3-17 宗教と階級と十年戦争②——「信長公は元来日蓮宗なり」
信長と法華宗——構造的依存と破綻
信長の軍事力を経済的に支えていたのは何だったのか。この問いに答えるには、宣教師たちの記録が手がかりになる。
天文18年(1549年)にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して以降、イエズス会の宣教師たちは日本各地の宗教勢力を詳細に観察し、本国に報告している。その記録には布教上のバイアスが含まれており、額面通りに受け取ることはできない。しかし、宣教師たちが日本の宗教と経済の結びつきをどう認識していたかを知る手がかりとしては有効である。
ルイス・フロイスは信長を「善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝・尊崇の軽蔑者」と記した(フロイス『日本史』)。信長は宗教に関心がなく、合理的な無神論者であった——この像は、フロイスの記述を通じて近代以降の歴史叙述に深く浸透した。しかし、近年の研究が指摘するように、この「信長=無神論者」像はフロイスがローマの上長に向けて構築した布教報告の枠組みであった可能性が高い。信長が宗教的権威を一切認めない合理主義者であるならば、キリスト教を受容する可能性もまた開かれていることになる。フロイスはまた、信長について「形だけは当初法華宗に属しているような態度を示した」とも書いている。しかし、以下に見るように、信長と法華宗の関係は「形だけ」では説明しにくい。
前編で述べた通り、天文元年(1532年)8月、細川晴元は近江守護・六角定頼および京都の法華一揆と連合し、山科本願寺を焼き討ちした。三万から四万とされる攻撃軍の中で法華一揆は大きな役割を担い、京都防衛という自らの目的を果たした。
この焼き討ちの戦後処理が、近江の宗教地図を決定的に変えた。六角定頼は近江における一向宗を厳しく禁圧し、この圧力のもとで近江南部を中心に浄土真宗から法華宗への転宗が進んだ。六角定頼自身が法華宗の篤信者であり、その麾下にあった蒲生賢秀もまた法華宗の信徒であった。信長が上洛する30年以上前から、近江の有力武将層と法華宗の間には宗教的な網の目が張り巡らされていたのである。
この網の目は武将層だけに留まらなかった。近江から鈴鹿山中にかけての山間部には、木地師と呼ばれる漂泊の職人集団が広く分布していた。轆轤で椀や盆を挽きながら山中を移動する彼らは、峠や山道の情報を熟知し、山中の通行を事実上支配していた。蒲生賢秀の父・定秀は日野城下に木地師を集めて漆器生産を始めており、蒲生氏は木地師のネットワークを通じて鈴鹿山中の道を掌握していた。「南無妙法蓮華経」の旗を掲げる者は、この山の民にとって敵ではなく庇護の対象であった。山中に潜む忍びや野武士の集団から守られる側に入ることを意味したのである。
法華宗の網の目を畿内全体で束ねる結節点となったのが、松永久秀であった。久秀は三好政権の中枢にあって畿内の行政を担い、永禄11年(1568年)の信長上洛を実務面で支えた人物である。同時に久秀は、京都の法華宗寺院・本圀寺の塔頭である戒善院の大檀越であったことが「本圀寺文書」によって確認されている。
この構造が歴史の表面に露出した瞬間がある。元亀元年(1570年)4月の金ヶ崎の退き口である。朝倉義景征討のため越前に進軍した信長は、浅井長政の突然の離反により前後を敵に挟まれた。信長が選んだ退路は、琵琶湖西岸の朽木谷越えであった。『朝倉記』によれば、朽木谷を本拠とする朽木元綱は当初信長を殺すつもりであったという。ここで動いたのが松永久秀であった。久秀は朽木家と浅井家の間にある積年の確執を利用して元綱を説得し、信長を朽木谷に迎え入れさせた。朽木谷は木地師の最初の大きな分派地であり、元綱もまた山の民の回廊を手中に収める存在であった。法華宗の大檀越である久秀と、木地師の世界に根を張る朽木氏。この二つの回路が、信長の逃走を可能にした。
