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短編: かわいいね、と囁く声

 雨がアパートのひび割れた窓を叩き、コンクリートの壁に染みが広がっていた。

 町外れのこの建物は生き物のようだ。
廊下の蛍光灯は半分が点滅し、薄暗い階段には湿ったカビの匂いが漂う。

 私はこの薄暗い一室に引っ越してきたばかり。

 都会での人間関係。元同僚の執拗な嫌がらせ、隣人の無遠慮な監視に疲れ果て、誰も知らないこの町で新たなスタートを切りたかった。

 住処に幽霊の噂があっても構わなかった。私にとって幽霊など、生きている人間の悪意に比べれば取るに足らない。

 最初の夜、荷解きをしながら奇妙な感覚に襲われた。部屋の空気が重く、視線を感じる。
窓の外を見ても、雨に濡れた駐車場に人影はない。

 だが、部屋の隅にある古いクローゼットのドアがわずかに揺れている気がした。

 息を呑み、ドアに近づいた。
開けると中は空。ただ、埃っぽい空気と、どこか甘ったるい匂いが漂っている。ドアを閉め、気のせいだと自分を納得させた。

 深夜、ベッドに横たわると壁の向こうからかすかな音が聞こえた。

 トントン。トントン。

 規則的な、誰かが壁を軽く叩いているような音。隣の部屋は空室のはずだ。
管理人に確認したのだから間違いない。

 耳を澄ませた。
音は止まり、代わりに低い囁き声が聞こえた。

「ひな子……」私の名前を呼ぶ声。

 幽霊? 違う。そんなはずがない。

 震える手でスマホを手に取り、懐中電灯代わりにして部屋を見回した。

 誰もいない。
しかしさっき閉めたはずのドアが、また、ほんの少しだけ口を開けている。

「誰!?」
叫んだが返事はない。
代わりに床が軋む音がした。

 すぐ近くで。

 飛び起き、ドアに駆け寄って鍵を確認した。
施錠されている。でもドアノブがゆっくりと回る音がする。

 ガチャガチャ。
誰かが外から試している。

 幽霊ならこんな音は立てない。
生きている人間だ。

 翌朝、管理人に相談したが、ヤツは目を逸らし吃りながら「このアパートに変なことはないよ」と神経質そうに言う。

 ヤツの目がどこか怯えているように見えた。

 私がコンビニで買い物をした際、店員の若い男が私をじっと見つめていることに気づいた。

 たしかに笑顔だが、どこか不自然。

「新入りさん? この町、静かでいいよね」と店員は言ったが、その声には妙な粘り気がある。
声が高く抑揚がない。レジの手つきが異様に遅い。

(気色わるい……) 急いでアパートに戻る。

 その夜、囁き声が再び聞こえた。
今度はクローゼットの奥から。

 勇気を振り絞りドアを開けた。
そこには壁に小さな穴が開いているのが見えた。

 穴の向こうに暗闇の中で何かが動いた。
目だ。誰かが私を見ている。

 叫び声を上げ、クローゼットを閉め、家具を押しつけて封じ込めた。

 心臓が破裂しそうだ。幽霊ではない。
誰かが壁の向こうで私を監視している。

 翌日、管理人に穴のことを訴えた。
なのにヤツは「そんなはずはない」と繰り返し、部屋を確認しに来ない。

(こんなヤツ、アテにならない)

 私は自力で穴をテープで塞ぎ、警察に電話したが、「証拠がない」と相手にされなかった。

 夜が来るのが怖かった。

 私は電気をつけっぱなしにし、包丁を枕元に置いて眠ろうとした。しかし眠れない。
トンという音が、今度は天井から聞こえてきた。

 凍りついた。
天井裏に誰かがいる。

 足音がゆっくりと頭上を移動していく。
私は包丁を握り、息を殺す。

 すると、スマホに通知が届いた。
見知らぬ番号からのメッセージ。

「見つけたよ」 私の手が震えた。
次の瞬間、電気が消え、部屋は闇に沈んだ。

 暗闇の中で、クローゼットの家具がゆっくりと動く音がした。

 叫び声を上げ、玄関に走ったが、ドアが開かない。鍵が壊れている。窓に駆け寄ると、外にコンビニのあの男が立っていた。

 雨に濡れながら、じっとこちらを見つめている。手に何かを持っている。カメラだ。
フラッシュが光り、私の視界が白く染まった。

「やめて! 」 叫んだが、男は唇を歪めて笑う。その目は、私の恐怖を味わっているようだ。

 部屋の中で、クローゼットのドアが完全に開く音。誰かが這い出てくる。私は壁に背を押しつけ、息を殺した。

 生温かい息は耳元で囁く。
「……かわいいね」

 誰かが足首を鷲掴みにし、
「もっと見たいよ……」



 翌朝、アパートは静まり返っていた。
夜が明け、彼女の姿は消えていた。
最初からこの部屋に誰もいなかったように。

 管理人は警察に「新入りは急に引っ越した」と説明したが、誰もヤツの言葉を信じなかった。

 近所の人は囁き合った。
「あの部屋、幽霊が出るんだ」って。

 それを耳にしてコンビニの店員は、店の裏で静かに笑っていた。

 店員のパソコンには、彼女の部屋の映像が無数に保存されていた。穴の向こうから撮った、彼女の怯える姿。

 追い詰めたのは噂じゃない。誰かの目だった。

(1957字)

・:*+.豆島圭さん.:+

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