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創戯旅団 生存の記録-SM奇譚 第16夜-潮目に棲む灯

店というものは、つまるところ、生きものなのだと思う。看板の塗装や窓硝子の曇り具合、床板の軋みや、雨の日にだけ仄かに立ちのぼる黴の匂い、それらはすべて皮膚や爪のようなものでしかない。本当の意味で店を店たらしめているのは、そこを出入りする人々の気配であり、声の高低であり、黙るときの沈黙の深さであり、笑うときの歯の見え方である。人が入れ替わるたび、店の血の巡りは変わる。空気の色まで変わる。晴れた日の昼下がりに差し込む光でさえ、誰がそこに立っているかによって、祝福にもなれば、検死台の照明にもなる。私は長いこと、その生きものの飼育係のようなことをしてきた。飼い馴らしているつもりはない。そんな大層な技量は私にはない。ただ、今にも衰弱しそうな獣の肋骨のあいだに手を差し込み、脈がまだ打っているかを確かめる夜をいくつも越えてきただけだ。経営と言えば体裁はいいが、実際にはもっと泥臭く、もっと祈祷に近い。帳簿をつける指先で人の機嫌を測り、電話口の沈黙の長さで予兆を嗅ぎ分け、雑談に紛れた小さな棘を拾っては、手のひらの上で転がし、その棘がただの木屑なのか、それともじわじわ膿む種類のものなのかを見分ける。そういう仕事ばかりしていると、人は次第に、季節を暦ではなく気配で読むようになる。春一番より先に、崩れる前の壁の音がわかるようになる。

ここしばらく、私の書くものを読み続けている人たちのあいだに、かすかな戸惑いのようなものが生じているのを感じていた。あれ、とでも言いたげな目つきで、こちらの筆先の向きを見ている。以前の時期には、意図して避けていた水脈に、私が少しずつ鍬を入れはじめたからだろう。まだそれは土の表面に浮く程度の湿り気でしかなく、知らぬ者には見過ごされるほどの変化だったが、長く読んでいる人間の勘は案外鋭い。彼らは、川の流れが変わる前に川底の石の向きが変わることを知っている。文章というものは、こちらが秘密にしているつもりの地殻変動を、ときにこちらより先に読者へ伝えてしまう。私はそれを恐ろしくもあり、少し愛おしくも感じる。答えを急いで言葉にしてしまえば、まだ殻を破っていないものまで死ぬ。そう思うから、私は今は多くを語らない。変化には、名づけるには早すぎる時期がある。芽を芽と呼んだ瞬間に、誰かがそれを摘んでしまうこともあるからだ。だが、変わりつつあることだけは確かだった。新しく遊びに来る客たちも、これからこの店の時間のなかへ身体を預けることになる女たちも、その変化に巻き込まれる側であり、同時に変化そのものを形づくる側でもある。海岸に打ち寄せる波は、遠くの沖で生まれたものだが、浜辺の砂の角度を決めるのは、最後にそこへ届く一打のほうだ。店も同じだ。新しくやって来る誰かが、一つの時代の輪郭を決めてしまうことがある。

第二の季節の終わりが、古い障子紙のように白く脆くなりはじめていた頃、一人の若い女が入ってきた。ここでは仮に、彼女を美麗と呼んでおく。人には、ときどき名が先に立ち現れる者がいる。実際の名前とは無関係に、その人間の歩き方や目の色や、言葉を口から出すまでの間合いが、もう別の名を呼んでいることがある。彼女はそういう種類の女だった。若く、輪郭が整い、性格にも刺々しさが少なく、よほど運の悪い転び方をしない限り、人に好かれる素地を持っていた。しかも、役割の幅が広かった。ひとつの型に収まるのではなく、複数の場所で呼吸できる器用さがある。店の側から見れば、こういう人材は一種の多機能な鍵である。一本でいくつもの扉が開く。私は店にいる女たちを見るとき、あまり夢見がちな見方をしない。残酷だと思われても、仕方がない。花の匂いよりも、花瓶の底に溜まる水の濁りを見る癖がついている。魅力があるかどうかだけではなく、それが持続するか、融通が利くか、他の歯車と噛み合うか、そういう構造のほうを先に考える。女王様の役しかできない者を低く見積もるのは、その優劣を裁いているのではなく、ただ現実の地面の傾きを計算しているにすぎない。そういう意味で、美麗は期待の持てる存在だった。年の始めに引いた御籤に、大吉の文字を見つけたときの、あの根拠のない追い風に似た感覚が、彼女の入店にはあった。

