【人文系不要論】文学部や哲学はいらない!占いやカルトと似た情弱ビジネスにすぎない。
結論から申し上げます。
今や日本の大学における文学部や哲学科、そしてその周辺にぶら下がる多くの人文系学科は、占いやスピリチュアルビジネスと本質的に同じ「情弱ビジネス」に成り下がっており、学問としての存在意義をほとんど失いつつあります。
耳に痛い話かもしれませんが、これは見過ごせない現実です。
現代の人文系学問が提供しているものの正体が、客観的に検証可能な知識でも、社会の問題を解決する技術でもなく、「現実社会で居場所を見つけられなかった人々の心の慰め」という、極めて宗教的・心理療法的な商品だからです。
資本主義社会というのは、良くも悪くも「数字」という冷徹な物差しで人間を測ります。年収、売上、KPI、フォロワー数、偏差値――こうした数値で測定可能なものが価値を持ち、そこから漏れた人間は「負け組」として処理されてしまう、非常に残酷なシステムです。
当然、この物差しに馴染めない人々は大量に生まれます。そして、そうした人々の傷ついた自尊心や満たされない承認欲求を癒やすために、人文や哲学が「あなたの内面には数字では測れない深い価値がある」「本当の自分を探そう」「人生の意味を問い直そう」という、聞こえの良い慰めの言葉を売りつけているわけです。
つまり、人文や哲学は資本主義競争に負けた負け犬のオナニーのオカズになっているのです。
YouTube、ショート動画、SNSで情弱を狩って稼ぐ人文系著名人
具体的に書店に行ってみればよいでしょう。「哲学」と銘打たれたコーナーには、「○○の哲学に学ぶ生き方」「ニーチェに人生を救われる」「ハイデガーで悩みが消える」といった、もはや自己啓発と区別のつかない書籍が山積みになっています。
大学の哲学科を出た先生方が、テレビやYouTubeで「人生に悩む現代人」に向けて、もっともらしい顔で「答えのない問いを問い続けることに意味がある」などと語っているわけですが、それでメシを食えているという事実こそが、この構造を物語っています。
要するに、悩める人々がいるからこそ、それを食い物にする大学教授や学者が成立する。
占い師が「あなたの運勢を見てあげましょう」と寄ってくるのと、哲学者が「人生の意味を一緒に考えましょう」と寄ってくるのと、構造的にどう違うのでしょうか。前者は手相を見て、後者はカントを引用するだけの違いではないですか。
つまり、現代の人文系学問は、現実から逃げたい人々の不安を「市場」として取り込み、決して答えの出ない問いを商品として売り続けることで成立している、極めて資本主義的な情弱ビジネスに過ぎないということです。
皮肉なことに、資本主義を批判する哲学者ほど、その資本主義の構造に最も依存して飯を食っているわけです。
事例を挙げましょう。
たとえば、理不尽な薄給と終わりの見えない残業に磨り潰され、資本主義というゲームに完膚なきまでに敗北した心優しき社畜の皆様ほど、深夜1時、布団の中で消費者金融の広告に挟まれながら、↓こんな魅惑的なタイトルの動画を、まるで運命に導かれるかのようについクリックしてしまうわけです。
「資本主義はもう限界!哲学者○○が語る、本当の豊かさとは」
そして、哲学者先生が知的な眼鏡の奥から「現代社会は人間を疎外している」「数字では測れない価値こそが本質である」などと、もっともらしい顔でのたまうのを30分ほど拝聴しまして、「そうそう!そうなんだよ!やっぱり俺が悪いんじゃない、資本主義がおかしいんだ!」と、まるで福音に触れたかのような恍惚の表情でスッキリ精神的に自慰行為を済ませ、しっとりとした充足感に包まれながら眠りにつくわけです。
そして翌朝、目覚まし時計に叩き起こされ、寝ぐせ頭のまま、何事もなかったかのようにブラック企業へ満員電車で出社し、昨日と寸分違わぬ資本主義競争に再び身を投じる。これを毎日繰り返す馬鹿な家畜ども。実に滑稽な光景ではないでしょうか。
しかも、お気づきでしょうか。
あなたが「気づきを得た」「目から鱗が落ちた」と感激しながら捧げた30分という、もう二度と戻ってこない貴重な人生の時間、その間に再生された広告料が、画面の向こうで「資本主義の害悪」を熱弁していた著名な哲学者先生の高級寿司代に変わり、編集スタッフの給料となり、出版社の重役のゴルフ会員権に化けているという、この見事なまでに完成された資本主義の食物連鎖を。
彼らは資本主義を批判することで資本主義から最も美味しい蜜を吸っているという、これ以上ないほど芸術的な構造になっておりまして、これを称して「マッチポンプ」と呼んでも差し支えないでしょう。
あなたは今、まさにこの瞬間、上質な情弱として丁寧に狩られ、皮を剥がれ、解体され、骨までしゃぶり尽くされている真っ最中なのですが、その自覚はおありでしょうか?
