かげろうの君と #18 第五話 八月③
第五話 八月③
そこにあったのは。
「……さっちゃん、ビンゴだよ。これは手動のコーヒーミルと、河野式茶琲サイフォンって呼ばれているドリップ器具だ」
そっと耳打ちすると幸子が反射的に振り返る。
「こーのしきちゃひさいふぉん?」
その返しに、田島が驚いて目を見開き、幸子がいけない、と口元を手で覆う。
「さっちゃん良く知ってるな? さすが海軍兵学校卒の新條さんの一人娘だけあって物知りだ」
海軍兵学校といえば、かつての帝国海軍の士官学校で、この時代では東大以上の難関だったと聞いたことがある。
そうか、と納得する。
彼女の所作や言動から、厳しく躾けられきたのだと思っていたが、父親が士官学校出身なら尚更だ。
店主の田島は行李の中に入っていた麻袋を取り出すと、ドサッとちゃぶ台の上に置いた。
「そしてこれが、山本元帥から最後にいただいた大切な豆だ」
田島の口にした名前に、幸子と拓海は顔を見合わせて驚く。拓海でも知っている、歴史上の人物。聯合艦隊司令長官、山本五十六。
「山本元帥って……あの……」
田島は立ち上がると、豆を持って厨房に降り、ボールに豆を空けると水洗いを始めた。しっかりと洗って薄皮を除き終えると、ザルに移して水を切り、ガスコンロの火を着ける。
フライパンを置いて加熱し、しばらくしてから珈琲豆を投入した。
「私は山本元帥が座乗されていた戦艦で烹炊長をやっていたんだ。でも身体を壊してね。フネを降りる時に元帥が初めて珈琲豆をプレゼントしてくださった。お前の焙煎は本場アメリカのカフェにも勝る。俺が行く時にこの豆で旨い珈琲を飲ませてくれ、って」
見事な手際で豆を煎る田島。徐々に豆が程良く色づいていく。
「それ以来、度々、元帥は私に本場の珈琲豆を届けて下さった。そして元帥から紹介があった人にだけ、豆を挽いてきた」
しばらくして豆を煎り終えた田島は、火を止めると、豆を転がしながらうちわで扇いで熱を冷ます。時折、豆を摘んで脇に避けている。その見事なハンドピックに思わず魅入ってしまう。
「よし」
田島は頷くと、焙煎を終えた豆を深皿に移し、居間に戻ってコーヒーミルを取り出した。
「その元帥も二年前にお亡くなりになって、豆も届かなくなり、こっそりと豆を挽く相手も居なくなった」
焙煎した豆をミルに入れると、ゆっくりとコリコリ音を立てながらコーヒー豆を挽き始める。
「良い香り……」
幸子が目を瞑って、すうっと香りを楽しむ。
じっくりと時間をかけて豆を挽き終えると、ここでようやく河野式茶琲サイフォンの出番だ。
サイフォンとは蒸気と真空を利用したコーヒーの抽出器具。
下層にフラスコ、上層にロートの二層構造になっていて、下層のフラスコに入れた水をアルコールランプで沸騰させて、蒸気圧で熱湯を上層のコーヒー粉が入ったロートへと押し上げてコーヒーを抽出し、その後、火を消すと、フラスコ内の温度が下がり、蒸気が水に戻ってフラスコ内が真空状態となる。
この時、真空の吸引力によって、粉と液体が瞬時に分離され、ロートからコーヒーのみが濾過されてフラスコに戻ってくる仕組みだ。
幸子も、そして拓海も、初めて眼にするサイフォンによる抽出に興味津々だ。
シンガポール留学時代のコーヒーの味が忘れられなかった河野彬が、帰国してから試行錯誤を繰り返した末、1925年に世に出したこのドリップ器具は、雑味のないクリアでストレートなコーヒー本来の味を引き出せるとして、今でも世界中のコーヒー愛好家に愛されている。
「これが、ブルーマウンテン……」
幸子の前にコトリと置かれた漆黒の一杯。
「せっかくだから砂糖も入れてあげよう」
「ええっ、そんな、もったいないです!」
砂糖はこの時代はとても貴重なはずだが、田島は惜しげもなくスプーンで掬ってコーヒーに入れると、ゆっくりと掻き回した。
「さあ、飲みなさい」
二人の様子を眺めながら、拓海は冷静に考えを巡らせていた。
コーヒー豆の賞味期限は焙煎前でも一年が限界と言われている。もっとも、美味しく飲めるのはせいぜい数ヶ月以内、焙煎後なら数週間。それ以降は風味が劣化する。
ブルーマウンテンはこの時代、戦前に極少量が輸入された幻の高級品で、日本で本格的な輸入が始まるのは終戦から8年が過ぎた1953年のこと。
これがその時の豆だったとしたら、既に賞味期限切れだ。
他方で、海軍きっての国際派だった山本五十六が、ブルーマウンテンを他のルートで手に入れる術を持っていたのだとしても、先ほど、彼は二年前に亡くなったと言っていた。
この時期の日本は周辺を連合国に包囲され、あらゆる物資を手に入れる術を失っている。