客の評判も悪くなかった。新しく入ってきた者が、すぐに輪のなかへ完全に溶け込むことなど滅多にないが、それでも彼女は合格点を軽々と超えていた。ところが、運というものはしばしば、順風を見せておいてから、不意に海峡へ船を吸い込む。ほどなくして、彼女は店を去った。去ったというより、霧のなかへ沈んだ、というほうが近い。揉めたわけでもない。罵声を浴びせた記憶もない。何かが決定的に壊れた手応えもない。ただある日、糸が切れるように連絡が途絶え、こちらの声だけが空中にぶら下がった。店では人が辞める。そんなことは珍しくも何ともない。けれど、辞め方には、木の葉が自分の重みで落ちるような自然なものと、誰かに根元をひねられて折れるような不自然なものがある。美麗の去り方は、どう考えても後者だった。その時、私の胸のなかでは、もうひとつの古い時計が音を立てていた。ああ、またか、という音だった。私は何度か似た匂いを嗅いでいた。組織には、ときどき一人、冬を好む人間がいる。花が咲くのを見るくらいなら、庭ごと凍ってしまえとどこかで願っているような人間だ。表向きは同じ屋根の下にいて、同じ仲間の顔をしているのに、実際には誰かの芽吹きを内心で歓迎していない。若い者が伸びれば、その蔓に指を絡めてさりげなく逆方向へ引く。まだ道のわからない新人の耳元で、出口の場所ばかりを教える。私は、そういう手つきを何度か見ていた。直接その瞬間を目にしたわけではなくとも、あとから複数の証言を並べれば、同じ癖を持つ指の跡が浮き上がる。泥の上に残った足跡のように、悪意はしばしば形を持つ。

それから大して時間も経たぬ初夏のある日、美麗が戻りたいと連絡してきた。私は断らなかった。怒っていなかったし、怒る理由もなかった。むしろ私は、ああ、これで答え合わせができる、と思った。人が一度去って、それでも戻ってくるとき、その足には外で踏んだ泥がついている。何に躓いたのか、どんな風に風向きが変わったのか、その泥が教えてくれる。話を聞けば、美麗は掛け持ち先の仕事との兼ね合いで、こちらへ一定の頻度で出ることが難しくなっていたらしい。悩みをこぼした相手は、店にいた一人の先輩格だった。するとその女は、引き止めるどころか、まるで煙草の火の消し方でも教えるような軽さで、「黙っていなくなる方法」を説明したという。私はその話を聞いたとき、腹の底で古い鉛が熱を持つのを感じた。仲間とは何だろう、と私はよく考える。仲間という言葉は便利すぎて、気を抜くと、何にでも貼れる安いラベルになる。だが本当なら、悩みを打ち明けられた人間が最初にするべきことは、出口の案内ではなく、しばらくその場にとどまる方法を一緒に考えることではないのか。出勤を減らす、調整する、少し休む、運営に相談を繋ぐ。そうした折衷の橋は、いくらでも架けられたはずだ。にもかかわらず、その女は退路だけを磨き上げ、美麗の足元へ差し出した。助言の姿をした切断だった。親切の衣を着せた悪意だった。人は、露骨な敵意よりも、善意に似せた悪意のほうに深く傷つけられる。なぜなら、それは最初、薬に見えるからだ。新人はまだ、瓶のラベルだけでは中身の毒を見抜けない。店という森へ入ったばかりの者にとって、先に歩いている人間の声はそれだけで地図になる。だからこそ、地図を持つ者には責任がある。崖へ続く道を「近道だよ」と言ってしまえば、落ちるのは教えた側ではなく、信じた側なのだ。

