台湾では夫、日本では他人。同性婚のあとに続いた、僕たちの生活
2023年5月22日、平日の午後。
僕たちは、自転車で結婚しに行った。
花束もなかった。特別な服も着ていなかった。朝からそわそわしていたわけでもない。自宅で仕事をしていて、午後に少しまとまった時間が空いた。必要な書類もそろっていた。
それなら、今日行こうか。
そんなふうにして、僕と台湾人の夫は、台北市中山区の中山戶政事務所へ向かった。
結婚という人生の大きな出来事にしては、あまりにも日常の延長だった。ドラマのような演出も、記念写真を撮るための準備もない。手続きが終わったあとも、特別なレストランには行かなかった。家に戻って、仕事の続きをした。
でも、僕にとっては、その普通さこそが大きかった。
日本人のゲイとして、台湾で同性婚をする。そう書くと、少し特別な出来事のように聞こえるかもしれない。もちろん、結婚できたことは大きな節目だった。うれしかったし、安心もした。
けれど、その日を境に人生の悩みがすべて消えたわけではない。
夫として暮らすこと。日本では法的に夫夫として扱われないこと。仕事、家族、医療、老後、そして、どこで誰と生きていくのかということ。
制度というと、どこか遠い話に聞こえるかもしれない。
でも、制度は生活の細部にあらわれる。
同性婚は、僕にとってゴールではなかった。
むしろ、普通の生活をどう守っていくのかを考え始めるための、ひとつの入口だった。
1. 平日の午後、自転車で結婚しに行った
中山戶政事務所の窓口で、僕たちは番号を呼ばれるのを待っていた。
役所の中では、いろいろな人が、それぞれの家族や生活に関わる手続きをしていた。そこに僕たちも、ただひと組の家族として座っていた。
窓口の人は、外国人との婚姻にも、同性婚にも慣れているようだった。失礼な態度も、変な間も、困ったような表情もなかった。必要な書類を一つひとつ確認しながら、丁寧に手続きを進めてくれた。
それが、僕には大きかった。
何かを説明しすぎなくていい。存在を証明するために、余計な言葉を重ねなくていい。相手が男性であることも、僕が日本人であることも、そこでは手続きの一部として自然に扱われていた。
特別扱いされたいわけではなかった。
ただ、普通に扱われることが、こんなにも安心につながるのだと、そのとき初めてはっきりわかった。
手続きの途中、夫が仕事の知り合いらしき人に会って、少しだけひやっとする場面もあった。台湾では同性婚ができる。けれど、結婚できることと、いつでもどこでも安心して話せることは同じではない。
台湾人の夫の身分証の裏側には、配偶者の名前が記載される。そこに僕の名前が載る。
僕の名前は、日本人だとわかりやすい。男性だともわかりやすい。つまり夫は、身分証を出すたびに、相手によっては自分が同性婚していることを知られるかもしれない。
「これ、身分証を出すだけでカミングアウトすることになるじゃん」
夫はそう言って、少し笑った。
嬉しそうでもあり、恥ずかしそうでもあり、少しだけ困ったようにも見えた。
僕はその表情を、今でもよく覚えている。
隠れなくていい安心と、見えてしまう緊張。
その両方が、夫の身分証の裏側に小さく印字されるような気がした。
手続きが終わると、僕たちは普段通り家に戻り、仕事の続きをした。
僕たちは2009年に東京で知り合い、付き合い始めた。途中から一緒に暮らし、2013年には東京でマンションを買った。その頃から、気持ちとしてはもう家族だった。
けれど、実際に台湾で結婚できたのは2023年だった。
日本では、今もまだできていない。
結婚できる日が来るとは、若い頃の僕はあまり思っていなかった。だから、手続きが終わった瞬間に感じたのは、劇的な喜びというよりも、静かな実感だった。
時間がかかったな、と思った。
ここまで来るのに、本当に時間がかかった。
それでも僕にとってその日は、人生のゴールではなかった。映画のエンディングのような日ではなかった。
結婚したその日も、生活は続いていた。
そして、その生活こそが、僕たちが守りたかったものだった。
