3-13 加賀百年——「百姓の持ちたる国」の統治機構
「百姓ノ持チタル国ノヤウニナリ行キ候」
本願寺の連枝(れんし)——法主の一族——である実悟が記した『実悟記拾遺』にこの一文がある。門徒の蜂起を賞賛しているわけでも、百姓の統治能力を讃えているわけでもない。記録を読む限り、そこにあるのは“驚き”である。守護も守護代もいない。幕府が任命した統治者が不在のまま、国が回っている——こんなことが起きている、という報告に近い。
加賀の一向一揆は、1488年(長享2年)の高尾城陥落から、1580年の織田軍による尾山御坊制圧まで、およそ90年にわたって続いた。守護を倒した門徒と国人が、戦国大名を置かずに一国を運営した。この事実だけを取り出せば、中世日本で最も長く持続した民衆自治の事例ということになる。しかし、90年の内実は単純ではない。
加賀は、本論考が問い続けてきた「空位の中心を持つ共同体」の、最も具体的な実例である。蓮如という象徴的中心はすでに加賀を去り、守護という権力的中心は門徒と国人の手で倒された。中心が「空」のまま、年貢の徴収、軍事動員、対外交渉、紛争の調停が90年にわたって続いた。誰がどのような仕組みでそれを担ったのか。なぜ90年も持ちこたえたのか。そしてそれがどう崩壊したのかを見ていきたい。
1488年、高尾城陥落——守護が消えた国
長享2年(1488年)、加賀守護・富樫政親の居城である高尾城が陥落し、政親は自害した。この事件が「百姓の持ちたる国」の起点である。しかし、それは突然起きたわけではなく、前史がある。文明6年(1474年)、蓮如が吉崎坊舎にいた時期に、加賀の門徒はすでに武力衝突を経験していた。加賀守護の富樫氏は兄弟で分裂し、政親と幸千代が対立していた。蓮如は日野一流の縁から東軍方、つまり、富樫政親を支持する立場にあり、門徒はこの抗争に動員された。松尾一の研究によれば、文明5年には吉崎坊舎の「要害化」が進められ、坊舎に詰める僧侶集団である他屋衆(たやしゅう)への軍事的動員の準備がなされていた。蓮如は平和主義者として語られることが多いが、この時期の動きはそれとは異なる。文明6年10月8日付の門徒宛て御文に関連して、蓮如が太刀を新調していた事実が指摘されている(辻川達雄『蓮如と七人の息子』)。武力行使を完全に排除する立場にはなかったと見るべきだろう。
文明7年(1475年)、一揆の拡大は加賀だけでなく越前にも波及していた。吉崎坊舎は越前国内にある。越前の領主である朝倉氏にとって、自国内で門徒の軍事拠点が膨張し続ける事態は容認できるものではなかった。蓮如はこの地にとどまることが本願寺そのものを危険に晒すと判断し、吉崎を退去した。河内出口に移った蓮如は、以後、加賀の地に戻ることがなかった。しかし門徒の運動は止まらなかった。越中では文明13年(1481年)、田屋川原の戦いで一向一揆勢が砺波郡の在地豪族・石黒光義と天台宗の医王山惣海寺の連合軍を破っている。北陸における門徒の軍事的実力は、蓮如の不在にもかかわらず増大し続けた。
長享2年(1488年)、決定的な事態が起きた。富樫政親は将軍足利義尚の近江六角氏への親征に従軍し、その戦費の負担を国内に求めた。これが国人層の離反を招いた。高尾城を攻め落としたのは門徒たちだけではない。守護の課す負担に耐えかねた国人たちが門徒の軍事力と合流し、惣国一揆とでも呼ぶべき広範な連合が形成された。門徒には講を通じた資金力と動員力があり、国人には軍事指揮の経験と在地の人脈があった。政親の戦費徴収という共通の不満が両者を結びつけ、信仰の紐帯と経済的利害が重なった時に、守護を打倒する力が生まれた。
加賀の統治——講・一門衆・国人の三者構造
1488年以降の加賀に、守護はいなかった。信仰の中心である蓮如もいなかった。1475年に吉崎を去った蓮如は加賀に戻らず、1499年に山科で没した。加賀の門徒にとって蓮如は「象徴的中心」ではあったが、統治の現場にはいなかった。蓮如の子息である蓮綱(れんこう)・蓮誓(れんせい)・蓮悟(れんご)が加賀に残り、それぞれ本泉寺・松岡寺・光教寺を拠点とした。後にこれらは「賀州三ヶ寺」と呼ばれ、願得寺を加えて「一門四ヶ寺」となる。
法主の血脈を引くこれらの寺院とその住持は「一門衆」と呼ばれた。しかし、一門衆は宗教的権威の代行者であって、戦国大名のような統治者ではなかった。彼らは蓮如の血脈を引く存在として門徒の尊崇を集めたが、国政を単独で決定する権限も、軍事を一元的に指揮する機構も持たなかった。小林忠雄が指摘するように、加賀の一向一揆を率いた大寺院は「大坊主」と呼ばれ、門徒からは威厳ある指導者として敬われたが、その権威は制度的な統治権とは別のものであった。
