エピローグ 1/2【もしもの始まりを、忘れないうちに】
届くことなんて、きっとないと思ってる。
でも、それでも。
もしも、あなたじゃなくても、どこかの誰かに届いたなら。
それだけで、少し救われるような気がした。
あなたと別れてから、私はずっと黙ってた。
友達にも、家族にも、何も言えなかった。
声にしてしまえば、本当に終わってしまう気がして。
あるいは、終わったことを受け入れなきゃいけなくなるのが怖くて。
誰かに話せないまま、感情だけが残った。
気づけば、思い出の欠片をそっと撫でるようにして文章を書いてた。
名前も、顔も知らない“誰か”に向けて。
まるで手紙みたいに。
だけど、もしかしたら——
もし、この言葉のひとつひとつが、どこかで読まれて、
誰かの中に、何かを灯してくれていたなら。
あるいは、あなたが、どこかで偶然、目にしていたなら。
それがたとえ私だと気づかなくても、
ただの“誰かの物語”だと思ったとしても、
それでも。
あなたの中に、あの日の夕方や、駅のホームや、白猫の姿がふっと浮かんでいたなら。
きっと私は、それだけで、よかったと思える。
——ねえ、どうしても話したいことがあるの。
付き合う前。
あなたと初めて、将来の話をした日のこと。
夢中で語っていたあなたの将来と、
私が描いていた未来が、ふとしたところですれ違っているって、気づいてしまった。
その違いが、どうしても埋まらないものだってことも。
でも私は、あなたが好きだって気持ちに抗えなかった。
何度も話し合っては、何度も笑い合って、
それでもすれ違いだけは、確かにそこにあった。
ある日、改札の前で手を振ろうとしたとき、
あなたの目が少しだけ潤んでたんだ。
見なかったふりをしたけど、本当は気づいてた。
あの瞬間、思いついたの。
「1年だけ付き合って、1年後にどうするか決めよう」って。
期限がある恋なんて、って思われるかもしれない。
でも私は、あなたの笑顔を1年分、見ていたかったんだ。
本当に楽しかった。
季節がひとまわりして、朝が来るたびに
「今日もまだ、私たちは恋人だ」って思える日々が、何よりも嬉しかった。
そして、プロローグに描いたあの日がやってくる。
あれが私たちの"話し合いの日"。
1年前に決めた約束を、ちゃんと果たすための朝だった。
でも、いくら向き合っても、
やっぱりお互いに譲れないものがあって。
また、1年前と同じ顔をさせてしまった。
あの時と同じ、涙を堪えるような目。
私はただ、頷くしかなかった。
ホームの向こう側で、あなたが少しだけ立ち止まった。その目が、あの時と同じだった。
付き合うかどうかを迷っていた夜に見た、
潤んだまま、ただ静かに意思を伝えてきたあの目。
背景は違う。
あの時は始まりの前で、今は終わりのあと。
でも私は、また同じ顔をさせてしまったんだと気づいて、何も言えなくなった。
なんでだろう。
あの頃の方が、未来は見えなかったはずなのに、今よりずっと希望があった気がする。
それでも、ふたりで決めた“1年間”は、
ちゃんと笑える日々で埋まっていたから、
きっとそれだけでよかったはずなのに。
私の1年は、あなたの笑顔でいっぱいだった。
だから、最後の涙に、どうしても追いつけなかった。
──あの日、ホームですれ違ったあと、
私は一度帰ったはずだった。
けれど、どうしても落ち着かなくて、
ふたりで何度も歩いた道を、もう一度、
ひとりで辿った。
交差点の向こうに、武道館が見えた。
その前に並ぶ物販の列と、知らなかった復活ライブの告知。
私はそのアーティストのことを、彼よりずっと前から好きだったのに、
公演のことさえ、知らなかった。
あの時、私はようやく気づいたんだ。
私は誰よりも、彼を優先していた。
誰よりも彼のことを考えて、
彼の声を、笑顔を、
心のどこかでずっと待ってた。
…どうして今まで、「あなた」や「彼」って呼んでいたんだろう。
その理由を、自分の中でずっとはっきりさせられないままだった。
けれど今なら、ほんの少しだけ分かる気がする。
名前を呼ぶことが、怖かったんだ。
それはまるで、最後の一歩を踏み出すようで、
もう二度と戻れなくなる気がしていた。
名前には、輪郭がある。
その響きひとつで、過去のすべてが一瞬にして立ち上がってしまう。
一緒に笑った時間も、
傷つけてしまった言葉も、
黙って繋いだ手のぬくもりも。
だから私はずっと、ぼやかしてきた。
遠くから見ているように、
誰にも触れられないように、
心の中にだけ留めていた。
けれど今は少しだけ、違う。
もう、怖くはない。
たとえば、また“つらら”を見に行く約束をきっかけに、
私たちがもう一度、どこかで出会えたのなら。
そんな偶然を、奇跡じゃなくて「続き」と呼べる日が来たら、
その時、やっと名前を呼べる気がする。
それまでは、ここにそっと置いておく。
声に出さないまま、大切に。
この物語が、どこかであなたの目に触れる日が来るといい。
それが何年後でも、いや、来世でもいい。
あの日の続きを見るために、
また出会うための、ひとつのきっかけになりますように。
まだ誰にも話していない、“あの場所”のことを、
ふたりで思い出せる日が、いつかまた訪れますように。
——それが叶わなかったとしても、
別れた数年後、あなたの中に、一度でも私の名前が浮かんだなら。
きっと私は、それだけでよかったと思えるから。
P.S.
ここまで読んでくれたなら、それだけで、もう充分だよ。
たぶん、最後まで読む人なんて、そう多くないと思ってたから。
だからきっと、あなたなんじゃないかって、少しだけ思ってしまう。
全部の“もしも”に、あなたとの時間を散りばめた。
けれど、ねえ、気づいたかな。
ひとつだけ、他と少しだけ、空気の違う話があったこと。
多分、あなたなら気づくはずなんだ。
実はね。
あそこに書いた景色、全部見たんだ。別れてから、あなた抜きで。
理由はもう、言わなくても分かるでしょ?
私、来世まで待てるほど、強くなかったから。
戻るきっかけもないまま、時間だけが過ぎていくのが、どうしても怖くて。
でも、ここまで言ったら、もう隠せないよ。
……わかってくれるって、信じてる。
