないが、鈴鹿が孤独に生きなければならないのは明らかなことだった。その境遇ゆえに普通の人にはできるような誰かに愛想よく振る舞ったり、好かれようとすることも鈴鹿には難しいことだった。
そうして、いつしか誰かを愛すること、誰かに愛されることを忘れかけた頃、彼女は唐突に鈴鹿のもとに現れた。
「ただいま」
皆帰るべき場所に分かれていき、雑踏の少なくなった街中。鈴鹿も自らの帰るべき場所に辿り着いた。
「すずかぁぁぁあああ!!おかえり!!!」
玄関へと猛スピードで向かってくる足音と、鈴鹿の名前が家中に響き渡る。
「ルイ、出迎えはありがたいけどもう少し静かに頼む……」
「仕方ないだろう!鈴鹿の夕食が早く食べたかったんだ!腹が減った!」
歳の頃は14、15くらい。身長は150センチ前後といったところだろうか。綺麗に整えられたセミロングの髪の毛に、少し幼さを残しつつも見る人を美しいと思わせる魅力を持った童顔。そしてそれと比例するような成長過程の控えめな肢体に、制服のような和装を身に纏っていた。彼女こそがルイと呼ばれた少女だった。
「すぐ作るから、大人しく待っててくれ」
「む。わかった!」
慣れた足取りで自室に荷物を置き、手を洗い終えるとキッチンに戻り、夕食を作る準備を始める。その間、何か気になるのかルイは鈴鹿について回った。
「ルイ……腹減ったのはわかるがついてきても何も出ないからな」
鈴鹿が呆れたようにルイを諭すと、頬を膨らませて抗議するような眼で鈴鹿を見る。
「違う!そうではなくて、今日も特に問題はなかったのか……?」
「……ああ、何もないよ。強いて言えばワンピース着た女の人がいたくらいだ」
鈴鹿とルイの間に刹那の沈黙が横たわる。
二人の話し声の他には包丁で食材を切る音や火にかけられた鍋の水の音のみがあり、やけに沈黙の時間を長く感じさせた。
「何度も言っているが、変なものが見えるなんて他の人に知られるんじゃないぞ」
「それはわかってるよ、それに話したところで信じる人はいないだろ」
鈴鹿が諦めたような口調でルイに反論すると、彼女はムッと口先を尖らせる。
「すずか、だとしてもだ……! 私はすずかに普通に幸せに生きていってほしいと思っているんだ……だから、お願いだ」
「ああ……大丈だよ。ごめんな心配かけて」
「うむ……わかれば良い!」
ルイが如何に鈴鹿を思って発言しているかが、嫌というほどに伝わってくる。しかし、鈴鹿はここまで心配するのも理解できているつもりでいた。なぜならば、ルイこそが鈴鹿の特異性を理解してくれている唯一の存在だからである。鈴鹿はそんな自分の理解者には誠実でありたいと心から思い、ルイの願いに応えることでそれを成し遂げようとしていた。
清水鈴鹿が抱える特異性。それは、この世にあって人ならざる者の存在、平たく言えば幽霊や妖怪のようなものを認知できることだった。
鈴鹿とルイはしばらく他愛もない話を繰り広げ、その間に着々と夕食の準備が進んでいた。鈴鹿は盛り付けの終わった料理をルイに渡し、彼女はそれをテーブルに配膳していた。
ルイの特徴的な格好と相まって、その姿はさながら大正時代の和装メイドのようである。
「それにしても」ルイはそう口火を切ると何かを懸念するように話し始める。
「最近、すずかの学校はやたらと多いな」
不意に口を吐いた言葉だからか、主語が抜けた不完全な文章だったが鈴鹿には何が言いたいのか瞬時に理解することができた。
「確かにな、最近は学校付近で見かけることも多い」
「ああ、だから近くすずかの学校へ調査に行こうと思ってる」
そう言い終えるが早いか、ルイと鈴鹿は最後の料理を配膳して席についた。
「お前なあ……いくら他の人に見えないからって……」
「見えたとしても、私なら超絶美少女の転校生で通用するんじゃないか?!」
鈴鹿は呆れたようにルイを嗜めようとするが、当の本人はすっかり調子に乗って自慢げな顔を見せていた。
しかし、普通に暮らしていると忘れそうになるが、このことがルイが鈴鹿の理解者たる最大の理由なのだ。それはつまり、ルイも人ならざる存在だということだ。
「いや、どう考えてもただのロリ、良くて中学生だろ……職員に連行されるのが簡単に想像できる」
「誰がロリだ!!こう見えても私お姉さんなんですが!?」
二人の笑い声が響く食卓。多くの人を愛し、愛されるというのは難しくとも、一人の家族と一人の友人がいる。今はそれだけで十分だと鈴鹿は思った。
「さ、ご飯にしよう」
「うむ!!」
二人は顔を合わせると、再び目の前の食事に向き直って合掌した。
「「いただきます!」」
◇
都内某所。
人の気配すらなさそうな暗くて湿気の多い裏路地に男女二つの影、そして既に肉塊となった人ならざる者があった。
「最近この街での発生量がやたらと多いっスね」
男が訝しげに尋ねる。
