小局歴史探訪-3~小局村と専念寺~
小局村と専念寺
1. 専念寺の小局村における位置づけ
専念寺は、後述するように小局村が発祥で、その後、西条村に、その後に吉木村に移った寺院です。小局村と専念寺の関係は、三つの由緒書によって異なる視点から語られており、それぞれが興味深い歴史的物語を伝えています。
2. 三つの由緒書が語る専念寺の歴史
2-1. 勇猛山堀河院専念寺略縁起の説話
この由緒書によれば、専念寺の開基「唱導御坊」は、後堀河天皇の第一皇子・昌仁親王の八代後裔「堀川宮内卿昌信」とされています。
主な内容:
親王母子が寛喜元年(1229)に都を逃れ、越後国頸城郡板倉郷の山中(現在の小局村)に身を隠し、その地を「御局村」と称した
宮内卿は観世音菩薩の夢告により蓮如上人の弟子となり、出家して「唱導」と号し、故郷の小局村に帰って法脈を継承
後に、小局村から吉木村に移転した
2-2. 専念寺縁起の記録(明治16年県提出)
明治16年(1883)に新潟県に提出されたこの文書では、以下のように記録されています。
主な内容:
寛永14(1637)年7月28日創立
唱導(堀河宮内卿)が「この郡の小局村に住んでいた」
信濃国水内郡で覚如上人の弟子となり、志津間村に一宇を建て、再び小局村に帰住
天正年間に西条村に移り、寛永年中に吉木村へ移転
明和4年7月10日夜火災に罹り、旧記焼失、安永2年7月再建
宮畑・宮局という旧地が存在し、小局村内はすべて同姓
2-3. 権左衛門文書の系譜
この文書は堀川家の系図を中心に、戦国時代の石山合戦で本願寺に参陣した堀川権九郎政一の子孫が、信州から越後に移り、小局村で庵を結んだ経緯を詳述しています。
主な内容:
嘉応年間(1169-1171)堀川大納言政稙が伊賀国岩瀬山中へ配流
政稙の子孫が法然上人に帰依し、承元元年(1207)上人讃岐配流の際に随行
その子孫が足利尊氏に従い、550石・志摩守政友を称す
天正年中、石山本願寺合戦に参陣し、大坂退去のとき上人より六字名号を拝受
堀川源九郎政一は妻子とともに信州上田庄に、その後は越後境山中に引き篭もる
専念寺は小局村に移り、堀川権三郎の世話になる
延宝年中、堀川権三郎の孫が本山に願い出て寺号・尊像の公許を得、慶楽寺を創建した
3. 小局村における専念寺の意義
これらの由緒書から読み取れるのは、小局村が専念寺にとって重要な発祥地であるということです。三つの文書は異なる時代背景と視点を持ちながらも、共通して小局村を専念寺の重要な拠点として位置づけています。
特に注目すべきは、小局村の地名「御局村」が、後堀河天皇の皇子にまつわる伝承と結びついている点です。これにより、専念寺は単なる地域の寺院を超えて、皇室との由緒を持つ特別な寺院としての性格を帯びることになります。
4. 苗字と家紋に見る由緒の痕跡
興味深いことに、現在も専念寺と小局村の間には、由緒書に記された歴史的つながりを彷彿とさせる共通点が残されています。
苗字の一致:
専念寺の住職の苗字は「堀河」
小局村の全世帯の苗字は「堀川」
家紋の関連性:
専念寺の家紋は「五七の桐」
小局村世帯の家紋は「五三の桐」
桐紋は皇室の象徴として知られ、後堀河天皇の皇子にまつわる伝承と符合する由緒深い紋章です。五七の桐と五三の桐の違いは、皇室との関係の深さや家格の違いを表している可能性があります。
これらの苗字と家紋の一致は、由緒書に記された歴史的物語が単なる伝説ではなく、何らかの史実的基盤を持つことを示唆する重要な手がかりといえるでしょう。
5. 専念寺の堂宇と檀家
専念寺は、安永2年(1773)再建当時、以下のような規模を誇っていました:
堂宇の規模:
本堂:十間半×九間半
経堂:二間半×二間半
門:三間半×二間一尺
庫裏:六間半×二間半
玄関:六間半×二間半
鐘楼:方二間一尺
境内:千八百一坪
檀家:八百四十二戸
特に庫裏より御堂への渡廊下に接する大玄関は、頸南唯一の三間二尺の見事なすかし彫破風造りの名玄関として知られていました。
6. 今後の検証課題
これらの由緒書の史実性については、次章以降で詳しく検証していきます。
しかし、真偽の判定を超えて、これらの物語が真実として小局村の人々の信仰と地域のアイデンティティを支えてきたことは確かです。専念寺と小局村の深い結びつきは、単なる地理的関係を超えて精神的な絆として、今日まで受け継がれてきました。
