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3-11 講の経済——横のつながりが生んだ縦の構造


前節では、念仏が社会の周縁にまで届き、排除された者たちが結びつく場を生んだことを見た。本節では、その結びつきが「講」という枠組みを通じて、どのように経済的な基盤へと発展していったかを追う。

講とは何か——信者結社の誕生

講とは本来、仏典を講説する僧侶の研究集会を指す語だった。中国では東晋時代に起源があるとされ、日本では推古朝に始まる仏典講究がその最初であり、奈良時代に最高潮に達した。平安期には法華八講が盛んになり、皇族や貴族の経済的援助のもとで定期的な法会が営まれた。
 鎌倉時代に入ると、講の性格は変わる。辻井清吾の整理によれば、「個人的な信仰から、集団的・組織的な宗教へと発展する過程で、講というものが現れてきた」。学僧の研究集会だったものが、信者が集まり法義を讃嘆する集まりへと変容した。室町時代以降は、経済的な動機で結集する頼母子講や無尽講も現れ、信仰と経済が分かちがたく結びつくようになる。
 真宗の講は、この流れの中で独自の位置を占める。前節で見たように、真宗の講は時衆が築いた道場ネットワークの上に成立した。しかし、真宗の講には時衆にはなかった特徴があった。他宗の講が地域の寺院や神社を拠点として完結する傾向があったのに対し、真宗の講は本山と直結していた。辻井の言葉を借りれば、「真宗の講のみが本山と直結していた。いずれも法主からの消息を所持している」。どれほど小さな講であっても、本願寺教団体制の中に位置づけられていた。地域で完結する水平的な結合と、本山へとつながる垂直的な紐帯を同時に持つ。この二重構造が、真宗の講を他の講とは異なるものにしていた。
 講の日常はこうだった。まず読経。次に本山法主から各講宛に下された「消息」——法主が発行する書状様の法語文書——の披露。続いて住職の説教、それに対する質問と応答。最後に参集者全員で飲食を共にする。信仰の確認と相互扶助と共食が、一つの場で行われた。

蓮如の布教——「惣」に「講」を重ねる

講を本格的に地方布教の手段として展開したのは、第八世蓮如だった。
蓮如が本願寺を継いだとき、教団は衰微の極にあった。参詣の人もなく、寒々としていたことは、前節で述べたとおりである。真宗の他の諸派——仏光寺派、錦織寺派、専修寺派など——はすでに花々しい発展を遂げていた。この現実の中で、蓮如は布教の方法を練り上げた。
 蓮如が最初に布教の足場を築いたのは近江だった。大津や堅田の門徒は漁夫、職人、商人、農民から成っていた。井上鋭夫が『山の民・川の民』で論じたように、船を操って交易や物資の運送に従事した「ワタリ」、太子信仰を奉じて鉱産物の採取に携わった「タイシ」の人々も、この圏域に含まれていた。農地を持たず、河川や海のほとりに棲みつく彼らは、時衆の遊行聖がかつて歩いた道を上書きするようにして、真宗の信仰圏を広げる担い手となった。
 しかし、教勢の拡大は比叡山延暦寺の警戒を招き、寛正6年(1465年)、大谷本願寺は延暦寺衆徒によって破却される。蓮如は近江を離れ、文明3年(1471年)、越前の吉崎に坊舎を構えた。
 北陸で蓮如は、講を既存の村落自治組織に重ねるという方法を確立していく。文明5年(1473年)秋、蓮如は吉崎坊舎から福井の藤嶋超勝寺を訪れ、毎月の『寄合』において座席の序列や盃の順序を重んじる世俗的慣行を批判し、本来の信心の沙汰に立ち戻るよう勧めている(『御文』1帖12通)。笠原一男はこれを、蓮如による講の組織的展開の出発点として位置づけた。
 蓮如の方針は明確だった。まず村の指導者を門徒にする。村の指導者が門徒になれば、残りの村人も自然と教えに入る。蓮如は「先ず三人の村民を門徒に引き入れたい」と述べた。三人とは「坊主ト年老ト長」——寺の住職、年寄り、庄屋である。「此三人サヘ、在所々々ニシテ仏法ニ本付キ候ハ、余ノスエク、人ハミナ法義ニナリ仏法繁昌シテアラウスルヨ」。
 蓮如が講を重ねていった先は、当時の農村社会で成長しつつあった自治組織「惣」だった。惣とは農民が自らの村を運営するための組織であり、「守護不入・自検断之所」——守護の介入を拒み、自前で裁判権を行使する——という自治的形態を志向していた。蓮如は、この既存の自治組織に講を重ねた。惣の結合に講の結合を重ね合わせることで、信仰と自治が一体化した組織が生まれた。
 蓮如の布教を支えたのが「御文」——蓮如が門徒に下付した書状——である。御文は平易な言葉で書かれ、「いかなる無智なものも領解し易く」、真宗の教えを伝えた。重要なのは、御文が個人宛の手紙ではなかったことである。御文は講中で繰り返し読誦され、惣中で大切に保管された。一通の御文が各地で繰り返し書写され、蓮如自身が布教に赴けない場所でも御文が同じ効果を発揮した。
 こうして全村民が門徒となった村では、講への参加がすなわち村の自治への参加を意味した。講は一村の報恩講から始まり、やがて郷・郡を超える規模に成長した。ただしその拡大は同心円的に進んだのではなく、交易路と水路の結節点を飛び石のように結びながら広がり、最盛期には北陸から畿内にかけて広域的なネットワークを形成するに至った。
 ただし、この「惣講一致」という理解には留保が必要である。笠原一男は蓮如が惣村の指導者層を門徒化し、惣村ぐるみの教団化を実現したと論じた。しかし、先に見た堅田門徒の構成が示すように、講に集まった人々の実態は定住農民による自治組織の延長だけではない。講とは、惣の宗教的延長であると同時に、村の境界を越えて人と物を結ぶ生業ネットワークの結節点でもあった。惣と講が重なった地域はあったが、それを全体像とするのは正確ではない。

