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創戯旅団 生存の記録-SM奇譚 第10夜-女王の鏡

店の事務所の裏口には、いつも少し湿った匂いがこもっていた。海が近いわけでもないのに、夜更けになると古いビルの壁面が水気を吸い、どこからか塩を溶かしたような風が流れ込んでくる。私はその匂いを嗅ぐたび、一日の終わりではなく、むしろ始まりを思った。この狭い階段を、今夜もまた、誰かが別の誰かになろうとして上がってくるのだと。

十四年以上、私はSMクラブの女たちと働いてきた。数字にしてしまえば簡単だが、その数字の中身は、決して簡単ではない。M女よりも、少なく見積もって三十倍以上の女王様と組んできた。入っては去り、残る者は残り、残れない者は、いくつもの言い訳と、いくつかの傷だけを残して消えていった。これだけ長く見ていると、技術論や営業論を越えて、最後に一つの問いだけが残る。女王様とは何か、ではない。どうすれば、女王様でいられるのか、という問いだ。

女王様の仕事は簡単だ、と言えば簡単なのだ。

黒い衣装を身につける。顎を少し上げる。背筋を伸ばす。視線を一段高いところに置く。相手に命令し、ためらいなく沈黙を使う。表面だけなら、それで成立する。少なくとも、成立しているようには見える。

しかし難しい、と言えば、これほど難しい仕事もない。

人を見下ろすだけなら猿でもできる。人を怖がらせるだけなら酔っ払いでもできる。嫌悪を剥き出しにするだけなら、子どもですらできる。だが、相手の欲望を受け止め、その欲望の輪郭を壊さず、しかも自分まで飲み込まれない位置に立つことは、そう簡単ではない。近すぎても駄目で、遠すぎても駄目なのだ。相手に希望を見せながら、希望の奴隷にならない。その一歩の距離感に、実はこの仕事のすべてがある。

オキニの女王様が見つからない、と客はよく言った。その言い方は軽い。だが、その軽さの奥には、案外切実なものがある。世間は、Mの男を奇妙な者として眺めたがる。しかし長く見ていると、彼らが本当に探しているのは倒錯それ自体ではなく、自分の中の説明のつかない傾きに、名を与えてくれる誰かだとわかってくる。痛みでもない。羞恥でもない。服従ですらない。もっと曖昧で、もっと不器用な、自分の輪郭のずれを、黙って受け止めてくれる人物を探しているのだ。

だから、数は少ない。

Mだからといって、普通の風俗に興味がないわけではない。むしろ大半は、普通の店にも強い関心を持っている。こちらの世界にしか興味がない者など、思われているほど多くはない。私が昔、あるSM専門媒体の社長と話していたとき、風俗で遊ぶ客のうち、女王様を本当に必要とする者は十人に一人くらいではないかと言ったら、その人はいや十五人に一人じゃないかと笑った。そのくらいの少数なのだ。つまり、この世界の客は最初から希少で、その希少さを忘れた瞬間に、店も女王様も足元を見失う。

では、どんな女がこの仕事に辿り着くのか。

最も多いのは、他の風俗ではどうにも馴染めない女たちだった。キスをしたくない。体を触られたくない。口で奉仕することに強い抵抗がある。そういう拒否の総和が、なぜか女王様という職業の入口になっていることが多い。もちろん全員ではない。だが、現実として、かなり多い。彼女たちは、自分が主導権を持てる場所を探し、その結果としてこの仕事に来る。だが困ったことに、拒否から入った女は、しばしば相手に与えるより先に、自分を守ることに夢中になる。守ることが悪いわけではない。だが、守るだけでは客は戻らない。

次に多いのは、風俗的なことはできるが、相手を攻めることに快感を見出せない女だ。彼女たちは器用だ。笑えるし、会話もできる。営業も破綻しにくい。ただし、どこかで比較される。普通の風俗店のやわらかいサービスと、こちらの世界の濃い関係性との狭間で、どっちつかずになってしまう。一定の指名は取れても、長い時間の中で、客の心に「この人でなければ」という芯を残せない。