「そうだね。 ここまでの発生には何か原因があるはずだ」
女は同意を示すと、何かを催促するように一瞥した。
「だからと言って、長官が出てくる必要があるんスか?」
「発生源の中心である学校付近に出たレベルを考えると、一応ボクも出ないと不安が残るからね」
「不甲斐ないっス……」
「はは、そう言わないでくれ。別にキミたちを信用していないわけじゃない。さあ、次の地点に移動しようか」
「はい。路地を抜けた先に樋口が車を回してます」
「そうか。それはありがたいね」
女はそう言うと、踵を返して裏路地の出口へと向かった。その後を追うようにして男も歩き出す。
◇
いつもと変わらない学校の教室の片隅。1週間続く快晴と日本の夏特有の湿気は蒸し暑さを強調している。
ちょうど外が一番暑くなる昼休みの教室はクーラーによって完璧な避暑地となっていた。
「いや〜暑いねえ」
「本当にね、ところで何を買ってきたの?」
弁当を持参して自分の机で食べていた鈴鹿の元に購買で昼食を買ってきた愛花が主人を失った隣の席に座る。
それぞれが食堂や購買などに分かれて昼食をとっているためか室内の人の数はまばらだった。
「ただのサンドイッチだよ、お弁当いいなあ。今度私にも作ってよ!」
「いいよ、ついでに作るだけだから手間でもないし」
「やったね!」
愛花は嬉しそうに微笑むと、手に持っていたサンドイッチを口へと運んだ。
「全然関係ない話なんだけど」鈴鹿はそう切り出すと、愛花は「なにー?」とサンドイッチを頬張ったせいでいまいち上手く発音できていない返答をする。
「昨日言ってた学校に出る変な生き物とかってどんな話なの?」
「ほう……興味がおありですかな?」
鈴鹿が尋ねると、愛花は一瞬目を丸くすると待ってましたと言わんばかりに、咥えていたサンドイッチを置いて話し始める。
別にこの時の鈴鹿は自分が見えているということを明かそうと思って話を振ったのではなかった。単にルイが調査する対象の一つだと思い、ある程度の話が聞ければ調査の一助になると思っていただけだった。
「最近ではねえ、その学校に出るっていう変な生き物以外に、不審者まで出るって噂なんだよ」
「不審者……?」
鈴鹿は都市伝説じみた話ではない現実的な話が急に出てきたことで眉間に皺を寄せて、愛花に問い直した。
「そう、不審者。どうやら巷では変な生き物と関係した人物なんじゃないかとか言われてるんだよね」
「へえ、どんな関係が……?」
「うーん、例えば調査を行う秘密組織の一員とか!」
「なんだか急に作り話っぽくなってきたな……」
「いや、興味津々に聞いてきたのはそっちやろがい!」
まさか。と鈴鹿は思う。
ルイが学校に調査に行くと言っていたのは昨日のことであり、それ以前にルイがそんなことをしていたのはおそらく数回程度で、そもそも他人からは認識されていないはずである。
いつも通りのくだらない会話の応酬と談笑。その最中に含まれるいつもとは少し違う話題。鈴鹿にとって化野愛花もまた、友人という大切な存在であると自覚する。
しばらくの雑談のあと、鈴鹿は話題に上がっていた対象の一つであろう昨日の幽霊が気になり、校庭を見ようと窓の外に視線を向ける。
しかし。
校庭を見ようとした鈴鹿は見るともなく、旧校舎に目を奪われた。
自分たちがいる校舎とちょうどL字に建てられた旧校舎は窓の外の校庭を見ようとすると自然と視線が誘導される位置にあるのだが、そこにはまるで、下手な合成写真を見たときのような違和感があった。
「……袴を着た……女性?」
思わず、状態ありのままが鈴鹿の口をつく。
そのあまりに学校と似つかわしくない風貌。白く長い髪に大正浪漫を彷彿とさせる袴姿の組み合わせは、場所も相まってその異様性を引き立たせていた。
どう考えても学校では滅多に見ない様相だろう。
「誰かと……話している……?」
遠目からで、袴姿の女性との会話相手は見ることができない。
鈴鹿が視線を送り続けていると、女性は徐にこちらの方を見返す。
いや、正確には鈴鹿や隣の愛花を見ているわけではなく、そのどちらでもない場所。つまり視線が空を切っている感じだ。
瞬間、鈴鹿の目の前がまるで突然夜を迎えた世界のように急激に暗転し、未だかつてない違和感と吐き気に見舞われた。
「う……!あぁ……!」
「ん?どうしたの? 清水くん何か言った?」
「ああ、何でもないよ……!」
不意に訊かれた質問によって、切れかけた意識をなんとか繋ぎ、未だ覚束ない頭で愛花に対して鈴鹿は曖昧に返答すると、彼女は「そっか!」と何事もなかったかのように昼食を再開する。
鈴鹿は視線を旧校舎に戻す。
しかし、そこには先ほどの女性はおらず、鈴鹿の違和感は加速していく。そして、鈴鹿はその状況に対しただ唖然とすることのみが、可能な限りの反応と意識であった。
「清水くん? どうしたの? ぼうっとして」
