見出し画像

【エッセイ】フミコミザンF

名作ゲーム「ロックマンエグゼ」シリーズに登場する攻撃チップ、フミコミザン。これは私の最近の活動を例えるにふさわしい、マイフェイバリッドチップだ。

前方に踏み込んで剣を振るい、スッと戻る

このような挙動をとる、そこそこの威力が出る攻撃。
ただし私が振るうのは剣ではない。
敬意と感謝、すなわちファンレターである。

私の文章能力はごく最近開花した。私はこれまでの人生でラブレターというものを書いた経験がないのだが、多分アレはそれに該当すると思う。今後一生会うことのない人に思いを伝えておきたいというのはかなり一方通行な片思いで、現実には受け取ってもらえることすら困難だ。

数多くの漫画で告白シーンを見てきたはずなのに私はまるで学んでいない。まずはお友達から、というのは定番の切り返しなのだがビジネス的には違う。一般人と企業はお友達にはならない。お金にならないユーザーからの言葉に応えるのは真摯な姿勢をみせるだけで基本的には赤字だ。我々はタダで動いてはいないのだ。社屋をでて、門を通過し家に帰宅、スーツを脱ぎネクタイをとってシャワーを浴びてネットオタクに戻った瞬間になんでそれを忘れてしまうのか。

ともあれ、わたしは一般市民という立場で足りない頭をひねって自分の欲を叶えようとなりふり構わない姿勢をとった時、文章の力に頼った。結果は当たり障りのない形で返信をもらえるという所に落ち着いたのは御の字、以外の何物でもない。お手数おかけして申し訳ないとはまさにこのことだろう。近年、お客様ご意見フォームが安易に設置されない理由を身をもって体感したかもしれない。アタリはごく少なく、社員にストレスが発生しメンタルが害されるハズレのほうが多い匿名フォームはかなり減ってる印象だ。

それでも本の世界が気がかりだ。畑違いとはいえ、出版業界が経済的に詰んでる現状で何も関与しないと世の中に面白い本が減ってしまう気がするのは私は他人事ではないと思った。創作でヒットを出すのは博打であるという認識がありつつも、夢見るチャレンジャーを応援しないのはまた別の話だ。人が集まらないと盛り上がらないのはすでにネットコンテンツで学んでいる。

本になる創作をする人を応援しよう、目に見える形で

という経緯だ。最近の活動は。ネット上のよく知らない人物から熱源不明の長文をたたきつけられた被害者、あるいは当選者がじきに10名になる。

面白かったです!次も読みたいです!これらは創作者にとってありがたい言葉ではあるのだが、正直響かないし満たされない。ポテチ1枚とかコーラ1口のようなもの。おすそ分けは嬉しいけど満たされない。じゃあ作品が売れて金銭的に満たされればそうなのかというと、そもそもその段階まで評価されるのは十分、芽が出ていると思う。私の応援したいのはもっと、0を超えたのに1になってない、小数点の世界で創作をしている人だ。創作プラミッドにおいて地面につづいた地続きの、一番人口層が厚い部分。ワナビーではなく、形を残した「成りかけの者たち」。

もちろん1から10とか100以上の世界だって応援したい。でも誰しもが満たされないと感じるとき人は1にすらなってないというメンタルになる。成果を正しく自認できなくなる。その時に必要なものがファンレターだと思った。多くの作家はファンレターを捨てるということをしない。というかできるわけがない。当然だ。フェアな関係を超えた贈与。精神的な香水であると思う。心に届くいい匂い。お金が絡むとクサいと思うのはある種健全な思考だと思うし、一方でピュアなものはあらゆる業界でもてはやされる。純度というのは担保しずらいからだ。

そのようなものを書く。熱意の伝わる文章。
読者は作家の存在を確かにいると疑わないのに、逆はなんだか成立しない。これをアンフェアだと思えるのに時間がかかったかもしれないけど、十分早い。今からやれば少なくとも平均的な健康寿命で30年以上は活動時間を担保できる。よかった、体が資本というのは早期に確立した私の人生哲学だ。これに即して生きていこう。

そう思った矢先に、衝撃的な漫画に出会うがこれが「読みにくい」というネットコメントが散見されるのに私はかなり疑問視した。というより気軽に短い否定形を感想として述べる現代のネット民度に危機感を感じた。否定だぞ否定。面と向かって言える言葉をネットでも吐けよ。ホントにリアルでもその口調なのかよ。信じられん。子供が覚える単語として「パパママ」のつぎにおぼえるのが「すききらい」「うまいまずい」なんかだ。これの発展形として語彙が増えていくのが成長というものなのにネットでは語彙力赤ちゃんがそんなに多いのか。リアルで赤ちゃん口調になったらやばい奴判定だろ。