だから、ここにある豆は、例え本物であっても、とっくに酸化していて、とても飲めるような代物ではないはず。
もしかしたら、本当は大麦や小豆など、他の豆で作られた代用コーヒーなのかもしれない。
でも今は、そんなことは関係なかった。
美味しい、不味い、などと言っていられなかった食糧難の戦時下。
味覚よりも、いかに飢えをしのぎ、生き延びるかということに焦点が当てられた時代。
コーヒーに憧れ、その味を知らずに亡くなった彼女に、嘘でも「本物のコーヒー」を舌で感じて欲しかったのだ。
確かめるようにちらっと視線を送ってくる幸子に、拓海は軽く頷いた。
幸子は湯気の立つカップを手に取ると、恐る恐る口に運んだ。
「……美味しい」
涙がこぼれそうになり、慌てて上を向く彼女。
今はもう、堪える必要なんかないのに。
拓海は安堵した。
そう、味なんてどうでも良い。彼女に必要なのは、少しでもその心を満たせる「物語」なのだ。
涙ぐみながらコーヒーを啜る幸子に、拓海も胸が熱くなる。
「さっちゃん……、今朝撒かれていたあの伝単を見たんだな?」
幸子が驚いて田島を見る。
「あの新條さんの生き写しのように真面目な君が、ご禁制の珈琲を飲みたいと言うなんて、それくらいしか考えられん」
田島もまた、自分が淹れたコーヒーを啜る。
「大丈夫。誰にも言いやしないさ。この戦争、どのみち日本は負けるからな」
それは、この時代に、決して口にしてはならない言葉。
「なぜそれを……」
幸子が驚くのも無理はない。
誰もが神国日本は負けないと信じ込まされていた時代に、軍にいた田島がそのようなことを口走るとは。
「私はね、元帥からずっと聞かされていたんだ。〝いいか田島、これから戦争が起こる。自分はその口火を切らされる。もちろん、最初の一年は暴れてみせるさ。だがな、勝っているうちに戦争を終結させられなければ日本は終わる〟ってな」
コーヒーの香りを楽しむように、カップを揺らす田島。
「私の大切な当時の仲間たちは偉くなって、それぞれ別のフネに移って行ったが、殆どが戦死したよ。君のお父上も含めて。それだけ多くのフネが失われて日本が勝てるわけがないわな」
かつての仲間たちに想いを巡らせているのだろうか。ゆっくりとカップを口に運ぶ彼。
「おじさまは……逃げないんですか?」
「逃げる? 何処へだい?」
幸子の問いに、シニカルな笑みを浮かべる父の友人。
彼の言う通りだ。今やこの日本で逃げる場所など、どこにも無いはず。
「私だけおめおめと生き残るわけにはいかない。ずっと死に場所を探していた」
田島は残りのコーヒーをくいっと飲み干すと、コトリとカップを置いた。
「それに……、私はこの町が好きなんでね」
幸子は目を伏せると、静かに頷いた。
「……おじさま、ご馳走様でした。お代を」
「いらんよ」
「え? でも……」
田島は二つの空になったカップをお盆に乗せ、片付けを手伝おうとする幸子を制した。
「久しぶりに豆を挽くことが出来た。もう、思い残すことはないさ」
拓海が首を傾げる。
何があるというのだろう? その言葉はまるで最期の別れのような。
「達者でな」
「……おじさまも」
幸子はぺこりと頭を下げると食堂を後にした。
「拓海、ありがとう。最後にブルーマウンテンを味わうことが出来たなんて、夢みたい」
清々しい表情で入道雲の浮かぶ空を見上げる幸子。
「どういたしまして」
手を胸に当て、頭を下げておどけてみせると、幸子はクスッと笑った。
「拓海の〝内緒〟はいつもあたしを驚かせるんだもの。まさかこの時代でも驚かされるなんて」
彼女の熱っぽい瞳に見つめられて胸がむず痒くなるが、ふとした疑問が持ち上がる。
「……そういえば、田島さんが言ってた伝単って何? 今朝、さっちゃんが拾った紙切れかな?」
思い切って疑問をぶつけてみるが、返事がない。それでも根気強く待っていると、彼女が笑顔で振り返った。
「……折角だからこの時代の町を案内するわ。拓海の時代のような楽しいものは何もないけど」
はぐらかされた。もっとも、恋人同士であっても、土足で入り込んではいけない領域もある。
「……ありがとう。俺もさっちゃんが生まれ育った町をこの目に焼き付けておきたい」
幸子の顔がぱあっと輝く。
「うん! じゃあまずはこっちよ、拓海!」
燦燦と輝く太陽の下ではしゃぐ彼女が、とても可愛くて愛おしくて、そして眩しくて。
拓海は改めて強く心に誓った。
君のその姿をこの目に焼き付けておく。この先、一生、片時も君を忘れないように。
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