もちろん他にもいる。ボンテージの美しさに惹かれて入るコスプレ好きの女。本当にマゾの男に興奮するS気質の女。M女でありながら、役として女王様をこなせる女。入り口はそれぞれ違う。しかし現場で残るかどうかは、入口の種類では決まらない。最後は、人が人をどう扱うか、その一点に戻ってくる。

客が女王様を指名する理由も、よく見れば単純だ。顔や雰囲気が好みだから。プレイが気持ちよかったから。羞恥や調教の流れに無理がなく、嫌味がなかったから。あるいは、総合的なバランスがよく、人として信頼できたから。細かく言えばいくらでも枝分かれするが、結局はそのどれかだ。好意がなければ指名にならないし、好意だけでも長続きしない。そこに時間、会話、オプション、継続性が重なって、ようやく一人の女王様の実力が見えてくる。

理屈として説明すれば、多くの人は頷く。なるほど、そういうことか、と。しかし理屈の理解と実践の修正とは、まるで別物だ。プロ野球を見ていても、打てない理由を説明する解説者は多い。フォームの癖、配球の読み、踏み込みの甘さ。確かにその通りなのだろう。だが、説明できることと、実際に打てることのあいだには、深い川が流れている。この仕事も同じだ。頭ではわかる。だが、わかったその本人が、自分の癖を捨てられない。そこから先で、人はたいてい、自分を守るために理論を武器にし始める。

客のせい。店のせい。景気のせい。客層のせい。

それらは一部、事実でもある。だが事実であることと、有効であることは違う。言い訳は、正しいほど人を腐らせる。自分を守ってくれるからだ。磨くより、責めるほうが楽なのは、どんな世界でも同じである。

私がそう痛感したのは、Rという女を見てからだった。

Rは面接のときから姿勢のいい女だった。背が高く、肩が落ち着いていて、座っていても立っていても線が崩れなかった。黒い服が似合う女というのは、顔立ち以上に、案外、骨格と沈黙で決まる。彼女はその両方を持っていた。無駄に喋らず、こちらの目を見て、しかし媚びもしない。私はこの女は売れるだろうと思ったし、実際、最初の数か月はよく売れた。

Rの強みは、派手さではなかった。客の話を途中で切らないことだった。相手が何を求めているのか、自分の言葉で決めつける前に、ひと呼吸だけ待てる女だった。その「待ち」があるだけで、男は勝手に自分をさらし始める。人は、自分を雑に解釈されるのを嫌う。逆に、自分の中の言葉にならない部分にまで、少しだけ目を凝らしてくれる相手には弱い。Rはそれを本能的にやっていた。

だが、人は売れてから壊れる。

1年を過ぎた頃から、彼女の言葉に微かな棘が混じり始めた。露骨ではない。だが、客をひとつ低いところに置く癖が、少しずつ表に出てきた。好みではない客がつくと、不機嫌を完全には隠さなくなった。予約が伸びない日には、店の売り方に疑いを向けた。私は最初、その変化を疲労のせいだと思った。だが違った。疲労だけではない。彼女は、自分が正しいという感覚に寄りかかり始めていたのだ。

正しさは、人を伸ばすこともあるが、止めることもある。

Rは遅刻しなかった。接客を投げることもなかった。暴言も少なかった。表面上の問題は、ほとんど何もない。だが、指名はじわじわ減った。一度流れが変わると、数字は遅れて落ちてくる。私は営業後に彼女を呼び、更衣室の長椅子で向かい合った。衣装を脱いだ彼女は、ただの一人の疲れた女に戻っていた。

「最近、何が変わったと思う?」

私がそう訊くと、Rは少し考えてから言った。

「客層、じゃないですか」

私はその答えに、怒るより先に、ああ、と内心でため息をついた。そこへ行ってしまったか、と思ったのだ。

「それもゼロじゃない。でも、それだけじゃない」

「じゃあ何ですか?」

「Rさんは客を怖がらせて成立してるんじゃない。安心させて成立してたんだ」

彼女は何も言わなかった。沈黙は前からあった。だが以前の沈黙と違い、このときのそれは、相手を見るための沈黙ではなく、自分を閉じるための沈黙だった。

この仕事では、勘違いがしばしば才能の顔をして現れる。女王様なのだから高圧的で当然、気に入らない客を切って当然、自分の機嫌を最優先して当然。そういう空気は確かにあるし、時に店までがそれを持ち上げる。だが長く残る女は、そんなところにはいない。高慢ではなく、境界が明確なだけだ。冷酷ではなく、相手の求める痛みと、相手を壊す痛みの違いを知っているだけだ。強いというより、揺れないのである。そして揺れない人間は、えてして、よく聞く人間でもある。