それとも、まだ気づいておられない方が、ご本人にとっては幸せなのかもしれませんね。
何しろ、知らぬが仏というのは、それ自体がなかなか深い哲学的命題ですから(笑)
なぜ人文系学問は「占いビジネス」と本質的に同じなのか
ここで、より深く掘り下げて考えてみたいのは、人文系学問と占いビジネスがなぜ構造的に同じなのかという点です。これは単なる悪口や煽りではなく、両者の機能を冷静に分析すれば自然に導かれる結論です。
その理由は明確で、両者ともに「検証不可能な言説」を「悩める消費者」に対して「商品」として提供し、その対価で生活が成り立っているという、完全に同じビジネスモデルだからです。
占い師が「あなたには才能がある」「来年は転機が訪れる」と言うとき、その言葉を客観的に検証する方法はありません。同じように、哲学者が「人間存在の本質は不安である」「現代社会は疎外を生み出している」と言うとき、その主張を実験で検証することも、反証することもできません。どちらも、聞いた人が「なるほど」と思えば成立し、思わなければ別の客の元へ行くだけの話です。
人文系学問の現状を見てみましょう。
文学研究では、シェイクスピア一つを取っても、フェミニズム批評、精神分析批評、ポストコロニアル批評、脱構築批評、新歴史主義批評と、無数の「解釈」が並立しており、どれが正しいかを決める方法は存在しません。
哲学では、デリダの脱構築、フーコーの権力論、ハイデガーの存在論など、それぞれが信者を持つ「思想体系」として並んでいますが、これらの理論の妥当性を客観的に測る基準はありません。
歴史学に至っては、ローマ帝国がなぜ滅んだのかについて、キリスト教説、気候変動説、疫病説、財政破綻説と諸説乱立しており、いまだに決着がついていません。
これは科学であれば許されない状態です。物理学で「電子の質量について諸説あって決まっていません」などと言われたら、学問として成立していないと判断されるはずです。
だからこそ、理系学問は仮説を立て、実証実験を行い、事実・ファクトをエビデンスをもって追求するのです。
一方、人文系ではこの「諸説あって決まらない」状態が、なぜか「奥が深い」「多様な視点が大切」などと美化されてしまうわけです。
さらに笑止なのは、心理学の世界で2015年に「再現性の危機」と呼ばれる大スキャンダルが起きたことです。著名な心理学研究100件について再現実験を行ったところ、統計的に有意な結果が再現できたのはわずか36%でした。残りの64%は、再現できなかった、つまり「最初の研究結果はまぐれか、捏造に近いか、何かおかしかった」ということです。
心理学はまだマシな方で、再現実験という発想自体を持っているだけ理系に近づこうとしているのです。
文学研究や哲学に至っては、そもそも「再現性」という概念すら存在しません。
なぜなら、検証する手段がないからです。これを学問と呼ぶこと自体、もはやギャグの域に達しています。
要するに、占い師は「水晶玉」と「タロットカード」を使い、人文系学者は「カント」と「ハイデガー」を使うだけで、悩める客に検証不可能な物語を売って稼ぐという、ビジネスモデルとしては完全に同型なのです。
違いがあるとすれば、占いには「税金が投入されていない」という点で、むしろ占いの方が健全であると言えるかもしれません。
「現実は変えられない」のに人文に逃げ込む人々の悲喜劇
そして、ここで強調しておかなければならない最も重要な事実は、いくら人文や哲学を学んだところで、現実は一ミリも変わらないし、資本主義の仕組みも微動だにしないという、身も蓋もない真実です。
なぜそう断言できるのかと言えば、人文や哲学が提供しているのは「現実の解釈」であって「現実の変革」ではないからです。
