404 『源氏物語』から見た現代 【第1回】実名を隠すのは、「呪い」への恐怖か?
2024年1月から断続的に読んできた『源氏物語 A・ウェイリー版』(紫式部著、アーサー・ウェイリー訳、毬矢まりえ訳、森山恵訳)は、主人公の光源氏が亡くなったところまで読んだのですが(3巻の「雲隠」)、ここまでに感じたことをAI(Gemini)と会話していたら、現代の私たちの生活や生き方との関係が見えてきました。平安はそんなに遠い昔ではないような気がしますし、現代とかけ離れた別世界でもないような気もしてしまう。そんな話を3回に分けて連載します。
源氏物語はいまから1000年超前に紫式部によって書かれたフィクションでありファンタジーだと解釈するのが通常でしょう。ただ、生活や心理はその頃の実態を反映しているのではと仮定して考えています。またあくまで私の勝手な読み方の結果ですので、間違い曲解もあるかもしれない点はご容赦ください。
諱(いみな)とハンドルネーム
「この人、結局なんていう名前なの?」
世界最古の長編小説とも言われる『源氏物語』を読み始めて気付くことです。
主人公の「光源氏(ひかるげんじ)」は、本名ではありません。「光り輝くほど美しい、源氏という姓の男」という、今で言うニックネームのようなもの。ヒロインの「紫の上」も、特定の和歌にちなんだ呼び名ですし、他の女性たちも「夕顔」や「末摘花」など、花の名前や住んでいる場所で呼ばれています。
なぜ、紫式部はこれほどまでに「本名」を隠したのでしょうか?
いくつか本名が出てくる人もいるところを見ると、第一として創作であるのでモデル探しにならないよう配慮した、あるいは、単にあえて本名は俗っぽくなるので考えなかったのでしょう。全体に、雅びだとか風雅だとか、要するにファンタジックに美しい世界として物語を描きながら、リアルな心情をそこに乗せる試みで普遍性を出したかったのかもしれません。結果、いまもなお読み継がれています。
これは恐らく、この作品でも多数登場する歌(和歌)の世界にも通じています。リアルの心情を、季節や花鳥風月に託して言葉遊びも加えつつ美しい歌にしたい、という気持ちがこの時代にはあったのです。歌は引用を含めて誰の歌でも、長く残ります。本当の名前よりは、その人の見た目や性格を表すような呼び名の方が、作品としてはふさわしい。
一方、諱(いみな)の風習も知られています。古来から名をそのまま呼ぶことを避ける風習です。いみな、つまり忌み名。「忌み」とはタブーです。
現代に例えると面倒なような気もしつつ「総務課のお局さん」「窓際のハゲ」といったような言い方もゼロではないので(冗談ですけど)、ニックネームは古来から便利に使われていたのでしょう。
とはいえ、名前を呼ばない習慣は、人数の少ないときはいいですが、大勢いるとわかりにくい。
名前を呼ばないことは、つまり、それが狙いだった、都合がよかったと考えることもできます。
たとえば「名前」がバレると呪われたりする。
平安時代、本名を他人に知られることは、危険だったのです。だから曖昧な呼称の方が気が楽。
当時の人々は、名前にはその人の魂が宿っていると信じていました(言霊信仰)。本名を知られるということは、自分の魂を相手に差し出すこと。つまり、名前を握られれば「呪い」をかけられたり、存在そのものをコントロールされたりすると恐れていたのではないか?
