猫に世話をされているのは、私のほうかもしれない
朝は7時前には起きるようにしている。
猫たちに朝ごはんをあげるため。
二日酔いだろうが、体調悪かろうが、彼らには関係ない。
ごはんを用意して、器を洗い、トイレを掃除する。食欲や排泄に変わりはないか、いつもどおりご機嫌か、さりげなく様子を見る。
猫との暮らしには、休日がない。
正直に言えば、特に忙しい時には、少し面倒だと思う日もある。
それでも最近、ふと思う。
猫たちの世話をしているつもりで、実は、世話をされているのは私のほうではないか、と。
「癒し」だけでは語れない
ペットの魅力を尋ねると、多くの人が「癒される」と答える。
たしかに、そのとおりだ。
無防備な寝顔。柔らかな毛並み。気持ちよさそうに目を細める顔。
見ているだけで頬が緩み、幸せな気持ちになる。
けれど、ペットが私たちにくれるものは、癒しだけではない。
もっと大きなものがある。
それは、「役割」だ。
ごはんを待っている子がいる。
トイレをきれいにしてほしい子がいる。
具合が悪ければ、病院へ連れて行ってくれる人を必要としている。
「今日は何もしたくない」と思う日でも、目の前の命は待ってくれない。
だから起きる。だから動く。だから、今日もいつもの一日が始まる。
この「待ったなしの世話」が、私たちの暮らしにリズムをつくってくれている。
必要とされることが、人を支える
仕事をしていれば、毎日たくさんの役割がある。
子育ても然り。
年齢とともに、仕事を引退またはスローダウンする時が来る。
子供も巣立ってゆく。
自由な時間が増えるのは、うれしいことだ。
一方で、「今日、私がしなければならないこと」が減ると、暮らしの輪郭までぼんやりすることがある。
そんなとき、ペットは毎日、全身で伝えてくる。
「あなたが必要です」
もちろん、猫がそんな言葉を話すわけではない。
むしろ、こちらの都合などお構いなしに、ごはんを要求しているだけかもしれない。
それでも、自分を必要としている命がそばにいることは、人の心を想像以上に強く支えてくれる。
犬と暮らしていれば、雨の日でも散歩に出かける。
自分の健康のためだけなら三日坊主で終わるウォーキングも、愛犬のためなら続けられる。
散歩に出れば、ご近所の人とあいさつをする。犬を通じて顔見知りが増え、「〇〇ちゃんのママ、パパ」として覚えてもらう。
猫と暮らしていても同じだ。
朝晩のごはん、トイレの掃除、ブラッシング、健康管理。
その繰り返しが、一日の骨組みになる。
ペットは、ただそばにいて慰めてくれる存在ではない。
私たちを起こし、動かし、社会や暮らしにつなぎ止めてくれる存在でもある。
面倒だからこそ、守られている
ペットと暮らすことを、きれいごとだけで語るつもりはない。
時間もかかる。お金もかかる。旅行や外出に制約が生まれることもある。
病気になれば心配で眠れないし、年齢を重ねれば介護が必要になるかもしれない。
命と暮らす以上、楽しいことだけでは済まない。
けれど、面倒なことがあるからこそ、大切な存在になるのではないか。
何の手間もかからず、何の責任もなく、ただ癒しだけを受け取る関係なら、これほど深い結びつきにはならない。
手をかける。
心を配る。
時間を使う。
そうやって毎日世話をするうちに、その子はかけがえのない家族になっていく。
そして、自分が注いだものと同じか、それ以上のものを、いつの間にか受け取っている。
今日も、猫たちに動かされる
猫たちは、私の予定を知らない。
時間になれば、ごはんを催促する。
トイレを掃除してくれと、無言で訴える。
撫でてほしいときには近づき、ひとりでいたいときには、呼んでも来ない。
猫だから。
私は今日も、そんな猫たちに動かされながら暮らしている。
ごはんを用意し、名前を呼び、体調を気にかける。
そうして一日が過ぎていく。
以前は、私がこの子たちを守っているのだと思っていた。
もちろん、飼い主として、この子たちの命と暮らしを守る責任は私にある。
でも、それだけではない。
私が猫たちを守っているつもりで、本当は猫たちに、毎日の暮らしを守ってもらっている。
ペットと暮らすということは、どちらか一方が世話をすることではないのかもしれない。
人が動物を支え、動物もまた、人を支える。
言葉を交わさなくても、私たちは毎日、互いの人生を支え合っている。
だから今日も私は、猫たちのごはんを用意する。
「もう少し寝ていたかったのに」と、少しだけ文句を言いながら。
それもまた、猫たちから与えられた、幸せな役割なのだと思う。
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