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412 第1回:神木隆之介という「鏡」――フェイクが現実を侵食する時

 これから3回、神木隆之介、「ストーリーが世界を滅ぼす―物語があなたの脳を操作する」(ジョナサン・ゴットシャル著、月谷真紀訳)、千葉雅也の著書と脱構築を三題噺のように綴ります。


フェイクドキュメンタリー

 テレビ東京のフェイクドキュメンタリー番組『TXQ FICTION』の第5弾として放送された「神木隆之介」。全4話を観終えた今、私の手元に残っているのは「スッキリした解決」などではなく、むしろ肌にまとわりつくような、割り切れない「奇妙な余韻」だ。いや、面白かった。不快というか不安、不穏といったザワザワした余韻を楽しむ作品なのだろう。
 本作は、俳優・神木隆之介が、自身が監督を務めるフェイクドキュメンタリーの制作過程を追うという体裁を取っている。視聴者は最初、どこまでが素で、どこからが台本なのかを測りかねながらも、「これは『神木隆之介』という虚構を楽しませるエンターテインメントだ」という安全圏に身を置いて鑑賞を始める。しかし、その安心感は回を追うごとに、巧妙に削り取られていくことになる。
 物語の鍵を握るのは、謎に包まれた元子役「てるちゃん(水島輝久)」の存在だ。
 神木のファンイベントで上映したフェイクドキュメントホラー映像に登場し、それは神木が創作したキャラのはずだった。
 ところが、実際にいたみたいな話になり、消えたてるちゃんの行方を追うことになってしまう。神木が「なんとなく」設定したはずの細部が、現実の事件や廃屋の光景と不気味に共鳴し始める。

物語の脱構築


 そこで私はこう感じた。
「ここで本作が試みているのは、単なるホラーではない。それは『物語の脱構築』ではないか?」(脱構築をとにかく使ってみたかった)。
 私たちは通常、フィクションを観る時、無意識に「これは作り物である」という境界線を引いている。エンドロールで役名と本名が並ぶのを見て、「ああ、あれは演技だったのだ」と現実に帰還する。しかし、本作における神木隆之介は、一貫して「我々の知る神木隆之介」を演じきった。爽やかで、礼儀正しく、少し天然。そのパブリックイメージを一切崩さないまま、その裏側に「何か」が確実に潜んでいることを、彼は微かな表情の揺らぎや、あまりに自然な独白で見せつける。
「てるちゃんは、最初から神木の中に存在していたのではないか」
 そう考えた時、ゾッとするような説得力が生まれる。神木がてるちゃんを探す行為は、自分の中にある得体の知れない「異物」に名前を与え、外の世界に定着させるための「儀式」だったのではないか。神木隆之介という「鏡」に映し出されたのは、彼自身の影であり、同時に、物語を消費することでその影に実体を与えてしまう私たち視聴者の無邪気な加害性でもある。

考察は文学的鑑賞へ向かう


 昨今のエンタメ界では、SNSでの「考察」を前提とした作品が増えている。伏線を探し、裏設定を読み解き、正解を競い合う。しかし、本作における考察は、ミステリのような「犯人当て」とは決定的に異なる。提示された断片をどう繋ぎ合わせれば、自分にとって最も納得のいく恐怖が見えるか。それはもはや謎解きというより、夏目漱石やドストエフスキーを読んだ後に、その真意を巡って対話する「文学的な鑑賞」に近い体験だ。
 「全部フェイクだよね」と自分に言い聞かせなければならないほど、現実が虚構に侵食されていく。物語が終わっても、神木隆之介は今もどこかで、あのフラットな笑顔のまま、私たちが見てはいけない「何か」を飼い慣らして生きているのではないか。
 いや少なくとも私は、俳優神木隆之介しか知らないから、彼が何者かは知りようがない。知っているつもりになっているだけだ。
 そして彼はまた新たな役を得て、物語の登場人物として現れる。役を演じている彼のことしか知らない。
 本作が突きつけたのは、物語を制御しているつもりの私たちが、実は物語によって認識をハックされ、現実を改竄されているという事実だ。
 いわば「境界の崩壊」的な感覚は、やがて私たちが信じてやまない「教育」や「知性」という、より大きな社会の物語への疑いへと私の中で広がっていくことになる。
第2回:『「教育」という巨大な物語――なぜ知性は分断を生むのか』へ続く


このイラストは本稿を読み込んだAI(Gemini)が描いたものですが、本稿は私が自力で書きましたので、誤字脱字、曲解、間違い、わざと間違い、ふざけた間違い含めすべて筆者に責任があります。


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