小局歴史探訪-2~小局の今昔~
小局の今昔——地形・暮らし
1. 近世から現代の小局村
小局の成り立ちを、地形・生業・史料の三つの視点からたどります。ここでは、近世以降の推移と明治期の記録を中心に整理します。
1-1. 小局村の地理的特徴
小局地区から近い大貝地区には、縄文前期の遺跡が発見されています。
言い伝えでは、大貝地区と小局地区の間の谷間に人が移り住み、その谷から山を越えて小局地区に人が住み着いたと伝わります。
小局村は新井駅より南約8km、関田山系仏ヶ峰(1140m)の西北西に位置し、標高400m前後の傾斜地で、比高差80m前後の範囲に集落があります。まさに信越国境、雪深い山村です。
1-2. 近世から現代の人口・耕地の推移
近世から現代の小局村の推移を、農耕地面積と人口でたどってみます。
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\begin{array}{c:l:c:c:c}
年次 & 農耕地面積 & 人口 & 戸数 & 備考 \\
\hline
天和3年(1683) & 8町歩 & 8 & - & 高持者のみ \\
文政11年(1828) & 9町歩 & 227人 & - & \\
明治3年(1870) & 44町歩 & 247人 & 43戸 & \\
明治16年(1883) & 44町歩 & 284人 & 44戸 & 馬23頭、牛2頭 \\
大正15年(1926) & 53町歩 & 251人 & 48戸 & \\
昭和30年(1955) & - & 306人 & 46戸 & 戸数は父の記憶による \\
平成22年(2010) & - & 41人 & 17戸 & \\
令和2年(2020) & - & 33人 & 14戸 & 国勢調査 \\
\end{array}
$$
戦後、農業中心の暮らしから会社勤めへと就労形態が移り、不便な山間地から市街地へ移住する人が増え、人口は大きく減少しました。限界集落の一つになりました。
1-3. 明治期の農産物栽培
明治12年(1879)の農産物栽培面積の記録を参考にします。
$$
\begin{array}{c:l:c}
品目 & 栽培面積(町・反・畝) & 備考 \\
\hline
うるち米 & 15.9.8 & 1石7円 \\
もち米 & -.6.- & 1石7円20銭\\
大豆 & 8.5.5 & 1石5円50銭\\
馬鈴薯 & 4.5.1 & \\
蕎麦 & 4.2.2 & \\
小豆 & 3.1.- & 1石4円\\
栗 & 2.6.- & \\
稗 & 2.1.8 & \\
甘薯 & -.7.1 & \\
里芋 & -.4.1 & \\
漆 & -.2.5 & \\
麻 & -.2.- & \\
大麦 & -.2.- & \\
\end{array}
$$
その他の産物
茄子、南瓜、大根、ごぼう、柿、草鞋、草履、俵、藁靴、藁みの、萱、薪、味噌など。
水田より畑が多い土地柄です。斜面が多く、川(水源)に乏しいことが主因と考えられます。
その水田ですが、集落から歩いて山を越え、谷を越え、1時間以上かかるような所にも段々田んぼの後があります。水があって傾斜が緩やかな斜面を見つけ出し、開墾して農地を切り開いた苦労が偲ばれます。
1-4. 明治4年の嘆願書——村の困窮の実情
明治時代の村の状況の一端として、明治4年には凶作に伴い税負担の軽減(米納→金納)を求める嘆願書が柏崎県の役所に提出されています。この年は、廃藩置県が行われた年で、小局村は柏崎県に編入されました。
嘆願書の要点:
信州との国境に位置し、非常に深い山間部にある
三方を山々に囲まれ、北側も数十丈の谷間にあるため、寒さが非常に厳しい
耕作地は山の尾根や谷間に点在し、土壌の質は悪く、畑地が多く水田はごくわずか
人口が多いわりに、自分たちで食べる米さえ足りない状況
