3-16 宗教と階級と十年戦争①——織田・本願寺「十年戦争」の虚と実
「十年戦争」の虚と実
元亀元年(1570年)9月から天正8年(1580年)閏3月までの約十年間、織田信長と本願寺は断続的に戦い続けた。石山合戦と呼ばれるこの戦争は、しばしば「絶対権力者・信長」と「宗教的抵抗者・本願寺」の対決として語られてきた。しかし、この図式はどちらの側から見ても一面的で、現実離れしている。
まず織田の側を見る。信長は元亀4年(1573年)7月に将軍足利義昭を京都から追放した。室町幕府という政治秩序の中で「将軍を奉じて天下を安んずる」という大義は、義昭の追放によって消滅した。信長の軍事行動を正当化する公的な枠組みが失われたのである。
その影響は、家臣団の行動に直ちに表れた。将軍追放の翌月、天正元年8月の刀根坂の戦いでは、敗走する朝倉義景の残軍を追撃したのは信長率いる主力軍だけであって、事前に打ち合わせしていたにも関わらず、譜代の主要武将のほとんどが動かなかった。『信長公記』はこの場面を淡々と記しているが、主力武将が総司令官の追撃命令に従わなかったという事態は、組織としてきわめて異常である。
信長の統率力に急激な陰りが見え始めたのではないかと思わせる事象は義昭追放後の織田政権に繰り返し現れた。天正4年(1576年)5月の天王寺合戦では、本願寺勢に包囲された味方を救援するため信長が摂津に急行したが、動員できたのはわずか三千人であった。しかも、先陣を申し付けた荒木村重には断られ、信長もそれをあっさり認めている。自身が陣頭指揮に当たらなければならない状況の中で、信長は足を負傷している。天正6年(1578年)12月の有岡城攻めでは、信長は戦闘経験の少ない小姓出身の諸将——個人的な忠誠で結ばれた側近層——を前線に投入した。万見仙千代はこの戦闘で討死している。譜代の主力武将ではなく、自身との個人的紐帯に頼らなければ戦線を維持できなかったという事態が起こっていたのではないか。
家臣団が信長のために動かなくなった背景は一つではないだろう。義昭追放による公的大義の喪失、多方面作戦の負担など要因は複合的である。
しかし家臣団にとって恐怖の本質は、別のところにあったのではないか。天正4年(1576年)5月の天王寺合戦で塙直政が本願寺の軍勢に討ち取られた後、信長は塙の一族に対し、所領を没収した上で追放している。功績を積み重ねた譜代の武将であっても、敗北すれば一族もろとも排斥されてしまう。この現実は、前線に投入されることへの強い忌避感を譜代武将たちの間に生んだはずだ。先述の荒木に先陣を断られたのは、この塙一族の処分の直後であった。信長は本願寺との十年間の戦いの中で自軍の崩壊と戦い続けていた可能性は否定できない。もちろん、それは、信長と彼の家臣団という一元的なつながりで見るべきではない。戦国のプレーヤーは彼らの周囲にごまんといるのだ。毛利や武田、京都の公家や寺社、そして、彼らの背後には足利義昭という中世秩序の象徴としての権勢があった。信長と家臣団の間を割こうとする策謀は乱れ飛んでいたに違いない。
ではもう一方の本願寺の側はどうだったのか。門徒たちが武器を取った動機は、「信長」という個人への政治的抵抗だったのか。前節までに見てきたように、本願寺教団の基盤は、念仏を紐帯とする信仰共同体であった。講を単位とする相互扶助の組織があり、同朋・同行という横の結びつきがあり、山の民・川の民・移動民を含む非定住的なネットワークが、懇志《こんし》と呼ばれる自発的な喜捨によって経済的に支えられていた。門徒にとって守るべきものは、この信仰と生活が一体となった世界そのものであった。
神田千里は、本願寺の行動様式を次のように整理している。「本願寺の行動様式は世俗における支配権力を原則として承認し、仏法の領域に関してのみ独自の権利を主張するもの」(神田千里『一向一揆と戦国社会』)。これは重要な指摘である。本願寺は世俗権力そのものを否定したのではない。仏法の領域——念仏の実践、講の自治、門徒の信仰生活——を守ることが本願寺の行動原理であった。この原理は十年間の戦争を通じて一貫しており、最終的に正親町天皇の勅命という世俗権力の最高権威を顕如が受け入れたことも、この原理の帰結として理解できる。