Rはそこから少しずつ、店と反目するようになった。表立ってぶつかるわけではない。だが、小さな不満が澱のように溜まり、客への目線にも、こちらへの返事にも、それが滲んだ。私は何人もそういう女を見てきた。腕がないから終わるのではない。修正を拒んだから終わるのだ。自分を守るために、変わる余地を捨てる。その順序で、人は静かに落ちていく。

けれど、別の女もいた。

Kは、最初から地味だった。美人ではあるのだが、舞台映えする種類の華やかさではない。話も上手くないし、切れ味のある言葉を持っているわけでもない。面接のとき、彼女は私に「たぶん私はSではありません」と言った。ずいぶん正直な女だと思った。たいていの応募者は、自分を大きく見せようとして、聞いたこともない支配欲を語る。Kはそうではなかった。

「でも、学べるなら学びたいです」

彼女はそう言った。

こういう女は、ときどき化ける。

実際、Kは覚えが遅かった。立ち姿にも迫力が足りず、台詞回しも硬かった。ひとつ覚えたと思えば、ひとつ抜ける。最初の頃は、見ていてもどかしいほど不器用だった。だが彼女には、一つだけ、Rに欠けていたものがあった。訂正されることを、人格否定だと思わないことだった。

「今の言い方、嫌味が強すぎましたか」 「あの間は、もっと長いほうがよかったですか」 「最後にあの人が安心したのは、どうしてでしょう」

営業のあと、Kはそうやって何度も訊いてきた。訊ける人間は伸びる。自分の未熟を、恥ではなく材料として扱えるからだ。彼女は少しずつ、客の顔より先に、客の呼吸を見るようになった。言葉より先に、躊躇を見るようになった。そして何より、自分が主役ではない場面で、自分を過剰に演出しなくなった。

一年が過ぎる頃、Kの指名は静かに増えていた。爆発的ではない。だが確実だった。熱狂ではなく、習慣のように戻ってくる客がついた。会って、また会う。その単調な反復の中でしか育たない信頼が、彼女の周りにはできていった。ある晩、私は彼女に訊いた。

「何が変わったと思う?」

Kは少し考えてから答えた。

「お客さん、強く命令されたいんじゃなくて、雑に扱われたくないんだと思います」

私はその言葉を聞いたとき、ようやく少し報われた気がした。長く現場にいて、自分の中でだけくすぶっていた輪郭が、やっと他人の口から出てきた気がしたからだ。

女王様という仕事は、社会の外れにあるようでいて、妙に社会そのものに似ている。肩書だけでは人は従わない。金だけでも人は残らない。強さを誇示しても、継続は生まれない。最後にものを言うのは、結局、人が人をどう扱うかという、古びた、ありふれた問題である。謙虚さ、素直さ、人間性。そんな学校の標語のような言葉が、この猥雑な世界のいちばん深いところで、実は骨組みになっている。その事実を、私は不思議だと思いながら、同時に面白いとも思ってきた。

第二期、と私が勝手に呼んでいる時期があった。店のバック率を、できる限り上げた時期である。どうせやるなら徹底的にやろうと思った。給与条件だけなら、どこにも負けない店にしよう、と。その結果、実際に条件は業界でもかなり良くなった。並んでくる店はなかった。私はそれを、他店が駄目だからだとは思っていない。むしろ普通は並ばない。経営の基礎を知っていれば、そう簡単に真似できる話ではない。私が営業に対する執着を拗らせて、例外みたいな店を一時的に作ってしまっただけなのだ。

