連載小説「わたしの腋を見ないで」 1話 【#創作大賞2026】
あらすじ
「わたしには、他人の痛みが解らない」
肩を壊したソフト部の元エース坂下真実は、友人の頼みを断りきれず男子野球部のマネージャーとなった。
夏合宿の夜、彼女の安全剃刀が消える。盗んだのは、三年生部員の誰かに違いない──
投手として培われた真実の冷徹な観察眼は、その一人一人へと向けられる。
しかし、容疑者を追ううちに真実は気付く。彼らの不器用さや弱さ、狡猾さの中に、なぜか自分自身の姿が透けて見えることに。
腋を隠して、焦りと困惑の汗を浮かべたまま、少女のひと夏が過ぎてゆく。
わたしの腋を見ないで
赤藤 舞
一
わたしには他人の痛みが解らない。
夏合宿の夜、部員のユニフォームを洗濯機に押し込んだあと、真実(まみ)は風呂で髪を洗いながら考えていた。
熱いシャワーでシャンプーの泡を流すと、髪はキシキシと指先に引っ掛かった。グラウンドの砂埃に負けないように、トリートメントをたっぷり掌に受け、揉み込んでゆく。
「マネージャーとはいえ運動部なんだから、短くした方が楽だろう」
コーチは簡単に言うけれど、わたしはそんなことに従うつもりはない。だってわたしは髪の長いわたしが好きだから。
髪を流さずそのままに、石鹸を泡立ててタオルで全身を洗ってゆく。頸元から肩、両腕、乳房、お腹、それ程毛深い方ではない腿の間。指先で、丁寧に。日差しで痒くなる背中はタオルで強めに擦ってゆく。そうして身体中、泡に覆われてから、いつも通り安全剃刀を取り出して、わたしは腋にあてた。
泡立てたボディソープで、腋の下を丁寧に満たし、剃刀のヘッドを優しく当てる。短い毛が刃先にザリザリと音を立て、泡とともに居なくなる。
滑らかな肌色を確かめて、わたしは安心する。
頭からシャワーを浴び、全身の泡を洗い流しているうち戸を引く音がした。
「あー暑い、汗だくだよ。ユニフォーム、干しといたよ」
桐子(きりこ)は隣の椅子に座り、頭から冷水を浴びた。飛沫が跳ねて顔にかかる。
「冷たい、もっと静かに浴びてください」
「そんなこと言うなよ。その髪型は私の真似だろ?」
「有り得ません。子供の頃から同じ髪型ですから」
わたしは腰を上げ浴槽へ向かい、少しずつ足を差し入れる。じわじわと、慎重に。
「お湯、熱すぎませんか」
「男子が入り終わる頃にはぬるくなっちゃうんだよ、それでも」
肩まで浸かって桐子の白い背中に目をやる。引き締まった背筋、焼けた腕、丸い尻。桐子の髪はわたしと違って細くて栗色をしている。男子は彼女みたいな可憐な姿と、話し方のギャップに惹かれるのだろう。
「うちの野球部って、強いんですか?」
「まぁ弱くはないけどさ、私立とはやっぱ差があるよね」
「頑張ることに意味がある、ってやつですか」
「真実は何で野球部のマネージャーやろうと思ったのさ」
あんたに頼まれたからだろ、と答えるのは少し憚られた。鼻まで湯に漬かってぶくぶくと泡をたてると、束ねた髪が解けて水面に泳いだ。
「あー、髪また濡れた」
「短くしたら良いじゃん」
長い髪を洗い流して言う桐子を睨みつける。彼女にぴったりな柑橘の香りが鼻腔をくすぐる。
「この髪が好きなんで。わたし自分の好きなことしかしませんから」
脱衣所で新しい肌着とジャージに着替えて、丁寧に髪を乾かしてゆく。肩の奥にある鈍い痛みが、おまえはもう選手じゃないと告げていた。
※ ※ ※
コリッ
肩の奥で変な音がしたのは秋季大会前の練習中だった。何だか少し違和感がある、という感触がして、何度も肩を回してみた。それでも特に痛いということもなかった。
ソフトボールのウィンドミルという投げ方は腕を一回転させて下手から投球する。わたしは投手だった。
その瞬間は突然来た。ゲーム形式の練習中、それ程本気で投げたわけじゃない投球。それがわたしの最後の球になった。
「坂下、大丈夫か?」
「先生、肩が抜けたかもしれない」
左手で右腕を支え、コーチの車で整形外科に向かう間、わたしは座席につくった汗染みのことを気にしていた。
「関節唇損傷、ですか」
レントゲン写真を指して説明する医師の声は、他人事のように聞こえた。それは不可逆的な外傷で、手術などの手段が無い。不思議と涙は出なかった。
──そうか、これで部活は終わりか。
腫れ上がった肩は熱を帯びていた。アイシングとアームホルダーをしてグラウンドに戻ると、部員たちは泣いた。
「ごめんね、大会は無理になりました」
そう言って頭を下げた。申し訳なさはあれど悲しみや寂しみは見つからなかった。それが胸をざわつかせた。わたしはソフトボールがそんなに好きじゃなかったのか、と。
放課後は教室からグラウンドを眺めて過ごすのが癖になった。それも、アームホルダーが要らなくなる頃にはしなくなっていた。
チームメイトはわたしと顔を合わせると辛そうな顔を作った。それが余計にわたしを嫌な気持ちにさせた。
「なんて顔してんのさ。目が怖いよ」
「桐子か。少しは感傷的にもなりますよ。だって、わたしはもう球技が出来ないんですから」
まるで他人事だ。感傷的などではない。ただ彼女たちの繕った顔に苛立っただけ、それだけだ。
「別に、球技できなくても、死ぬ訳じゃないからな!」
桐子が乱暴に肩を抱く、涙声で。
その顔は、声は、わたしの心を嫌な気持ちにはさせなかった。
「もう、暑いからやめて下さい」
腕を解こうとするが、彼女は執拗に纏わり付いた。洗剤の匂いに焼石灰の臭いが混じって、胸を締め付けた。途端に涙腺が悲鳴をあげた。
「ねぇ真実、マネージャー手伝ってくれない?男子野球部の」
「は?嫌ですけど」
「良いじゃん、どうせ暇なんでしょ」
わたしは桐子を振り払い、顔を背けてどんどん廊下を進んだ。後ろを足音が追いかけて来る。
来ないで!今は来ないで!
声は執こく追い縋る。振り向かず、顔を隠してわたしは逃げた。廊下を駆けて。
「わかりました、やりますから。でも──でも明日から!」
※ ※ ※
部員宿舎の窓からは、灯りと喧騒が洩れ聞こえる。あそこに戻っても汗と靴下の臭いしかしない。
自販機のベンチでプルタブを開けると、炭酸の泡が溢れ出て手を濡らした。靴の間のコンクリートに水溜りが出来るのを平坦な気持ちで見詰めた。
指を濡らす飲み物と缶の結露、それはあの頃と変わりない。でも、風が吹き、手の甲が乾いて熱を奪う。
小指の端から雫が落ちる。
指に力を込める。アルミ缶が小さくへこむ。
肩の痛みがじわりと滲む。
販売機のモーター音が低く響き、虫の音に混じる。部員宿舎はなんだか、随分遠くに見えた。
わたしには、自分の痛みしか解らない。
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