2. 台湾では、僕たちは夫夫だった
台湾で同性婚をしたとき、僕がいちばん強く感じたのは、社会の中で家族として扱われることの重みだった。
それは、単に役所で書類が受理されたという話ではない。
自分たちの関係に、社会の側から名前が与えられる。家族として扱われる。何かあったときに、互いの人生に関わる存在として認められる。
そのことは、想像していた以上に大きかった。
もちろん、台湾でもすべてが簡単だったわけではない。家族への説明や、どこまで誰に伝えるのかという緊張はある。身分証に配偶者の名前が載ることで、関係が見える場所に置かれる不安もある。
それでも制度は、僕たちの関係を最初から存在するものとして扱ってくれた。
僕が本当に「ああ、結婚したんだ」と実感したのは、婚姻手続きの日そのものではなかった。後日、配偶者としての居留証に切り替わったときだった。
台湾人と結婚している。
その理由だけで、台湾に住む資格が与えられる。
家族であることが、そこに住む理由として認められる。
多くの異性婚の夫婦にとっては、当たり前のことかもしれない。けれど、僕にとっては当たり前ではなかった。
同性カップルには、そもそもその選択肢がないことが多い。人生をともに歩みたい人がいても、その人と同じ国で暮らし続けることが、簡単には保障されない。
家族であることが、生活の理由になる。
その事実は、僕にとって、愛していると言われることとは別の種類の安心だった。感情ではなく、生活の前提としての安心だった。
制度があるから、誰かの善意や理解だけに頼らずに済む。
台湾で夫夫として扱われたことで、僕はその安心を知った。
そして、その安心を知ったからこそ、日本でまだそれがないことの重さも、前よりはっきり見えるようになった。
3. 日本では、同じ二人が他人になる
台湾で夫になった僕は、日本に戻ると、夫ではなくなる。
もちろん、僕たちの関係そのものが変わるわけではない。夫への気持ちが変わるわけでも、一緒に重ねてきた時間が消えるわけでもない。
けれど、社会の側から与えられる名前は変わる。
台湾では配偶者。
日本では、他人。
この言葉は少し強く聞こえるかもしれない。でも、生活の場面では、その差が何度も顔を出す。
病院、手続き、相続、税制、在留資格、もしものときの判断。
ふだんは見えにくい制度の差が、生活の中で何度も顔を出す。
朝起きて、ご飯を食べて、仕事をして、家に帰る。そういう普通の日には、制度の有無を強く意識しないこともある。
でも、何かが起きたとき、制度は急に重くなる。
入院したとき。
事故に遭ったとき。
仕事を失ったとき。
住む場所を選ぶとき。
親が老いていくとき。
自分たちの老後を考えるとき。
そのたびに、僕たちは「家族として扱われるのか」という問いに向き合うことになる。
自治体のパートナーシップ制度もある。意味がないと言いたいわけではない。社会が変わっていく過程として、大切な取り組みだと思っている。
ただ、それは婚姻と同じものではない。住んでいる地域によって効力が限られ、法的な家族関係をつくるものでもない。相続、税制、在留資格、医療、緊急時の判断において、婚姻と同じように機能するわけではない。
僕にとって、それは安心の土台というより、まだ不安の上に置かれた小さな支えに近かった。
同性婚がないことで困るのは、結婚式ができないことではない。
人生をともに歩んでいきたいと願う人を、家族として扱ってもらえないこと。
一緒に暮らすこと、病院で付き添うこと、会社で説明すること、老後を考えること。そうした生活の前提が、少しずつ不安定になることだった。
特別扱いを求めているわけではない。
異性婚の夫婦にとって当たり前に用意されている生活の支えが、僕たちにも必要だと思っている。
4. 一緒に暮らせるかどうかが、仕事に左右された
僕たちが東京で一緒に暮らしていたのは、台湾で結婚するよりずっと前のことだ。
2009年に東京で知り合い、付き合い始めた。しばらくして一緒に暮らすようになり、2013年には東京でマンションを買った。
