かげろうの君と #19 第六話 陽炎①
第六話 陽炎①
陽の沈まぬ明るいうちに、二人は幸子の自宅に戻ってきた。
彼女は帰るなり、「汗をかいちゃった」と言って、お風呂場に入って行った。
もちろん、覗くなど言語道断。大人しく居間で戻りを待つ。
幸子が案内してくれた、勝手知ったるはずのこの町は、現代とは区画すら異なる全く別の場所だった。
もっとも、鉄道と国道の位置だけはほぼ同じなので、それを頼りに今昔を比較して回るのはとても楽しかった。
いや、彼女と一緒に回ったからこそ、だろう。
だが、その幸せな時間も、あと少しで終わってしまう。彼女の成仏と共に。
ダメだ。
断ち切るように首を振る。今は考えないことにしたのだ。
彼女がどんな最期を迎えることになろうとも、今度こそ安らかに眠れるよう、辛くてもその瞬間まで笑顔で寄り添い続けると。
「ふう、さっぱりした。この感覚、すっかり忘れていたわ」
行水を終えた幸子が笑いながら居間に入ってくると、座り込んで一息つく。
「大丈夫? この状態はきっと、俺がさっちゃんからエネルギー貰ってるんだよね……」
幸子を自分に取り憑かせていた時は、確かに疲れやすかった。だが、それ以上に幸せだった。
今は立場が逆転している。
ただでさえ久しぶりの実体だというのに、自分が取り憑いているので、疲労度合いも強いはずだ。
だが、心配する拓海を他所に、幸子はあっけらかんと笑った。
「大丈夫よ。あたしはもう、明日以降のことは考えなくて良いんだから」
その言葉に拓海は押し黙る。またも現実に引き戻されてしまった。
明日にはもう、彼女がいないという現実に。
「あ……、ごめんなさい。あたし……」
幸子が慌てて口元を手で塞ぐ。
「……さっちゃんの未練は、解消された?」
彼女はホッとした様子で正座をすると、膝に手を置き、にっこりと微笑んで拓海を見た。
「うん、大丈夫。あたしはもう、いつでも成仏出来るわ。拓海のおかげよ、ありがとう」
「……そっか」
嬉しそうな顔をする幸子に胸がズキっと痛む。
心に立つさざなみ。
駄目だ、今は鎮めなくてはいけない。もやもやと膨れていく、この衝動的な気持ちを。
「どうした……の?」
視線を逸らして再び黙り込んでしまった拓海を、幸子が不安そうに覗き込んでくる。
駄目だ、駄目だ。言ってはいけない。いまさら、こんなこと言ってはいけないのに。
「さっちゃんは……、俺と離れても平気なの?」
止められなかった。
視線を逸らしながら、呟くように零れてしまった言葉。未練が無いと、さらりと言い切る彼女に対して、湧き上がってしまった黒い感情。
「え……?」
「俺は……君と離れたくないのに……」
拓海のあてこするような言葉に幸子が固まる。
「拓海……?」
必死に理屈を捏ね繰り回して耐えてきた頭の中が、ぐちゃぐちゃになり崩壊する。
「俺、あの日から……君が成仏を決めた日から、何度も何度も自分に言い聞かせてきた。俺が元気でいるうちに成仏させてあげることが君のためだって。いつまで続くか分からない無限地獄から、君を救い出してあげることが俺の役目だって」
それは偽りのない本心。……のはずだった。
「でも……頭では分かっているのに、やっぱり……心が……ついていかないよ……」
拓海の目からボロボロと涙が溢れ出す。
「なのに……、何でさっちゃんはそんなに清々してるんだよ!? 俺はさっちゃんとずっと一緒にいたいのに! ずっと君の笑顔を見ていたいのに! 何でだよ! 何でっ……。頼むから、俺の前から……いなくならないでよ……」
泣きながら捲し立てる拓海に、呆然とする幸子。明らかにショックを受けた様子で。
