創戯旅団 戦歴の記録-SM奇譚 第41夜-不死の門番
海というものは、遠くから眺めればただ青く、平らで、何も隠していないように見える。だが、実際にはその肌の下に幾層もの流れが折り畳まれ、見えぬ渦が幾筋も走り、光の届かぬあたりでは、生き延びるという一点だけを掴みにしたものたちが、ひっそりと、しかし凄まじい執念をもって蠢いている。私は近ごろ、自分の営みを思うたびに、陸の商いではなく、そうした水の底の戦に似たものとして感じるようになった。沈んでいるのか、と人は言うだろう。水面より下にあるのではないか、息はできているのか、と。なるほど、その見立ては間違っていない。私はたしかに沈んでいた。胸のあたりまでではない、額まででもない、全身すっぽりと、時代という塩辛い水のなかに呑まれていた。だが、沈んでいることと、死んでいることとは違う。むしろ水底にいる者ほど、息の価値を知る。ひとつの泡がどれほど大切か、ひとつの浮上の機会がどれほど稀少かを、骨身にしみて知る。だからこそ、私はここしばらく、正面から海を割る泳ぎ方をやめていた。美しく息継ぎを見せることも、華やかな波頭を立てることもやめた。代わりに、見えないところで身体をたわめ、砂の陰に身を寄せ、敵の視線と潮の逆巻きをやり過ごしながら、ひどく卑近で、ひどく執拗なやり方で浮上の機会を窺っていた。誰がどう呼ぼうとかまわない。卑しいと言われれば、それでもよい。生き延びるための智慧は、敗残兵の膝にも宿る。むしろ追い詰められた者ほど、想像力の牙は鋭くなるのだ。私が守ろうとしているのは、一軒の家に似ていた。だが、家と呼ぶには少しばかり熱を持ちすぎていて、船と呼ぶにはあまりに地に足がついており、劇場と呼ぶには幕の裏に汗の匂いが濃すぎた。夜ごと違う顔を見せ、来る者の胸の奥にしまい込まれた願いを、恥と快楽のぎりぎりのあたりで掬い上げる、奇妙な生き物のような場所だった。私はその門番にすぎない。主人だと名乗るには畏れがあったし、将軍を気取るには器が足りなかった。せいぜい、錆びかけた鍵束を腰にさげ、雨の日も風の日も、誰かの出入りする戸口の脇に立っている番人である。けれど番人というものは、城主よりよほど長く、城の呼吸を知る。柱が軋む音ひとつで季節を当て、廊下に残った香の薄さで昨日の客の憂鬱を知る。そうして、建物が建物以上のもの(人の心を宿して膨らんだ一個の獣)であることを、誰よりも痛感する。
この獣は、何度も死にかけた。疫病めいた時代の長い影に喉を締められ、人の往来が絶え、賑わいという名の血が抜けていった。流行り病が去っても、去ったあとに残された乾いた世界は、以前よりむしろ冷酷だった。皆が笑い方を忘れたわけではない。むしろ、笑える者だけが上手に笑い、笑えない者は沈黙の底で石のように重くなっていった。私はその重みを、日毎、帳場の木目にまで染みこませながら眺めていた。理想を掲げることはできた。誠実であろうとすることもできた。だが、理想と誠実だけでは戸は開かない。灯りは油を喰い、床は手入れを要し、人は人の温度でしか戻ってこない。どれほど美しい看板を掲げても、現実は、匙一杯のぬくもりがなければ動かないのである。そこで私は、隠し立てをやめることにした。沈んでいるなら沈んでいると書こう、溺れかけているなら、その咳の音まで聞かせようと思った。商いの世界では、見せるべきでないものを包み隠し、傷を金粉で塗りつぶすことが作法とされることがある。だが私は、その作法に敗けたのだと思っている。口先ばかりが艶やかで、実際には誰の手も握っていない者たちの言葉は、いずれみな薄くなる。紙細工の鶴のように、ある朝ふと潰れてしまう。ならば私は、不格好なまま見せるほうを選ぶ。試行錯誤も、迷いも、転倒も、仮縫いの糸が外れてあらわになった裏地のように、隠さずに吊るしておく。覗き込む者はそこに、未完成という名の生々しい熱を見るだろう。恥ずべきは傷そのものではなく、傷がないふりをすることだ。誠実とは、磨き上げた鏡面ではない。曇っていても、こちらの顔がたしかに映る硝子のことだ。そう決めると、次に必要なのは人であった。どんな策も、ひとりで動かせる範囲には限りがある。船底に穴が空いたとき、たったひとりで汲み出せる水の量には限度がある。私は以前、急ぎすぎた。誰かを招き入れては、期待した形に育たぬことを焦り、まだ土のついた苗を早々と見切ってしまった。だが、根が張るには季節が要る。人が人としてその場所に馴染むには、こちらが差し出す忍耐もまた必要なのだと、遅まきながら悟った。新たな仲間は、兵数ではない。数えるべきは、同じ夜気のなかで息を整えられるかどうかである。華やかさよりも、戻って来られること。才気よりも、誠実に立ち続けられること。そのささやかで、けれど最も欠かせぬ資質を、私は今度こそ見落とすまいと胸に刻んだ。