実際の意思決定と資源配分を担ったのは「講」である。「3-11 講の経済」で論じたように、講は信仰的な結社であると同時に、経済的な互助組織であり、懇志(こんし)と呼ばれる金品の拠出を通じて本願寺への財政的貢献を果たしていた。加賀にもこの講が地域ごとに組織され、門徒の日常的な意思決定の単位であると同時に、軍事動員の基盤でもあった。
ただし、「3-11」で見たように、講における「同朋精神」や「平等原理」をそのまま額面通りに受け取ることはできない。蓮如が文明5年に超勝寺門徒の「寄合」を批判した「御文」にはこうある。
「座衆とてこれあり。いかにもその座上にありて、さかずきなんどまでもひとよりさきにのみ、座中のひとにも、またそのほかたれたれにも、いみじくおもわれんずるが、まことに仏法の肝要たるように、心中にこころえおきたり。これさらに往生極楽のためにあらず。ただ世間の名聞ににたり」
上座に座り、盃を人より先に受け、周囲から立派だと思われたがる。それを仏法の肝要だと心得ている。だがそれは往生極楽とは何の関係もない、ただの世間体である——蓮如はこの「御文」でそう断じている。蓮如は「信心の沙汰」の場としての講を理想としたが、実際の講には固定的な上座の構成員が存在し、信心の議論より序列が優先されていた。講は信仰の場であると同時に、「懇志」と呼ばれる金品の賦課と軍事的動員を含む「宗教役」を門徒に課す制度でもあった。藤木久志の指摘に従えば、懇志は自発的な布施ではなく「毎年の約束物」であり、実如が六日講に宛てた請取状には「年貢」と記されたものすら存在する。
したがって、加賀の統治構造は以下のように整理できる。一門衆は宗教的権威として門徒を束ね、国人は軍事力と在地支配の経験を提供し、講は資金・物資・労働力の動員を行う。この三者の役割分担の中で、加賀は守護なき国として回り続けた。戦国大名のような一元的支配の構造ではないが、権力がなかったわけではない。それは三者に分散していたのだ。
内部矛盾——享禄錯乱と大名化
守護を倒した加賀の一揆勢は、やがて越前への侵攻に踏み切った。永正3年(1506年)の九頭竜川の戦いである。越前の朝倉貞景との武力衝突において一揆勢は大敗を喫し、同時期の般若野の戦いでも損害を受けた。周辺国に軍事力を行使しようとした時、一揆の限界が露呈した。
しかし、加賀一向一揆にとって最も深刻な打撃は外部からではなく内部から生じた。享禄4年(1531年)に発生した「享禄錯乱」である。
この内紛の構図はこうだ。一門四ヶ寺——本泉寺・松岡寺・光教寺・願得寺——は蓮如の子息を擁する旧来の支配層であり、「小一揆派」と呼ばれた。これに対し、越前から亡命してきた超勝寺・本覚寺の勢力が本願寺中央(宗主証如)と結びつき、「大一揆派」として台頭した。超勝寺実顕の妻と証如の母が姉妹であったという縁戚関係が、この新興勢力に本願寺中央の後ろ盾を与えた。
享禄4年5月、両派の対立は武力衝突に発展した。朝倉氏が小一揆派を支援する名目で加賀に侵攻し、石川郡域にまで入った。本願寺は大一揆派を強力に支援した。結果、長く加賀を率いてきた一門四ヶ寺はことごとく退転し、洲崎氏など有力指導者たちも越前や能登に亡命を余儀なくされた。享禄錯乱は、本願寺中央による一門衆の粛清である。分散的な権力に対して、中央集権化の圧力が加えられた。「象徴的中心はあるが権力的支配なき共同体」は、その象徴的中心である本願寺自身の手によって、権力的支配の構造へと書き換えられ始めたのだ。
享禄錯乱以後、加賀の統治は大きく変質する。天文15年(1546年)には金沢に御坊(尾山御坊、のちの金沢御堂)が設置され、本願寺から派遣された坊官が統治の実権を握るようになった。坊官の代表格である下間頼照(しもつまらいしょう)の行動は、もはや戦国大名のそれと区別がつかない。下間頼照は朝倉氏旧臣・三輪藤兵衛の知行を「義景御時の如く」安堵し、在地の武士を軍事力として確保した。府中辺の郡司七里頼周の配下は南条郡に赴いて「指出」(さしだし)を徴収している。指出とは、村人に年貢額を報告させ、納入を誓約させることを意味する。これは戦国大名の領国支配そのものであった。
同様の変質は越前でも進行していた。天正元年(1573年)に朝倉氏が滅亡した後、越前は一向一揆の支配下に入ったが、加賀から派遣された坊官の統治に越前の門徒は強く反発した。越前には十七の講が組織されており、その指導者たちの不満は明確だった。坊主たちが「百姓を下部や下人のごとく扱う」こと、門徒が命がけで切り取った国を本願寺派遣の「上方ノ衆」がもっぱら支配していること。十七講の間には「大坊主討つべし」の声が高まった。