京都に帰還した信長はただちに岐阜への帰路につくが、六角義賢・義弼父子が東海道を封鎖し、行く手を塞いだ。信長が選んだのは鈴鹿山中の千種峠を越えるルートであった。このとき信長を護衛したのが蒲生賢秀の郎党たちである。蒲生氏が掌握する木地師のネットワークが、山中の安全の確保に努めた。それでも、六角方の杉谷善住坊の狙撃は防ぐことができなかった。運よく弾は急所を外れ、信長はなんとか岐阜まで帰城することができた。
金ヶ崎の退き口は、殿を務めた木下藤吉郎の奮戦ばかりが語られる。しかし信長の生存そのものを可能にしたのは、朽木谷では松永久秀の法華宗人脈、千種峠では蒲生賢秀の木地師ネットワークであった。信長の旗指物に「南無妙法蓮華経」の題目が確認できるのは、長篠合戦図屏風が現存する最も著名な例である。それ以前の絵図に題目の旗が描かれたものは今のところ発見されていない。金ヶ崎の逃走劇において法華宗と木地師の二重のネットワークに命を救われた経験が、信長と法華宗の結びつきをより強固なものにした契機であった可能性は十分にある。
信長が頼りにした法華宗のネットワークは、経済や貿易の領域にも及んでいた。堺の有力商人の多くが法華宗の信徒であった。今井宗久は法華宗の寺院との関係を持つ一方で、臨済宗大徳寺派の臨江寺を菩提寺としており、堺の豪商が複数の宗派にまたがって信仰・帰属していた実態を示している。今井宗久や千利休に代表される堺の豪商たちは、茶の湯を通じて信長と深い関係を持ったが、彼らを取り巻く商業ネットワークの基盤には、法華宗の寺院と信徒が広く存在していた。日比屋了珪のように、もと法華宗の信徒でありながらキリスト教に改宗し、南蛮貿易に関与した商人もいた。了珪の改宗は、堺の商業ネットワークが法華宗という単一の宗派に閉じたものではなく、南蛮貿易を通じて外部に開かれていたことを示している。
火薬の原料である硝石、そして玉の原料である鉛——信長の軍事力を支えるこれらの物資は、法華宗系の都市商業ネットワークを通じて主に東南アジアから輸入されていた。スペインやポルトガルというキリスト教を背景とする覇権国の推し進めるグローバリズム突端に信長は位置していた。宣教師たちに布教を許し、茶道等を通じ商人たちとの付き合いも欠かさない。信長には、現代で言えば一流企業のトップの姿が重なって見える。
そしてここに、石山合戦の構造が浮かび上がる。信長の軍事力は法華宗系の都市商業ネットワークや貿易に依存していたのは述べたとおりだ。本願寺教団は念仏を紐帯とする信仰共同体とその経済圏——講・懇志・移動民の交易路——に支えられていた。この二つのネットワークは、交易路、都市空間、信徒の獲得をめぐって構造的に競合する関係にあった。信長と顕如は、この構造の表面に立つ当事者であると同時に、構造に拘束された存在であった。
しかし、信長と法華宗の構造的な結びつきにほころびはあった。元亀元年(1570年)以降、信長は法華宗本門流の本能寺と妙覚寺を京都における定宿として事実上接収していた。天正8年(1580年)には本能寺境内に御殿と厩を建設するに至り、イエズス会日本年報は僧侶が追放されたと記している。信長にとって法華宗寺院は、軍事インフラの一部でもあった。法華宗寺院にとって最晩年の信長は、協力者から占拠者に変わりつつあった。
天正7年(1579年)5月の安土宗論は、この関係性にとって決定的な出来事だった。信長は法華宗の僧侶を浄土宗との法論で公開の場で敗北させた。処罰は苛烈であった。宗論、つまり、公開問答の主催者は斬首され、法華宗寺院には詫び証文の提出に加えて黄金200枚という巨額の贖罪金が課された(『信長公記』巻十二)。京都の法華宗五ヶ寺は同年10月、使僧を堺に派遣し、檀越である町衆から資金を「勧進」して捻出せざるを得なかった(『己行記』天正7年条、河内将芳『中世京都の都市と宗教』2006年)。信長はこの黄金を宇治川平等院前の架橋費用に充当している。寺院接収による迷惑料、安土宗論での名誉の毀損、そして黄金200枚の経済的負担——この三重苦が法華宗寺院に恨みとして蓄積していったのは言うまでもない。
安土宗論で勧進を強いられた堺の法華宗系商人たちにとっても、信長との関係は一方的な収奪に変質していた。彼らが信長に代わる次の秩序、つまり、新たな統治者を模索し始めた可能性は否定できない。