私が曖昧にしか覚えていないのは、同じような話を、既に何人かから聞いていたせいでもある。誰にどの言葉を返したのか、記憶の抽斗が少しずつ入れ替わってしまっている。ただ、どこかの誰かに、いや、おそらく複数の誰かに、私はこう言ったに違いない。もし本当に店を去るべき理由があるなら、まず自分が先に立ってその去り方を見せるべきだろう、と。新人の背中にだけ退路を押しつけ、自分はぬくぬくと同じ場所に居座り続けるのは、指南ではなく卑怯だ。井戸の水がまずいと言いながら、自分だけは夜中にこっそりその井戸水を飲みに来るようなものだ。そんな姿勢を、私はどうしても信用できない。事情をつなぎ合わせていくと、やはり私の予感は外れていなかった。問題の核はひとつだった。腐った果実は、箱のなかで静かにほかの果実を傷める。ひとつだからと見逃しておくと、やがて甘い匂いの裏側で腐敗は広がる。もっとも、ここで誰もが思うだろう。なぜそれをただちに切り捨てないのか、と。だが、現実というものはしばしば、道徳の定規だけでは測れない。ちょうどその頃、店そのものが大きな岐路に立っていた。終わるのか、組み替わるのか、看板を下ろすのか、骨格だけ残して中身を入れ替えるのか。そうした大きな潮のうねりの只中で、一人を切ることの意味は、単純な勧善懲悪では済まなくなる。自然消滅が見えている火種に、いま水をぶちまけることが得策かどうか。売上の回収、残り時間、他の者への影響、それらを同時に計算しなければならなかった。経営者の判断は、ときどき、誰からも美しく見えない。正しさと最善が一致しない場面がある。私はその不格好さを知っている。知っていて、なお選ばなければならなかった。切り捨てることで生じる乱れと、時間切れによって自然に消える流れとを秤にかけたとき、私は後者に賭けた。潔く見えないのは承知している。だが店を守るとは、英雄的な断罪ばかりではない。時には、泥を踏んだまま朝まで持ちこたえることでもある。正論は剣のように美しいが、剣では繕えない裂け目もあるのだ。

第三の季節に入ると、美麗にはまた別の難しさが待っていた。それは外からの悪意というより、もっと内側でじわじわ広がる、名づけにくい種類の困難だった。仕事とは、教わった通りに動くだけでは、ある地点から先へ進めなくなる。誰かの型を借りるだけでは越えられない関所がある。私はそれを、ゼロから一を産む苦しみ、と勝手に呼んでいる。空っぽの机に向かい、自分で最初の一本線を引く苦しみ。誰もまだ踏んでいない雪原へ、自分の足跡を第一歩として刻む恐ろしさ。ここで多くの人は、自分の向き不向きを誤解する。できないのではなく、ただ、まだ自分の道具を自分の手に馴染ませていないだけなのに。店の運営も似たようなものだ。常に何かしらの分岐があり、そのたび私は五本くらいの未来を同時に思い描く。けれど、そのどれにも「正解」と書かれた札は立っていない。どちらへ進んでも何かは壊れ、何かは失われる。大切なのは、何を壊し、何を残すかを見誤らないことだ。世の中には、失敗しないように生きる人間がいる。だが、私の置かれてきた場所では、失敗しないこと自体が最初から不可能だった。ならば、どの失敗なら次へ繋がるかを選ぶしかない。壁を壊しながら進む、というのは比喩ではなく、本当にそういう感じなのだ。しかも困ったことに、その状況に平然と立ち向かおうとする人間はそう多くない。大半は逃げる。賢明だと思う。私だって、できることなら逃げたかった。それでも逃げなかったのは、つまるところ私の性質が少しおかしいからだろう。伊達と酔狂、という言葉の中間に、私の骨格はある。まともな人間が眉をひそめるような修羅場のなかで、私はなぜか呼吸がしやすくなる。たぶん人生そのものが、最初から少し変態じみていたのだ。普通の道に収まるつもりで歩き出したことが一度もない。だから、新人たちにもいつか、こういう勝ち方があるのだと知ってほしいと思ってしまう。誰かの完成された舗装路を歩くのではなく、自分の足で藪を踏み分けた先にしか見えない景色がある。そこへ辿り着いた人間だけが手にする称号がある。周囲から理解されない代わりに、自分だけは自分の歩幅を誇れるようになる、そういう種類の勝利が。

