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日本史物語1 元禄時代から享保の改革を経て田沼意次・松平定信の時代へ

 三代代将軍徳川家光の時代までは、戦国時代の余波が続き、世の中が安定しなかったため、幕府によるきびしい弾圧と統制の政治が続きましたが、支配体制も整い、世の中が比較的安定した四代将軍家綱の時代になると、幕府は強圧的な姿勢をしだいに緩めるようになりました。こうした、いわゆる、”武断政治”から”文治政治”への転換のきっかけとなったのは、1651年に、幕府の政策への批判と浪人の救済を掲げておこった「由比正雪の乱」でした。

                由比正雪

 状況に危機感を持った幕府は、実際の政務を司った会津23万石藩主保科正之(徳川秀忠の四男、家光の弟)の下、末期養子の禁を緩和したり、大名の家臣の殉死を禁止したりして、文治政治への転換をおしすすめました。 

 1680年に第五代将軍となった徳川綱吉の治世は一般に「元禄時代」と呼ばれ、いわゆる「元禄文化」が花開いた時代としても知られます。綱吉は朱子学に傾倒し、代官があまり農民に無理難題を押しつけないように、代官の服務規定七ヶ条を定めたりして、文治政治をさらにおしすすめました。しかし、1685年以降、約20年間にわたり「生類憐れみの令」として知られる法令を出し続けたため(特に犬を大事にしたため”犬公方”と呼ばれる)、庶民は大いに迷惑することとなりました。
 
 綱吉を背後からささえた人物としては次の二人の名があげられます。一人は綱吉就任の立役者である勝手掛老中(財政と民政を担当する老中)の堀田正俊で、もう一人は綱吉が上州館林城主であった時小姓をつとめていた側用人の柳沢吉保です。 

 このうち堀田正俊暗殺後権力を握った柳沢吉保は、勘定所の役人の名簿の中で最も下に名前が書かれていたという荻原重秀を勘定吟味役(後に勘定奉行)に抜擢し、金銀収入の減退や綱吉の放漫財政、明暦の大火などによって行き詰まりつつあった幕府財政の立て直しに着手することになります。 
 荻原は、

 ・貨幣の改鋳(金貨や銀貨の品位を落とし、金銀を節約する)
 ・長崎貿易の統制
 ・土地所有と年貢負担システムの改革
 ・酒への50%の課税

などの政策を次々と実施し、財政の改革をはかりました。しかし、これらの政策が実効をあげる前に綱吉が亡くなり(1709年)、柳沢吉保も引退してしまいます。

 このため後ろ盾を失った荻原は、六代家宣、七代家継の時代、側用人間部詮房のもとで大きな力をふるうことになる儒学者新井白石の讒言で、家宣によって罷免され、悲惨な最期をとげることになります。
 ちなみに新井白石が荻原重秀をきらうこと尋常でなく、その著『折りたく柴の記』で、「天地開びゃくよりこの方、これら奸邪の小人いまだ聞き及ばず。これらのことども、三十余年の間、六十余州の中知らざる人もあらず」とこきおろしています。実は荻原重秀による26万両の収賄(これも新井白石が『折りたく柴の記』の中で繰り返し述べている)という有名な事件も、その死後明らかにされたことで、本当なのかどうか、真偽のほどは必ずしも明らかではないのです。

           新井白石『折りたく柴の記』

新井白石の自叙伝であるこの書物は、元禄16年(1703)年の「元禄地震」や宝永4年(1707)の「宝永地震」の際の富士山の噴火による降灰の様子を生々しく伝えるなど、地震研究の上でもなくてはならない本となっている。


 さて、家宣・家継の治世8年間に新井白石によって担われた政治のことを「正徳の治」と呼びます。白石はこの短い期間に、

 ・生類憐れみの令の廃止
 ・朝鮮通信使の待遇の簡素化
 ・長崎貿易の制限
 ・貨幣の金銀含有率のもとの率への復帰
 ・農政の改革
 ・新しい宮家の創設

などさまざまな政策を実施しました。これらの政策の多くは、荻原重秀のいわば「インフレ」政策を否定するもので、今日では「白石デフレ」政策などと呼ばれますが、これによって江戸の経済は深刻な不況にみまわれることになります。

