氷河期世代AD、テレビの片隅で。#20「Yahoo!トップを飾った動画と、31歳から29歳に戻った僕」
ヤンキー富士登山”のVTRは、かなり評判が良かった。
たぶん僕は、あの時、
少しだけ“コツ”を掴んだのだと思う。
面白い人を見つける。
その人の面白さを引き出す。
無理に作り込まなくてもいい。
ちゃんと見れば、人はそれぞれ面白い。
それが少し分かった気がした。
すると、不思議なことが起きた。
急に仕事が来るようになった。
ついこの前まで無職だった僕に、
レギュラー番組。
特番。
さらに別の特番。
仕事が、一気に流れ込んできた。
ロケ。
編集。
ロケ。
編集。
またロケ。
睡眠時間は、2時間くらいの日もあった。
でも、不思議と全然嫌じゃなかった。
AD時代も忙しかった。
でもあの頃は、
怒鳴られながら、
殴られながら、
誰かのために働いていた感じだった。
この頃は違った。
自分で考えて、
自分で作って、
それで笑いが起きる。
それが、純粋に楽しかった。
さらに、また顔面凶器の桜井さんとも仕事をすることになった。
桜井さんは、
大学時代、僕の送ったFAXを読んで、
最初の制作会社へ入れてくれた岩本さんと一緒に、
新しい動画サイトの立ち上げをしていた。
そのコンテンツ制作に、
僕を呼んでくれたのだ。
現場には、
MVディレクター。
CMディレクター。
有名バラエティ番組のディレクター。
いろんな人がいた。
その中に、自分がいる。
少し場違い感が否めなかった。。。
そこで僕は、
「渋谷のスクランブル交差点は、
無人になる瞬間があるのか?」
みたいな動画を企画して作った。
きっかけは、本当に単純だった。
渋谷を歩いていた時、
ふと思ったのだ。
「この交差点、人が完全にいなくなる瞬間ってあるのかな?」
かなり暇な発想である。
でも僕は、
昔からそういうどうでもいいことが妙に気になるタイプだった。
僕は、
スクランブル交差点を見下ろせるホテルの部屋を借りた。
そして、夜中ずっとカメラを回した。
終電後の渋谷。
酔っ払い。
タクシー。
清掃の人。
誰もいなくなったと思ったら、
また誰かが歩いてくる。
ずっとそれを撮っていた。
かなり地味な作業だった。
でも、妙に面白かった。
そしてその動画は、
動画サイト立ち上げ初日、
トップページで流れる“旗揚げ動画”に選ばれた。
かなり嬉しかった。
Yahooニュースにも載った。
Yahooのトップページにも出た。
自分の作った動画が、
日本中のトップ画面に出ている。
桜井さんは笑いながら言った。
「お前、こんなの作れるようになったんやな」
嬉しかった。
昔、
「学生気分でええやん」
と言っていた人に、
少しだけ認めてもらえた気がした。
このサイトでは、
いろいろな動画を企画して作った。
畳でサーフィンをしたり。
サーフボードにスノーボードのビンディングを付けて、
雪山を滑ったり。
一枚のスノーボードに、
二人で乗って滑ってみたり。
学生時代、
スノーボードばかりやっていた僕だから思いつく企画だった。
これらの動画は何百万回も再生された。
ネットの力ってすごいなと思った。
でも、
やっぱり僕は、
テレビが好きだった。
子どもの頃からの夢だった。
それに、
両親は、
テレビのエンドロールに僕の名前が流れるたびに、
本当に喜んでくれた。
でも毎回、
「早すぎて名前読めなかった」
と言っていた。
実は、
エンドロールを早く流すのにも理由がある。
エンドロールが始まるとと、
「番組終わったな」
と思われて、
チャンネルを変えられてしまうかもしれない。
だから、
テレビではエンドロールを早く短く流すことが多い。
それでも毎回一生懸命、
僕の名前を探してくれていた。
そしてネット動画は、
両親はほとんど見ない。
だから僕は、
やっぱりテレビの世界に、
こだわっていた。
気づけば、
かなり稼げるようになっていた。
昔、
歌舞伎町で会った売れっ子ホストと、
同じくらいもらえる月もあった。
月15万円だったAD時代。
ロケ弁を冷凍していた頃。
あの頃とは、
別の人生みたいだった。
「自分でも、ちゃんと面白いものを作れる!!」
そう思えるようになっていた。
そして僕は、
経歴書を盛るのをやめた。
もう、
年齢を2上にサバ読む必要もなくなった。
31歳だった僕は、
29歳に戻った。
さらに戦友と呼べる仲間たちと
出会うことになる。
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#21 「戦友ディレクターと競い合い、スーパーサイヤ人になった」
「お前のVTRには負けたくない。」
そんな仲間たちと、本気で競い合った日々。
苦しかったけど、人生で一番テレビが楽しかった時代です。
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『氷河期世代AD、テレビの片隅で。全話まとめ』
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