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二塁打を理解するとは?——認識論から考えるレポート課題

「自分の頭で考える」とは?

レポートの質は上がっている。体裁は整っているし、論理も破綻していない。しかし、書いている学生がどれだけ学んでいるかは、別の問題だ。そう感じている教員は少なくないはずだ。

では、なぜ「学んでいない」と感じるのか。「学生が、自分の頭で考えて作っていないからだ」——そう言いたくなる。おそらくその直感は正しい。だが、では「自分の頭で考える」とは何なのかと問われると、それ以上うまく言えない。

以下では、成果物と切り離して「学ぶ」とは何かを考えてみたい。

認識論から考える

レポート課題の文脈では、学ぶことは何かを知ることと切り離せない。もちろん、学びには技能や態度の変化も含まれるが、ここでは知識に焦点を絞り、「知る」とは何かを手がかりに考えてみたい。

認識論に、知識の古典的な定義がある。JTB——正当化された(Justified)真なる(True)信念(Belief)という三条件が揃ったものが知識だ、というのがプラトン以来の伝統的な定義である。たとえば、「水は100度で沸騰する」という知識を考えてみよう。これが知識であるためには、実際に水が100度で沸騰すること(T)、そう考える根拠があること(J)、そして自分自身がそう信じていること(B=信念)の三つが揃っている必要がある。ただし「信念」といっても大げさな意味ではない。単に「自分の頭の中でそうだと思っている」くらいの意味である。

大学院時代、ある先生の集中講義でこのJTBを聞いたとき、「JとTはわかるけど、なぜBが必要なんですか」と質問したことがある。先生はDNAを例に説明された。DNAの塩基配列には、生物の設計に関する情報がすべて「書かれている」。たとえ正しくとも、読み取る機構がなければ、それは知識にはならない。紙に文字が書かれていても、読み取れる主体がいなければ、ただの線でしかないのと同じだ、と。つまり、情報が知識になるには、それを受け取る主体がいなければならない。Bが知識の定義に入っているのは、そういうことだ。情報がどれだけ正しくても、それを「そうだ」と思っている誰かがいなければ、知識にはならない。

レポートでも同じことが起きている。AIを使えば、根拠のある(J)、事実に即した(T)文章を作ることができる。しかし、それを書いた学生自身が内容についてBを持っていなければ——つまり、書かれていることを自分の頭の中でそうだと思っていなければ——そこに知識は成立していない。

これまでのライティング教育は、JとTに力を注いできた。論証型レポートは論理の組み立て(J)を鍛え、文献の参照は事実の裏づけ(T)を求める。しかしBの方は、ほとんど問われてこなかった。学生が書く対象について自分の頭の中でどう思っているか——それは教育設計の対象になっていなかったのだ。では、Bを持つとはどういうことなのか。

「二塁打」を理解するとは?

「二塁打」という言葉の意味を知るには、塁とは何か、打つとは何か、安打とは何かを知っていなければならない。「打者が二塁まで進む安打です」という定義を暗記しても、野球のルールを知らなければ何も理解したことにはならない。一つの概念を理解するとは、それが他の概念との関係の中に位置づけられているということだ。先ほどの「水は100度で沸騰する」も同じだ。「水」「温度」「沸騰」といった概念の関係を理解していなければ、その文を暗記しても何も知ったことにならない。

JTBの定義だけを見れば、Bは一つひとつの事柄について「そうだ」と思っていることを指しているにすぎない。しかし、一つの信念が他の信念から切り離されて成り立つかといえば、二塁打の例が示すように、それは難しい。ある事柄について「そうだ」と思うとは、単に一文を覚えていることではない。それが他の理解と結びついているということだ。

つながりが加われば、何かが見えるようになったり、以前は気にならなかったことが気になり始めたりする。成果物には残らないが、本人の中では確かに何かが起きている。この変化こそが、学ぶということの核にあるのではないだろうか。

「埋める」から始める

前回の記事で、学生は「埋めるモード」と「味わうモード」の二つのモードで課題に取り組んでいるということを説明した。

「学べ」と命じて学ばせることはできない。前回の論じたように、「味わえ」と命じても味わえないのと同じだ。しかし、そこに至る入口は、学生がまず埋めるモードで取り組むところから設計できるのではないか。何かを理解しているとは、それが頭の中で他の理解とつながっている状態だ。そのつながりには程度がある。不十分なつながりでも理解の始まりではあるし、そこから育てていくこともできる。埋めるモードで生じた理解は、それだけでは足りなくても、次の段階への足がかりになりうる。

前回の記事で紹介したnasastarさんの授業実践を、この観点から見直してみたい。nasastarさんが実際に出している課題はこうだ(掲載についてはご本人の許可をいただいている)。

• ポスト・コロナの時代において、外国の人々へ訴えかける日本の良さとは何か?工業製品、観光、コンテンツ消費、発想や生き方など色々とあると思うけど、それらをどのように組み合わせて売り出していくべきなのか?
• その組み合わせ方を象徴する素敵なキーワード、「クール」に変わる素敵な表現を探して下さい
• 「クールジャパン」という言葉に変わる、素敵な概念やキャッチコピーを考えて下さい

学生はまず事前課題として情報収集をし、それを踏まえてグループで議論してA4一枚にまとめ、他のグループの成果物と並べて投票する。

事前課題で情報収集をした段階では、学生の頭の中には「日本の良さといえばアニメや観光だろう」くらいの理解しかない。野球を理解しないまま二塁打の定義を暗記した段階と同じで、なぜアニメなのか、観光とどう違うのかといったことまではまだ問われていないが、出発点にはなる。

次に、グループで議論してA4一枚にまとめる段階では、一枚に収めるには、何を入れて何を落とすかを決めなければならない。たとえば「アニメ」と「観光」のどちらを残すか。それを決めるには、「海外に発信する」という問いに照らしてどちらがより本質的かを考えなければならず、そのためには自分が持っている他の知識——たとえばSNSで見た海外の反応や、他の授業で学んだ文化論——を総動員することになる。

そして投票する際には、自分のグループのA4と他のグループのA4を見比べることになる。同じ問いから出発したのに、あるグループは「食文化」を軸に据え、別のグループは「職人文化」を軸に据えている。何を重要と判断し、どの知識と結びつけたかが違う。自分の頭の中にはなかったつながりが、他のグループの成果物には存在する。その差異に気づいたとき、自分の理解が確認されたり、揺さぶられたりする。

情報収集という「埋める」段階が、議論と比較を経て「味わう」段階への足がかりになる——そう設計することができる。「自分の頭で考える」ではこの段階は設計できない。

紙を直すか、書き手を育てるか

成果物を整えることと、書き手の中で何かが育つこととは別である。そのことを端的に表しているのが、ライティングセンターのモットーとして知られる「紙を直すのではなく書き手を育てる」という言葉だ。

では、書き手とは何か。書く対象について自分なりの理解を持っている人間のことだ。だから、何を書くべきかがわかる。書いたものの弱点が見える。他のこととつなげられる。揺さぶられたときに書き直せる。だから、ライティングセンターが添削ではなく対話を重視するのも自然である。対話によって初めて、紙面そのものではなく、書き手の中にある理解のつながりを動かせるからだ。

成果物が整っているのに学んでいる感じがしない、という冒頭の違和感は間違っていない。JとTは揃っているのにBがない——教員が感じ取っているのは、まさにその不在なのだ。そして、書き手を育てるとは、一発の指示ではなく、段階的な設計の問題なのだ


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