創戯旅団 生存の記録-SM奇譚 第14夜-地下食堂前の秋灯り
「店長さん、今度、七沢祭があるから行きますか」
そう言われたとき、私は思わず顔を上げた。祭り、という言葉は不思議なもので、病院という場所のなかで聞くと、なおさら遠くの季節を連れてくる。消毒液の匂いと、規則正しく配られる薬と、時刻どおりに点く照明と消える照明、そのような管理された時間のなかで、祭りという二文字だけが、どこか人の勝手な喜びに属している。だから私は半ば反射的に、いや、ほとんど子どものように、「行く、行きます、ぜひ連れて行ってください」と答えていた。
あとから廊下の張り紙を見に行くと、会場は「当病院内地下食堂前」とある。私はその文字を見て、しばらく立ち止まった。七沢祭、という名前のひびきから、私は勝手に、もう少し広いものを想像していたのだ。山あいの町の秋祭りだとか、夜風のなかで提灯が下がっているようなものだとか、そういう外の世界の景色を。ところが現実は地下食堂前だった。何だ、病院の催しだったのか、と可笑しくなったが、同時に、病院のなかに祭りを持ち込もうとするその心意気が、妙にいじらしくも思えた。
そもそも、なぜ七沢祭なのか。それは、私が一か月半ほど前に七沢R病院へ転院してきたからである。厚木に住んでいながら、七沢祭という言葉に地域の祭礼めいたものを勝手に感じてしまった自分の迂闊さには苦笑するしかない。秋祭りといえば伊勢原や秦野の名を知っているくせに、いざ自分の足元のことになると、案外何もわかっていない。もっとも、今の私には、その「足元」という言葉そのものが、以前と同じ意味では響かないのだが。
当日、地下食堂前に並んでいたものは、焼きそば、たこ焼き、わたあめ、チョコバナナ、ゼロコーラ――街の祭りに比べればどれもささやかな品だった。それでも、鉄板の上で油がはぜる音や、甘ったるい綿菓子の匂いや、たこ焼きをひっくり返す手つきのせわしなさは、きちんと祭りの気配を帯びていた。病院のスタッフたちは、ふだんは白衣や制服の内側にしまっている人間くさい表情を見せながら、患者たちに食べ物を手渡していた。どれも手慣れた屋台の職人のようではなかったが、その不器用さがかえってよかった。上手に客をあしらうためではなく、楽しんでもらいたいというただそれだけの気持ちが、焼きそばの湯気の向こうに見えた気がしたのである。私は焼きそばを食べ、たこ焼きを頬張り、チョコバナナをかじり、ゼロコーラを飲みながら、胸の奥に小さな灯がともるのを感じていた。たったそれだけのことなのに、ずいぶん嬉しかった。自分は患者であり、管理される側であり、時間割に従う側の人間になって久しい。それが祭りのあいだだけは、食べたいものを選び、差し出されたものを受け取り、ほんの少し笑うだけの、ただの客になれた。人に世話をされる者としてではなく、場に招かれた者として扱われることが、こんなにも身体を軽くするとは思わなかった。
祭りは、今日の話である。つまりこれは回想ではない。まだ舌の上にたこ焼きの熱が残っているような、そういう生々しい現在の話だ。だからこそ、そのぬくもりが冷えきらないうちに書いておきたいと思った。私の入院の話が、どこまで語られていたのか、もう自分でも曖昧になっている。たぶん、伊勢原のIK病院で片足を切断する手術を終えたあたりで、話は止まっていたはずだ。人は大きな出来事が起これば、それが人生の山場になると思いがちだが、実際には、山場というのは往々にしてその後に始まる。切断の瞬間より、切断後の時間のほうが長く、重く、執拗である。糖尿病の悪化によって足を失った私の身体は、ただ素直に術後の回復へ向かってはくれなかった。傷の治りは遅い。瘡蓋はついても、綺麗に閉じきらない。中途半端に剥がれ、そこから滲出液が少し出る。その「少し」が厄介なのだった。血が噴くわけでもない、激痛が走るわけでもない。だが、完全に終わっていないことだけは、毎日静かに告げてくる。傷口というのは、身体の一部であると同時に、時間そのもののようでもある。塞がらないあいだは、こちらもまた過去を終えられない。