ただし、この行動原理は教団の指導部と末端の門徒で異なる帰結をもたらした。顕如は勅命を受け入れて大坂を退去した。しかし、雑賀や加賀の門徒衆は顕如からの停戦命令に従わず、戦いを止めなかった。荒木村重の支城であった兵庫の花隈城にも本願寺方と連携した勢力が残り、講和後も抵抗を続けている。彼らにとっての脅威は、信長という世俗権力でも、天皇という権威でもなかったのだ。本願寺の統制下にあっても、彼らの目的は本願寺の目的とは一致していなかった。それ以上に戦わないといけない目的を持っていたということだ。
前節までに見てきた法華宗を基盤とする都市商業ネットワーク——堺の商人たち、火薬と鉄砲の供給網、京都の法華宗系町衆が築いた経済圏——が、自分たちの世界を圧迫しているという現実があったに違いない。その圧迫は信長の登場以前から存在しており、信長の軍事力はその構造の上に乗っていた。彼らは信長の登場以前から戦っていた。ということは、彼らは直接的には信長と戦っていたようであっても、真実は信長以外の敵と戦っていたということになる。
信長との戦いの約40年前の天文2年(1533年)、山科本願寺を焼き払った法華一揆は勢いに乗じ、細川晴元の軍勢とともに大坂本願寺を包囲した。山科を焼かれて大坂に逃れたばかりの本願寺にとっては、まぎれもない追い討ちであった。大坂本願寺はこの包囲を耐え抜いたが、城外に翻った「南無妙法蓮華経」の旗の記憶は消えなかったのではないか。石山合戦の最中に織田の軍勢が城外に陣を敷いたとき、その旗指物のなかに同じ題目を見た門徒たちが何を思ったか。長篠合戦図屏風に描かれた織田方の旗指物には「南無妙法蓮華経」の文字が確認できる。門徒にとって、40年の恨みを晴らすまでは屈することはできなかったはずだ。「南無妙法蓮華経」を掲げる集団が権力の中枢にある以上、彼らは戦い続けなければならなかったのだ。
石山合戦を「信長vs本願寺」の戦いとして語ることがこの構造を見えなくする——冒頭でそう述べた理由はここにある。
大坂本願寺寺内町の実態——「完全な自治都市」ではなかった
石山合戦において本願寺が拠ったのは、大坂の寺内町である。この寺内町の性格を正確に理解することが、戦争の構造を読み解く前提となる。
大坂の寺内町の起源は、明応6年(1497年)に蓮如が大坂の生玉荘に御坊を建立したことに遡る。天文元年(1532年)、山科本願寺の焼失を受けて本願寺証如がこの地に拠点を移し、以後、大坂は本願寺教団の本拠となった。寺内町は新屋敷・西町・北町・北町屋・南町・清水町の寺内六町に、あをや町等の枝町を加えた構成で、数千人以上の人口を擁していた。立地は渡辺津という水運の要衝であり、住吉・堺を経由して和泉・紀伊へ、あるいは京都・山陽方面へと通じる陸上交通の結節点でもあった。
この寺内町は、しばしば「本願寺が支配する自治都市」として語られてきた。しかし、今井修平の実証的な分析は、この通説に重要な修正を迫っている(今井修平「石山本願寺寺内町に関する一考察」1973年)。
今井によれば、本願寺が寺内町から直接収納していたのは地子のみであった。土地に対する年貢の収納権は、寺内町の外部にある上級領主——守護の細川氏や在地領主の山中蔵人——の手にあった。田中清三郎が本願寺を「一円的領主」と評したのは、今井の見解では史料の誤読に基づいている。さらに、寺内町の土地には本願寺以外の上級領主の得分権《とくぶんけん》が残存していた。天文7年(1538年)、本願寺は寺内の法安寺の寺地を鹿苑院(相国寺の塔頭)から「預かる」形で取得し、年間10貫文の地子を鹿苑院に納め続けた。百貫文を支払って完全に買い取ろうとしたが、鹿苑院はこれを拒否している(『鹿苑日録』)。大坂の寺内町は、本願寺の一円的な領地ではなかったのである。
しかし、本願寺が掌握していた権限がある。検断権——治安維持と司法権——である。本願寺はこの検断権を強硬に行使した。外部の武将の被官が寺内に持っていた家屋を闘所《けっしょ》(紛争物件)として没収し、返還要求を拒否した。在地領主の家臣の家屋も同様に没収し、「この地はすでにこちらの内に入っている」と言明している(『天文日記』)。
