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3-9 時衆と真宗の交渉——蓮如による念仏宗の再編成


すでに耕されていた土壌——蓮如以前の北陸と時衆

真教が越前国府に入ったのは正応3年(1290年)のことだった。それからおよそ180年後の文明3年(1471年)、一人の僧が越前国吉崎の丘に立った。本願寺第八世、蓮如である。
 蓮如が見た北陸の風景は、真教が歩いた頃とは大きく変わっていたはずだ。しかし、真教とその弟子たちが建てた道場は各地に残っていた。時衆の遊行聖たちが念仏札を配って歩いた記憶は、人々のあいだに生きていた。越前の称念寺は時衆の中心道場として機能し続けていたし、加賀や越後にも念仏の拠点が点在していた。北陸の土壌には、180年間の念仏信仰が染み込んでいた。
 歴史家の出口治男によると、中世に多かった時衆の寺院の大部分は、蓮如以降、真宗に改宗したという。ということは、蓮如が北陸に乗り込んだとき、そこにはすでに時衆が耕した土壌が広がっていたことになる。蓮如はゼロから信仰を広めたのではない。
 しかも、その土壌は純粋な「時衆」でもなかった。北陸の念仏信仰は太子信仰の比重が大きく、修験道的な山岳信仰を伴い、諸国の聖や白山信仰圏の修験者たちが持ち込んだ呪術的要素も混在していた。そのそも親鸞の布教根拠地は関東であって北陸にはなかった。にもかかわらず北陸に念仏の基盤があったのは、真教ら時衆と、遊行者や修験者たちが先行的に念仏を浸透させていたからだ。井上鋭夫が「鎌倉期以降『遊行』によって広まった念仏が真宗弘通の基礎をなしている事実を見るべきだ」と記した通りである。
 「時衆」と「真宗」の混同は、蓮如の登場以前からすでに起こっていた。それらの間に明確な区別は存在しなかったのだ。念仏を唱え、阿弥陀に帰依し、太子を拝む。それが彼らの信仰であり、宗派の名前は二の次だった。むしろ、中世の混沌とした宗教観に照らし合わせば、宗派を分けようとする現代人の感覚こそ、ナンセンスである。蓮如が足を踏み入れたのは、信仰が混沌とした、しかし豊かな念仏の土壌の上だった。

吉崎の丘から——蓮如の登場と御文が担った役割

蓮如(1415〜1499年)が本願寺第八世を継いだとき、本願寺は零落の極みにあった。京都の本願寺は比叡山延暦寺の圧迫を受け、寛正6年(1465年)には堂舎を破却されている。蓮如は京を追われ、近江の金森や堅田に身を寄せながら教化を続けたが、比叡山との軋轢はやまなかった。「恐ろしき山かな」、これは京を追われる際に蓮如が発した言葉である(井上鋭夫『本願寺』)。いかに比叡山が暴力的であったか想像がつく。
 文明3年(1471年)、蓮如は越前国吉崎に御坊を建立する。57歳のことである。吉崎が選ばれたのは偶然ではない。この地は南都興福寺大乗院門跡の荘園であり、経覚の母・正林は本願寺六世綽如の娘とされ、蓮如とは母系の血縁関係にあった。その庇護が期待できた。加えて荘園の別当をつとめていたのは真宗の本覚寺であり、政治的にも信仰的にも足場があった。そしてなにより、真教以来の時衆と、高田派をはじめとする浄土系信仰がすでにこの地に浸透していた。蓮如は計算の上で北陸を選んだのだ。
 しかし、吉崎で起きたことは蓮如の計算を超えていた。北陸中から門徒が押し寄せた。門徒たちが居住・宿泊するための多屋(たや)が次々と建てられ、馬場大路の南北に大門が構えられ、棟数は200軒に及んだ。蓮如が吉崎に移ってわずか数年のことである。蓮如自身はこの急速な発展を振り返って、こう述べている。

