一人の親として、一人の教員として 〜高校・通級指導教室の開設に挑む〜
「不登校の親」としての苦悩、「地域の遊び場」での実践、そして「オランダ」での学び。これまでバラバラに存在していた私の人生のピースが、今、一つの場所に向かって収束しようとしています。
令和8年度、私の勤務する高校で「通級指導教室」が開設される予定です。現在は、その実現に向けた大切な準備期間の中にいます。
1. 現場に溢れる「見えない叫び」と身体の硬直
私の勤める高校には、約100名の生徒が在籍していますが、その実態は非常に切実です。 全校生徒の約8割が不登校経験者や別室登校を経験した子たち。残りの2割は、小中学校で通級指導を受けてきた子たちです。ほぼ全員が、集団生活や一斉授業の中に「居場所」を見つけられずにきた生徒たちなのです。
彼らにとって、学校行事は楽しみなものではありません。全校集会に全員が揃うことはなく、文化祭や球技大会でも、彼らは会場の隅っこに座って嵐が過ぎ去るのを待つように静かに過ごす。それが彼らの精一杯の「参加」の形です。
体育教員として向き合うと、さらに深刻な「身体のしんどさ」が見えてきます。「走る」「跳ぶ」といった基本的な動きに強い苦手意識があり、身体が硬直してしまう。さらには人に見られているという脅迫観念から、新体力テストをクラスメイトの前で受けることができず、後日、私と二人きりの誰もいない体育館でひっそりと計測を行うことも珍しくありません。
2. 「白羽の矢」と、拭えない不安
管理職から「通級の担当をお願いしたい」と言われた時、真っ先に浮かんだのは、特別支援学校教員免許の取得のために机に向かった日々でした。 しかし、同時に強い不安が襲いました。免許は取った。でも、私は支援学校での勤務経験も、通級の担当経験もありません。他校の視察に行けば行くほど、「果たして自分にできるのか」という問いが重くのしかかります。
公私混同でダメなのかもしれない。でも、わが家の現状も踏まえると、この挑戦が公私でプラスになることがあるのでは……。そんな淡い期待と迷いの中で揺れています。
3. 「足し算の教育」への大きな疑問
日本の教育現場は、常に「足し算」です。新しい課題が見つかるたびに、新しい制度や役割が現場に降ってくる。 しかし、これほど対象者が多い勤務校で、現状のまま「通級」という教室だけを作っても、私一人で対応できるのはせいぜい2、3人です。果たしてそれでいいのかという疑問が、未だに消えません。
むしろ、個別に「取り出し」て課題を解決する通級より、何とか集団の中で成長する方法を見つけるのが先決ではないか。予算や人員配置が伴わない「足し算」は、現場を疲弊させるだけではないか。そんな憤りに近い想いもあります。
ちょうどこんな記事も出ていました。
4. 「自立活動」としての通級、そして「体育教員の視点」
通級指導教室は、単なる学習支援の場ではありません。本来の目的は、生徒自身が自分の抱える課題に向き合う「自立活動」の場です。
私はここに、オランダで目にした体育指導の視点を取り入れたいと考えています。 現地の指導者は、技術の習得を急ぐ前に、意図的に「十分な活動量を確保すること」や、運動を通じて「ストレスを発散させること」に重きを置いて指導していました。
身体を動かすことで心の緊張を解き、溜まったストレスを適切に発散させて初めて、自分を客観的に見つめる土台が整う。このアプローチこそが、高校での通級に必要だと信じています。
5. 組織の課題と個人の情熱が重なる場所
免許取得もオランダへの渡航も、元々は「わが子を救いたい」という完全に個人の興味から始まったものでした。それが組織の課題解決に繋がるのであれば、これほど嬉しいことはありません。
しかし、一教員の「気づき」を待っているようでは遅すぎるのです。日本の公教育として、海外教育の知見を取り入れたり、特別支援の視点を持つための施策、そして教員が「引き算」をしても良いと思えるような制度設計が「必須」であると痛感しています。
結びに:準備室からのメッセージ
今はまだ、誰もいないガランとした準備室で、未来の生徒たちの姿を想像しています。 「高校卒業」という数字だけでなく、その先の人生を自立して歩み出せる力を育む場所。 迷いも不安も抱えたままですが、一人の親として、一人の教員として、この「止まり木」を創り上げたいと思います。
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