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【400回記念?】Homo recordans──記録するヒト

私はだいたい、普段ろくなことを考えていない。


毎日あっちへこっちへ気が逸れるし、頭の中は妄想でパンパンである。
仕事をしているつもりでも、散歩をしているつもりでも、ふと気づくと全然関係ないことを考えている。


そんなある日、私は「ホモ・サピエンス」という名前について考えていた。(なんで?)


ホモは「人」。
サピエンスは「賢い」。


つまりホモ・サピエンスとは、「賢い人」という意味である。
我々、現生人類をあらわす学名だ。


大変、立派な名前である。ラテン語でできているし、なんだか知的な響きもある。だが、私はこの「賢い人」という名前に、少しだけ引っかかってしまった。


本当に我々は、そんなに賢いのだろうか?

少なくとも私自身に関して言えば、そこまで胸を張って「賢い人です」と名乗れるほどの実感はない。
朝から晩までMacBookとiPadを往復して、一体何を作っているのか…。無毛な猿が半導体で遊んでいる様にしか見えないのではないだろうか。



武器・道具の変遷

以前、私は「シリコンエイジ」というコラムを書いたことがある。
石器時代、青銅器時代、鉄器時代のように、今の我々はシリコン(半導体)の時代に生きているという主張をした。

我々の武器は、いつの間にか鉄ではなくシリコンになってしまった、というようなコラムである。そういう、1ミリも役に立たないことを考えながら散歩するのが、私はわりと好きなのだ。


そして今回、また勝手に思いついてしまった。
もし私が人類に名前をつけるなら、なんだろう?


私ならば、こう名付ける。


Homo recordansホモ・レコルダンス



ホモは「人」。
レコルダンスは「記録する」。

つまり「記録する人」である。


正確なラテン語としてどこまで美しいかは分からない、専門家に怒られるかもしれない。だからこれは学術的な提案ではない。ワタクシお馴染みの勝手な妄言世迷言である。



情報を伝える器としての生物

生命そのものも、ある意味では記録媒体である。

水分とタンパク質でできた、やわらかくて、放っておけば腐って土に還ってしまう肉体。その中に、遺伝情報という記録が入っている。

個体は死ぬ。
しかし遺伝情報は、親から子へ、子から孫へ、孫からひ孫へと受け継がれていく。

もちろん、これは人間だけの話ではない。
動物も植物も、命あるものはみな、何らかの形で情報を次へ渡している。


だが、人類はそこからさらに奇妙なことを始めた。


自分の体の外に、記録を置き始めたのである。


言葉を持ち、文字を持ち、絵を描き、石に刻み、紙に書き、写真を撮り、映像を残し、音声を録り、クラウドへ保存し、いまやAIに読ませようとしている。


この流れを眺めていると、人類の歴史は「記録媒体の歴史」でもあるように思えてくる。


洞窟の壁。
粘土板。
パピルス。
紙。
印刷。
写真。
映画。
磁気テープ。
ハードディスク。
クラウド。


媒体は変わっても、やっていることは同じだ。
記憶の外部化である。


自分が見たものを残したい。
考えたことを残したい。
誰かに伝えたい。
忘れたくない。
死んだ後にも、少しだけ留まりたい。


それは、他の動物にできないことだと思う。


もちろん、動物にも記憶はある。
仲間を覚え、場所を覚え、危険を覚える。
亡くなった存在を思い出すことも、きっとあるのだろう。


けれど、その記憶は基本的に、その個体の中にある。その個体が死ねば、全ては消えてしまう。


人類はそこに抗ったのだ




稗田阿礼に聞けるということ

たとえば、私たちは古事記や日本書紀を読むことができる。
古事記は、稗田阿礼が暗記していた内容を太安万侶が書き記したとされている。
つまり、もしそれが本当に誰かの記憶の中にだけあったなら、その人が死んだ瞬間に消えていたはずだ。


けれど、それは文字になった。
書き留められた。
だから今の私は、千年以上前に編まれた物語を、紙の本でも、Kindleでも、iPhoneでも読むことができる。

(最高すぎる。)


私の家族にも、もう亡くなった人がいる。

私はその人の声や姿を思い出すことができる。
それは記憶である。

けれど、私の姪っ子や甥っ子は、私の祖父に会ったことがない。
それでも、写真を見たり、話を聞いたり、誰かが書き残したものに触れたりすれば、その人の輪郭を少しだけ感じることができる。

そうやって語られているうちは、その人は完全には死なないのではないか。
そんなことを思うことがある。


ラスコーの壁画もそうだ。

フランスのラスコー洞窟には、旧石器時代の動物たちの絵が残っている。
およそ2万1000年前のもので、馬や牛や鹿のような動物たちが、洞窟の壁に描かれている。

それを描いた人が、どんな顔をしていたのかは分からない。何を食べ、誰を愛し、何に怯え、何を願っていたのかも分からない。


けれど、壁に描かれた線は残った。


その線を見て、我々は想像する。
彼らが何を見ていたのか。
どんな動物を追っていたのか。
何を大切にしていたのか。


人類は記録によって、時間を超えた。


古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、文字をあまり信用していなかったらしい。


「文字を書くと、人は記憶しなくなる。」


彼はそんなふうに考えていたそうだ。


これは、いま聞くと身につまされる。

スマートフォンに電話番号を覚えさせ、カレンダーに予定を覚えさせ、地図アプリに道を覚えさせ、検索エンジンに知識を覚えさせている我々からすると、ソクラテスの心配はかなり的中している。