マルクスはかつて「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。重要なのは、それを変えることだ」と言いました。皮肉なのは、このマルクスの言葉自体が、その後の哲学者たちによって延々と「解釈」され、結局、世界は何も変わらなかったということです。
資本主義を批判する哲学書は山ほど書かれ、大学院では今日もポスト構造主義者たちが「権力構造の脱構築」を論じていますが、その結果として資本主義が揺らいだという話は寡聞にして聞きません。
むしろ、そうした文系の教授や学者たちは、資本主義経済の中で給料をもらい、印税で生活し、グローバル企業の作ったMacBookで論文を書いているわけです。
具体的に考えてみてください。あなたが今、お金に困っていて、職場の人間関係に悩み、将来への不安で眠れない夜を過ごしているとします。
そこでカントの『純粋理性批判』を読破したら、あなたの口座残高は増えるでしょうか。ハイデガーの『存在と時間』を理解したら、上司のパワハラはなくなるでしょうか。デリダの脱構築を習得したら、結婚相手が見つかるでしょうか。
答えは全て「ノー」です。
むしろ、難解な哲学書を読むという行為が「自分は深い思索をしている特別な人間だ」という錯覚を生み出し、現実の問題から目を逸らさせるという、最悪の効果をもたらすことすらあるのです。これはまさに、占いに通って「私には運命の人が現れる」と信じ込み、現実の婚活努力を怠るのと同じ構造です。
冷静に考えてみてください。同じ時間とエネルギーを使うのであれば、AI学習やプログラミング、データ分析、英語などの実用スキルを身につけた方が、よほど現実の生活を改善します。健康のために運動をし、十分な睡眠を取り、栄養バランスの良い食事を心がける方が、ニーチェを読み込むより遥かに人生の質を高めます。資産運用を学んで、少しずつでもNISA投資を始めた方が、マルクスの『資本論』を完読するより、はるかに経済的自由に近づきます。
これらは検証可能で、再現性があり、結果が出る取り組みです。一方で、哲学書を100冊読んでも、あなたの人生に何か具体的な変化が起きる保証は一切ありません。
つまり、現実主義的に考えるならば、心の弱った人々を狙い撃ちにする情弱ビジネスに貴重な時間を投じるよりも、その時間で現実の生活を一つでも改善する努力をする方が、圧倒的に合理的であるという、誰の目にも明らかな結論にたどり着くわけです。
大学は文系学部を「科学化」せよ、それができないなら廃止せよ
最後に、最も重要な提言をさせていただきます。
文学部、哲学科、社会学、教育学、そしてマクロ経済学のように科学的手法に乏しい多くの文系学科は、根本から構造改革されなければなりません。
具体的には、徹底的に「科学化」するか、それができないのであれば、カルト宗教の養成所のような学部は思い切って廃止すべきです。
現代社会が直面している問題。気候変動、経済危機、感染症対策、AIガバナンス、エネルギー問題などは、どれも科学的なエビデンスとデータに基づいて解決しなければならないものばかりだからです。
にもかかわらず、文系出身の政治家や官僚が「思想」や「価値観」を振りかざして非科学的な政策を進め、文系学者がSNSやテレビで根拠の薄い言説を垂れ流すことで、社会全体の意思決定の質が著しく低下しているという深刻な現実があります。
これは単に「文系学者が嫌い」というレベルの話ではなく、社会に対する明確な害悪なのです。
具体的な改革の方向性として、参考になる事例はいくつも存在します。
たとえば「計量文体学」という分野では、文学作品の単語頻度や文章構造を統計的に分析することで、作家の文体的特徴を客観的に記述したり、著者不明のテキストの作者を特定したりすることが可能になっています。「神経美学」では、芸術鑑賞時の脳活動をMRIで測定し、美的体験の神経基盤を解明する研究が進んでいます。