面白くない、よみにくい、つまらない。
ない。ない。ない。

破壊の呪文だ。死の呪文だ。
ザキ!アバダ・ケダブラ!
命中して誰が死ぬと思う?それとも死なないと思ってる?残念だが人間はザキ耐性をそんなにもってない。

そう思ってネットの海に「馬鹿野郎!」と言うために書いた記事もある。表面上はできるだけそういわずオブラートにつつんだ丁寧口調だが本心は罵りであることを否定しない。もちろんファンレターであることの方が優先度は高い。しっかりと書いていく。しかも作者に「この漫画は面白いことを説明します」宣言したその日に公開した。すぐに返信が来てXでは相互フォローになる。返信が来る。「泣きました」。ホントかなぁ?私はやったことの意味合いがイマイチつかめなかった。この時点では。

次の日の朝、次のターゲットを選定するためネットの海をさ迷う予定だったがダブルチェックも兼ねてまずは昨日の自分の文章を読みなおす。

長いなぁ。まぁとりあえず良さそう。いったん閉じる。そうして別記事を書いているうちになぜか自分の目から涙が出る。意味が分からないがすぐに思いなおす。「これを全部読んだのか」という実感が私に降りてきた。ダウンロード完了。インストール中。その過程で流れたこれは、創作者が欲しかったモノだ。そう確信した。

この時に近いイベントで格ゲーの神ことウメハラさんの「獣道」というレジェンド対戦企画があった。その日の後日談としてウメハラさんは当日の朝に正体不明の涙が自分から出たと語っていた。現実が降りてきたのかもしれない。これは漫画「ひゃくえむ」で描かれた主人公トガシが公園で泣き崩れたあの時の感覚もかなり近しいと思う。現実が降りてきたのだ。自分の体に。

私は彼らと同じだったのか。しかしそれらはすべて三者三様の別々の感情だと思うのだが、実感というのが身に染みるのはタイムラグがある。ありがたいというのは有難いと書く。ありずらい。ありえない。そんな出来事が発生したときにつかえる5文字。創作者を破壊する5文字とは違う。まさにそう呼ぶのがふさわしいのだろう、ファンレターが届くというのは。

でも私は一人だ。一個人。好きなジャンルに偏りもあるし理解が苦手なジャンルもある。だから私が救えるかもしれない誰かの心というのは限りがあるし、願っても現実には届かないどうしようもなさはある。わたしにすべてのクリエイターは救えない。だからそれぞれ近しい人や好きな人同士で寄り添って、できるのであれば勝手に幸せになってほしい。身勝手だろうか。

コンテンツからコンテンツが生まれる、というのは炎上コンテンツみたいな扱いを除けば基本的には損する人がいない、上向きの正しいループだ。ここnoteにおける創作大賞感想というのはそれを体現していると思うので元気よく参加している。しかも創作大賞感想の締め切りは意図的に大賞応募よりあとに置かれており、これは「書き手も読み手になってほしい」と言われている気がしてならない。でも作品執筆とは別のエネルギー、別のスキルが必要なことはキーボードを熱心に叩いてる人々は理解できるはずだ。それでも参加してほしい。面白い作品がフィルタリングされるのは残酷ではあるが同時にある種の正しさを備えている。それでもあなたにしかわからないものがあったときはためらわず、文量を載せてそれを伝えてほしい。その時に目に見えない力が世の中に発生するのではないかと、最近思う。

ロックマンエグゼというゲームにおけるバトルチップというのは主人公であるプレイヤーからわざわざ相棒に渡さないと発動できない攻撃手段だ。コロコロコミックでも連載があった、まさに王道主人公を地で行く「光熱斗」とその相棒の「ロックマン.exe」。今で見るとかなり時代を先取りして未来予知に思えるが現代はそれに追いつきAI全盛、ネットナビの概念はかなり現実味を帯びてきた。

創作する側と読む側、現実とネット越しの誰か。主人公とネットナビ。

持ちつ持たれつで救われる現実はきっとあると思う。

いちのじ
2026/06/23 05:00 初稿


いいなと思ったら応援しよう!