「巨大古墳の編年」所感
「万世一系は継体天皇から」で使った「巨大古墳の編年」表ですが、これを眺めていると、いろんなことが想像できてきます。そういうことで、今回は、雑想をつらつら書き連ねてみました。

■柳本古墳群と物部氏
柳本古墳群は前方後円墳の立ち上がりとしては最も古いもので、弥生時代から続く纏向の巨大都城の延長にあるのは明白です。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとかいう情報は、最近テレビ番組の特集でも見ました。
しかし、私は邪馬台国はどこか、という問いではなく、全く違う、別の観点が見えてきました。記紀でいう神武天皇の東征との関係です。
神武天皇が戦った旧勢力は長髄彦という在地の首長でした。『日本書紀』によれば、天から降ってきた饒速日命が長髄彦の妹・三炊屋媛を娶り、ウマシマジ(可美真手命)が生まれ、このウマシマジこそが物部氏の祖であるとされています。つまり長髄彦は、饒速日命を主君として仰ぐ在地勢力ですが、姻戚関係を通じて物部氏の系譜に連なる人物とされます。そして、石上を拠点に持つ物部氏の根拠地もこの古墳群の中に含まれます。私が、神武天皇の東征と見立てているのは、応神天皇の東征です。応神天皇も神武天皇と同じように九州から攻めあがってきます。12代景行天皇陵とされる渋谷向山古墳を最後にぷっつり切れていることから、ここで政権交代があったように思えます。
同じ4世紀後半(370〜390年頃)、佐紀盾列古墳群のほうに目をやると、13代成務天皇陵とされる佐紀石塚山古墳と11代垂仁天皇陵とされる宝来山古墳が目に留まります。応神天皇が九州から攻めあがって来た時、瀬戸内の海人族使ってそれを妨害したのが、異母兄である麛坂王と忍熊王であったといいます。表を眺めていると、この麛坂王と忍熊王こそ、成務天皇と垂仁天皇とされる人物のように思えてきます。なぜなら、佐紀盾列古墳群は海人族と関係の深い、和珥氏と息長氏であるとされるからです。
応神天皇の治世は武内宿祢が常にそばにいて、政権運営をサポートしたといわれます。武内宿祢は葛城氏の人物。そして、その息子とされる葛城襲津彦は17代履中天皇、18代反正天皇、19代允恭天皇の外戚となって応神天皇に始まるいわゆる「河内王朝」を支えたといわれます。表の中にある、室宮山古墳は葛城襲津彦の陵墓とする説が有力視されています。こうしてみると、応神天皇の勢力が葛城氏の力を借り、物部・和珥・息長連合政権を打倒したように見えます。
さらに、『日本書紀』顕宗即位前紀では、弘計王(のちの顕宗天皇)が次の歌を詠んでいます。
石上振之神榲、榲、此云須擬。伐本截末、伐本截末、此云謨登岐利須衛於茲波羅比。於市邉宮治天下、天萬國萬押磐尊 御裔、僕是也。
意訳すると、王権の象徴である石上(いそのかみ)の布留(ふる)に立つ神聖な杉の木は、(何者かによって)根元から切り払われ、なぎ倒された。市辺(いちのへ)の宮にて天下を治められた、天萬國萬押磐尊(あめよろずくによろず おしはのみこと)の御子孫こそ、私です、となります。石上の布留とは物部氏の本拠地。そこに立つ神聖な杉の木が、(何者かによって)根元から切り払われ、なぎ倒されたといっているのだから、これこそが、応神天皇による政権の簒奪ではないでしょうか。
その意味でも、渋谷向山古墳に眠るとされる12代景行天皇こそ、神話で神武天皇に討たれた、長髄彦、あるいは饒速日命を主君として仰いだその一族であったのかもしれません。

■河内王朝の始まりから終わりまで