その頃から、僕たちの気持ちとしては、もう家族だった。
朝起きて、仕事に行き、同じ家に帰る。冷蔵庫の中身を相談し、週末の予定を決め、住宅ローンや将来のことも考える。生活だけを見れば、僕たちはすでに家族として暮らしていた。
でも、制度の上ではそうではなかった。
当時、夫は台湾人として日本に滞在していた。日本で一緒に暮らしている間、僕の中にはずっと不安があった。
彼の仕事がなくなったら、在留資格はどうなるのだろう。
もし働き続けられなくなったら、日本に住む理由を失ってしまうのではないか。
そうなったら、僕たちは一緒に暮らせなくなるのではないか。
夫婦であれば当然のように考えられる「一緒に暮らし続ける」という前提が、僕たちにはなかった。
明日も一緒にご飯を食べられるのか。
同じ家に帰れるのか。
そんな基本的なことが、仕事や在留資格に左右されていた。
制度がないということは、抽象的な不平等ではなかった。人生をともに歩みたい人と、同じ場所で暮らし続けられるかどうかが、不安定なまま置かれるということだった。
2015年、僕はシンガポールに赴任した。
言葉としては「遠距離」なのかもしれない。でも、僕の気持ちとしては、恋人同士の遠距離恋愛というより、既婚者の単身赴任に近かった。
すでに一緒に暮らし、一緒に家を持ち、生活をつくっていた相手がいる。その相手と離れて働く。
でも、制度上の僕は独身だった。
シンガポール駐在は2021年まで続き、コロナ禍も重なって、僕たちは長く国境に左右され続けた。
コロナ禍で、その不安はさらに大きくなった。国境が閉じる。入国制限がかかる。ビザが取れない。飛行機に乗れない。
人生をともに歩みたい人に会うという基本的なことが、突然、政治や感染症対策や入国管理の問題になってしまう。
シンガポールにいたとき、「このまま会えなくなったらどうしよう」と思った。
その不安は、最終的に僕の仕事の選び方まで変えた。新卒で入って、11年勤めた会社を辞めた。
仕事もキャリアも大切だった。積み上げてきたものを手放す怖さもあった。
でも、人生の大切な人と一緒に生きることも、同じくらい大切だった。
僕にとって転職は、キャリアチェンジであると同時に、生活を取り戻すための選択でもあった。
5. 個人の理解と、制度として守られることは違う
シンガポールに駐在していたとき、会社の制度上、僕は独身だった。
実際には、人生をともにしたい相手がいた。東京で一緒に家も買い、将来のことも考えていた。けれど、制度の中では、僕たちの関係は存在しないものとして扱われた。
既婚者の単身赴任とは、事情が違った。
手当、住居、帰省費用、帯同、緊急時連絡先、社内での説明。あらゆる場面で、僕は独身として扱われた。
誤解のないように書いておきたい。
僕のまわりには、理解してくれる人がいた。
上司、同僚、部下、取引先。カミングアウトも、段階的に少しずつしていった。僕を応援しようとしてくれる人たちは、それぞれの立場で支えようとしてくれた。
そのことには、本当に感謝している。
ただ、個人として支えてもらえることと、制度として守られることは違う。
誰かが理解してくれるか。
上司が配慮してくれるか。
そのときの担当者が柔軟に判断してくれるか。
生活の安心が、そうした個人の善意や裁量に左右される状態は、制度として保障されている状態とは違う。
僕は、仕事をする自分と、夫のことを考える自分を、完全に切り離すことはできなかった。
仕事を頑張ることと、人生の大切な人を守ることが、同じテーブルに乗らない。
その違和感は、長い間、僕の中に残っていた。
会社の制度も、国の制度も、社会の制度も、どこかでつながっている。
個人の理解が制度を少しずつ動かすこともある。
でも、生活を支えるには、個人の理解だけでは足りない。
6. もしものとき、僕は何ができるのか
コロナ禍の時期、夫が台湾で短期間入院したことが二度あった。
その頃、僕はシンガポールにいた。まだ台湾で結婚する前だった。だから僕は、台湾でも配偶者ではなかった。