美麗は、その難所に対して、決して派手ではないが、きちんと向き合っていた。私はそういう「きちんと」に弱い。才能は光る。だが、律儀さは灯る。光は一瞬で人目を奪うが、灯は長い夜を越えさせる。彼女は見舞いにも来たし、こちらが頼んだ細かな役目にも、嫌な顔ひとつせず応じた。そういう所作の積み重ねが、人となりを作る。人格というものは、声高な理念ではなく、案外、頼まれた荷物をきちんと届ける手つきに宿る。人が見ていない場所での振る舞いに、その人の本体は滲む。店がそんな彼女を見捨てることはない、と私は思った。見捨てないとは、ただ甘くすることではない。まだその人の中に燃え残りがあるなら、風を送る役目を放棄しない、ということだ。同じ頃、別の新人もいた。真奈、とここでは呼んでおこう。彼女は美麗とはまた違った意味で、複数の引き出しを持つ女だった。ひとつの場面にだけ強いのではなく、場面が変わっても立ち方を変えられる。こういう人材は一見すると強い。だが、引き出しが多いということは、どの抽斗をどの時機に開けるかで迷いやすい、ということでもある。やがて彼女は長い休みに入った。以前なら、そういう休止は、そのまま存在が薄れていく前触れでしかなかったかもしれない。しかし第三の季節に入ってから、私はその部分も変えようとしていた。在籍の有無だけで人を測らない。いまどこにいて、何に躓き、どこで息を継いでいるのかまで含めて、その人の現状として受け止める。書きものの中で近況を紹介し続けるのも、その変化の一部だった。人となりを見せることは、危うさも伴う。輪郭が見えるということは、好き嫌いの判断材料も増えるということだからだ。それでも私は、視える化には武器になる人がいると考えていた。謎のまま強い人もいる。沈黙が鎧になる人もいる。だが逆に、自分がどんな温度の人間かを知ってもらうことで、はじめて客との距離が縮まる人もいる。勝負の仕方はひとつである必要がない。第二の季節には、ある意味で全員が同じ戦場に立たされていた。けれど、第三の季節では、戦場そのものを複数に増やせるかもしれない。剣が得意な者もいれば、弓のほうが向く者もいる。同じ敵を倒すにも、別々の武器があっていい。

私は今、思いついた戦略を、その都度文章に書き留めている。何部作になるのか、自分でもわからない。書きながら見えてくることが多すぎるからだ。昔書いた「律儀な新人」という一編から、すでに一年七か月が過ぎた。時間とは不思議な鑑定士である。その瞬間には希望に見えていたものを、後から別の角度で照らし、「それは本当に宝石だったか」と静かに問い返してくる。結局のところ、美麗は主力として完全に噛み合うところまではいかなかった。現在も籍はある。けれど中心として残るには難しいだろう、という見立てを私は持っている。冷たいようだが、これは失望ではなく、観察の結果だ。ただ、そこには反省もある。彼女が悪い、店が悪い、といった単純な話ではない。少し加入が早すぎたのだと思う。流れというものには、個人の努力だけではどうにもならない潮位がある。満ちていない海に舟を出せば、どれほど良い船でも腹を擦る。逆に、潮が来てからなら、さほど頑丈でない舟でも案外遠くまで行ける。彼女はまだ流れが定まりきる前に、その渦の中へ足を入れてしまった。だから波に乗り切れなかった。だが、だからといって終わりではない。第三の季節の特徴は、ここから大逆転が起こりうることだと、私は本気で思っている。落ちこぼれそうになっている者を、どこまで救えるか。それもまた、いまの私の仕事なのだ。

