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ベッドからドアへ。密室のわたしのちいさなはじまりへの一歩。


隻手の音――無意味な苦しさに疲れ果てていた、いつかの私への私信


髪だつていつそうくろいし
まるでこどもの苹果〔りんご〕の頬だ
どうかきれいな頬をして
あたらしく天にうまれてくれ
  (それでもからだくさえがべ?)
  (うんにや いつかう)
ほんたうにそんなことはない
かへつてここはなつののはらの
ちひさな白い花の匂でいつぱいだから
ただわたくしはそれをいま言へないのだ
   (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)
わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ
ああそんなに
かなしく眼をそらしてはいけない
宮沢賢治「無声慟哭」より

濡れ縁に置き忘れた下駄に
雨がふつてゐるやうな
どうせ濡れだしたものなら
もつと濡らしておいてやれ
と言ふやうな
そんな具合にして
僕の五十年も
暮れようとしてゐた。
木下捷平「五十年」

 
 「隻手」とはつまり片手ということで、その音とは、本来ならば両手を合わせて鳴らすはずの音を意味します。
つまり「隻手の音」を聴くこととは、聴こえない音を聴くことということになります。
 聴こえない音を聴くことはできません。ですが、ここで問題なのは、
できないこと、不可能なことに対してどのような態度を取るか、というところにあります。
 ところで、表題の言葉は、見たところ禅の公案のように思われますが、
この問題をいったん西洋哲学の文脈の上に置いて考えてみたいと思います。

 西洋哲学を極めておおざっぱに二分しますと、キリスト教が主流となる
古代末期以降とそれ以前(ギリシア・ローマ的多神教)の時代に分けられます。
 キリスト教が主流となって以後は、これに根底的な批判を行ったニーチェが登場する19世紀後半まで、西洋哲学はその発想の基盤をキリスト教によって規定されてきた、と言ってよいでしょう。
 その典型例がキリスト教神学上「弁神論」と呼ばれる問題に対する、
哲学側の対応に表われています。
 日本語の「弁神論」(「神義論」とも言われます)の原語を詮索することは控えますが、この問題は、キリスト教的な、ある種の「欺瞞性」をよく
示していて、その点で面白いと思います。
 
 聖書(旧約を含む)によれば、神は「世界の創造者」であり、
「力において万能」であり(つまり何でもできて)、
「善という観点から言って完璧」である、とされています。
 
 すると、この三つの特性すべてを前提しますと、
次のような疑問が浮上してきます。すなわち、

「なぜ神は世界を完全なものとして創造しなかったのか?」
言い換えますと、
「なぜ神が創造した世界に悪があるのか?」
 
 この疑問を発する哲学者を、悪に虐げられている
民衆の声を代弁する「検察官」
と見立てて、
被告席に立たされた「神」「弁護する論」が「弁神論」というわけです。

 
 初めから余談というのも何ですが、ギリシア・ローマ、そして神道など
多神教においてはこんな問題は生じません。というのも、
これら多神教の「神々」は「世界の創造者」ではありませんし、
「万能」でもないからです。
そしてまた、現世諸悪(例えば貧困)も神格化されています(貧乏神)。
 つまり、多神教的世界は、現世に現存する悪から出発していますので、
先のような問題が生じる余地はないのです。
 
 弁神論の問題に対する宗教的な、つまり非合理主義的な応答もあり、
私としてはこちらの方が、少なくとも「欺瞞性」という点からすると
害が少ないと思われますが
(「不合理なるがゆえにわれ信ず(Credo quia absurdum est)」
というものですね)、それはともかく、
哲学的合理主義の側からの応答、特にこの問題に対して最も洗練された
合理的説明を与えたヘーゲルの考えを検討してみましょう。

 
 ごく簡単に言えば、ヘーゲルはこう考えました。
人間はよかれと思って色々な行為を行う。だが、最初の行為は必ずといっていいほど失敗する(その行為の結果を見通すことができないため)。
しかし、その失敗は無駄ではない。むしろ必要不可欠である。なぜなら、
この失敗によって最初の行為の問題点が判明し、改善された新たな行為へと踏み出すことができるからだ。
 
 ・・・とこう書けば、なあんだ、どこかで聞いた社長の朝礼の訓話みたいな話じゃないか、ということになりますが、まさにそうなのです。
社長の話が欺瞞に満ちているように、このヘーゲルの考えも確かに一理はありますが、欺瞞的でもあるのです。
 
 ヘーゲルの考えは、つまり、この世の悪(この例で言えば失敗)は世の中の問題点を明らかにし、それを改善するために神が配置した重要な役割を担っている、ということです。
そして「悪」は改善されると考え、
それにより「悪」は「救済」される、と考える点から見て、
典型的な
「楽天主義」の思想です。

 社長の訓話と見れば、単なる人間(社員)の成長と、(会社の)発展の
物語にすぎませんが、ヘーゲルの思想は、明らかにキリスト教神学を
合理化したものです。
 彼の思想の前提には、人間が基本的に失敗すること。つまり、「原罪」を負っているため、いかに善人・完全なる人と見られていようとも、
真に「善」かつ「完全」なるものは神のみであること、があります。
しかしながら、同時に、
神の配慮により「救済」が予定されていることを、世俗的に説明したもの
でもあります。
 ヘーゲルはあるところで、「哲学は、真の弁神論たるべきものである」とはっきり明言しています(Hegel『哲学史講義』)。
 ですが、こんな「楽天主義」を、21世紀の現在において信じる人は、
よっぽどのお人よしでしょう。