これを察知した本覚寺は先手を打った。天正2年(1574年)7月14日、十七講主の一人である志比の林兵衛が盆の念仏参りに北庄に来たところを、喧嘩に事寄せて殺害した。続いて丹生郡天下村の川端、吉田郡河合の八杉、坂井郡本庄の宗玄など、一揆の指導者たちが次々に襲撃された。講という横のネットワークの指導者たちが、宗教権力の側から粛清されたのである。
ここに至って、「百姓の持ちたる国」という言葉の意味は決定的に変わっている。門徒が自らの手で守護を倒し、講を基盤として国を運営した時代は過ぎ去っていた。加賀は、本願寺の坊官が戦国大名の手法で統治する「宗教領国」へと変質していた。
尾山御坊——坊官統治と対外戦争
天文15年(1546年)に建設された金沢御堂、すなわち尾山御坊は、加賀一向一揆の制度化を象徴する存在だった。もはや講と一門衆と国人の三者構造によって緩やかに運営されることはなくなった。本願寺の出先機関が国政の中心に座り、年貢を徴収し、知行を安堵し、城を築き、兵を動員した。
元亀3年(1572年)、一向一揆勢は越中で上杉謙信と衝突した。尻垂坂(しりたれざか)の戦い(現・富山市西新庄付近)である。一揆勢は大敗した。加賀本国での戦闘ではなかったが、越中の喪失は加賀の防衛線が後退したことを意味した。この時期の加賀一向一揆は、周辺の戦国大名と軍事的に対峙する存在になっており、機能的には一つの戦国大名領国と同等であった。加賀と連携する越前の一揆勢もまた、織田信長の攻勢に備えて軍事体制を整えていた。嶺北と嶺南を分ける山々に城が築かれ、木ノ芽城には下間頼照の兵が、鉢伏城には専修寺や諸寺が守備兵として入った。城の普請のために、本願寺から派遣された有力寺院(一家衆)や大坊主の所領から15歳以上60歳以下の者が「一人も残さず」動員された。
この動員の徹底ぶりは、もはや門徒の自発的な結集ではなく、領主権力による強制的な徴発であった。道場坊主を排して門徒を直接動員する体制が強められ、軍事力強化のために越前海岸の集落が一家衆に「門徒の地」として与えられた。講の経済的紐帯が政治化し、やがて軍事化し、ついには戦国大名の領国支配と見分けがつかなくなった。この変質の過程そのものが、加賀一向一揆の90年間の核心にある。
終焉——陥落と戦後処理
天正8年(1580年)、加賀の尾山御坊は織田信長の軍勢の前に陥落した。同年、本願寺顕如は正親町天皇の勅を介した和睦の仲介を受けて大坂本願寺を退去した。
白山麓では天正10年(1582年)まで最後の抵抗が続いたが、それも鎮圧された。その後、加賀に入った前田家のもとで、近世にかけて戦後処理が進められた。石尾芳久が『一向一揆と部落』で報告しているように、一揆参加者の中には「藤内」(とうない)と呼ばれる身分に落とされた者がいたとされ、指導者層の身分が貶下された可能性がある。一揆鎮圧から数十年が経過した後も、権力に抗したという事実そのものが、新たな社会秩序における排除の根拠として機能し続けた。
中世の差別が穢れに由来するものであったのに対し、近世の排除は権力が意図的に作り出した身分の固定であった。この構造は、前節で論じた「敗者の行き先」と同じ論理が加賀にも働いたことを意味している。
空位の中心を持つ共同体は確かに成立した。しかしそれが維持されるほど、内部に権力の集中が生じる。加賀の90年はこの矛盾の実証であった。そしてこの矛盾を抱えたまま、本願寺は大坂で織田信長との十年戦争に突入する。
引用文献
書籍
井上鋭夫『本願寺』(至文堂〈日本歴史新書〉、1962年)
井上鋭夫『山の民・川の民——日本中世の生活と信仰』(平凡社、1981年)
井上鋭夫『一向一揆の研究』(吉川弘文館、1968年)
神田千里『一向一揆と真宗信仰』(吉川弘文館、1992年)
石尾芳久『一向一揆と部落』(部落問題研究所)
出口治男『一向一揆余話』(方丈堂出版、2002年)
笠原一男『一向一揆の研究』(山川出版社、1962年)
論文
松尾一「蓮如教団における身分意識」(『久留米工業高等専門学校紀要』2003年)
小林忠雄「巨人伝説と一向一揆——伝承という歴史の記憶装置」(『北陸大学紀要』第41号、2016年)
北西弘「一向一揆の解体」(『真宗研究』8号)
藤木久志「一向一揆論」(『戦国史を見る眼』校倉書房、1991年)
史料
『実悟記拾遺』、『朝倉始末記』
※扉絵は「絵本拾遺信長記」より
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最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。