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磐越西線の夏。/咲花温泉で緑に酔う。

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「ごめん、ちょっといい? あのね、言ってなかったんだけど」

ひらいちゃんが少し気まずそうに言った。

「実は今日、旅行の支度してないまま来ちゃってて、時間大丈夫そうなら買い物したいんだよね。いいかな?」

昨日の夜に寝落ちして、今朝は寝坊して遅刻しそうになったらしい。新幹線に乗るときにひらいちゃんのリュックサックの軽さに違和感を覚えたが、やはり本当にほとんどなにも入っていないようだ。

「目についたものはつっこんできたよ。でも絶対なんか忘れてると思う。っていうか、忘れてる」

ひらいちゃんはそう言って苦笑した。バスセンターのとなりの商業施設に入っているロフトとユニクロで買い物をして、建物に直結している歩道橋を渡って、バスで新潟駅に戻った。

東港線十字路交差点の歩道橋から萬代橋方面を眺める。この交差点は2021年秋にスクランブル交差点に改良され、わたしたちが渡った歩道橋は2022年秋に撤去された。

新しい高架のホームに不釣り合いな見た目の115系内野行きをうらやましく眺めながら、黄色とトキ色の帯がかわいいE129系に乗る。新潟11時7分発の長岡行き普通列車。新津には11時26分に着いた。


新津からは11時34分発の磐越西線、会津若松行きに乗る。キハ110系。わたしはすっかりキハ110系に飽きてしまっているが、ひらいちゃんは「音すごいねー、バスみたい」とうれしそうである。ここからは非電化区間だ。

車内のボックス席はきれいに1人ずつ座っていて埋まっている。たかやまさんがロングシートを指さして「ここ座ろう」と言った。正面に鉄道ファンっぽいおじさんが「週刊実話」を読みながら座っているのが少し気になるが、そっちに集中してもらえるならむしろいいか、と考える。

列車は発車すると信越本線と離れて左に大きくカーブする。すぐに東新津に着く。この駅前には石油臭のするお湯の日帰り温泉というかスパみたいな雰囲気の施設があって、ここに立ち寄るプランもあったが、あまりにも都市郊外という立地なので今回は避けることになった。個人的にはいつか来てみたい。わたしは駅近の日帰り温泉がなにより好きなのだ。

新関-北五泉間。重くなった稲穂が風に揺れる。

田園地帯を走って五泉の街を過ぎ、阿賀野川の支流の早出川を渡る。越後平野の終わり、阿賀野川と並走し始めるところで馬下(まおろし)という駅に着く。いかにもこれから山間に分け入っていくという名前でいい。ここから先は新潟市の通勤圏から外れ、列車の本数も2時間に1本程度になる。正真正銘、ローカル線の旅がついに始まった。

しかしわたしたちは次の咲花(さきはな)ですぐに下車する。12時04分着。下車したのはわたしたちとおじいさんがひとり。

咲花駅を出発していくキハ110系。

出発していく列車を見送り、駅前に出る。いっしょに下りたおじいさんが線路沿いの道をゆっくりと歩いていくのが見えた。

ひらいちゃん
「あの道、いい異世界につながってそうだよね」

たかやまさん
「こっち側が田舎ってことは、向こうは都会?」

ひらいちゃん
「えー? 私は向こうものどかなところかなーって思った」

ささづかまとめ
「でもどっちにしろ、まずは王国なんでしょうね」

ひらいちゃん
「ね。異世界が王国じゃないってことあるのかなあ」

ささづかまとめ
「王国公国帝国、あとは都市国家くらいですね」

たかやまさん
「あのおじいちゃんは…騎士かな」

ささづかまとめ
「だいぶベタですね」

たかやまさん
「うん。でも騎士がいない世界はない。絶対いる」

ひらいちゃん
「老騎士かー。やるねえおじいちゃん」


咲花駅前にある看板。「天然温泉の宿」のフォント的に新しいようで、しかし年季が入っている。ちなみに、この看板に掲載されている旅館のうち記事公開時点において営業しているのは6軒だけだ。

駅前から東に進む。営業中の旅館があり、廃墟があり、普通の住宅がある。咲花が温泉街として発達したのは戦後のことで、咲花駅も開業は1961年だ。そのためか、いかにも温泉街、というような雰囲気はない。しかし、田舎の大きな川沿いに特に風情もなくぽつぽつと温泉宿が建っているだけ、という景色はそれはそれでおもしろい。

咲花温泉のメインストリートの末端部分。わたしは廃墟は特に嫌いではないが、こういう建物は窓が怖くて目を逸らしてしまう。右側の建物は土産物店だったようだが、長期間閉めたままのように見えた。

