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ホトケノザ(仏の座)

春の陽だまりに、小さな紫色の段々飾りが揺れているのを見かけると、私はいつも「名前と実態のギャップ」について考えてしまいます。

「ホトケノザ(仏の座)」

​その尊い名前に反して、道端のコンクリートの隙間や、放置されたプランターに図々しく居座る彼らの姿は、どこかコミカルで、それでいてひどく哲学的です。

​蓮華座と「段々畑」の日常

​本来、仏様が座る場所といえば、極楽浄土に咲き誇る黄金の蓮の花「蓮華座」を指すはずです。しかし、このホトケノザが差し出すのは、そんな豪華なシートではありません。

​茎をぐるりと取り囲む葉の形が、仏様の座る台座に似ているからその名がついたと言われていますが、実際に見つめてみると、それは重厚な儀式用の椅子というよりは、「誰でも座っていいですよ」と開かれた、公園のベンチのような親しみやすさがあります。

​しかも、そのベンチはマンションのように何階層にも重なっています。

一階にアリが休み、二階に小さな羽虫が止まり、三階では春の風が微睡んでいる。まさに、路上の多層階テラスです。

​悟りは、足元にある

​私たちはつい、特別な何か――例えば「成功」という名の高い壇上や、「幸福」という名の輝かしい玉座――を目指して背伸びをしてしまいます。けれど、ホトケノザを眺めていると、そんな気負いが少し馬鹿らしくなってくるのです。

​彼らは、排気ガスにまみれたガードレール下でも、誰にも踏み荒らされない静かな庭の片隅でも、等しくその「仏の座」を広げます。


「どこにいても、そこを極楽にすればいいじゃないか」


​そんな風に、小さな紫の花が笑いながらささやいているような気がするのです。

彼らにとっての悟りとは、厳しい修行の末に辿り着く高みではなく、今、自分が根を張っているその場所を肯定することそのものなのかもしれません。

​閉ざされた花の、秘めたる強さ

​実は、ホトケノザには「閉鎖花」といって、花を開かずに自粉受粉する仕組みがあります。

派手なパフォーマンスで虫を誘わなくても、自分の中で完結して次へ繋ぐ強さを持っている。外側に向けて「仏の座」という立派な看板を掲げながら、内側では誰にも頼らずに淡々と命を繋いでいく。

​その

「図太いまでの自立心」


こそが、私がこの草に惹かれる本当の理由です。

​春が深まり、ホトケノザが枯れていく頃には、また新しい命がその場所を奪い合います。けれど、彼らがいた場所には、ほんの少しだけ「救い」のような穏やかな空気が残っている気がします。


春の陽に 蓮華の座(くら)を しつらえて 道端に座す 小さき仏









#青ブラ文学部
#ホトケノザ
#山根あきらさん企画

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