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火遊びウサギは笑わない 9

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 翌日も安優香に呼び出された。
車の中はやけに静かだった。安優香が運転席でハンドルを握り、私は助手席に座っている。

 白の軽自動車の車内は、ダッシュボードに貼られた安っぽい芳香剤の甘ったるいバニラの匂いが鼻につき、窓の外を流れる街灯の光がガラスにチラチラと映る。

 カーオーディオから流れる古いJ-POPのメロディーが、気まずさをさらに増幅させる。

 安優香のピンクのネイルがハンドルを握る手に光り、彼女の横顔が街灯の光に照らされるたび、どこか遠い存在に思えた。シートベルトが妙に締め付けるように感じる。

 「お母さん、料理とか上手?」
 安優香の唐突な声が、車内の静寂に忍び込む。
軽い口調なのに、なぜか胸の奥にズシリと重い。
この質問、ただの雑談? それとも、私の何かを探ってる? 心の中で警戒しながら、答えた。

「……うーん、普通です。どうしてですか?」
声が少し硬くなり、助手席のシートに爪が食い込む。

「私の母、なんでも完璧じゃないと気が済まない人だったからさ。煮物一つで怒鳴られたりしてたよ。子どもの頃は味見するのも怖かった」

  信号待ちで車が止まり、安優香はルームミラーを直しながら言った。赤い信号の光が彼女の顔をぼんやり照らし、長いまつ毛が小さな影を落とす。彼女の声には、どこか遠い記憶を呼び起こすような歯切れの悪さがある。

 横顔が昔のクラスメイトに似てる気がしたけど、誰だか思い出せない。すみれ女学院の才女だったかもしれない安優香が、そんな家庭に育ったなんて。
やはり、母さんが言ったのは別人だ。

 安優香のフードコートでの軽薄な笑いと偉人の名言が浮かんできた。

「じゃあ、今は完璧なんですね。すごいな。
それで母親になれたんだ。……強い、安優香さんは」
 言葉が口をついて出たけど、安優香のその強さや嫉妬と苛立ちを八つ当たりしただけだ。

「強くなんかないって。疲れただけ。昔、さ……
いや。
ねぇ、学歴の呪いってあるの、知ってる?」

 安優香の声が少し低くなり、信号が青に変わる。車がゆっくり動き出し、街灯の光が車内を滑るように流れる。

「……呪い?」
 私の声が上ずり、安優香の言葉が私の内心を覗くようだった。

「そう。何をしても『もったいない』って言われるやつ。進学しても、就職しても、結婚しても。もっと上を目指せたのにって。私、働いたことないの。ニートってやつ?」

 安優香が笑った。笑ってるのに、どこか乾いた声が車内に広がる。彼女の言葉を反復し、
(働かなくていい人生、選んだって? )

 あのネイルのピンクだけが、やけに場違いに華やかで、それが安優香の外側の正解みたいに見えた。
彼女が何を切り捨てて、今ここにいるのか、想像もつかない。

「そういうの……言っていいんですか?」
車内の芳香剤の匂いが急に息苦しく感じた。

「別にいいじゃないの。それにバカだと思われても。ラクして生きたいのは、誰だって一緒でしょ」

 安優香の声はどこか自虐が混じっていた。彼女のこの開き直り、どこまで本気?
ますます彼女への畏怖が膨らむ。

「でも……じゃあ、なんで幼稚園しか行ってないとか言ったんですか? イオンで会った時……自分のこと隠してるみたいでした」

 車がコンビニの駐車場に滑り込み、エンジンが止まる。カーオーディオのJ-POPが途切れ、静寂が車内を支配した。駐車場の蛍光灯が、ガラス越しに安優香の顔を青白く照らす。

 安優香はしばらく黙り、緩やかにこちらへ顔を向けた。彼女の目が、私の心を射抜くようだ。

「その方が、安心する人が多いから」
彼女の声は平静を保ち、どこか底冷えする。

「安心?」
助手席のシートへ、さらに爪が食い込む。
「落ちた人間の方が誰かはホッとするのよ。ねえ、瑠璃ちゃん。私のどこが怖いの?」

 (なんで分かったの)
 安優香の言葉に、座席を握る指がきゅっと締まった。彼女のこの自信、過去、学歴、全てが、私の「空っぽ」を突きつけてくる。とても怖い。

 彼女の人生が鏡みたいに私の惨めさを映し出す。こめかみが脈打ち、酸欠して頭がクラクラする。

「私はさ、あんたみたいな子、ちょっと羨ましいよ。親の期待も地元の枠も、ある意味で狭いって、自由じゃん?」

「狭いって……」

「だって、何も守るものないでしょ? そしたら、自分の好きに生きていいじゃん」

 簡単に言い放たれた言葉に、鼻の奥がツンとする。車内の静寂が私の内面を増幅するようだった。何も守るものがない人生。

 そんなふうに言われたくなかった。
自由なんかじゃない。私はただ、誰からも求められてないだけなのに。

 それが自由? 私がずっと憎んで、呪ってきた「空っぽ」は、コイツにとっては自由だったの?

 頭の走馬灯は、翔太のSNSの家族写真や母の「瑠璃とは大違い」という言葉が円を描いて回り、腕の辺りが痒くなってきた。


 うちの庭が見えてきて、車は徐々に停車する。

「あのさ。明日、入院するから。赤ちゃん、お腹の中で死んでた。なんだかなぁ。
……ねぇ。いつも付き合ってくれて、ありがとね」

 下車して、ドアを閉める間際だった。
安優香の顔は見えなかった。



 家に帰ると、母はもう寝ていて、ダイニングは薄暗い蛍光灯に照らされていた。食卓の上には、ラップをかけたままのカレー炒飯が寂しく残っている。

 冷蔵庫を開けても、欲しいものなんて何もない。ガラスのドアに映る自分の顔が弛んで老けて見えた。お腹は空いてるはずなのに、何も食べたいと思えない。

 私の人生は、いったい誰のラベルでできてるんだろう。安優香の言葉が、頭の中で反響する。私はいつから、自分のふりばかりしてるんだろう。冷蔵庫のモーター音が、静かな部屋に低く響き、私の空っぽな心を嘲笑うようだ。