しかし明らかに普通の田舎と違うのは、集落全体にうっすら漂っている硫化水素の香りで、道路脇の側溝を流れる緑色の水が原因のひとつだろう。

側溝に温泉が流れている理由はよくわからないが、入浴に使わなかったお湯は別に汚れているわけではないのでこちらを流れて直接川に注ぐのだろうか。とりあえずお湯の質はかなり期待できそうだ。

歩きながら道路沿いの旅館群を眺めていると、新型コロナの影響を受けて休館していたり、日帰り客の受け入れをやめていたりするところもあって不安になる(訪問は2021年)。目指す温泉旅館はネットで調べたかぎりは営業していそうだったが、果たして。

お世話になった旅館。咲花温泉で一番大きな旅館らしい。

杞憂だった。フロントにいたおかみさんに声をかけるとほがらかに対応してくれた。1人1000円ずつ支払うとフェイスタオルが手渡され、

「お風呂は5階でございます。時間制限は特にありませんから、どうぞごゆっくり」

と案内される。それだけ。きわめてシンプルな対応に緊張がほぐれた。

エレベーターに乗って5階へ。フロアには人気(ひとけ)がない。日帰り客はわたしたちだけなのかもしれなかった。脱衣所。エアコンから水滴が垂れている。小さな貴重品ロッカーもあるが、扉がぐらぐらしていてかなづちかなにかで適当に叩いたら一発で壊れそうである。でも別にどうでもいい。いい温泉が目の前にあるなら、それで。

服を脱いで展望大浴場へ。露天風呂も確認してみるが、わたしたち以外に客はいなかった。簡単に身体を洗い、内風呂に満たされたわずかに緑がかったお湯に浸かる。お湯の成分でくすんだガラスの向こうに、森と阿賀野川と、対岸の街並みが見える。こちらは五泉市で、向こうの街は阿賀町だ。

「いいねえ、静かで」

ひらいちゃんがつぶやく。湯口からお湯が注がれる音だけが響いている。

「眠くなる…」

湯船の縁にタオルを敷いて頭を置き、まぶたを閉じてたかやまさんが言った。いっしょに温泉に行くと本当に寝ているときがあるので怖い。

ささづかまとめ
「眠らないでくださいよ」

たかやまさん
「うん…」

ひらいちゃん
「はーちゃんも、うとうとしてるときは穏やかで優しい顔するねー」

たかやまさん
「ん? どういう意味。私、いつも穏やかで優しい」

たかやまさんが眉根をひそめて起き上がった。なるほど、こうやって起こせばいいのか。ひらいちゃんはあははと笑っている。軽やかな笑い声が大浴場に跳ねるように反響した。


温まったらいざ露天風呂へ。正確には露天ではなく、壁が一面だけ取り払われ、ガラス張りの柵になっている。湯船は円形で、見知らぬ人が4人も入れば気まずくなりそうなサイズだが、わたしたちだけなので気楽だ。こちらに注がれているお湯のほうが緑色が濃いように見えるし、香りも強い。お湯は内風呂よりぬるめで、常に少しずつ溢れている。3人でだらだらとお湯に浸かったり、縁に腰掛けて体を冷ましたりして楽しんだ。

たかやまさんが柵にもたれて

「ここ涼しい! さーさちゃんも来て」

と言う。言われるままにお湯から出てたかやまさんのとなりに立つと、風が吹き抜けて心地いい。吹き出してくる汗がすみやかに蒸発していくのがわかる。森の香りと温泉の香り、太陽の日差しと川からの風が渾然一体となったものを浴び、吸いこむと、なんだか開放的な気分になってきた。

阿賀野川の向こうに際限なく続く山並みに、雲が影を作りながら流れていく。夏が少しずつ遠のいていくようだ。

ささづかまとめ
「ふう、これはなかなか、いい気分になりますね」

たかやまさん
「ね。こういうの求めてた」

ささづかまとめ
「これがととのうってやつなんですか?」

たかやまさん
「知らない。外気浴ではあるけど」

ひらいちゃん
「ふたりともー。気持ちよーくなってるのはいいんだけどさー」

湯船の縁に座っているひらいちゃんがわたしたちに言った。振り返るとなんだか心配そうな顔だ。そんな顔していないで、ひらいちゃんもこっちに来ればいいのに。

ひらいちゃん
「そこって外からぜーんぶ見えてない? 平気そう?」

……、たしかに。

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ささづかまとめ お金は大切に。