              
                新井白石


 1716年、家継が七歳で死去し、徳川吉宗が八代将軍の座につきました。しかし、実は、吉宗が将軍の座に就いたのは、いくつかの”偶然”が重なったためなのです。
 吉宗は、御三家の一つである紀州徳川家の二代目藩主光貞の第四男として生まれ、そのまま何もなければ、13歳の時、江戸紀州藩邸で拝謁した綱吉に気に入られて拝領した越前国丹生郡3万石の領主として終わっていた可能性が高いのです。
 しかし、兄3人が何れも早逝し、子供もなかったことから、1705年、吉宗が四代目紀州藩主の地位についたのです。しかし、いくら紀州藩主となり、名君とうたわれたからといって、将軍への道が開けたわけではありません。 

 吉宗には、これも名君とうたわれた御三家筆頭尾張徳川家当主徳川吉通という格上のライバル(家宣は死の床に新井白石を呼び、家継が病弱であまりに幼いため、吉通を次期将軍に据え、家継が成長した時将軍職をかえしてもらうという案を出したが、白石の反対でつぶれていた)がおり、家継の後は吉通という暗黙の了解ができていたのです。
 しかし、吉通は1713年7月に死去し、嫡子五郎太も2ヶ月後に3歳で夭折してしまいます。こうして、家継が死去した時には吉宗が将軍候補筆頭の地位までのぼりつめていたのです。
 
 八代将軍となった吉宗はすぐさま間部詮房と新井白石を罷免、側用人政治を改め、老中が直接将軍に言上できる制度を復活しました[ただし御用取次(側用取次とも言う)という実質的には側用人とあまりかわらない役職を新設しましたが]。吉宗は江戸町奉行大岡忠相など多くの有能な人材を登用して、引退して大御所となる1745年までの約30年間に「享保の改革」と総称される様々な政策を実施しましたが、その政策の主軸は年貢増徴による財政再建にありました。吉宗の行った政策の主なものは次のごとくです。

 ・足高の制の実施 
 ・倹約令による支出削減 
 ・上げ米制の実施 
 ・米価調整
 ・検見法を改め、定免法に 
 ・商人資本による新田開発 
 ・目安箱の設置
 ・公事方御定書の制定 
 ・相対済し令の制定 
 ・質流れ禁止令の制定
 ・小石川養生所の造営
 ・適地適産への農政転換

 このような吉宗の政策は一応の成果をあげ、1722年と1744年の石高及び年貢収納高を比較すると、石高が400万石から450万石へ、年貢収納高が140万石から180万石へそれぞれ増えることとなり、幕府財政は黒字に転じました。
 しかし、この間、百姓一揆の数も増え、人口は停滞気味でした。これは、”米将軍”と呼ばれた吉宗の、財政再建を目的とした年貢増徴策が、必ずしも農民に支持されていたわけではないことを示しています。また、「米価安の諸色高」といわれた米価の低迷〔原因は大坂の堂島米市場への米の供給過剰〕は武士の生活をきわめて困難なものにし、吉宗亡き後の1750年代半ばには幕府財政は再び赤字に転落することになります。

           徳川吉宗(徳川記念財団蔵)

 吉宗のあと、1745年に吉宗の長男家重が九代将軍の座につきますが、この時、次男宗武が田安家を、三男宗伊が一橋家をそれぞれ創設し、いわゆる御三卿の一角を形成することになります(吉宗は1751年死去)。家重の後、十代将軍にはその子家治がつき、1760年から1786年までのその地位にありました。そして、この家治の時代に大きな力をふるったのが有名な田沼意次だったのです。

 1734年に家重付の小姓として江戸城西の丸に入った田沼意次は、家重のひきもあり、1751年に側用取次に、1767年に側用人に、そして1772年は老中にとトントン拍子に出世して行きます。ちなみに徳川260余年の中で、側用人から老中にのぼった人物は田沼一人だけであり、いかに彼が将軍に重んじられ、権力を持っていたかがわかります。家治の治世が「田沼時代」と呼ばれる所以でもあります。
 田沼のとった政策の目新しさは、都市の商業資本と積極的に提携して、商品生産の成果を幕府の手に吸収しようとした点にあります。この点、基本的に年貢の増徴によって、財政再建をはかろうとしたそれまでの荻原や吉宗の政策とはいささか趣を異にします。田沼は、社会的な商品流通が全国規模で広がっていること、こうした時代には年貢増徴による財政再建はもはや時代遅れであることをよく認識していたのです。田沼のとった政策の主なものは次の通りです。