 「其謂(いわれ)は、ひたすら佛法不思議の威力なりしゆえなり。」

 自分の手柄とは言わなかった。仏法の力だ、と。この言葉には蓮如の謙遜があるだろう。しかし同時に、一つの事実を指し示してもいる。吉崎の爆発的な繁栄は、蓮如一人の力で説明できるものではなかった。時衆の遊行聖たちが歩き続けて耕した念仏の土壌が、蓮如という触媒に反応して一気に噴き出したのだ。吉崎の繁栄は、180年にわたる地下水脈の噴出だった。
 蓮如が吉崎に持ち込んだもののなかで、最も大きな力を持ったのは、御文(おふみ、御文章とも)だった。蓮如は各地の門徒に宛てて書状を書いた。平易なひらがな交じりの文で、教義の核心を手紙として伝えた。吉崎移転以前に書かれた御文はわずか数通にすぎないが、吉崎の5年間で78通が書かれている。御文は門徒のあいだで書写され、回覧され、道場で読み上げられた。当時は文字を読めない者も多く、読める者が声に出して読み、他の者がそれを聴聞した。
 同時に蓮如は六字名号の本尊を自ら墨書し、門徒一人ひとりに授与した。これも記録によれば、多い日には一日に200枚から300枚をしたためたという。さらに蓮如は、朝夕の勤行に正信偈と和讃を導入し、文明5年(1473年)にはその開版も行った。そして門徒の寄合い——互いに語り合う場——を組織し始めた。この寄合いが、のちの講へと発展していく。御文、六字名号、正信偈と和讃、寄合い。蓮如の教化を特徴づけるこれらは、すべて吉崎移転後に整えられたものだ。
 これらが果たした役割は、信仰の媒体そのものを変えたことにある。時衆の信仰は、踊り念仏という身体的実践と、遊行聖による口頭の伝達に依存していた。声と身体が信仰の媒体だった。御文はこれを、文字と読誦の信仰に転換した。道場に集まった門徒たちが御文を聴聞する。同じ文章を、同じ場で、繰り返し聴く。遊行聖が去った後も、御文はそこにある。蓮如は文字によって、信仰を遊行者の身体から切り離し、場所に定着させたのだ。
 加えて、蓮如は報恩講(ほうおんこう)を組織化した。親鸞の命日を中心とする定期的な集会であり、門徒たちが道場に集まり、御文を聴き、念仏を唱え、食事を共にする。一回限りの法悦ではなく、暦に組み込まれた反復的な行事。踊り念仏が「いま・ここ」で一瞬だけ生まれる共同性だったとすれば、報恩講は「毎年・この場所で」繰り返される共同性だった。

転派の波紋——時衆寺院の改宗と、踊りの記憶

蓮如の北陸布教は急速に成果を上げた。吉崎御坊には門徒が殺到し、周辺には寺内町が形成されていく。そしてこの過程で、北陸各地の時衆寺院が次々と真宗に転派した。
 この現象を「本願寺による時衆の吸収」と見るのは一面的である。転派した寺院の門徒たちは、踊り念仏の身体記憶、遊行の習慣、修験的な呪術への親しみを持ったまま真宗に入った。宗派の看板は変わっても、身体に刻まれた信仰の形はそう簡単には消えない。
 その証拠がある。江戸時代の初めに書かれた『宗乱記』は、三河の一向一揆について次のように記している。「手の舞、足の踏むことも、皆報仏応化の妙用にして、自力にあらず」。出口治男はこの記述を「本願寺の念仏流儀ではない」と指摘し、一遍の歌「はねばはね踊らばをどれ春駒の のりの道をばしる人ぞしる」との連続を示した。蓮如以降に「真宗」を名乗った集団のなかに、時衆的な身体性は残り続けていたのだ。三河の門徒たちは座って聴聞するだけの信者ではなかった。手を舞わせ、足を踏み鳴らし、身体ごと念仏の中に入っていく。それは一遍の踊り念仏の残響にほかならない。
 ここで呼称の問題に触れておく必要がある。蓮如以降の北陸で門徒たちが急速に膨張していくと、外部からはこの集団を「一向宗」と呼ぶようになった。「一向」とは「ひたすらに」「一筋に」という意味だが、この呼称は本願寺が自ら名乗ったものではない。時衆の一派である一向俊聖の流れ、一遍の時衆、そして本願寺の門徒——念仏を唱える集団を外部の権力がまとめて「一向宗」と括ったのだ。外部から見れば、どれも同じ「念仏の群れ」だった。時衆と真宗の区別は、外から見る分にはほとんど変わらなかったのである。
 蓮如自身はこの混同を苦々しく見ていた。蓮如は繰り返し述べている。「この宗は浄土真宗であって一向宗ではない」。覚如の『改邪抄』の立場を継ぎ、一遍の流れを汲む信仰を明確に否定した。のちに一向一揆が旗印に掲げることになる『厭離穢土・欣求浄土』は、源信の『往生要集』に由来し、浄土教全般で広く用いられてきた語で、『一遍語録』にも見える。覚如の『改邪抄』でも蓮如の御文でも、本願寺派からはこの考えは強く退けられている。しかし蓮如の門徒たちの実態は、まさにその「一向宗」的な混沌を内に含んでいた。神田千里が紹介する『日欧文化比較』には、「一向宗は祈祷師・陰陽師、山伏、医者などのこと」とあり、真宗が外部からどのように見えていたかを端的に示している。蓮如が排除しようとしたものは、蓮如の教団の内側に住みついていた。
 ここに「交渉」の本質がある。蓮如は時衆的なものを取り込もうとしたのではなく、むしろ排除しようとした。しかし北陸の信仰そのものが時衆のものであった以上、完全な排除は不可能だった。蓮如が真宗として再編成した教団は、蓮如の意図を超えて、時衆的な身体性を内包し続けた。真宗が時衆を一方的に吸収したのではない。時衆の土壌が真宗を内側から変容させたのだ。