働き方についても、私は発想を裏返さねばならなかった。古い時計の振り子のように、決まった日に決まった形でしか動けぬ仕組みは、もう潮に合わなくなっていた。人の暮らしは細く裂け、予定は各々の懐で別々にうねる。ならば、店が暦に人を合わせるのではなく、人の都合に店が身を寄せるべきだろう。客と働き手、その双方の時間がすれ違わぬように、店そのものが柔らかい関節を持つべきなのだ。待ち合わせのような商い。約束を調律する役目としての店。私はその新しい形を、まず自分の骨に覚え込ませなくてはならない。予定表ではなく、脈拍を読むように。固定ではなく、呼応として。制度ではなく、融通として。そのうえで、戻ってきてほしい人々がいた。かつてこの家の灯りの下で笑ってくれた者たち。うまく守りきれなかった時間を知りながら、それでもどこかでこちらを覚えていてくれる者たち。彼ら彼女らを、ふたたび戸口の前まで連れ戻さねばならない。同時に、まだ見ぬ客にも見つけてもらわなければならない。だが、そのための道筋はもう以前とは違う。大きな広場に店名を叫び続けるだけでは足りない。人と人がじかに手紙をやり取りするような細い通路を、こちらで持たねばならないのだ。私は、表通りの札だけに頼らず、自前の回廊を作りたいと思った。そこでは、来た者にだけわかる温度で迎え、覗きに来た者がもう一歩奥へ進みたくなるような密やかな特典を用意し、やがて互いの顔つきが読める距離まで縮めていく。流行りの機械仕掛けの伝言板であれ、瞬時に飛ぶ短い文であれ、用いるべきはその器ではなく、そこに流す血の通った言葉なのだ。私が何より恐れているのは、裏切りである。客は遊びに来るのではない、預けに来るのである。時間を、金を、そして名指ししがたい種類の期待を。その預かりものを雑に扱う店は、たとえ一夜だけ派手に光っても、いずれ真昼の湿った紙くずのように誰にも拾われなくなる。だから私は、この家に集う女たちにも厳しくあらねばならぬと考えている。勝手気儘の放埓を、自由と取り違えてはならない。客を欺くことは、家の壁を内側から剥がすのと同じだ。色香は必要だ。奔放さもまた魅力である。だが、それらは野放図であることの免罪符にはならない。相手の望みとこちらの資質が著しくねじれたまま出会えば、そこに生まれるのは耽美ではなく惨事である。私は惨事を減らしたい。完璧には防げまい。人と人が向き合う以上、予想の斜め上を行く不協和は必ず起こる。けれど、その大きさをできるだけ小さくするための知恵と目配りは、番人の務めとして手放せない。
安心感と安定感。商いにおいてこの二つほど地味で、この二つほど得難いものはない。刺激だけなら、一夜の火花で足りる。だが、火花は明日の帰路を照らしてはくれない。人が何度でも戻ろうと思うのは、胸騒ぎを抱えたままでも最後には手すりに触れられると知っている場所だけだ。私はこの家を、ただ淫らな夢を見せる場所にはしたくなかった。どれほど妖しい遊戯がそこで行われようと、底にはきちんとした床があること。笑いも、羞恥も、逸脱も、そのすべてを受け止める見えない骨組みがあること。それを証明するには言葉では足りず、日々の振る舞いで積み上げるしかない。転ぶ日もあるだろう。派手に顔から倒れる日もある。だが、その転び方まで含めて見せ、立ち上がるところまで共有するとき、初めて信用は物語になる。さて、家が生きものだとすれば、そこで交わされる遊戯もまた、季節のように変化しなければならない。私は新しい献立について考えつづけていた。ひとつの皿が評判を呼んだからといって、いつまでも同じ味だけを出していれば、やがて舌は眠る。眠った舌は、刺激の強さばかりを求めるようになり、ついには味わうことそのものを忘れる。