資金循環の構造——懇志から為替へ

戦国時代の日本経済はデフレの圧力下にあったと、経済評論家の上念司は指摘している。明からの銅銭輸入が減少し、マネーサプライ——流通する貨幣の総量——が落ち込んだ。市中では私鋳銭や摩耗した銭が混在し、良銭だけを選り分けて悪銭の受け取りを拒む「撰銭」が横行した。幕府や大名は「撰銭令」を発して銭の交換比率を定め、取引の停滞を防ごうとしたが、「割れ」や「欠け」によって通貨の価値が下がるため、結果的にデフレ圧力は強まるばかりであった。
 この状況が意味するのは、貨幣経済の恩恵が社会全体に行き渡らなくなったということである。貨幣の循環は大名や商人など一部の富裕層に偏り、それ以外の人々は貨幣経済の外縁へと押し出されていった。
 また、この環境の中で、経済的な権力の移動も起きていた。比叡山は京都の土倉への資金供給を通じて金融を支配し、五山禅僧は幕府の日明貿易の実務を担っていた。こうした旧来の寺社経済が荘園制度の崩壊とともに地盤を失う中で、貿易の実権は堺や博多の商人たちへと移っていった。旧来の寺社経済が地盤を失う中で、本願寺は異なる経済モデルを築いていた。広大な荘園を持たない本願寺の財政基盤は、門徒からの「懇志」——自発的な寄付——だった。特定の権力者から領地を寄進されるのではなく、各地に散在する門徒一人ひとりの献金が本山の財政を支えた。荘園を持たないからこそ、門徒との紐帯がそのまま経済の生命線となり、講はその集金の経路として不可欠だった。
 門徒は講を通じて懇志を納め、講が志納金として本願寺に上納する。本願寺がその資金をどのように運用したかについては、土倉や酒屋——中世の金融業者——への貸付を含む複数の経路が推測されているが、具体的な利率や運用の詳細を示す一次史料は限られている。なお、室町幕府が長禄3年(1459年)に定めた土倉の基準利率は月利5%(いわゆる『五文子』)であり、中世の金融は現代の感覚からすれば極めて高利であった。
 門前町の経済的繁栄と寄付金は相互に連動していた。吉崎には大勢の人や商家が集まり、山科本願寺には毎年大勢の門徒が参詣した。寺院は城塞都市化していった。経済と信仰が相互に強化する構造が成立していた。
 やがて、懇志は変質する。実如が六日講に宛てた「懇志請取状」にはすでに「年貢」の語が記され、証如の『天文日記』には欠怠した懇志を遡及徴収した記録が残る。辻井が記すように、「懇志はやがて年貢として定期に義務化されたものとなった」。自発的な布施が「毎年之約束物」に変わったのである。松尾一が整理する藤木久志の指摘によれば、戦国期の講は信心の語らいの場であると同時に、本願寺への門徒役を負担する制度でもあった。
 この懇志を含む本願寺の年貢は、特定商人の為替によって国許から大坂へ送られていた。講のネットワークは、信仰の経路であると同時に、送金の経路でもあった。
 ここで、法華宗との対比が浮かび上がる。法華宗は都市共同体の外側で孤立した京都の新住民——地方からの流入者——に受け入れられ、堺や京都の町衆を基盤とした。1532年、細川晴元が法華宗徒・六角定頼と結んで山科本願寺を攻撃し、焼き払った。京都や堺の商工業者を檀徒基盤とする法華宗に対し、本願寺の講には農民、漁師、職人、鍛冶、漂泊民など、生業を異にする多様な人々が集まっていた。この経済基盤の違いは、教義上の対立とも重なっていた。のちの石山合戦や各地の一向一揆が単純な宗教戦争ではなく多元的な構造を持つ背景には、この違いがある。