手術から三か月半が経っても、まだ傷は二か所、すっきりと閉じていない。それなのに、リハビリ病院には手術から五か月で退院しなければならないという決まりがある。身体は身体の都合でしか治らないが、制度は制度の都合でしか待ってくれない。私はその狭間で、義足が間に合うのか、間に合わないのかという焦りを抱えながら日々を送っている。人間の回復には本来、個人差というものがあるはずなのに、病院という場所では、その差さえ時間割のなかに押し込まれていく。
朝は早い。まだ夢の底が薄く残っているうちに、病棟の気配が少しずつ動き出す。看護師の靴音、カーテンの擦れる音、遠くで鳴る何かのアラーム、廊下を押されていくワゴンの車輪の音。目を開ける前から、自分が今日も病院の一日へ連れ戻されるのがわかる。六人部屋の空気は、夜のあいだに人の体温と呼吸を吸い込んで、朝になると少しだけ重い。そこへ消毒の匂いと、洗いたてのリネンの匂いと、時には誰かの軟膏の匂いが混ざる。病院には病院にしかない朝の匂いがあり、それは清潔でありながら、どこか人間の弱さを含んでいる。
起き上がる、という行為がまず一つの作業になった。かつては何でもなかった動作が、今では順序を要する。身体を少し横へずらし、残った足の位置を確かめ、腕の力で上半身を起こし、車椅子へ移る。人は片足を失うと、ただ歩けなくなるだけではない。座ることも、立つことも、向きを変えることも、物を拾うことも、すべてに新しい計算が必要になる。自分の身体でありながら、自分がまだその取扱説明書を覚えきれていない機械のようだと思うことがある。
朝食の時間になると、食堂へ行ける者は行き、動きづらい者には配膳が来る。私は病棟のざわめきのなかで、他の患者たちの顔をぼんやり眺めることがある。年寄りが多い。年寄りは、老いそのものによって静かになっている人もいれば、逆に子どものように感情が表へ出る人もいる。何度も同じことを訊く人、食事の時間だけ妙に機嫌のよくなる人、テレビの音量をめぐって小さな戦争を始める人、見舞いが来た瞬間だけ急にしゃんとする人。それぞれに人生があったはずなのに、病室のなかでは皆、病衣を着て、同じ速度で老いていくように見える。だが本当は違う。皆、自分の身体の内側で、それぞれ別々の時間を生きている。
午前のリハビリが始まると、病院生活は一気に学校めいた顔を見せる。何時にどこへ行く、誰が担当、今日は何をする。自分の意志というより、今日の課題に身体を提出していく感じである。腹筋六十回、と言葉にすると簡単だが、これが毎日となるとそう甘くない。しかも腹筋といっても、昔スポーツジムで気まぐれにやる腹筋とは違う。歩ける可能性を一ミリでもこちらへ引き寄せるための腹筋である。雑にやっても意味がない。雑にやれば、身体は容赦なく結果で返してくる。午前四十分、午後四十分。それに加えて立ち上がり訓練。車椅子から、片足だけで立つ。前の手すりを両手で握っていても、上半身の重みと、残った足にかかる全責任はごまかせない。立って、座って、それを二十二回。三セット。途中の一分休憩が、まるで砂漠のなかの井戸のように思える。
一年前、八十八キロあった体重が、いまは五十三キロになった。数字だけ見れば、人生のどこかで大きく削られたような減り方である。けれど鏡の前に立つと、ただ小さくなったのではないことがわかる。余計な肉が落ち、代わりに筋肉が輪郭をつくっている。以前の私は、どこか身体に甘えながら生きていたのかもしれない。重さがあっても、それを重さとして自覚せず、身体はいつまでも自分に付き従ってくれるものだと思っていた。今の私は違う。身体は黙って従ってくれるものではない。説得し、鍛え、いたわり、時に叱りつける相手になった。