 ・予算制度の導入
  たとえば江戸町奉行にいくらという具合に、ポストごとの予算を決め   る。民政関係の予算は据えおいたのに、将軍の身の回りや大奥などの
  「御納戸」関係の予算は大幅にしぼりこむ。

 ・直接税の導入と株仲間の公認
  取り扱い商品ごとに流通グループ=株仲間を作らせて流通上の独占権   を与える。そのかわりに、運上金(営業税)や冥加金(営業免許税)   などの直接税を課す。

 ・貨幣制度の一本化
  商品流通が全国的規模になっていたにもかかわらず、日本の東半分で   は金が、西半分で銀が通貨として使われていた。しかもこの二種類の   通貨(そのうち一種類は秤で量を量って使う秤量貨幣)の交換に関し   ては、事実上変動相場制になっており、巨大両替商が意識的に相場を   操作して、大儲けをしたりしていた。そこで、田沼は、最初は明和五   匁銀、後には''南鐐二朱銀''という鋳造銀貨を作り、金貨と銀貨の交換   比率を一定にした[明和五匁銀12枚で金一両、二朱銀8枚で金一    両]。

 ・蝦夷地の開発
  1604年に徳川家康からアイヌとの交易独占権を保障されていた松   前氏(蠣崎氏改め)が実質上支配していた蝦夷地を、幕府自らが掌握   しようとして、最上徳内らを派遣。

 ・印旛沼の開拓
  印旛沼を干拓し、農地を増やすとともに、利根川から印旛沼をへて運   河で江戸湾へぬける新しい交通ルートをつくろうとした。しかし17   86年の利根川の大洪水で挫折。

 このように、田沼のとった政策は、当時としてはきわめて斬新的なもので、もし彼の政策がそのまま実施されていれば、日本の歴史はもっと別の道を歩んでいたかもしれません。しかし、田沼は1786年、将軍家治の死とともに”賄賂政治家”というレッテルをはられたまま失脚します。息子で若年寄の意知が1784年に江戸城内で暗殺されており、その二年後のことでした。

           田沼意次(牧之原市資料館蔵)


 一般に田沼意次というと「ああ、あの”賄賂政治”の人」という答えがかえってくることが多いようです。しかし、田沼に”賄賂政治家”というレッテルをはった人物は、実は「寛政の改革」で有名な松平定信なのです。

 奥州白河藩12万石藩主松平定信は、吉宗の次男である田安宗武の七男でした。九代将軍を決める時、脆弱で能力的にもう一つであった家重よりも、英邁の誉れが高い宗武をおす声があったといわれます。もし宗武が九代将軍についていれば、虚弱な兄たちにかわって松平定信が次の十代将軍となっていた可能性が高かったようです。しかし、結局は家重が将軍に就任することになります。
 この一件に関しては、田沼意次がかかわっていたことを示す証拠はありません。しかし、1774年、幕命で定信が奥州白河藩の養子になった時には田沼が大いにかかわっています。英明な定信の、田安家当主から将軍へというコースを田沼がおそれ、裏で画策したのです。
 そんなこともあって、定信は「自分は若い時、懐に剣をしのばせて、殿中で意次をさし殺そうと機会をうかがっていた」と後に自ら語るほど田沼をうらんでいました。また、意知が暗殺された当時のカピタン(長崎のオランダ商館長)、チチングは、意次の子意知暗殺には「幕府の最も高い所にいる高官数名がかかわっていた」と、暗に定信の関与を指摘しています。