画面越しに状況を聞くことはできた。メッセージを送ることも、電話をすることもできた。けれど、病院に行くことはできなかった。そばにいることもできなかった。
本当に、何もできなかった。
スマートフォンの画面を何度も見た。
返信が来るまでの時間が、いつもより長く感じた。
飛行機を調べても、すぐに行けるわけではなかった。
入国制限やビザの条件を見ても、そこに僕が今すぐ動ける道はなかった。
病院の様子を聞く。
体調を聞く。
「大丈夫?」と送る。
返事を待つ。
できることは、それくらいだった。
入院そのものが長期で深刻なものだったわけではない。けれど、僕には大きな出来事だった。
人生をともに歩みたい人が、具合を悪くしている。
でも、飛行機に乗れない。国境を越えられない。病院に行けない。
ただスマートフォンの画面を見ながら、状況が悪くならないことを祈るしかなかった。
そのとき、僕は考えた。
もし本当に大きなことが起きたら、自分は夫の人生にどこまで関われるのだろう。
病院で家族として扱われるのか。
説明を受けられるのか。
判断を求められる立場になれるのか。
もしものときに、相手のそばにいることができるのか。
結婚前の僕には、その答えがなかった。
そして、日本にいる今も、その不安が完全に消えたわけではない。
台湾では、結婚した今、僕は配偶者だ。
日本では、僕たちは法的には他人だ。
この差は、ふだん何もないときには見えにくい。朝起きて、ご飯を食べて、仕事をして、家事をして、たまにけんかをする。日常だけを見れば、夫夫も異性婚の夫婦も、大きく違わないかもしれない。
でも、もしものときに、制度の有無は急に重くなる。
病院、事故、災害、入院、手術、死亡、相続。
人生で起きてほしくない出来事ほど、家族という制度の重みが表に出てくる。
だから僕にとって、同性婚はロマンチックな制度というより、生活の非常口に近い。
何もない日には、そこにあることを意識しない。
でも、何かが起きたとき、その扉が開くかどうかで、人生の安心感はまったく変わってしまう。
誰かを愛していることを、社会に祝ってほしい気持ちもある。
けれど、それ以上に、人生で避けられない困難が起きたとき、互いを家族として扱ってもらえること。
それがほしい。
それは、ぜいたくな願いではないと思っている。
7. 家族は、少しずつ家族になる
僕には、カミングアウトらしいカミングアウトがあまりなかった。
家族は、たぶん知っていたのだと思う。
2011年、東日本大震災のとき、当時付き合っていた彼が一時的に台湾へ帰国することになった。僕も一緒に台湾へ行こうかどうか、家族に相談していた。
そのとき、家族は「そういう関係なんだ」と悟ったのだと思う。
僕の家族は、比較的早い段階から、僕たちの関係を自然に受け止めてくれていた。だから2023年の結婚は、家族にとって突然の出来事ではなかったと思う。
それでも、結婚という節目には、やはり別の意味があった。
僕たちは結婚式をしていない。けれど母が、「二人だけ結婚祝いをちゃんとしていないのはかわいそうだ」と言って、家族で小さなお祝いをしてくれたことがある。
そのとき僕は、法律とは別の場所にも、家族として扱われる瞬間があるのだと思った。
今、夫は僕の家族の中で、兄弟姉妹の配偶者とほとんど同じ距離感で受け止められている。親戚の集まりにも、一緒に行けるようになった。
一方で、夫の家族にとって、僕たちの関係を受け止めることは、もう少し時間のかかるものだったと思う。
夫の家族は台南の人で、伝統的な家族観を持っている。僕たちが東京で一緒にマンションを買おうとしたとき、そのことが夫のカミングアウトのきっかけになった。
恋愛の話ではなく、不動産の話から、僕たちは家族に向き合うことになった。
それでも、お正月の親戚の集まりに参加できるようになったとき、僕は少しずつ家族の輪の中に入っていったのだと思った。
誰かがはっきり「あなたは家族です」と言ったわけではない。
でも、そこに座る席がある。
食卓に呼ばれる。
名前を覚えられる。
親戚の会話の中にいる。
