①1986年18歳。国鉄最後の夏、北海道とユースホステル~前書き(1986年8月)
今回のマガジンもまた北海道旅行です。1986年8月、周遊券を使って北海道のローカル線の旅に出ました。当時、私は18歳の大学1年生でした。鉄道だけ乗っているうちは良かったのですが、旅先で色々な人と出会い、勝手に傷つき、そして最後は旅を打ち切るという話です。noteで紹介するには少し重たい内容かもしれませんが、お付き合いいただければ幸いです。
当時の鉄道を取り巻く環境
国鉄分割民営化を翌年1987年に控え、国鉄は最後の夏を迎えていました。11月には、民営化を前提とした「白紙ダイヤ改正」が実施されることが決まっており、郵便・荷物輸送の廃止、貨物輸送の大幅合理化、食堂車の廃止など、鉄道ファンにとっては寂しい内容が盛り込まれていました。汐留貨物駅の廃止もこのときでした。

つまり、1986年のこの旅は、国鉄らしい姿を最後に目にすることができた夏だったのです。
当時のスペック
鉄道高校に行き、国鉄に就職するのが夢でした。しかし、国鉄解体という時代の中で目標を失ってしまいました。普通高校に進学し、父から言われるまま、大学受験をして、自分の学力相応の大学に進学しました。大学なんて行きたくなかったというのが本音でした。
大学進学が決まって、唯一嬉しかったのは、「これで旅ができる!」と思ったことでした。しかし、厳しい父親から許可がおりませんでした。鉄道趣味は非生産的と断言されたことがその理由です。

大学進学に目標を持てなかった私は、日々を漠然と過ごしていました。高校時代、夢中になっていたラグビーも、大学レベルで選手として通用するほどの技量はなく、体育会には入れません。同好会も考えましたが、「趣味でやるには中途半端だ」と思い、結局そこにも参加しませんでした(1年後に参加)。
友人関係もまた、高校時代にあれほどストイックに部活に打ち込んでいた仲間たちが、大学に入って遊びを覚え、どんどん変わっていくのを見るのが辛く、私は次第に距離を置くようになりました。
そんな中で、唯一の癒しとなったのが深夜放送のラジオでした。「中島みゆきのオールナイトニッポン」。月曜深夜の2時間の生放送、そのラジオを聴くことだけが私の楽しみでした。

「中島みゆき」というと、その楽曲からしっとりした雰囲気を思い浮かべる方が多いかもしれません。ところがどっこい、このラジオはまったくの正反対。とにかく軽快で明るく、悩みを吹き飛ばしてくれるような爽快感がありました。何より「みゆきさん」と時間を共有していることが、嬉しかったのです。生放送って良いですね…。
今でも覚えている方はいらっしゃいますか?
旅に出たいわけ
この紀行文に実際に書かれていた冒頭にはこう書いてありました。
日常からの脱出
学生生活が面白くない。もう、うんざりする程だ。毎日同じことの繰り返しで精神的にはもう中年だ。オジサンだ。旅に出て精神的リフレッシュをしたい。若者になりたいのだ。ついでにネクラ人間がネアカになるためには何か刺激が欲しい。このまま日常生活を続けたら私の青春時代はネクラのまま終わってしまう。
これの問題を解消するには旅に出るしかないと思っていました。
旅を認める条件
やがて迎えた夏休み。旅をする事を父親に懇願しました。旅を認める条件は以下の通りでした。
1.費用は自分で賄うこと
2.小学生の妹(末っ子)を遊びに連れて行くこと
当時、サンドイッチ工場でアルバイトはしていましたが、時給450円では、とても旅費を捻出できなかったので、ヤマト運輸で短期のバイトをしました(稼ぎのいい夜間のバイトは門限があって不可)。

そして、妹を遊びに連れて行くという事については、映画に行くことにしました。そして観せたのは「天空の城ラピュタ」。今でも「君をのせて」を聴くと、この夏を思い出します。
北海道ワイド周遊券
当時の旅人が愛用していたのがワイド周遊券。北海道ワイド周遊券は、20日間有効の乗り放題切符で、まさに夢の切符でした。時間はたっぷりあるので、行き先はその場で決めようと思っていました。