今年に入ってから、私の周囲には新しい知恵の流れが生まれている。以前なら、私の頭の中だけでぐるぐる回っていた戦略の火種を、いまは別の角度から照らしてくれる存在がある。対話を重ねるたび、「なるほど、ここを直せば景色が変わるのか」と膝を打つことが増えた。私は第一の季節、第二の季節を、運営側として苦しみ抜いてきた。だからこそ、いま浮かび上がってくる修正点の多くに、痛いほど覚えがある。ああ、あの時にこれが見えていれば、と思う箇所がいくつもある。世の中には、うまく回っていない店や、そこで苦しんでいる女たちが、きっとまだたくさんいるだろう。努力が足りないのではなく、設計が古いだけかもしれない。才能がないのではなく、接続の仕方が間違っているだけかもしれない。土が合わないだけで枯れる花は多い。水のやり方を間違えられて黙ってしまう声も多い。私は、それを才能の欠如として片づけたくない。もちろん、どうしても埋まらない実力差というものはある。どれほど工夫しても、新しい流れに乗れない場合だってある。だが、その「乗れなさ」の中には、救済可能なものが少なからず混じっている。そこを見捨てずに拾い上げることができるかどうか。たぶん、それが第三の季節の真価なのだろう。勝てる者を勝たせるだけなら、誰でも少しはできる。本当に難しいのは、勝ちきれない者を、負けたまま終わらせない仕組みを作ることだ。店は今日も生きている。うまくいかない者のため息も、うまくいっている者の慢心も、どちらも同じ天井の下に溜まっていく。私はその空気を入れ替えながら、まだ見ぬ新しい波を待っている。波は、来るとき、たいてい予告をしない。ある日突然、いつもの浜辺の形が変わっている。昨日まで足首までしか濡れなかった場所で、今日は膝まで浸かる。そんなふうにして時代は変わる。店の中の時代もまた、静かに、だが容赦なく変わる。

思えば、私が守りたかったのは、いつだって完成された城ではなかった。むしろ、壊れかけた橋のほうだった。向こう岸へ渡りたい人間がまだいるのに、橋脚だけが腐り、板が一枚ずつ抜け落ちていく、そういう危うい橋だ。私はそこで、大工でもなく英雄でもなく、ただ夜通し釘を打ち続ける名もない工夫でいたかった。誰が先に渡るのか、渡った先で何を見るのか、その保証まではできない。ただ、渡ろうとする者がいるなら、落ちない程度には繋いでおきたい。美麗のような者、真奈のような者、まだ名前も知らない新しい者たち、その誰かが足を乗せるかもしれないのだから。人は店を選び、店もまた人を選ぶ。しかし本当は、そのどちらでもないのかもしれない。潮が、たまたまある舟をある浜へ運んでくるだけなのかもしれない。そこで上手く着岸できるか、船底を打ちつけて壊れるか、それは船のせいばかりでも、浜のせいばかりでもない。だから私は、誰かが上手くはまらなかったとき、簡単に敗北の名を与えたくない。早すぎたのかもしれない。遅すぎたのかもしれない。波長が半拍ずれていただけかもしれない。そのずれを埋める仕事が、まだ残っているのなら、私はもうしばらくこの浜に立っていようと思う。新しい波がどんな化学反応を起こすのか、今はまだわからない。だが、わからないということは、未来がまだ死んでいないということだ。すべてが計算通りにしか進まない場所では、驚きも再生も生まれない。私たちは不完全なまま、未熟なまま、何度も判断を誤りながら、それでも歩みを止めずにいる。その不格好さの中にしか、たぶん本当の変化は宿らない。温和な気持ちで見守ろう、と私はよく言う。けれどその温和さは、何もかもを見逃す鈍さではない。むしろ逆だ。傷も醜さも悪意も、ちゃんと見たうえで、それでもなお次の芽に水をやる覚悟のことだ。