それは、それだけで十分に大きなことだった。
家族は、一日で家族になるわけではないのだと思う。
男女の夫婦であっても、同性カップルであっても、それはたぶん同じだ。
食事をする。何度も顔を合わせる。行事に呼ばれる。席を用意される。そういう時間の積み重ねの中で、少しずつ家族になっていく。
法律が家族をつくることもある。
時間が家族をつくることもある。
そのどちらか一方だけで十分だとは、今の僕には思えない。
法律がなければ、もしものときに生活を守れない。
でも、時間がなければ、心の中で家族になっていくことも難しい。
今の僕は、家族を「生活共同体」だと思っている。
人生では、必ず困難が起きる。病気、老い、仕事の変化、お金の問題、介護、別れ。そういうものに一人で立ち向かわなくていいようにするための仕組みが、家族なのだと思う。
血のつながりだけではない。
法律だけでもない。
一緒に困難に向き合う関係。
それが、僕にとっての家族だ。
8. 夫夫生活は、思ったより普通で、思ったより難しい
家では、中国語(台湾華語)と日本語が混ざっている。
お互いに日本語、中国語、英語を使えるけれど、家庭では中国語が6割から7割くらい。残りが日本語だと思う。
疲れているときは、夫は中国語で話し、僕は日本語で返すこともある。それでも、なんとなく会話は続いていく。
夫夫生活というと、何か特別なもののように聞こえるかもしれない。けれど実際には、そんなふうに少し雑で、少し自由で、かなり日常的なものだ。
夫の家族は台南の人で、ふだんは台湾語を話す。僕がいると、最初は中国語で話してくれる。でも、話が盛り上がってくると、いつのまにか台湾語になる。
その瞬間、僕は少しだけ会話の外側に立つ。でも、それを寂しいとか、不快だとはあまり思っていない。家族には、家族のリズムがある。僕はその輪の中に、少しずつ入れてもらっているのだと思う。
僕たちがよくけんかするのは、制度の話でも、国際政治の話でもない。
たいていは、時間感覚の話だ。
何時に出るのか。
どのくらい前に準備するのか。
予定をどこまで決めておくのか。
そういう、どこの夫婦にもありそうなことで、ちゃんとけんかをする。
けんかをして、少し黙って、どちらかが何かを食べ始めて、なんとなく会話が戻ってくる。
そういう日もある。
僕たちの生活は、基本的には普通の夫婦とほとんど変わらない。
もちろん、自分たちの子どもを持つという選択肢には、高いハードルがある。日本と台湾のどちらで暮らすのかという問題もある。家族や制度や老後について、考えなければならないことも多い。
それでも、毎日の生活だけを見れば、ご飯を食べ、家事をし、予定の立て方でけんかをし、疲れた日は同じ部屋で黙って過ごす。
そこにあるのは、特別な物語というより、かなり普通の暮らしだ。
僕がいちばん安心するのは、家に帰って家族がいることだ。
一緒に眠れること。
一緒にご飯を食べられること。
同じ部屋で、別々のことをしながら過ごせること。
結局、僕が守りたいのは、そういう時間なのだと思う。
でも、年齢を重ねるほど、その時間を守るために考えなければならないことも増えてきた。
9. 40代を前に、人生の後半を考え始めた
30代後半になり、40代が少しずつ見えてくると、考えるテーマは変わってくる。
若い頃、ゲイとして生きることについて考えるとき、大きなテーマは恋愛やカミングアウトだった。
誰を好きになるのか。
それを誰に伝えるのか。
家族にどう話すのか。
職場でどこまで自分を出すのか。
もちろん、それらは今でも大切な問いだ。
けれど、年齢を重ねると、もっと生活に近い問いが増えてくる。
どこで暮らすのか。
仕事をどう続けるのか。
親が年を取る中で、どう関わるのか。
誰と老後を迎えるのか。
日本と台湾、どちらで人生の後半を過ごすのかについて、まだはっきりした答えはない。たぶん、これからも日本と台湾を行ったり来たりする生活になるのではないかと思っている。
台湾には、夫夫として暮らせる制度上の安心がある。
日本には、自分のルーツや仕事や家族とのつながりがある。