実際、私はもう電話番号をほとんど覚えていない。
人の誕生日も、だいたいカレンダーに頼っている。

これも記憶の外部化に他ならない。


記憶を脳の外に置けるようになったから、数学も、法律も、歴史も、宗教も、科学も、巨大になった。
人間ひとりの脳には入りきらないものを、外部に置き、共有し、次の世代へ渡せるようになった。

そして僕らは随分と遠くまできた。



黒曜石

私は最近、Obsidianというメモアプリを使っている。

これはまた別の記事で書くつもりだが、簡単に言えば、メモ同士をリンクさせたり、タグをつけたり、過去の記録をあとから引っ張り出したりしやすくするための道具である。


使い始めてから、私はますます思うようになった。


記録することと、再利用できることは違う。


ただ保存しただけでは、記録はすぐに埋もれる。
カメラロールの奥底に眠る写真。
どこに入れたか分からないPDF。
名前のないメモ。
二度と開かないスクリーンショット。


それらは確かに「残っている」。
だが、使えない。


思えば、人類の記録量は、ここ100年ほどでとんでもないことになっている。


特に世界を変えたのは、写真だ。


写真術が発明されたのは1839年。そのころの写真は、今のように気軽なものではなかった。
1枚撮るのに長い時間がかかり、じっとしていなければならず、撮影できる人も限られていた。

写真は、人生に一枚あるかどうかの特別なものだった。家族写真は、一族の記録だった。


それが今はどうだ。


近年の推計では、2025年の1年間に世界で撮影された写真はおよそ2.1兆枚。
1日に直すと、およそ57.5億枚。
1秒間に約6.6万枚である。

今朝、私が朝食を食べる間に、19世紀全体より多くの写真を撮っているのではないか。


動画になると、さらにすごい。

YouTube公式によると、かつて「毎分500時間以上の動画がアップロードされている」という。


毎分500時間。


1分で500時間である。
1時間で3万時間。
1日で72万時間。


仮に寝ずに見続けても、1日分を見終えるのに80年以上かかる。

だが、本当に恐ろしいのはここではない。


YouTubeに上がっている動画は、公開された完成品に過ぎない。
その裏側には、撮りっぱなしの素材がある。
ボツテイク、編集前のデータ、配信アーカイブ、カメラロールに眠ったままの未公開動画がある。


15分の動画を作るために、数時間撮影することも珍しくない。
私自身、テレビCMの15秒ほどの映像を作るために、かなり長い時間撮影したことがある。

しかもこれはYoutubeだけだ。Netflix、映画、テレビ…。考えるだけで気が遠くなる。


そして、ここにさらに拍車をかけているのが生成AIである。


写真や動画は、基本的には現実の何かを記録してきた。
もちろん加工も演出もある。嘘もある。
それでも、どこかに「カメラの前に何かがあった」という前提があった。


だが生成AIは、存在しない風景や、存在しない人物や、存在しない出来事まで出力してしまう。

たぶん、私たちが生成AIに感じる不気味さのひとつは、そこにあるような気がしている。



私の記録

私は長年、実家にある古い写真や、子どものころの映像や、過去に作った企画書や、議事録や、取材メモを、少しずつ整理してきた。

これは人類にとっては何も意味のない記録である。
群馬の田舎の取り留めもない日常。
私の妄想の束。

私がそれを残す事に躍起なのは、私にとって大切な記録だからである。

そんな自分の行動を見たり、渋谷のスクランブル交差点を自撮りしながら渡る外国の旅行者を見たりするにつれ、人類の本質は「記録すること」なのかもしれないと思う様になったわけだ。


Homo recordansホモ・レコルダンス
記録するヒト


勝手に提唱した割には、自分では納得している。


さてと……。
なぜ私が藪から棒にこんな「記録するヒト」みたいな記事を書いたかというと、この記事が、noteを始めてから400本目の記事になる予定だからだ。


何故『予定』と言っているのか?
これは、noteには今まで書いた記事総数を、カウントする機能が無いからである。

これを読んで下さってる方は、すでに結果を知っている。
サムネイルに『400』というスクショが載っていれば、私はこの400記事目の記念記事の執筆に成功しているだろう。

しかし、これを書いている2026年5月9日の夜8時には分からないまま、つらつら結論の無い話を書き散らしている。

成功しているか、失敗しているか、それは大した問題ではない。
私は今日も人類の本能に従って、徒然なるまま『記録』しているのだ。


記事:まるのすけ



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