リハビリの先生は二人いて、どちらも同じ草野球チームの投手だという。その事実を聞いたとき、私は少し笑った。どうりで容赦がないわけだ、と思ったのである。さらに、二人の休みの日に代わってくれる別の療法士のなかに、三人目の同じチームの投手までいた。投手というのは、相手を見て球を投げる職業だ。こちらの癖や弱さを観察し、どこへ投げ込めば効くかを知っている。その彼らが私の身体を相手にしているのだから、楽なはずがない。それでも私は、彼らの厳しさの奥に、どこかスポーツマンらしい真っ直ぐさを感じていた。甘やかさないこともまた、期待の一種なのだろう。
昼過ぎ、リハビリの合間に病棟へ戻ると、時間の流れが急に粘り気を増す。病院の午後は長い。外で働いていた頃の午後は、電話や客や移動に刻まれて、いつの間にか過ぎていった。しかし病院の午後は違う。やることがある日は時間が早いが、何もないと一時間が妙に厚い。窓の外の空を見て、雲の形が変わるのをぼんやり追っているだけで、ずいぶん時間が経ったような気がするのに、時計を見るとまだ十分しか経っていないこともある。時間とは中身のことなのだと、病院では嫌でも思い知らされる。
私が転院を決めたのは、伊勢原の病院にいた頃だった。ケアマネージャーから、七沢のリハビリ病院にあたってみるがどうするかと訊かれ、一晩だけ時間をもらった。私はその夜、病院の情報を熱心に調べた。コンビニがある、ATMがある、床屋まである。病院にそこまで揃っているのなら、きっと快適だろう、ここならやっていける、と思った。断る理由はなかった。翌日には承諾した。すると話は電光石火に進み、翌週月曜日にはもう転院である。人生の大きな転機というものは、案外、拍子抜けするほど事務的な速度で決まる。だが、到着してみれば様子が違った。あれ、コンビニは。ATMは。床屋は。私は車椅子の上で、ほとんど狐につままれたような気分になった。あとでわかったのだが、私が調べていたのは別の病院だったのである。七沢には似た名の病院が二つあり、私が胸を躍らせて見ていた設備の整ったほうではなく、実際に入ったのはもっと古い、昭和の匂いを残した病院だった。これにはさすがに笑うしかなかった。自分の人生の大事な転院先を、私は病院名の似姿だけで取り違えていたのである。だが、人間というものは、いざ入ってしまえば、そこが自分の持ち場になる。豪華さを想像していたぶん最初は落差もあったが、日が経つにつれ、私はこの古びた病院の手触りにも慣れていった。慣れというのは時に諦めに似ているが、諦めとは少し違う。そこにしかない空気の重さを身体が覚えていく、ということである。
この病院は規律が厳しい。購買がない。面会時間は十分。しかも一階ロビーのみで、事務室から見える位置で行われる。伊勢原の病院では建前と実際のあいだに人情の余白があったが、ここにはそれが少ない。老人ホームなども多く経営する大きな法人らしいから、管理の合理性が隅々まで行き届いているのだろう。けれど合理性は、しばしば人間のだらしない温かさを切り落とす。家族が荷物だけを事務室に預け、そのまま短く帰っていく姿を見るたび、面会とは何だろうと思う。会うことそのものより、会うための条件が先に立ってしまう場所では、言葉もまた痩せていく。消灯は午後九時で、通路まで暗くなる。古い建物特有の、妙に細長い廊下がある。両側に病室が並び、中央にナースステーションと食堂兼休憩室、小さなエレベーターが二基。夜になると、その廊下は昼間より長く見える。光が落ちると、建物は急に歳を取る。昼間はただ古いだけだった壁や手すりが、夜には時間そのもののように見えてくる。私は六人部屋だから、消灯後に病室で電話に出ることはできない。廊下で話すにもはばかられる。だから店の最終受付は二十一時にしている。外の人から見れば、たかが一時間二時間の違いと思うかもしれない。だが病院暮らしでは、そのわずかなずれがそのまま生活の境界線になる。