分かっていた。成仏に向けて必死に頑張ってきた彼女に対して、決して口にしてはいけなかった言葉。でも、拓海の心が既に限界だった。
沈黙。そして、彼女の大きな瞳がみるみる滲んでいく。
「あたしだって……」
彼女の瞳から涙が溢れ、それは途中で消えることなく、畳に落ちて染み込んでいく。
「あっ、あたしだって!! 本当は拓海と離れたくない!! 決まっているじゃない!! 叶うことならずっとずっと一緒に居たかった!! 拓海と一度でいいから触れ合いたかった!! あなたと……!! 一度でいいから愛し合いたかった!! でもどうにもならないじゃない!!」
幸子は拓海に向かって大声で想いをぶつけると、両手で顔を覆い、うわあと泣き崩れた。
今度は拓海が呆然とする。自分は一体、何をしているんだろう。
何よりも、誰よりも大切な彼女を、最後の最後で深く傷つけてしまった。残り少ない、二人にとって貴重な時間を、大切に過ごすはずだったのに。
彼女だって、すごく悩んで、でも、どうにもならない現実を突きつけられて、その葛藤をようやく鎮めてこの日を迎えたはずなのだ。
そんなことは近くでずっと視守っていた自分が一番分かっていたはずなのに。それなのに。
稚拙な感情に任せて、取り返しのつかないことをしてしまった。
自分は馬鹿だ。大馬鹿だ。
「ごめん……さっちゃん……ごめん……!!!」
ガバッと土下座し、泣きながら謝る拓海に、幸子が嗚咽しながら、小さく首を横に振る。
何で自分たちが、こんなに傷つかなくちゃいけないのだろう。
ただ、恋をしただけなのに。二人だけの、ささやかな幸せを夢見ただけなのに。
それがたまたま、生者と幽霊の組み合わせだっただけなのに。
その時だった。
え?
拓海の身体がぽわっと光り始めた。
「何だ、これ……」
異変に気づいた幸子が涙に濡れた顔を上げる。
「拓海……?」
光は徐々に強まると、眩いばかりの閃光となって二人を包む。目を開けていられない。
そこをピークに、やがて発光はスッと収まったのだが……。
違和感。
手のひらに感じる畳の感触。
熱い。
自分の目から、手の甲に滴り落ちる涙が。
まさか……。
拓海と幸子はお互い、驚いた表情で見つめ合い、恐る恐る手を伸ばす。
そして。
いつも突き抜けていたはずの手が、熱を帯びて重なり合う。
「うそ……。たく、み……」
「さっちゃん……」
信じられない。
確かにそこにある、質感を伴った愛おしい存在。
拓海は咄嗟に幸子を、いや、幸子もまた拓海を、強く抱きしめた。
「さっちゃん! さっちゃん!」
「拓海! 拓海ぃっ!」
間違いなく腕の中にある、愛おしい人の感触。
二人は泣きながら見つめ合うと、確かめるように、お互いの顔や身体に手を這わせる。
とめどなく溢れ出す恋慕の情。
拓海が幸子の口元に目を落とすと、幸子は軽く頷いて目を瞑り、そっと顔を上げる。
二人は微かに震える唇を、ゆっくりと重ねた。
お互いにとって、人生で初めてのキス。
やり方なんてどちらも分からない。だが、そんなことは関係なかった。
狂おしいほどに触れたくて仕方がなかった想い人が、今この瞬間、実体を伴って目の前にいるのだから。
ぎこちなかった二人の所作が、徐々に熱を帯びていく。
「夢みたい。拓海と、こんな……」
「俺も……。好きだ、さっちゃん。愛してる」
「拓海……あたしも好き、大好き。愛してます」
これまでの時間を埋めるかのように、何度も見つめ合っては、本能のままに互いの唇を食んで、舌を絡め合う。
たまらなく愛おしくて、拓海は幸子のブラウスのボタンに手を掛けた。
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