講が一揆になるとき

講は信仰の集まりであり、経済的な結社であり、そして動員の単位でもあった。
 辻井が記すように、講は経済的単位であると同様に、「一向一揆(加賀・三河・越中等)門徒の反支配者運動の際は、一つの行動単位」となった。本願寺法主の消息の多くが全国の講を通じた門徒への志の請取状であり、臨時の奉加や献金も講単位で行われた。講が経済的単位であるがゆえに、そのまま軍事的動員の単位にもなりえた。
 今谷明は『戦国三好一族』の中で、一向一揆についてこう述べている。「自らの階級的力量を自覚し、法主や幹部の思惑とは別に、領主階級全般に対して鉾を倒(せかしま)にして向ってきた」——鉾先を逆さまに向けて反抗した、の意である。法主の意図を超えて、門徒が自律的に権力と対峙した構造が、ここに端的に表れている。
 加賀の門徒は、在地領主に対して講的結合力によって一揆を起こし、守護の富樫政親を打破した。蓮如の子である実悟は『実悟記拾遺』にこう記している。『百姓ノ持タル国ノヤウニナリ行キ候』。一国の支配権が守護から門徒の手に移ったことを、畿内の貴族僧が驚きをもって書き留めたのである。辻井はこの門徒領国制について、「農民支配力を利用しての国人=土豪の加賀支配の成立に他ならない」と述べ、戦国大名の領国制と並ぶものとして位置づけている。
 ここで注意すべきは、蓮如自身は一揆を望んでいなかったことである。蓮如は『王法為本』の立場から、世俗の秩序を守った上で信心の沙汰を行うよう説いた。現世秩序との共存を目指す立場であり、武装蜂起は蓮如の意図の外にあった。しかし、講が信仰と経済を一体化させた組織であるがゆえに、信仰を支える生活の基盤そのものが脅かされるとき、抵抗は教義上の選択ではなく、共同体防衛の実践となる。講が一揆に転化するのは、蓮如の意図を超えた門徒の自律的行動の結果である。
 信長は城下町を拠点化し、関所を廃止し、領国内の流通を一元的に管理した。その構造は、本願寺が講のネットワークを通じて形成した広域的な経済圏と結果的に類似している。信長が本願寺の仕組みを意識していたかどうかは分からない。しかし、本願寺と10年にわたって戦い、それを解体した後に残った経済構造の一部は、形を変えて近世の支配体制に組み込まれていった。

結び

蓮如は講の内部に身分の上下を持ち込まないよう繰り返し説いた。しかし現実の講には在地の序列が反映されていたことは、蓮如自身の御文が示している。それでも資金の流れには講を超えた明確な構造があった。門徒の懇志は講を通じて本願寺に集まり、本願寺はそれを土倉や酒屋に貸し付けた。門徒の懇志は講を通じて本願寺に集まり、本願寺の財政を支えた。
 門徒同士の関係は水平でありながら、資金は本山へと垂直に集約される。千葉乗隆が明らかにしたように、本願寺はこの垂直線を本末制度と触頭制度によって制度化し、講から本山に至る上意下達の経路を整備していった。講は自発的な信仰の集まりとして始まりながら、教団の末端組織として制度に組み込まれていく。この二重構造が、講の経済的な力の源泉であると同時に、のちの変質の起点でもあった。
 念仏に端を発した経済は、次に都市空間を生み出すことになる。次節は、寺内町について述べる。


引用文献

書籍

  • 井上鋭夫『本願寺』(至文堂、1962年)

  • 井上鋭夫『山の民・川の民——日本中世の生活と信仰』(平凡社、1981年)

  • 上念司『経済で読み解く織田信長——「貨幣量」の変化から宗教と戦争の関係を考察する』(ベストセラーズ、2017年)

  • 今谷明『戦国三好一族』(新人物往来社、1985年)

  • 笠原一男『中世における真宗教団の形成』(山喜房仏書林、1957年)

  • 千葉乗隆『真宗の組織と制度』(法藏館、2001年)

論文

  • 辻井清吾「宗教的『講』にみる経済的意義——真宗を事例に」(『仏教経済研究』第48号、2019年)

  • 松尾一「蓮如教団における身分意識」(『久留米工業高等専門学校紀要』第18巻第2号、2003年)

史料

『実悟記拾遺』、『御文』、『天文日記』、『蓮如上人御一代記聞書』

※扉絵は、浄土真宗本願寺派第8世宗主・蓮如


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小林範之 最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。