だから私は、幾つもの新しい遊びのかたちを試したいと思う。固定した定番で店を回すのではなく、思わず心が動くような新味を見出しつつ、響かなかったものは潔く引っ込める。生まれては消え、残ったものだけが次の季節の骨になる。そうした流動そのものを、この家の性格にしたいのだ。それは働く者にとっても、よい緊張をもたらすだろう。同じ型をなぞるだけの接客は、いつか必ず魂を腐らせる。客ごとに呼吸が違い、求める暗がりの深さも違う以上、本来、応対というものは一つとして同じであってはならない。咄嗟の機転、相手の癖を読む観察、言葉を置く間の取り方、そのすべてが即興の楽曲であるべきだ。私はこの家を、誰もが機械のねじのように同じ動きを繰り返す場所にはしないつもりだ。むしろ、マニュアル化を許さぬよう絶えず水路を変え、各人が自分の感性を磨かざるをえない環境にしておきたい。ワンパターンを禁じられた現場でこそ、人は工夫し、自分の輪郭を知る。そこに生まれる接客は、ただの労務ではなく、半ば芸に近づく。
値のつけ方についても、私はずいぶん考えた。安ければ人が集まるという発想は、飢えた日の理屈としては魅力的だが、長くは持たない。安売りは、ときに自分の家の価値そのものを削る。貴いものまで、雑な籠に投げ込むことになる。一方で、高く掲げすぎれば、それはそれで傲慢という名の断崖になる。内容が伴わぬ高値は、客の羞恥心に塩を塗るだけだ。ゆえに必要なのは、昂ぶりと安心とを天秤にかけた、身の丈の価格である。安すぎず、高すぎず、払う者が「預けてよかった」と思える地点。そこを誤れば、どれほど理念を語ってもすべては虚飾になる。私はこの一点については、もはや迷うまいと思っている。誇りは値札に宿るのではない。値札に対してこちらがどれだけ責任を持てるかに宿るのだ。こうして全体を見渡すと、戦の布陣はすでに描けていた。問題は、いつ、どこに、どの手を落とすかである。戦略は天井裏にしまってある古地図のように、広げればもうそこにある。だが戦術は、天気と泥の匂いのなかで、その都度決めなければならない。私は自分を天才だと思ったことがない。賢臣の名を借りて策を弄ぶほどには、頭脳の華もない。ただ、おそらく少しばかり常軌を逸しているのだろうとは思う。まともな人間なら、とっくにこの場を離れていておかしくない。傷つき、すり減り、追い詰められながら、なお新たな発想が湧いてくるのは、たしかに尋常の精神ではないのかもしれない。だが、もし私の異様さが唯一の資本であるなら、それを使わぬ手はない。予算が零なら、零で勝つ策を練ればよい。誰もそんなことはできないと鼻で笑うなら、なおさら面白い。笑われることは、敗北ではない。見限られることこそが、真の敗北である。私は時折、自分たちの営みをひとつの小さな見世物として眺める。悲劇なのか喜劇なのか、本人にも判じがたい。息も絶え絶えの船が、なぜか旗だけは誇らしげにはためかせている。砲弾は尽き、食糧も乏しいのに、船長だけは次の宴の献立を語っている。外から見れば滑稽だろう。だが、その滑稽さの奥には、たしかな意地がある。私は七度転べば七度起きればよいと思っている。勝たなくてもいい。負けきらなければいい。世の中には、勝敗を明確に決することでしか語れぬ物語もあるが、私の好むのは、しぶとく引き分け続ける物語である。膝に泥をつけながら、致命傷だけを避けつづける生き方。華々しくはない。だが、そこには生存の詩がある。
初期の段階から、この家に手を貸してくれる者たちのことを思うと、胸のどこかが熱くなる。まだ何者でもない時期に、ともに苦楽を呑んでくれた者は、のちにただの従業者でも常連でもなくなる。彼ら彼女らは、家の一部になる。木組みの一本、欄干の一本、あるいは冬の夜に窓を曇らせる吐息の一筋になる。そういう人々に対する恩は、帳面に記せる種類のものではない。一生かかっても返し切れぬし、返し切れぬまま抱えていくからこそ、その家には奥行きが生まれるのだろう。客もまたそうだ。苦しい時期に足を運び、こちらの未熟も歪みも知りつつ笑ってくれた人々は、もう単なる消費者ではない。その眼の高さ、その寛容、その好奇心は、家を家たらしめる見えない柱である。