夜が更けると、店の照明は少しだけ色を変える。人の顔の陰影が深くなり、言葉の輪郭が昼よりやわらかくなる。そんな時間、私はときどき思う。ここにいる者たちは皆、それぞれの壊れ方を抱えながら、どうにかこうにか灯を持ち寄っているのだと。強い灯もある。弱い灯もある。風が吹けばすぐ消えそうなものもある。けれど、灯であることに変わりはない。店とは、その寄せ集めの明滅で出来ている。誰か一人の太陽だけでは、夜は越せない。小さな灯がいくつもあるから、ようやく朝まで辿り着ける。だから私は、律儀な者を忘れない。華やかに勝てなかったとしても、途中でうまく波に乗れなかったとしても、戻ってきた者、踏みとどまった者、見舞いに顔を出した者、きちんと約束を守った者、そのような人間が残す熱を、私は信じている。世の中はしばしば結果だけで人を量るが、店という生きものの内臓に近い場所では、結果より先に、熱の種類がものを言う。長く残るのは、打ち上げ花火の眩しさではなく、炭火のような執拗な温度だ。そして私は、今日もまた、まだ名づけきれない変化の前に立っている。足もとでは潮が満ち引きし、遠くでは誰かの悪意がまだ石のように沈んでいるかもしれない。それでも、新しい人々はやって来る。新しい灯もまた、運ばれてくる。そのとき、店がそれを迎え入れるだけの器でいられるかどうか。壊れかけた橋を、渡れる橋として保ち続けられるかどうか。結局のところ、私が問われているのは、その一点なのだろう。

海は黙っている。店もまた、表向きは黙っている。だが、黙っているものほど、内部では激しく動いている。潮の下では砂が移動し、砂の下では貝が死に、死んだ貝の上にまた新しい層が積もっていく。共同体も同じだ。表面だけ見ていては何もわからない。私がこうして書くのは、その見えない地層の音を、自分自身が聞き逃さないためでもある。文字にして初めて、自分がどこで躓き、どこで学び、どこでまだ愚かなままなのかがわかる。もしこの先、私たちの試みを見て、ああ、そういう手があったのか、そうやって流れを変えることもできるのか、と感じる者がいるなら、その驚きこそが次の波の最初のしぶきなのだと思う。時代は、大きな宣言によってではなく、小さな納得の連鎖によって変わっていく。なるほど、という微かな声が、やがて潮騒のように数を増す。その時、店はもう以前の店ではないだろう。そこにいる私もまた、以前の私ではないはずだ。そうやって人は、店は、時代は、少しずつ別のものになっていく。壊れながら、継ぎ足されながら、見捨てず、見誤りながら、それでもなお先へ進む。私はその不細工な前進を、美しいと思う。完成したものの静けさより、まだ途中にあるものの息遣いのほうを、私は信じたい。美麗のことも、真奈のことも、まだ来ぬ誰かのことも、その途中として見つめていたい。

夜の終わりに、灯はたいてい弱くなる。けれど弱くなることと、消えることは違う。潮目に棲む灯は、風に揺れながら、消えそうで消えない。そのしぶとさだけが、次の朝を呼ぶ。私たちの店もまた、そういう灯のひとつであれたらと思う。華々しく海を照らす灯台ではなくていい。ただ、暗い水際で行き場を失いかけた舟が、あそこにまだ微かに火がある、と気づける程度の灯でいい。その微かな火を絶やさぬことこそ、いまの私にできる、ほとんど唯一の誠実なのだと思っている。


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