「実験哲学」では、伝統的に哲学者の直観だけに頼っていた思考実験を、実際の心理実験で検証する試みが行われています。歴史学でも、古DNA分析や気候考古学といった自然科学との融合によって、文献だけでは分からなかった人類史の真実が次々と明らかになっています。スタンフォード大学のフランコ・モレッティが提唱した「遠読」という手法では、コンピュータで数千の文学作品を一気に分析することで、個別の解釈では見えなかった文学の長期的傾向を捉えることに成功しています。
これらは全て、文系学問が「科学化」することで、本来の価値を発揮できるようになる好例です。
要するに、文系学問を救う唯一の道は、統計学、データ分析、プログラミング、実験デザインといった科学的方法論を全面的に取り入れ、検証可能性と再現性を担保した「科学」へと脱皮することなのです。
逆に言えば、それすらできず、依然として「読書感想文を高尚な言葉で粉飾するだけの営み」を続けるのであれば、そのような学部は税金で運営する価値がありません。
アメリカのトランプ政権が大学への助成金を絞ったように、日本も大学への補助金の配分を抜本的に見直し、本当に社会に貢献できる学部だけを残すべきです。
文系学部に進学する学生の少なくない部分が、「数学やプログラミングが苦手だから」という消極的な理由で選んでいるという現実も、この問題を悪化させています。科学リテラシーもデジタルリテラシーも持たない学生を量産する場所として大学が機能しているのであれば、それは社会全体にとって損失です。
改めて結論を申し上げれば、文学部や哲学科に代表される現代の人文系学問は、検証不可能な言説で悩める人々を慰める情弱ビジネスへと堕落しており、占いやスピリチュアル産業と本質的に同じ構造を持っています。
いくら学んでも現実は変わらず、資本主義も揺らがず、ただ「賢くなった気分」だけを消費者に与え続ける、極めて非生産的な営みになり下がっているわけです。
本気で人文系を救いたいのであれば、徹底的に科学的方法論を導入し、データと実験に基づく学問として再構築する以外に道はありません。それができない学科は、カルト宗教の伝道機関と何ら変わらないのですから、税金を投入する価値はなく、廃止すべきです。
心が弱り、現実を直視できない人々の心の隙間につけ込んで生計を立てる学者たちが、これ以上「学問」の看板を掲げて社会を歪めることがないよう、私たち一人ひとりが冷静な目で文系学問の現状を見つめ直す必要があるのではないでしょうか。
現実は厳しいですが、その厳しさから逃げて哲学書に逃げ込むよりも、現実に立ち向かって生活を一歩ずつ改善する方が、はるかに尊い営みであることを、今こそ確認しておきたいと思います。
参考文献
C.P.スノー(1959)『二つの文化と科学革命』
カール・ポパー(1959)『科学的発見の論理』
スティーブン・ピンカー(2018)『啓蒙の擁護:理性・科学・ヒューマニズム・進歩』
ダニエル・カーネマン(2011)『ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか』
Open Science Collaboration (2015) “Estimating the reproducibility of psychological science”, Science
フランコ・モレッティ(2013)『遠読:文学をデータで分析する』
ジョン・ハッティ(2008)『教育の効果』
トーマス・クーン(1962)『科学革命の構造』
野家啓一(2015)『科学哲学への招待』
カール・マルクス『フォイエルバッハに関するテーゼ』