私には時おり、この家が人の意志とは別に成長し、退化し、変身していくように思える。誰かが来て、誰かが去り、愛着と諦念と野心と羞恥とが、見えない苔のように壁に張りつく。その重なりのなかで、家は昨日とは違う顔つきになる。まるで生き物だ、と私は思う。しかもあまり上品ではない、癖のある生き物だ。放っておけばすぐに拗ね、かと思えば不意に妖しく華やぐ。必要か不要かを問われれば、答えに窮するような存在。なくても世は回る。だが、なくなればどこか痒いところに手が届かぬような、不自由がじわじわ広がる。人はみな昼の顔だけでは生きられぬ。夜のどこかで、自分の逸脱を預ける棚を必要としている。だからこの家にも、まだ存在の理由はあるのだと、私は信じたい。書くことについても、私は同じことを思う。言葉は商いの飾りではない。私にとっては、呼吸を確かめるための曇り硝子だ。ここまでずいぶん書いてきた。夜を重ねるようにして、ひと晩、またひと晩と文を継ぎ足してきた。文字数を数えれば、それなりの量になるのだろう。けれど私にとっては、それらはすべて、海中で吐いた泡に近い。浮いては消える。しかし消えるからこそ、次のひとつを吐ける。いつか私の寿命が尽きる頃、この連なりが長い長い夜話となって、誰か別の門番の手に渡ればよいと思っている。ひとりの狂気だけで完結する物語より、複数の時代をまたいで受け継がれる執念のほうが、よほど美しい。人の営みは個人で閉じれば短いが、語りが渡されれば歴史になる。
私の願いは壮大というより、むしろ地味だ。この家が次の誰かにとっても、まだ書くに値する場所であってほしいということ。そのために私は、今しばらく門の脇に立ち続ける。打ち捨てられたような朝にも、客の笑い声が残る夜にも、変わらず鍵束を鳴らして立っているだろう。もうすぐ新しい章が始まる。平穏ではあるまい。むしろ、またひと騒ぎ起きる予感が濃い。事件と呼ぶべきか、笑劇と呼ぶべきかはわからない。だが、どう転んでもそれはこの家らしい出来事になるだろう。私はそれを恐れていない。恐れるより先に、書きたくなってしまうからだ。なんという業だろう。なんという救いのなさだろう。だが、その救いのなさのなかでしか見えぬ灯りが、たしかにある。海面の下は暗い。冷たい。音も歪む。けれど、そこから見上げたときだけわかる光の形がある。砕ける波の裏側に、空は銀の鱗のように揺れている。私はその光を目指しているのか、それともただ見上げつづけたいだけなのか、自分でも判然としない。ただひとつ言えるのは、私はまだ沈みきっていないということだ。肺の底には、次の一息のための余白が残っている。指先には、門を開く力が残っている。想像力という、扱いに困る獣もまだ眠ってはいない。ならば行こう。這うようにでも、笑われながらでも、零からでも。見えるところも見えぬところもすべて晒し、傷を勲章に変えるのではなく、傷のまま抱えたまま、次の夜へ進もう。家はまだ死んでいない。門番もまた、くたびれてはいても立っている。生き延びるとは美談ではない。泥と塩と執念の混じった、ひどく不格好な技術である。だが、その不格好さのなかにしか宿らない色気がある。壊れそうで壊れず、沈みそうで沈みきらず、幾度でも水の底から瞼をひらくものだけが持つ、深海の艶である。だからもし、この家の行く末を面白がって眺める者がいるなら、どうか遠巻きにでも見ていてほしい。手を叩いて笑うだけでもいい。戸を叩いて遊びに来るなら、なおありがたい。私は、その視線すら燃料に変えるだろう。生暖かい眼差しでも、半信半疑の好奇でも、見られることは存在の証明になる。可視化とは、傷口を見せびらかすことではない。ここにまだ脈がある、と示すことだ。私はそれを示しつづける。水面下で身をよじりながらでも、波間にたまさか顔を出しながらでも、諦め悪く、門番らしく、書き手らしく。やがてほんとうに浮上した暁には、何食わぬ顔で言うつもりだ。大丈夫だった、と。息はしていた、と。あの長い潜航は、ただ次の物語のために必要な深さだったのだ、と。そう言い切るその日まで、私は潮下の灯を絶やさない。暗い水の底でこそよく見える、あの小さな火を、両手で庇いながら。
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