教養における「自由」と「反発」——高田里惠子さんとの対談、そして大正教養主義と令和人文主義を振り返る
ドイツ文学研究者の高田里惠子さんとRe: Ronの連載の一環で対談しました。学部時代に『グロテスクな教養』(ちくま新書)を読んでから愛読者なので、とても光栄でした。
(下記記事、31日の21時半まで全文読めるようにしました~~)
高田さんとの対談で面白かったところはいくつかあるのですが、今回もう少し話してみたいのは、大正教養主義にあったとされる「自由の感覚」です。高田さんはこんな風に説明していました。
というよりも、この世界の中で自由を得た、という感覚。何かをできる自由ではなく、自由の感覚なんです。もちろん一部の高学歴男子に限られた話ではありますが、かつては学歴社会を勝ちあがることは自由の獲得を意味し、自分で自分自身を作ることができる、という感覚だったのだと思います。
受験の中で生み出された自由は、受験という形式の中での反発という行為を通して感じられたものだった。
この「自由の希求」が「体制への反発」とセットになっていたのが大正期以来の教養主義なのだが、現在ではこのイディオムは崩壊していて、「自由の希求」だけが別の形で残っているのではないか、というのが今回の話。
大正教養主義には「自由の希求」があった。これは、体制への反発という形をとっていた。その表れが、「僕は単なる受験優等生じゃないぞ」というメンタリティであり、そういう精神を最も強く体現していたのが、旧制高校の学生であり、東京帝国大学文学部の学生である。
当時も今も旧帝国大学の学生の大半は工学部。そういう手に職的な方向に進まなかったのが、大正教養主義の書き手たちである、と高田はさんは強調する。
ところで、そもそも旧制高校は基本的には理系が多く、文系でも、就職に苦労する文学部に行くのは本当に少なかった。教養主義の書き手たちはちょっとひねくれているというか、ねじ曲がった自意識を持った少数の「反抗青年」だった。
大正教養主義の書き手たち、つまり明治末の一高生たち、阿部次郎や安倍能成、少し年少の和辻哲郎とかですね、彼らは反立身出世主義の文科大学(文学部)進学組。
『グロテスクな教養』で高田さんは、「教養」と「労働」はある意味対立物だと指摘しています。なぜそれらが対立するかというと、「大半の受験優等生とは違う」からですね。(松井健人さんが『大正教養主義の成立と末路』(勁草書房)の第三章で扱ったのもこの論点の延長にあります。)
しかし、大正から令和に至るまでのあいだに、「反発」すべき対象が失われていった。反発や反抗が無効化された時代。それを私はこんな風に表現しました。
1990年生まれの私が生まれ育ったプロセスで聞いたのは、景気の話ばかりでした。反発するべき権威がいなくなって、代わりにあるのはずっと不景気。SMAPの「世界に一つだけの花」という歌が象徴的ですが、「失われた10年」と言われた頃、そこからまた20年、30年と続くわけですけど、自分が置かれた居場所で自分を受容しながらやっていこう、という価値観しかポジティブに打ち出せるものがなかった。それが平成という時代だった。
「自由の希求」と「体制への反発」のイディオムが無効になった時代でも、自由への希求は変わらず存在する。
「名前のない問題」という言葉がありますが、「問題がないはずなのに、何か違和感がある」「『普通』から自分がずれている気がする」「よく分からないけど、何かが苦しい」「何か足りない」という感覚は、広く生じていると思います。
価値観や役割、環境への不適応と言ってよいのかもしれません。役に立つとされているスキルを身につけたり、目の前の仕事や家事をこなしていったりするだけでは解決できない何かがあるんだ、という感覚がある。
「自由」と「反発」が渾然一体になっていた大正期。それらが分離した平成・令和期。それに適した人文知のあり方を模索しないとな~~と思ったし、それに関連して伝える内容や方法についても改めて考えたいなと思いました。
それと同時に、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』、『スマホ時代の哲学』、『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』以来の議論は、やっぱりここにつながっているんだなと。「モヤモヤ」「難しさ」「消化しきれなさ」を抱えることの大切さを強調しつつも、それを強調したところで解決しないことはわかるという前提で議論を進め、その先を考えていく書籍を書いてきたと言えるわけで。
年末に飲んでいたとき、「谷川さんは孤高の天才みたいなの信じてないよね」「だから時代としてみたり、まとまりとしてみたりする」と先輩から指摘され、確かに博士論文の頃からそうしているな、と思いました。こういう指摘はいつも先輩からくる。
博論では、哲学者ジョン・デューイのことを「時代の集合知」と呼んで、当時の論争や言説の空間が考えているという視点、あるいはデューイという人がメディアとなって考えているという視点に立っていました。令和人文主義も、「時代が考える」という発想から生まれた切り口だったのかもしれない。
この続きでは、「自由の希求」を考えるための手がかりを書いています。
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