安土宗論から3年後、天正10年(1582年)6月2日、信長は本能寺で死んだ。僧侶を追い出し、自らの宿所として占拠していた法華宗の寺院の中での出来事だった。本能寺の変の背後に法華宗ネットワークの意志が働いていたかどうか、直接の史料は沈黙している。本能寺の変後、織田信孝が寺地返還と僧侶還住を命じた書状(天正10年7月3日付)が残されている。これは信長による接収がどれほどのものであったかを逆照射している。
信長と法華宗の関係は、構造的な依存から始まり、一方的な収奪を経て、最後は法華宗の寺院が信長の死の場となった。その構図が何を意味するかは、読者の判断に委ねたい。
これらの歴史的事実を踏まえたとき、一つの文献が新たな意味を帯びてくる。『鷺森旧事記』である。これは石山合戦から時代が下った近世に成立した文書であり、一次史料としての価値はない。しかし、そこに非常に気になる記述がある。
信長公は元来日蓮宗なり。旗印にも、一幅の黄絹に永楽の銭を付け、招き(=馬印・指物)には南無妙法蓮華経の御手題目を書き付けられたり。兼ねて日蓮党に頼まれ、念仏宗を嫌ひ、本願寺滅亡の企を意内に含み給るよし伝聞候へば
(現代語訳)
信長公は元来日蓮宗の人である。旗印にも、一幅の黄色い絹地に永楽銭の紋をつけ、馬印や指物には「南無妙法蓮華経」の題目を自ら書きつけておられた。かねてより日蓮宗の党派から頼まれて、念仏宗を嫌い、本願寺を滅ぼす企てを内心に抱いておられると聞き及んでいる。
「信長公は元来日蓮宗」であるがゆえに一向宗の断絶を企てた——門徒たちは後世に至るまで、信長の背後に法華宗的な世界があるという認識を繰り返し語り直したのだ。山科焼き討ち後の近江における法華宗の浸透、松永久秀と本圀寺の関係、金ヶ崎での法華宗人脈による救出、堺の法華宗系商業ネットワーク、そして旗指物に翻った「南無妙法蓮華経」の題目——本節で検証してきたこれらの事実を並べてみれば、門徒たちの認識は虚構ではなかったように思えてくる。この文書の、とりわけ「日蓮党に頼まれ」という一節は注目に値する。信長個人の意志や行いだけではなく、信長を動かしていた構造そのものを、門徒たちは認識していたのである。だとすれば、彼らは信長という個人ではなく、信長が体現する秩序と戦っていたと言ってもよい。
彼らの目に安土宗論はどのように映ったのだろうか。信長が自らの協力者である法華宗を公然と打擲する姿は、門徒たちにとって身内同士の争いに見えたのか。それとも、両者の結びつきを隠したい天下人の偽装に見えたのか。その答えは、もはや当時の人にしか分からない。
引用文献
書籍
神田千里『一向一揆と戦国社会』(吉川弘文館、1998年)
神田千里『一向一揆と真宗信仰』(吉川弘文館、2005年)
井上鋭夫『本願寺』(至文堂、1962年)
石尾芳久『一向一揆と部落』(解放出版社、1980年)
河内将芳『日蓮宗と戦国京都』(淡交社、2013年)
今谷明『天文法華の乱——武装する町衆』(洋泉社MC新書、2009年)
湯浅治久『戦国仏教』(中公新書、2009年)
出口治男『一向一揆余話』(法蔵館、1984年)
上念司『経済で読み解く織田信長』(ベストセラーズ、2017年)
河内将芳『中世京都の都市と宗教』思文閣出版、2006年
谷川健一の出典を『青銅の神の足跡』(集英社文庫、1989年)
鎌田茂雄の出典を『一遍 大地を往く』(集英社、1985年)
ルイス・フロイス『日本史』(松田毅一・川崎桃太訳、中央公論社)
論文
今井修平「石山本願寺寺内町に関する一考察」(『待兼山論叢』史学篇6号、1973年)
石尾芳久「石山本願寺合戦の意義」(『関西大学法学論集』41巻5・6号)
樋口大祐「一向一揆と文学・序論」(『國文論叢』30号、2001年、神戸大学)
史料
『信長公記』
『天文日記』
『鹿苑日録』
『言継卿記』
『細川両家記』
『鷺森旧事記』
『多聞院日記』
『顕如上人文案』
『己行記』
『朝倉記』
『本圀寺文書』
『イエズス会日本年報』
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最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。