検断権を梃子にして、本願寺は事実上の下地進止権《したじしんしけん》——土地の処分権——を獲得していった。住民に対しては「真俗両界の領主」として振る舞い、守護の使者が寺内に立ち入ることを許さない守護使不入《しゅごしふにゅう》の原則を確立した。
石尾芳久はこの寺内町の法的性格を、中世ヨーロッパの教会が世俗権力から独立した裁判権を認められたインムニテート特権《Immunitätsprivileg》に比定している(石尾芳久『一向一揆と部落』1980年)。検断権と守護使不入という点ではこの比較は有効だが、土地所有の一円性を含意させるなら過大評価になる。大坂の寺内町は完全な自治都市ではなく、検断権という一点において強力な自治を実現しつつ、土地の権利関係は重層的なまま残されていた中世的な空間であった。
ここで重要なのは、寺内町には多様な住民がいたことである。住民は浄土真宗の門徒に限られず、武士の被官や商工業者も混在していた。寺内町の類型と住民構成については「寺内町——分類不能の都市空間」で論じた通りであり、本願寺陣営が農民だけで構成されていたという通俗的な理解はここでも成り立たない。
では大坂の寺内町の経済的基盤はどこにあったのか。今井はこの点について明確な結論を出している。大坂の寺内町の経済力は、摂津・河内・和泉の後背地に依存したものではなかった。本願寺はこれらの地域を領国的に支配していたわけではないからである。大坂の持久力を支えたのは、「加賀をはじめとする法王国」——つまり教団全体の広域的なネットワークであった(今井修平 1973年)。
ここに、前節までに論じてきた本願寺教団の構造が接続する。講を単位とする懇志の集積が各地から大坂に送られた。諸国の門徒ネットワークを通じて兵糧が輸送された。山の民・川の民を含む移動民の交易路が物資の流通を担った。大坂の寺内町が十年間にわたって織田の軍事的圧力に耐え得たのは、寺内町単体の商業力によるのではなく、教団全体のネットワークに依存していたからである。このネットワークの具体的な姿——念仏によって結ばれ、講によって組織され、移動民によって運ばれる——は、これまでの節で積み上げてきた通りである。
逆に言えば、このネットワークが切断されたとき、大坂本願寺は持ちこたえられなくなる。石山合戦の十年間は、織田がこのネットワークを各地で個別に破壊していく過程でもあった。長島(天正2年)、越前(天正3年)、加賀(天正8年)。これらの一向一揆の壊滅は、大坂本願寺から見れば補給線の切断であり、教団ネットワークの縮小であった。四度の講和交渉において本願寺の条件が回を追うごとに悪化していった背景には、外部同盟者の消滅だけでなく、教団ネットワークそのものの収縮があった。
引用文献
書籍
神田千里『一向一揆と戦国社会』(吉川弘文館、1998年)
神田千里『一向一揆と真宗信仰』(吉川弘文館、2005年)
井上鋭夫『本願寺』(至文堂、1962年)
石尾芳久『一向一揆と部落』(解放出版社、1980年)
河内将芳『日蓮宗と戦国京都』(淡交社、2013年)
今谷明『天文法華の乱——武装する町衆』(洋泉社MC新書、2009年)
湯浅治久『戦国仏教』(中公新書、2009年)
出口治男『一向一揆余話』(法蔵館、1984年)
上念司『経済で読み解く織田信長』(ベストセラーズ、2017年)
河内将芳『中世京都の都市と宗教』思文閣出版、2006年
谷川健一の出典を『青銅の神の足跡』(集英社文庫、1989年)
鎌田茂雄の出典を『一遍 大地を往く』(集英社、1985年)
ルイス・フロイス『日本史』(松田毅一・川崎桃太訳、中央公論社)
論文
今井修平「石山本願寺寺内町に関する一考察」(『待兼山論叢』史学篇6号、1973年)
石尾芳久「石山本願寺合戦の意義」(『関西大学法学論集』41巻5・6号)
樋口大祐「一向一揆と文学・序論」(『國文論叢』30号、2001年、神戸大学)
史料
『信長公記』
『天文日記』
『鹿苑日録』
『言継卿記』
『細川両家記』
『鷺森旧事記』
『多聞院日記』
『顕如上人文案』
『己行記』
『朝倉記』
『本圀寺文書』
『イエズス会日本年報』
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最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。