記紀では神功皇后の三韓討伐の帰途、応神天皇は九州で生まれ、その後畿内に攻め上り、政権に就くわけですが、「巨大古墳の編年」表では、すでに河内にある程度の規模の政権が存在していたことが分かります。古市古墳群の中でも最大の、誉田御廟山古墳が第15代応神天皇の墳墓とされるわけですが、それよりも前に仲ツ山古墳や津堂城山古墳がその地に存在します。ちなみに、仲ツ山古墳は応神天皇の妃である仲姫命、あるいは14代仲哀天皇の陵墓であるとも言われます。そして、津堂城山古墳は、仲哀天皇、あるいは仲哀天皇の父・ヤマトタケル、あるいは応神天皇に滅ぼされた忍熊王と、埋葬者ははっきりしません。記紀において、仲哀天応は妻である神功皇后の三韓討伐に反対したことで神意に当たり亡くなってしまいます。ほとんど事象の残っていない天皇で、実在性の低い天皇の一人と言われます。ということは、応神天皇の出自は非常に不明確であると言わざるを得ません。その上に、柳本古墳群の物部氏?は滅ぼしたものの、佐紀楯列古墳群の和珥氏・息長氏は依然として健在に見えます。いずれにしても大和の政権は健在で、応神天皇の河内の政権と併存期間があったことが分かります。
5世紀前半は河内に誉田御廟山古墳、和泉に大仙陵古墳(16代仁徳天皇)と巨大な前方後円墳の建造が続き、大勢は明らかに大和から河内・和泉に移ったように見えます。また、出現した時期や古墳が大規模化した時期も同じため、河内・和泉の政権は同族のように見えます。しかし、応神天皇の息子が仁徳天皇で、仁徳天皇の三皇子が、順番に17代履中天皇、18代反正天皇、19代允恭天皇と皇位を継いでいったかというとそのように見ることは困難です。河内・和泉に分かれた氏族が兄弟や従兄弟に分かれ、互いに政権を奪い合ったようにも見えます。
5世紀末に政権に就いた22代雄略天皇は、皇位継承権を持った身内や他の豪族を滅ぼしたことが記紀に書かれていますが、これはかなりの程度事実であったように見えます。佐紀楯列古墳群の系統はヒシアゲ古墳を最後に古墳が作られなくなります。馬見古墳群でも先細っていった後に、狐井城山古墳を最後に古墳が作られなくなります。百舌鳥古墳群でも18代反正天皇陵とされる田出井山古墳が最後になります。継承権を持つ首長の数が減り、古市古墳群の氏族に政権が統一されていったようにも見えますが、雄略天皇の死後、皇位継承者がいなくなってしまったという記紀の伝承を考えると、統一イコール、系譜存続の危機でもあったわけです。
いずれにしても、北陸にいた、応神天皇の血を引くヲオド王(継体天皇)に政権が移り、その子である27代安閑天皇陵は、応神天皇の系列である古市古墳群内に築造された、というので、ストーリーは当てはまります。
ここで興味深いのは、応神天皇と息長氏の関係です。息長氏は『新撰姓氏録』によれば、応神天皇の皇子・稚野毛二俣王を祖とする皇別氏族とされ、その子である意富富杼王が息長氏をはじめとする三国君・坂田酒人君など複数の氏族の共通の祖となったと伝えられます。一方、ヲオド王(継体天皇)自身の系譜も、応神天皇→若野毛二俣王→意富富杼王→乎非王→彦主人王→継体天皇という流れで遡るとされ、息長氏とはまさに意富富杼王を共通の祖とする同族関係にあったことになります。実際、継体天皇は即位後20年を経て、最終的に磐余玉穂宮(現・奈良県桜井市)に宮を構えますが、この地は息長氏系の拠点とされる忍坂に近接しています。北陸から迎え入れられたヲオド王が大和に根を張るにあたり、この同族的なつながりが何らかの地盤として機能した可能性は、興味深いところです。
そして、その後、6世紀も中葉に入り、第28代宣化天皇陵であるとされる鳥屋ミサンザイ古墳、第29代欽明天皇陵とされる五条野丸山古墳と、継体朝は先祖の地、大和へ還っていったのです。
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最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。