そのため、本名を知っていいのは親族など近い人だけ。あるいは正式な文書での署名のみ。それ以外は、役職や住んでいる通り名といった「属性」で自分をコーティングしておくのです。いわば、ハンドルネーム、アイコン、アバターみたいなもの。
もっとも、「源氏物語」は強烈な嫉妬の塊で生き霊となった六条御息所の話が出てきますので、匿名にしても呪いから逃れられないこともあるのですが……。
平安時代以後に「名を残す」「名を上げる」武士の時代が長く続くので、現代はそれが混在している感じですね。
武士の時代でも諱は存続していて、幼名と成人後で名を変えたりしていた。いまも代々名を継いだりすることに対して一定の理解もあります。何代も同じ名で商売をしたり芸事に励むことは、その名にある属性を一身に受けることになって、かなりの重責でしょう。
「本名を隠す」という感覚。積極的に考えれば今の時代に通じるものがあります。
一時的に「ネットでの発言こそ実名で責任を持つべき」という議論もあったものの、今や匿名は定着しています。ゲームなどネットを通じて知り合う関係では、リアルなオフラインの集まりでも本名は触れずに通すことの方が多いでしょう。
デジタル空間では、「実名」は呪いとなり得る。中世の陰陽師の活躍していた頃の呪いより、むしろ怖いかもしれません。
一度実名や住所が特定されれば、見ず知らずの誰かから「社会的死」を招くような攻撃を受けるリスクさえあるからです。
私たちがアカウントを使い分け、本名を隠して活動するのは、牙を剥く外部から自分を守るための、きわめて自然な自衛策です。平安貴族的な風雅な面や自己主張もあるでしょうが、匿名や別名は安心が期待できます。
呼称について学術的な解釈について教えていただいたので、こちらをご参照ください。
「記号」でつながる身軽さと豊かさ
平安貴族たちは、顔も名前も知らない相手と、御簾(みす)越しに言葉を交わし、和歌を贈り合いました。相手が誰であるかよりも、その人が「どんな言葉を紡ぐか」「どんなセンスを持っているか」「文字の美しさ」「音楽や踊りの巧さ」に、彼らは美しさと親しみを見出していたのです。
恐ろしいことに当時の男女関係は、「源氏物語」を読む限り、肉体関係が先。それも、身の回りの世話をする侍女らの手引き、あるいは妨害を経てのこと。当人の好き嫌いではなく、「ああいう人と近づけたらいいのに」と周囲で勝手に手引きしてしまう。いまではあり得ない世界です。だから悩みも深く、恐ろしいことも起こりやすい。
光源氏は幼くして母を亡くしたこともあり、継母である藤壺(帝の妃)を慕い、とうとう関係を結び子まで生まれます。内緒にしているので、光源氏の子はやがて帝になります。さらにのちのこと、柏木の話があります。彼は嫌がる女性に密通して子を産ませてしまう。その女性は光源氏の寵愛を受けていた人(天皇の三女で女三宮と呼ばれている)。つまり自分がやったことと同じようなことを、自分も報いとして受けるわけです。その子は光源氏の二男として育ちます。
いや、もう、めちゃくちゃですよね。どこに心の平安があるのでしょうか。
現代の私たちも、趣味のコミュニティやSNSで、本名も知らない誰かと深く共感し合うことはあるでしょうが、そのまま肉体関係まで行くなんてことは危険すぎます。マッチングアプリではありそうですけれど。
ただ、そうした危うさもありつつ、匿名の付き合いは、余計な属性を剥ぎ取り、純粋に「言葉」や「感性」だけでつながる、ある種のユートピアともなり得るのです。
「本当の自分」を隠し、「なりたい自分」を作るために匿名性を活用する。それは逃げではなく、平安から続く日本人の「知恵」と言ってもいいぐらいです。
源氏物語を読んでいて、そんなことをふと思ったりするのです。
ところで、匿名という「盾」を手に入れた次の段階として、「外注」や「代行」も発生します。匿名の便利さをさらに社会的に享受するための仕組みです。メルカリの匿名配送のように、お互いに相手のことを知ることなく、物品のやり取りができてしまう。匿名社会では、誰かが代わりにやってくれてもいい。
そんなことから源氏物語で感じたことの次回は、「後ろ盾」と「責任のゆくえ」について考えてみます。
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