百姓たちは農作業の合間に山へ入り、薪や藤の蔓、葉などを採取して、里の村々へ持って行き、それを売った金で米などを買って、なんとか食いつないできた
昨年(明治3年)は大凶作となり、莫大な量の「御拝借米」を貸していただいた
収穫した米の3分の2は、他の村から買い入れて納めてきた経緯がある
今年(明治4年)はようやく豊作の兆しが見えてきたが、連年の凶作により村は疲弊している
引き続きすべて金納(現金納付)でお許しいただきたく、10月・12月・翌年4月・6月の6回に分けて納めるようにしたい
この嘆願書から、ご先祖の厳しい生活の実情が伝わってきます。
1-5. 明治4年の嘆願書(現代語訳/ChatGPT)
恐れながら、書面をもってお願い申し上げます。
当地方、頸城郡小局村の役人一同より、謹んで申し上げます。
私たちの村は、信州との国境に位置し、非常に深い山間部にあります。東・西・南の三方は山々に囲まれ、北側も数十丈(じょう=約3メートル単位)の谷間に村があるため、寒さが非常に厳しく、夏になっても冷気が強く感じられるほどです。
耕作地は山の尾根や谷間に点在しており、土壌の質は悪く、特に「黒ぼ(黒土)」「白砂」「赤い真土」といった痩せた土地ばかりです。畑地が多く、水田はごくわずかで、しかもすべて冷たい清水がかかるような土地柄のため、どんな作物も満足に育ちません。
そのような環境の中、村は貧しく困窮しており、人口が多いわりに、自分たちで食べる米さえ足りない状況です。そのため、百姓たちは農作業の合間に山へ入り、薪や藤の蔓、葉などを採取して、里の村々へ持って行き、それを売った金で米などを買って、なんとか食いつないできました。
そうやって、どうにかやってきたところ、昨年(明治3年)は大凶作となり、食べ物が足りなくなって、どうにもならない状況となりました。そのため、私たちは上様(政府)にすがるようにして、米の貸付をお願いしたところ、莫大な量の「御拝借米(おかしつけまい)」を貸していただき、苦しむ民衆が命をつなぐことができました。この大きなご恩に対し、心からの感謝と感激を申し上げます。
私たちの村はもともと土の質が悪く、これまで年貢として納めるべき米もなかなか出せない土地柄でした。しかも、深い谷間にあるため、運搬に使う道が最寄りの村まで四里(約16km)以上もあり、収穫した米の3分の2は、他の村から買い入れて納めてきた経緯があります。
一昨年の凶作に際しては、米で納めることが困難であると申し上げ、金納(現金での納付)に切り替えていただきました。その際も、速やかにお取り計らいいただき、誠にありがたく思っております。
今年(明治4年)はようやく豊作の兆しが見えてきたところではありますが、連年の凶作により村は疲弊し、経済的にも困窮している中で、先日、制度改正により「すべて田地については米で納めるように」とのご通達をいただきました。
私たちもそのご趣旨をありがたく承知しておりますが、前述のような村の実情を考えると、どうしても米納は難しく、手立てがございません。誠に恐れながらも、引き続きすべて金納(現金納付)でお許しいただきたく、お願い申し上げます。
なお、困窮している村のため、一度に年貢を納めることも難しい状況ですので、お手数をおかけして恐縮ではありますが、10月から12月・翌年4月から6月の6回に分けて納めるようにさせていただきたいと存じます。
何卒、特別なお慈悲をもって、引き続き金納をお許しいただけますよう、伏してお願い申し上げます。
もし、この願いをお聞き届けいただければ、村の百姓たちは大いに救われ、そのご恩は計り知れず、誠にありがたく存じます。
以上。
明治4年11月3日
小局村役人一同
いかがでしょうか。
ご先祖の厳しい生活の実情が伝わってきます。
2. 次章へ
以上を踏まえ、次章は、小局村と専念寺の関係について整理します。