踊りから講へ——身体性の変容と「同朋同行」の論理

時衆的な信仰の形を整理しておこう。踊り念仏は身体的・即興的・パフォーマンス的な実践だった。賦算は念仏札を手渡す一回性の出会いであり、遊行は一所不住の移動そのものだった。集団が一つになる瞬間は、踊りの渦の中にあった。トランスとエクスタシーの中で、浄不浄の区別が身体的に失効する。しかしその一体感は、踊りが終われば散じてしまう。
 蓮如が組織した信仰の形は、これとは根本的に異なる。講(こう)と呼ばれる結社が、真宗の成立と発展を支えた。井上鋭夫の『本願寺』によれば、本願寺の財源は講からの貢金や謝礼であり、山間部のろくろ師集団、白山系念仏集団なども講として組織され、道場が置かれたとされる。講は信仰の集まりであると同時に経済的な相互扶助の仕組みでもあった。その経済的な詳細は別のところで見ることにするが、ここで重要なのは、講が信仰を「場所」に繫ぎ止めたという点だ。
 踊り念仏は遊行者の身体の上にあった。遊行者が去れば念仏も去る。講は違う。道場があり、門徒がいて、御文がある。遊行者がいなくても、講はその場で継続する。踊りの渦の中では、浄不浄の区別が身体的に失効した。講の場では、異なる身分の人々が同じ御文を聴いた。同じ「平等」ではない。しかし、念仏のもとに人が集まれば区別が薄れるという構造は、形を変えて引き継がれている。
 『歎異抄』に記された親鸞の言葉に「弟子一人も持たず候」とある。如来の前では師弟の上下がなく、皆等しい仲間である。蓮如はこの精神を「御同朋・御同行」という語に結晶させた。敬語をつけて「御」をかぶせたのは、対等な関係への敬意を含意している。一遍の踊り念仏が身体の次元で実現した平等を、蓮如は文字と場の次元に翻訳したとも言える。
 しかし、場の創設という制度化は身体性の喪失でもある。踊りのトランスは失われ、座って聴聞する静的な身体に置き換わった。声を張り上げて踊り狂う信仰が、正座して御文を聴く信仰に変わる。この転換によって得られたものは、持続性と組織力だった。
 時衆のネットワークが「踊る道」だったとすれば、蓮如が築いたのは「座る場」だった。しかし、道自体が消えたわけではない。聖や陰陽師、鍛冶師や木地師たちは依然として歩き続けていた。蓮如が加えたのは、道の結節点に「場」を据えたことだ。場があれば、人は繰り返し集まることができる。蓮如の再編成とは、念仏を道の上から場の中へ、一回性から反復へと重ね直すことだった。

結び——念仏の来歴から、共同体の姿へ

末法の時間意識が人々の足元を揺らし、聖徳太子信仰が、その未来の訪れを告げた。一遍は踊り念仏という身体的爆発をもって、末法の地層に溜まったエネルギーを解放した。真教は一遍の念仏を道の上に載せ、遊行のネットワークを列島に張り巡らせた。そして蓮如は、そのネットワークの上に「場」を築いていった。御文という文字を、講という制度を、報恩講という年中行事を。念仏は、それぞれの身体から集合的な組織へと、その媒体を変えながら続いていった。
 信仰の継続性はそれでよい。しかし、もう一つ問いが残っている。道場に誰が集まってきたのか注目しなければならない。座って聴聞する人々は農耕民や漁労民ばかりではない。山の民や川の民という非農耕民がいた。鍛冶師木地師という非定住民もいた。そして当時、癩者(らいしゃ)と呼ばれ、酷い差別を受けていたハンセン病者がいた。彼らはなぜ、この場に集まることができたのか。講という組織の持つ吸引力と包摂の力は何であったのか。「浄不浄を問わない」という一遍の原理は、蓮如の教団のなかでどのように受け継がれたのか。
 次節以降は「共同体の結び」を見ていく。


引用文献

書籍

  • 出口治男『一向一揆余話』(方丈堂出版、2002年)

  • 神田千里『一向一揆と真宗信仰』(吉川弘文館、1991年)

  • 井上鋭夫『本願寺』(至文堂、1962年)

  • 井上鋭夫『山の民・川の民——日本中世の生活と信仰』(平凡社、1981年)

  • 平岡聡『南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経』(新潮社、2019年)

Web記事

  • 「【五十五】「蓮如上人の行実 その二」~吉崎での教化~」(真宗興正派本山興正寺)

  • 「蓮如上人の御生涯16『吉崎での教化』」(浄土真宗本願寺派教念寺)

  • 「吉崎御坊三大奇瑞について」(本願寺眞無量院吉崎御坊)
     

※写真は、富山県南砺市寿川地区に残る本願寺派の道場「寿川念仏道場」


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小林範之 最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。