連載小説「わたしの腋を見ないで」 2話 【#創作大賞2026】
二
わたしは目を覚ます、今日も目覚ましが鳴る前に。
細心の注意を払って布団を畳み、足音を立てないように廊下へ向かった。同室の桐子はまだ夢の中だ。
窓から洩れる朝の気配を頼りに裸足で進む。Pタイルの感触はしっとりしていて、跡を残した。
洗面台でポーチを開き、携帯歯ブラシを取り出して歯磨き粉を塗りつける。真新しい毛が垂直に立ち上がって輝いていた。それを口に含み、優しくブラッシングする。
ポーチからタオルハンカチを出し、口許を押さえるようにして拭いた。唇が乾いて突っ張らないように、保湿リップを塗る。色付きのを。
鏡の中で顔を作るわたし。その薄いオレンジを誰かに見せたい訳ではない。ついでに眉も塗ると安心出来た。
あれ、無い──
ポーチにある筈のものが無かった。昨夜風呂で使ったあと、ここに仕舞った筈……本当に仕舞ったか?
血の気が引く音が聞こえる。多分、きっとそうだ。使った後、桐子に話しかけられてそのまま忘れたんだ。
ピンクの柄、水色のヘッド。どう見ても女性用の安全剃刀を。
ポーチをズボンのポケットに捻じ込み、風呂場へ向かう。足早に。もう足音なんか気にしていられない。
音を立てて引き戸を開き、洗い場を隈なく調べてまわる。しかしそれは見つからなかった。
そりゃ、そうだよね。わたしが見られて恥ずかしいんだもん、するよね……興奮。
目を瞑って手を出し、シャワーヘッドに掴まって体を支える。そこに絡んだ毛髪が指先に触れ、耳朶が火照り出した。
声にならない唸りを奥歯で噛み殺し、風呂場をあとにする。どうしても剃刀を取り返さなければ、どうしても。
「おはよう、真実。本当に朝強いんだね。感心するわ」
朝食の米を研いでいると、桐子が腫れた目を擦って起きてきた。すでに東の空は色付いている。
「うん、朝練ずっとしてましたから。朝はお味噌汁と卵焼きとおむすびで良いんですか?」
「充分だよ。めちゃめちゃ食べるからね男子。丼飯のまま渡したいくらいだけど、おかずの取り合いになっちゃうから」
桐子は髪を後ろでお団子に結い上げ、ゴムで纏めた。その無防備な仕草で、Tシャツの袖から腋が見える。彼女は毛が薄く、生毛がほんの少しあるだけで処理していない。
眉間に皺を刻み、研ぎ汁を流す。米粒がシンクに散らばって音を立てた。慌てて拾いあげてゆく。
桐子が持っていてくれたかも、という期待はどうやら外れた。そもそも、それなら昨夜渡す筈だ。
「この辺り、コンビニとか有りませんか?」
「どうだろう、無いと思うけどな。男子が抜け出さないところをみると、少なくとも近くには……何か忘れた?」
桐子は剃刀なんか持っていないだろうし、言いたくもない。
「栃木の山奥だもんね……仕方ないから我慢します」
グラウンドに朝日が差し込む頃には、足音に合わせた掛け声が響いた。
わたしがもうしない、掛け声が。
ポリ手袋をしておむすびを握ってゆく。具材の梅や昆布を押し込んで、部員十七人に五個ずつ、コーチと監督、マネージャーの分も合わせると、百個。
「一升炊きを四つ同時にとか、見てるだけで満腹になりますね」
「そうだろ?私だけでは絶対に追いつかないんだって。一年はマネージャー入らなかったし」
卵焼きを巻きながら桐子は額の汗を拭う。味噌汁の寸胴二つも湯気をあげている。
「選手のときは、マネージャーの苦労なんか考えもしなかったです。正直、舐めてました」
「そんなもんだよ。コーチや監督の手伝いもしてると、そっちの大変さも見えて来るからね」
愛想笑いを浮かべ、生返事を返すけど、その時考えていたのは、部員の入浴順だけだった。
あの部員の誰かが──そう考えると、居ても立っても居られなかった。
わたしには解る、体育会系なら上級生が先に入浴する。つまり三年生部員の誰かだ。
朝の空気は澄んでいて、密度が高いような気がした。その朝靄の中でジョギングをする部員たちの姿は颯爽として逞しかった。影絵のように伸びた影は、時間と共に少しずつ短くなる。
防風の並木と緑の安全ネットが風で濃淡模様を次々と変える。梢が風で大きく揺れ、小鳥がわっと逃げる。
太陽に掛かった雲がグラウンドを染め分ける。その明るい部分が増してゆき、ベース板やピッチャーマウンドを浮き上がらせていった。
木の葉の陰影と幹のひび割れが、蝉の声に彩られて気温を上げてゆく。
その間、わたしの目は、グラウンドを駆ける列の先頭の数人、三年生部員たちを、一人ひとり舐め回していた。
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