だが、その無茶は、宝くじのような当たりも連れてきた。今でも店に残ってくれているナンバーワンがいる。あれは、私の手柄ではない。人に恵まれたのだとしか言いようがない。店が続いてきた理由を、私自身の力に帰する気はまったくない。私はただ、良い客と、良い女たちに拾われてきただけだ。そう思うしかない場面が、この十四年には何度もあった。

しかし、恩恵の裏には、必ず反動があった。報酬を極限まで上げれば、当然、継続のハードルも上がる。期待も、消耗も、比例して大きくなる。長く走り切れた女はほんのわずかで、多くは一年半ほどで擦り切れた。体力の限界より先に、気力の限界が来る。高く評価されることは、同時に高く消費されることでもある。その当たり前を、私はあとから知った。今なら笑って言える。あんなやり方は、二度としないだろう、と。だが、その笑いの中には、当時の疲労の味がまだ少し残っている。

店と女王様は、しばしば敵になる。売れない理由を互いに押しつけ、理解したふりで見放し合う。そうなったとき、たいてい立て直しは難しい。だが本当は、敵になるより先に、同じ困難を見ていなければならないのだ。この仕事の難しさは、一人では越えられない。店が支え、女が学び、客が見極める。その三つが、わずかにでも噛み合ったときだけ、関係は続く。続く関係だけが、店を生かす。

深夜、最後の客を見送ったあと、私はフロアの灯りを半分だけ落とした。鏡の前に椅子が並んでいる。ついさっきまでそこにいた女たちの気配が、熱の抜けた空気に薄く残っていた。鏡とは奇妙なもので、正面から見れば姿を返すが、角度をずらせばただの冷たい板に過ぎない。女王様も同じなのだ、と私は思う。誰かの欲望を受けているときだけ、そこに像が立ち上がる。ひとりになれば、ただの人間だ。疲れ、迷い、怖がり、拗ね、欲しがる、どうしようもなく普通の人間だ。

だが、だからこそ、尊いのかもしれない。

完全な人間などどこにもいない。不完全なまま、他人の欲望を引き受け、引き受けきれず、学び、壊れ、また立つ。その反復の中でしか、職業は人を育てない。女王様であることの難しさとは、支配の難しさではなく、毎回、自分という不安定な器を持ち直す難しさなのだろう。相手を見下ろす前に、自分を見失わないこと。相手の歪みを受け止めながら、自分の歪みを言い訳にしないこと。それができる女だけが、衣装や台詞の向こう側へ行ける。

雨はいつの間にか止んでいた。裏口を開けると、ビルの隙間の空に、細い月が出ていた。満ちてもいなければ、欠け切ってもいない、途中の月だった。私はその形が好きだった。完成より、途中のもののほうが、人は自分を重ねやすい。RとKは今、どこで何をしているだろう。残る者も去る者も、それぞれの夜を生きている。そのすべてを、もう若い頃のように、私ひとりで正そうとは思わない。ただここが、誰かにとって学び直せる場所であればいいと願うだけだ。

女王様は、生まれつきの役柄ではないのだと思う。向き不向きはある。だが最後は、覚悟の形でしかない。相手の前に立つ覚悟。自分の未熟と向き合う覚悟。店と反目するのではなく、同じ困難の前に並ぶ覚悟。そういう覚悟を持った女だけが、やがて衣装や演技を越えて、本当にその名で呼ばれるようになる。

誰もいない階段を下りながら、私は小さく息を吐いた。十四年では足りなかったのかもしれないし、十四年もあれば充分だったのかもしれない。答えはまだ出ない。ただ一つだけ確かなのは、人を支配する仕事のいちばん深いところで、結局、人は人に仕えるようにしてしか成熟できないということだ。そのねじれた真実を、私はこの店で何度も見てきた。

潮の匂いはもうしなかった。代わりに、雨上がりの街の、少し青い匂いがした。夜は終わっていない。終わっていないからこそ、人は明日もまた別の顔を作りに来るのだろう。鏡の前に立ち、自分ではないものになろうとして、けれど最後には、自分の輪郭へと戻ってくる。その往復の果てにしか、ほんとうの女王は生まれない。


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