私が購入したのは、名古屋発の周遊券で、29,900円。時刻表を眺めていると、名古屋発青森行きの臨時急行列車があることを知り、どうしてもこれに乗りたくて、名古屋発着の切符を選びました。ちなみに私の地元は東京です。
切符を購入したとき、有効期間を残して帰ってしまうとは思いもしませんでした。
ユースホステル
私の旅は、基本的に野宿か車内泊と決めていました。しかし、ユースホステルには強く惹かれていました。青少年・少女の旅にとって、安全で安価な宿泊場所であるだけでなく、旅人同士の交流の場でもあったからです。人とのコミュニケーションに悩んでいた私には眩しく見えました。

当時は、池袋の西武デパート内にユースホステルの窓口があり、そこで会員になりました。全盛期は過ぎていたとはいえ、まだ「安宿」といえばユースホステルという時代でした。

現在では、安宿はゲストハウスに移行し、宿の数も激減してしまったようです。
紀行文
この頃、旅の記録を残すフィルムカメラの現像代も馬鹿になりませんでした。そこで、写真は最低限しか撮らず、その場で風景などを記した紀行文を書きました。ほぼリアタイで書いており、人との会話はまるで議事録です。清書した手書きの紀行文を改めて読んでみましたが、noteで公開するにあたり、書き直すことも考えました。

しかし、車内の様子や、街の風景など、記録としては意味があると思いますので、極力原文のまま転記する方針です。もちろん一部カットしますが、それでも1話あたりの文字数は、話によっては5,000字を越えてしまいそうです。
試しに先行して転記作業をした、名古屋発青森行きの乗車紀行は10,000字を越えてしまいました(2話に分割しても多すぎる)。どう発表するかは作業しながら検討します。
カメラ
この旅の直前、父が新しいカメラを買ったため、一眼レフのお下がりを譲り受けました。機種は PENTAX ME-super。レンズは標準の50mm単焦点のみです。オートフォーカスなどという機能はなく、シャッタースピードも絞りも、フィルムの巻き取りもすべて手動。しかし操作性は抜群で、「バシャン」と響く反射鏡の跳ね上げ音が心地よい。
このカメラを相棒に旅ができることが、とても嬉しかったのです。
廃線路線の乗車記録
このマガジンで紹介する予定の、主な廃線となった路線の乗車記録を挙げてみます。青函連絡船、札沼線、根室本線(狩勝峠)、士幌線、富内線、日高本線、幌内線、池北線、広尾線、羽幌線、留萌本線、深名線、天北線、名寄本線、湧網線、標津線、瀬棚線、胆振線、松前線……。いかに多くの路線を失ったのか、改めて驚かされます。この記録を書くのは、鉄道ファンとしての義務なのでは(笑)

https://naeboworks.com/haisen/
このマガジンについて
予め申しておきますが、このマガジンには、私の弱くて暗い部分が沢山出てきます。自殺志願者に間違われて騒ぎにもなります(勿論、誤認識です)。そのネガティブ思考にご批判もあるでしょう。
これを書いたのは私が18歳のときです。フォロワーの中には、当時の私より若い方もいらっしゃいます。希望に燃えている若者に、ネガティブな要素をお話しするのは心苦しいですが、「こんな人もいたんだ」と思って、ところによっては読み飛ばしてください。
それでは、次回は名古屋発青森行きの急行「あおもり」号の紹介から始めます。いきなり膨大な記録となりますが、北海道に上陸してからの話は第4話以降になります。時々、休憩がてら、他の記事も挟みながら進めていきます。それでは、出発進行!
次の章
いいなと思ったら応援しよう!
話にお付き合い頂いてありがとうございます。
いただいたチップは、旅の振興や歴史的建造物の保存のための寄付などに活用させていただきます。