さらに困るのは、この病院が山の中腹だか麓だか判然としない場所にぽつんとあることだった。近くにコンビニがない。支払いもままならない。私のキャッシュカードは生体認証つきで、コンビニATMでは使えない。結局、病院の車椅子対応の車で本厚木駅前の銀行まで連れて行ってもらい、そのついでに携帯料金の支払いを済ませるしかない月もある。もし支払いが数日遅れれば、そのあいだ携帯は止まる。今の時代、携帯が止まるというのは、ただ不便という以上に、社会から少し外へ押し出される感じがする。だがそんな不便さまで含めて、私はいま、自分の生活を生き直しているのだとも思う。
病院にいると、自分の世界が極端に狭くなる日がある。今日見たものが、天井、カーテン、廊下、食堂、訓練室、それだけだったという日もある。けれど不思議なことに、世界が狭くなると、そのぶん細部が大きくなる。看護師が点滴台を押してくる音、誰かの咳払い、夕方の西日が床のワックスに反射する具合、配膳車の金属音、夜中に遠くで鳴るナースコール。以前なら背景でしかなかったものが、いまは一つずつ輪郭を持つ。私はそれらに囲まれながら、自分が生きているという事実もまた、こういう小さな音と光の集積なのだと思う。
そう考えると、七沢祭の数時間は、病院生活のただなかにひらいた異質な小窓だった。地下食堂前という、ごく限られた空間。派手な山車もなければ、通りを埋める人波もない。けれどそこには、ふだんは訓練する側、世話をする側である人たちが、患者を楽しませる側へまわるという、小さな転換があった。人は役割から完全には逃れられないが、ほんのひととき、その役割をゆるめるだけで、景色は驚くほど変わる。私は祭りの会場で、患者ではなく、客としてそこにいた。足を失った男ではなく、焼きそばを前に少し機嫌のよくなった一人の人間として、そこにいた。そのことが、ただ嬉しかった。嬉しい、という言葉は時に浅く聞こえる。だが、深い苦しみのあとに訪れる嬉しさは、案外この言葉でしか言い表せない。大仰な感動ではない。救済でも悟りでもない。ただ、ああ、まだこういう気持ちになれるのだな、という確認である。私は祭りの熱気のなかで、自分の人生がまだ完全に病室へ回収されたわけではないのだと知った。
片足を失ってからの毎日は、不自由の一覧表になりがちだ。傷は治りが遅い。義足は間に合うかわからない。面会は短い。電話の時間は限られる。買い物にも行けない。支払いにも苦労する。そう並べてしまえば、たしかにその通りである。だが人間は、不自由だけで出来ているわけではない。たこ焼きの丸さに和み、わたあめの白さに目を細め、ゼロコーラの泡で喉の奥が少しだけ冴える、そのようなささいな感覚にも支えられている。人生を立て直すというのは、必ずしも大きな志を掲げることではないのだろう。こういう小さな嬉しさを、もう一度自分の内側に住まわせることなのかもしれない。
地下食堂前に、秋はたしかに来ていた。病院の地下という、日の当たりにくい場所にさえ、季節はちゃんと降りてくる。誰かが焼く焼きそばの匂いになって、誰かが差し出す紙皿のぬくもりになって、誰かの笑い声の軽さになって。私はその場にいて、片足を失ったことも、傷がまだ完全には閉じていないことも、退院への焦りも、何一つ消えたわけではなかった。けれど、それらを抱えたままでも人は祭りに行けるし、うれしいと思えるし、秋の灯りを見つけることができる。
たぶん生きるというのは、そういうことなのだ。何かを完全に取り戻すことではなく、欠けたままでも、薄暗い地下食堂前のような場所で、ふと灯るものを見失わないこと。私はあの日、病院の祭りで焼きそばを食べながら、ようやく少しだけ、自分のこれからを信じてもいいのかもしれないと思った。大きな未来ではない。歩けるかどうかもまだわからない、退院後の生活も見えない、そういう曖昧な先である。それでも、人のぬくもりがたしかにあって、季節がちゃんと巡ってきて、こちらもそれを感じ取れるうちは、まだ生きる側にいるのだと思えた。地下食堂前の、あの小さな秋灯りは、私にそう教えてくれたのである。
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