 何れにせよ、田沼の側用人就任後、定信によってくりかえされる、反田沼キャンペーンが、田沼=賄賂政治家というイメージを人々にうえつけたことは間違いありません。公平に見て、田沼の政治がそれまでの政治と比較して特段ひどい賄賂政治であったと言えるかどうかは疑わしいのです。何せ、「付け届け」という形で、賄賂など普通にまかり通っていた時代の話ですから・・・・・。
 尚、小説家の池波正太郎は『剣客商売』で田沼意次の妾腹の娘「佐々木三冬」(勿論実在の人物ではありません)を主人公の一人として登場させるなど、このシリーズでは、”田沼意次”が、卓抜した能力と大局観を兼ね備える有能な政治家として、一つの「通奏低音」のような役割をはたしています。

            辻善之助『田沼時代』

1915年発刊のこの書物は、田沼の「賄賂政治」そのものは否定しないものの、田沼を、政治家として大きな度量を持つ人物であったと、より肯定的に評価する。


 さて、十一代将軍徳川家斉のもとで、老中として権勢をふるうのがこの松平定信です。定信は祖父吉宗時代の政治を理想とし、1783年から続く天明の大飢饉で危機におちいった財政の立て直しや荒廃した農村の復興、そしてゆるんだ士風のひきしめにのりだします。彼のとった政策は「寛政の改革」と総称されますが、例によって定信のとった政策がどのようなものであったか、みてみましょう。

 ・公金の貸付
  農民の他国への出稼ぎを制限し、荒れた耕地を復旧させるかわりに幕   府が公金を貸し付ける。

 ・囲米
  飢饉に備えて、各地に社倉や義倉を作り、米穀をたくわえさせる。

 ・旧里帰農令
  江戸に出てきている農村出身者は不健全であるとして、農村へ帰らせ   る。

 ・寛政異学の禁
  湯島聖堂で、朱子学以外の学問の講義や研究をすることは認めない。   なぜならそれは世の中の秩序を乱すものであるから。近江聖人といわ   れた中江藤樹の門人で、幕政を激しく批判した陽明学者熊沢蕃山の    『大学或問』は売買も貸本も禁止。

 ・人足寄場の設置
  石川島に人足寄場を設けて、無宿者を収容、治安対策とすると同時    に、彼らに技術を身につけさせようとする。

 ・七分積金の制度
  祭礼費・消防費などの町費を節約してその7割を積みたてさせる。

 ・棄捐令
  札差が旗本や御家人に貸し付けている債権を破棄させたり一部を軽減   させたりする。

 ・出版統制
  特に浮世絵や好色本がその対象に。浮世絵は田沼時代に鈴木春信が錦   絵と呼ばれる多色刷の版画を発明して以来大発展をとげ、喜多川歌麿   や東州斎写楽らの世界的名手を生んでいたが、風俗を乱すものとして   弾圧。浮世絵の主軸は葛飾北斎や安藤広重の風景版画に。林子平の   『開国兵談』も世を惑わすものとして、出版禁止に。

         松平定信自画像(鎮国守国神社所蔵)

 これら定信の政策は、身分制社会の補修と再構築をめざしたものであり、少々枠からはみ出して危ないところもありますが、スケールが大きく前進的な田沼の政策とはまったく性格を異にするものでした(近年、田沼の政策との連続性を強調する向きもあるようですが・・・・・)。しかし、「あれもだめ、これもだめ」の政治に人々はついてきません。

    「白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼恋しき」

という狂歌は、あまりに真面目で潔癖な定信の政治に辟易している人々の心情をよくあらわしています。 

 定信は「尊号一件」(光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたが、朱子学を奉じていた定信がこれに反対した件)での家斉との対立もあり、就任してからわずか六年後の1793年、老中を辞任します。時に36歳のことでした。この後、老中として実権を握る水野忠成は定信とは対照的な開放政策をとって、文化文政時代の繁栄を生みだします。

    「水の(水野)出てもとの田沼(田沼意次)になりにけり」

 尚、老中を辞任した後、定信は自らの領地である白河藩の藩政に専念し、苦しい藩財政を潤すために様々な施策を実施しますが、文政12年(1829)に亡くなります。その時の辞世の句は、

    「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」

というものでした。何か、とても有能なのに、最後まで庶民受けしなかった自分というものを自覚していたかのようでもあります。

      大石慎三郎『将軍と側用人の政治』講談社現代新書

大石は田沼の、「賄賂政治家」という部分にすら疑問を呈している。


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