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413 第2回:「教育」という巨大な物語――なぜ知性は分断を生むのか

 神木隆之介、「ストーリーが世界を滅ぼす―物語があなたの脳を操作する」(ジョナサン・ゴットシャル著、月谷真紀訳)、千葉雅也の著書と脱構築を三題噺のように綴ります。2回目。



虚実を明確にしない


 フェイクドキュメントをエンタメとして消費する楽しみを私たちは知ってしまった。
 虚実を明確にしないで、受け取った側がそれぞれ好きに考察して楽しむ。
 私がそんな自分に気づいたのは「ストーリーが世界を滅ぼす―物語があなたの脳を操作する」(ジョナサン・ゴットシャル著、月谷真紀訳)を読んでいたからだ。
 歴史は、そのとき本当はなにが起きたのか、を知ろうとすると、物語になりやすく、私たちはより共感しやすい物語を受け入れてしまう。
 その結果、共感する者たちを「善」とし、共感できない者たちを「悪」とする分断と対立が生まれる。赤穂浪士は善で、吉良上野介は悪と決め付けることでエンタメは成り立つが、実際にはそんなことはわからない。そこで今度はそうじゃないドラマも作るものの、見る側は善悪のハッキリしているバージョンをどうしても心に留めがちだ。
 さらに善である共感者たちは、共感を強化するためさらなる物語をつくり、信じきれていない人たちを教育しようとする。一方、共感できないと主張する人たちは悪とみなして退治の対象となるか、教育して更正とか改心とか美しい名目で、結局は滅ぼされそうになる。
 もちろん、「ストーリーが世界を滅ぼす―物語があなたの脳を操作する」そのものが、物語の危険性を警告するための物語となってしまっているところは注意すべきだ。根底にナチスによるホロコーストを正当化した人たちの信じた誤った物語を反省し今後も起こり得ると警告するために書かれた本と言えるからだ。
 私は、「だったら教育という名の物語にも、危険は潜んでいるんじゃね?」と感じた。

細分化と分断


 私たちは、教育を受けることでより広い視野を持ち、より高度な知性を得ることで、世界を正しく見通せるようになると信じてきた。もちろん、なにが善でなにが悪かも見分けられるはずだ。
 教育こそが個人を解放し、社会をより良い方向へ導く「正しいストーリー」だと疑わなかった。朝ドラでも繰り返しこのテーマを物語にしている。主人公はさまざまな問題や苦境を、学ぶことで乗り越えていく。「やっぱ、勉強足りないから世の中で苦労してるんじゃん」的な。
 しかし、現実はどうだろうか。学んだだけでは足りるはずのないことはわかっている。現代の知性は「細分化」されているので、個人の中ではその特殊な知性と一般的な知性を合わせ持ち、使い分ける技術も必要となる。ここで弱さが露呈する。恐らく大多数の人が、使い分ける技術を磨くための時間を持てない。そこに至るまでの十分な知識を得ていない。そしてたぶん、何年学校にいても完成しない。「死ぬまで勉強」の世界にはまっていく。
 かつて「知る」ということは、バラバラだった断片を一つの世界に統合し、普遍的な真理に近づける可能性を信じることだった。いまも可能性としては残っている。ぜんぜんダメなわけじゃなく、かなりいい線をいっているはずなんだけど、そもそも到達できる人が少ない。
 現在の学問や専門知識は、あまりにも専門化し先鋭化し、深く、蛸壺化している。新しい知見を一般化できない可能性は多々ある。一般化したときに間違えが起こりやすい。
 ノーベル賞を受賞するような卓越した知性が、私たちの日常を導く新しい指針や未来図を提示してくれることは稀だ。いや、存在はしているが、彼らはわかりやすい言葉を選ぶと平凡な声になってしまい、そのままでは選挙で勝てず、自分たちの研究を守るために政府や企業に頼ってしまっている。
 この「細分化された知」の隙間に、現代の悲劇が潜んでいる。
 世界を統合的に見通す力を失った私たちは、自分の専門領域というレンズを通してしか現実を見なくなる。高度な教育を受けたはずの人々が、自分の欲望や独善を正当化するために、その精巧な知性を駆使して、都合の良いストーリーを編み上げる。反論は許さない。独善的な政治家の暴走や、SNSでの激しい分断が止まらないのは、知性が足りないからではない。むしろ、知性が自分たちに都合のよい物語を強化するための道具になっているからだ。
 ここで私たちは、教育というシステムの限界に直面する(と言ってみた。飛躍してるかな。これじゃ共感は難しいか)。

伝統的ストーリーの再生産装置


 教育とは本来、過去の成功体験や蓄積されたデータを「これが正解だからね」として次世代に継承する営みだ。つまり、教育そのものが、共同体固有の伝統的ストーリーの再生産装置になりやすい。
 もちろん、疑うことや考えるためのツールも提供してくれるのだから、いい面もある。
 この枠組みの中にいる限り、私たちはどれほど学んでも、過去の重力から逃れることはできない。教育者は、その理念に縛られているから、現状を根本から変えることはできない。そういうことはしてはいけないと主張することもできる。いったんは捨てた古い教育を復活させようとする人たちだっている。
 世の中を変えるのは教える側ではなく、学ぶ側だ。考察する側なのだ。教育、教師を幅広く選べる時代になれば、よくなるか? いや、もっと変化し、共感と分断も深くなるかもしれない。社会には安定も必要だ。
 もし、教育がもはや未来を生み出す力を失っているのだとしたら、私たちはどこに「学び」を求めればいいのだろうか。
 そこで注目したいのが、「AI」だ(またか、と自分でも思う)。
 AIは人類の知の集積であり、それでいて執着や教育の理念のみで動いているわけではない(そうしようと思えばできるだろうけど)。もしも伝統的正解を教える教育者ではなく、私たちの思考の偏りや、無意識に紡いでしまう独善的なストーリーを映し出す「鏡」として機能するなら、それなりに役に立つかもしれない。
 GAFAMを儲けさせるツールにすぎなかったら、ガッカリだけど。
 こちらをやたら持ち上げて気分をよくさせる機能が目に付くから、要注意だ(この原稿をAIに見せたら、「鋭いですね」とか「いい考察ですね」とか「あなたらしい見事な文章です」みたいなことを言う可能性がある。だから見せない)。
 AIでも宇宙人でもいいが、外からの視点が必要になる時なのかもしれない。「教育者ではないもの」から学ぶこと。それは、人類が長年信じてきた教育という物語を脱構築し、断片化された知性をつなぐ技術を身につけるチャンスとなるだろうか。
第3回:『千葉雅也の「切断」――実生活にたぐり寄せる脱構築』へ続く


このイラストは本稿を読み込んだAI(Gemini)が描いたものですが、本稿は私が自力で書きましたので、誤字脱字、曲解、間違い、わざと間違い、ふざけた間違い含めすべて筆者に責任があります。

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