「……いや、なんか旧校舎の方に袴姿の人が居たから、物珍しくて……」
鈴鹿が何のことなしに先ほどのことを説明していると。
「それ、本当……?」
愛花は苦虫を噛み潰したようなかつてない不愉快を携えた雰囲気を醸し、無表情で訊き返す。
「そんなはず…………気配だって…………」
「ど、どうしたの…?」
「…………」
「もしかして、会いたくない知り合いだったとか……?」
「会いたくない知り合いか。あははっ! 確かに。そんな感じだね! ごめんね、急に変な感じに取り乱しちゃってー!」
「それならいいんだけど……」
先ほどとは打って変わって、いつも通りの愛花がそこにはいた。
一体なんだったのだろうか。愛花にあんな反応をさせる程の何かがあるのだろうが鈴鹿には全く見当がつかなかった。
「まあいいやっ! それよりさっ、清水くんや。いいこと思いついたからちょっと付き合ってもらいたいんだけど……」
愛花は先ほどのことがなかったかのように溌剌に、そして悪戯な表情で鈴鹿の反応を促す。
「なに……? なんか、凄く嫌な予感がするんだけど」
「フッフッフー! よくぞ聞いてくれました! 一度きりの高校生!清水くん……ワルで刺激的なこと、したくない?」
「……いや、したくないかな」
「拒否はっや! しかも少し間を置いてるのが余計リアルで超ショックッ!」
◇
学校正門前。景色はすでに闇の中に溶けていた。時刻で言うならば、午後9時といったところであろうか。
鈴鹿は結局、強引にも押し付けられてしまった約束を果たすために、夜中の学校に忍び込もうとその第一歩踏み出していた。
「はあ…… 何を言い出すかと思えば、まさか夜の学校に忍び込もうなんて……」
しかし、その約束を断りきれずに来てしまった自分自身も大概であると鈴鹿は思う。本来の自分であれば、もし愛花と出会ってなかったならば、このようなことをすることなんて生涯で一度もなかっただろう。
改めて愛花からの影響を強く受けてしまっている自分に驚いてばかりだった。
こういう存在はどう表現したらいいんだろうかと鈴鹿は考える。人生に良い影響を与えて、自分を変えてくれる友人か。いや、そんないいものじゃないだろう。一番言い得ているのは、悪友だろうか。
「うわぁ……これだ。これしかない」
愛花という友人の存在を改めて考えて思い当たった言葉に顔が引きつってしまう。
確かに、愛花は良い影響を与えて人生を変えてくれる人ではない。むしろ、悪い影響を与えて人生を歪めているまである。
そう考えると、少し、笑いが込み上げる。
それにしても、事前にルイに伝えておこうと思って家に戻ったが当の本人が不在だったことは気になる。まさか、ルイも今きているのだろうか。
進んで昇降口前。
そこには夜の誰もいないはずの学校には似つかわしくない人影があった。
「化野さん」
鈴鹿は天を仰いで星を眺めていた愛花に声をかける。
黙っていれば美しいとはまさにこのことだろう。夜の視界の悪さにも関わらず、月光を浴びて輝く彼女はとても綺麗だった。
「お! 本当に来た!」
「いや、断る前にここで待つって言われたら来るしかないでしょ……」
「…………いやあ、来てくれてよかったよ……本当に」
先ほどとは打って変わって、憂いていた何かが晴れたような安堵の表情。その神妙な表情を携えたまま愛花は学校への扉を難なく開ける。
「学校が閉まるまで中にいて、巡回をやり過ごしてから内側の鍵を開けるなんて最高に狂ってるね……」
「でしょう?」
「出た後に閉められなくて、結局バレそうだけどね」
「いや、清水君はそれを気にしなくて良いよ」
「……?」
愛花は扉を開け、中へと入りながら鈴鹿を横目に見た。
教室への道すがら。なんとなく月明かりが薄らと入ってはくるものの、足元は覚束ず、またお互いの表情もはっきりとしない。
コツ…………コツ、コツ……
その空間にはただ、リノリウムの廊下を歩く音だけが小さく反響している。
今日の昼間に話していたあの明るい雰囲気はそこにはなく、二人の歩く速度と、その音、目の前に広がる闇によって、この廊下は永遠に続いているのではないかと錯覚してしまう。
「…………」
「………………」
長い沈黙。まるでどちらかが話を切り出すまで様子を窺っているような静寂だった。
「ねえ。」
静寂を破る一声が、深い暗闇で塗りつぶされた空間に足音と共に混ざり合う。
「清水君はさ……」
愛花は鈴鹿が返答をする合間もなく次の言葉を紡ぎ始めると、教室のドアに手を掛け、「ガタッ」というわずかな音を立てる。
なぜだろうか。ここまで凍てつくような愛花の会話のトーンを聞いたことがないからだろうか。話の続きを聞きたくない。そう、思った。
「【夷伐者】って知ってる……?」
愛花は扉を一思いに開けると、窓から月光が零れる教室に引き込まれるかのように入っていった。
第二話 急転直下
第三話 合縁奇縁
