祈りとして残す、ということ
久しぶりに『楽園のカンヴァス』を開いた。
何かを整理したくて、というほどはっきりした理由があったわけじゃない。ただ、朝からいろんなものが胸の中を通り過ぎていく日で、本棚に置いてあった本の背に手が伸びた。
それだけだった。
読み返すたびに立ち止まる場所が違う本というのが、私にはいくつかある。この本は違う。毎回だいたい同じところで手が止まるのに、今日はいつもと違う場所でページをめくる手が止まった。
今回は、『楽園のカンヴァス』という作品を通して、自分の考え方や人生観を書いてみようと思います。
本作の結末そのものには触れていませんが、物語の方向性やテーマには言及しています。作品との出会いを大事にされたい方は、この記事を読む前に、まずは本作を先にお読みください。
物語の序盤、主人公の娘が、近所の人から母の過去を断片として聞く場面がある。
母がどんな人だったのか
何を選んで、何を残したのか。
母自身の口から聞いたわけではない。
他人の口から、断片として伝わった内容。
そこで、私はページをめくれなくなった。
私にも、母について
確かめられないままの断片がある。
ずっと「らしい」という言葉で抱えてきた。
断定できないし、断定したくもない。
「らしい」のまま、今も私の中に置いてある断片。
主人公の娘の感情が、
このときの私には痛いほどわかった。
深く覗いてみたい。
でも、覗きたくない。
——今日はこのまま読むのをやめようか
そう思ったけど、この本を何度も読んでいて初めて出てきた感情に、ちょっとだけ向き合ってみようと思った。
『楽園のカンヴァス』
一枚のルソーの絵をめぐって、二人の鑑定人が集められる。この絵は本物なのか、それとも精巧に描かれた贋作なのか。
二人は七日間、絵と向き合い、絵に関わる物語を一日ずつ読み解いていく。そして最終日、それぞれが「真作」か「贋作」かを判定し、依頼主の答えと一致したほうに絵は渡る。
ありていに言えば、これは美術ミステリー。
でも、今回の私はこれをミステリーとしては読まなかった。
七日間の終わりに、その人は選択をする。
真実の側にラベルを貼るか、貼らないか。
そこで初めて、彼女の胸の内が明かされる。
画家がある女性のために描いた、祈りそのもののような絵。技術のあるなしの外側で、全てを注いで描かれたもの。
彼女はそれを、深く愛していた。
でも彼女は、愛している方をラベルの側に置かなかった。
なぜだろう、と何度も考えてきた。
私はこう思う。
愛しているものを、世に晒したくなかったから。
ラベルの側に置いた瞬間に、それは分類され、値がつき、消費される。研究され、解説される。美術史に組み込まれ、目録に並ぶ。それは作品として相応しい扱いかもしれない。でも祈りとしては耐えられない扱いだと、彼女は知っていた。
だから、世に差し出す方には心とは逆のラベルを貼った。愛している方は、ラベルを貼らないまま自分の手元に残した。
分類されないまま、確定されないまま、抱えていたかった。
彼女の選択を、私は間違いだとは思わない。
むしろ、そこに深い愛があるんだと思う。
それは、大切なものを、あえて真実の側に置かないという愛し方。
物語の終盤、二人の主要な登場人物が、絵の中に隠された秘密に辿り着く。七日間、同じ絵の前に並んで座り続けたから辿り着けた、二人だけの真実。
そこで、片方の人物は選択をする。
論文にはしない。
報告もしない。
世に発表もしない。
ただ、心に刻む。
七日間、並んで座り続けたもう一人との二人だけの記憶として封じる。
普通、研究者は「真実に辿り着いた」瞬間、それを世に問うものだと思う。
それが仕事だから。
でも彼はそうしなかった。
あの瞬間、彼は研究者であることをやめて、絵の前で祈りを受け取る一人の人間になった。並んで座っていたもう一人と同じものを見て、同じ震えを共有した。
この感情を世に差し出したら、
その震えが消えることを、彼は知っていたから。
だから、心に刻む。
それだけ。
私は、この場面を何度読んでも鳥肌が立つ。
世に出さないからこそ、二人の間だけに残るものがある——そのかたちに、深く憧れているからなのかもしれない。
物語の中では、大切なものを守るための同じ選択が何度も繰り返されている。
画家は、祈りを絵という形でしか残せなかった。
言葉にすれば消える種類のものだったから。
一人は、
愛しているからこそラベルを貼らずに守った。
もう一人は、
辿り着いた真実を言葉にせず心に刻んだ。
三人とも同じ選択だった。
——大切なものを、世界の秩序の外側に置くという選択。
これは、書き手として、そして人として、
私が今の自分に一番必要としていた考え方だったのかもしれない。
私にも、そういう場所がある。
開かれた場所で、ほとんど毎日呼吸するように書いている私だけど、その一方で閉じたままの引き出しがある。
名前を貼らないまま、関係を確定しないまま、そこに仕舞ってあるものがいくつかある。母のこともそう。他にも——。
全部は書けない。
全部は書かない。
以前は、それがどこか少し後ろめたかった。
書けないものを持っていることが、
誠実ではないような気がしていた。
でも、この本を読み直して、
そうじゃないと分かった。
分類しないまま抱える、
という選択にも深い誠実さがある。
世に差し出せる形にしないまま、
そのものの形で、そっと持っていていい。
むしろ、大切なものほどそうすべきなのかもしれない。ラベルを貼った瞬間に消えてしまう種類のものが、この世にはあると思うから。
夢を見たんだ。——君に会う夢を。
物語の最後の一行を、
この本を閉じるたびに反芻する。
会えなかった。
会えないかもしれない。
会えてももう手が届かない。
だから、夢を見た。夢の中で会った。
夢だから、失われない。
現実で会ってしまえば、いつか別れが来る。
分類が始まる。
関係に名前がつく。
でも夢の中の再会は、名前がつかないまま、消費されないまま、ずっとそこにある。画家がある女性のために描いた絵の題名が『夢』だったのも、たぶんそういうことなんじゃないかと思う。
夢という形でしか、抱えきれないものがある。
会えないものを、会えないまま抱える。
仕舞ったものを、仕舞ったまま大事にする。
確定しないものを、確定しないまま愛する。
この本が最後に読者に手渡すのは、
そういう許しなんだと思う。
本を閉じて、
しばらくソファにもたれかかっていた。
真実の側ではない場所に、
大切なものを置いていい。
ラベルを貼らないまま、抱えていていい。
それは逃げでも、嘘でもない。
むしろ、大切なものを大切なままにしておくための静かな祈り。
『楽園のカンヴァス』は、私にとって、これからも読み返す本になると思う。
今日はここで心がとまった。
この本は、読み返すたびに立ち止まる場所が違う本になった。
次に開く時は、また別の場所で息を止めるかもしれない。この本は、その時々の自分と共鳴する場所を、そっと差し出してくれる本だから。
私のそばにいつもこの本があること自体が、
私にとっての楽園なのかもしれない。
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