 人間は確かに失敗を免れませんが、
そしてそれにより返って進歩することもありますが、「失敗」、そしてその究極の場合としての「死」が何かの役に立つかどうかは、ケース・バイ・ケースであって、全くの無駄(死に)ということも大いにあり得る、というのが常識でしょう。

ここで、この件に関して非常に極端な、ある友人の考えを
ご紹介しましょう。
彼女はこう話していました。

 
 犯罪や交通事故の被害者遺族が、テレビで記者会見をする時に、
ほとんど必ずといっていいほど、口にするのは、

「被害者の死を無駄にしないでほしい」


ということです。
遺族の心情としては分りますが、
人間の「死」が、あるいは「死ぬような苦しみを与える失敗」が、
何らかの仕方で「救済」されると考えるのは、
やはりよほどの甘ったれか、世間知らずだというしかない。
 
 人間の死には、端的に言って何の意味もない。無駄です。救済など
どこにもない。死んだらそれまで。
この自明なことを隠蔽し、死後の神の国を仮定して救済を説くところに、
キリスト教とそれに基盤を置く哲学的「弁神論」の欺瞞性があると思います、と言うのです。
彼女の見方をいったん受け入れてみましょう。するとどうなるでしょうか。

 
 ここで、これまでの前置きは措いておいて、「隻手の音」に戻りましょう。
そもそも、隻手は一例に過ぎず、しかも、さまざまに解されます。
解釈の一例を挙げればーーー健常な人間は両手を有しています。
その手を合わせて音を出します。隻手の人は、隻手になった時点から、
健常者とは違う人です。音を鳴らそうとしても音は出ない。
いくら努力しても音は出ない。
「隻手の音」を、例えば義手をつけて鳴らす音、とか、木を叩いて出す音
とか、というふうに解することもできますが、そういう答えでは、
禅家は納得しないでしょう。
 ここが要点ですが、いずれにしても「隻手の音」は「聴こえない音」
です。
そして、その聴こえない音に耳をすます、ことが重要です。

世の中には救済されえない惨事が、数え切れないほど存在します。
極端な例を挙げれば、スターリン時代のソヴィエトの強制労働収容所(グーラグ)、
その中でも最も苛酷だと言われた、北極圏にある収容所ーーー
ここでは、控え目な推計でも300万人が死亡し、毎年、収容者の3分の1が
絶命しましたーーー
そこで17年を過ごして生還した詩人、ヴァルラーム・シャラーモフはこう
言っています。
 
誰であれ、真っ当に振る舞えると思うなら、一度としてどん底に触れたことがないためだ。それは「英雄のいない世界」で息を引き取るほかはない境遇とは無縁の人間の言うことだ
 
悲劇と欠乏が人と人を近づけ、親愛を醸し出したとすれば、その欠乏は、極限にはなお遠く、悲劇は絶望にまで至ってはいなかったのである
 
人生は最悪の場合、悲劇ではなく、ただ無意味なだけである。最後の悲痛は言葉にはならない
 
 この最後の記述は、宮澤賢治の詩のタイトル「無声慟哭」を思い出させます。本当の悲惨に見舞われた人は、ちょうど「隻手」の人が、それでも音を出そうと手を振るように、何とか悲惨を嘆きの言葉として口にしようとしますが、「声」や「言葉」にはなりません。
そのような人たちは、いわば声を、言葉を、声帯を失ってしまったのです。
 それでもその人たちは生きている。震災の時にも思ったことですが、
嘆きや不満を口にできる人たちはまだましなのだ。いかに家族を失おうと、それを嘆く言葉は、まだ、「最後の悲痛」ではない。
「がんばろうニッポン」と言っている人たちは、頑張ればいい。
それだけの話だ、しかし、

 
だけども、本当は、何も口にできずにただ生きている人たち、
ただ、自らの死を待っているだけの人たち、
そこまでとことん傷つけられた人たちがたくさんいるはずなのです。
そんな人たちの声を実際に聴くことはできません。
彼らを救うこともできません。すると、
そんな人たちの側に寄り添うこと、ただ黙って横に座ること。そのことだけでも意味があるのでしょうか。

しかし、友人が言うには、
おそらくそうではないでしょう。
そのような慰めに似たものも無駄でしょう。

ただ、聴こえない音は虚空をさまよっています。
その音にしばし耳を傾けることは。

彼女は、
それさえ何の意味もない、と。

だけど、それでも、しばしそうしてみるだけのことは。

それでも彼女は、おそらく「救い」ではないのだ、と。

では、もうひとつの沈黙の「悲憤」を虚空にさまよわせることは。
無音の音とこれもまた無音のもうひとつの音を交錯させることは。

彼女はここでも、
それは、無益と無益を並置すること、にすぎない、と言うのです。

そのときわたしは、言いました。

自己満足をみずからに肯定すること。閉じこもっていた部屋のドアを、
開けてみること。永遠に癒せない他者の痛みに癒されてでも、自らを
救うこと。
これならば、たしかに言える。わたしは誰も救えないけれど、
わたしは誰かに救われた。
他者の痛みに救われたのだと。
グーラグはわたしのベッドだ。
ベッドからドアまで歩くことができたのだと。

「隻手の音を聴く」という言葉は、このような、エゴイズムの最終的肯定
のことを言おうとしているのではないかと、私は思うのです。

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