どちらか一方だけを選べばすべてが解決する、という話ではない。
日本で暮らすことを考えると、不安は相続だけではない。社会保険、医療、後見人としての役割、もしものときの手続き。人生の後半に関わる場面で、夫夫としてどこまで認められるのかという不安が残る。
親の介護は、同性婚だから特別というより、誰にでもやってくる現実だと思っている。家族の形がどうであっても、親が老いていくことからは逃れられない。
ただ、ゲイとして、国際同性カップルとして生きていると、その一つひとつに少し違う角度から向き合うことになる。
家族制度は、人生の前半よりも、後半になって重みを増すのかもしれない。
若い頃は、二人の気持ちがあればそれでいいと思えることもある。
自分たちだけで何とかなると思えることもある。
でも、老後や介護や相続を考えると、社会の制度が生活にどう関わるのかを、より現実的に感じるようになる。
気持ちだけでは、病院の書類に名前を書けないことがある。
愛情だけでは、在留資格の理由にならないことがある。
一緒に生きてきた時間だけでは、相続や手続きの場面で家族として扱われないことがある。
だからこそ、同性婚について考えることは、単に恋愛や権利の話ではない。
誰と、どこで、どんなふうに年を重ねていくのか。
そのために、どんな生活の支えが必要なのか。
そういう、とても現実的で、とても個人的な話なのだと思う。
結婚したから終わりではなかった。
夫になったから安心しきれるわけでもなかった。
むしろ、夫になったからこそ、これからの生活をより具体的に考えるようになった。
10. 正解ではなく、選択肢を増やしたい
僕は、台湾で同性婚した自分の生き方が、何か特別な正解だと言いたいわけではない。
カミングアウトすべきだとか、結婚した方がいいとか、海外に出るべきだとか、そういうことを言いたいわけでもない。
僕の生き方が、誰かのお手本になるとも思っていない。
ただ、こういう生き方もある。
こういう悩み方もある。
こういう選び方もある。
そう思える材料を、少しだけ置いておきたい。
若い頃の僕は、ゲイとしての将来像をあまり具体的に想像できなかった。
恋愛の話はあっても、その先の生活の話は少なかった。
カミングアウトの話はあっても、その後の家族との距離感はあまり聞けなかった。
同性婚の話はあっても、結婚後の生活や老後の話は、まだ身近ではなかった。
だからこそ、自分の経験を言葉にすることには、少し意味があるのかもしれないと思っている。
台湾で同性婚した日本人ゲイ。
そう書くと、少し変わった人生のように見えるかもしれない。
でも実際には、僕たちの生活は、多くの人の生活とそんなに変わらない。
変わった人生に見えても、そこで起きていることは、多くの人が向き合う人生の課題とそれほど変わらない。
ただ、僕たちはその一つひとつに、少し違う角度から向き合っている。
同性婚はゴールではなかった。
台湾で夫になった日も、生活はそのまま続いていった。手続きが終わったあと、僕たちは家に戻って仕事をした。
でも、その日から、僕たちの関係は台湾の社会の中で家族として扱われるようになった。
その安心を知ったからこそ、日本でまだそれがないことの重さも、前よりはっきり見えるようになった。
制度があると、人生は少し安心する。
家族として扱われると、生活の支えが少し安定する。
それは特別な願いではなく、たぶん多くの人にとって、ごく普通の願いなのだと思う。
僕の経験が、誰かにとって、こんな生き方もあるんだと思える小さな選択肢になれば嬉しい。
そしていつか、僕たちのような人生が、少し変わった人生ではなく、いろいろある人生のひとつとして、静かに受け止められるようになればいい。
家に帰れば、家族がいる。
一緒にご飯を食べる人がいる。
明日も同じ場所で暮らしたいと思う人がいる。
僕が守りたいのは、結局、そういう普通の生活なのだと思う。
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