【端島・軍艦島】この島は誰かの故郷だった【行こ行こ#56】長崎小夜曲-1
なんで私が長崎に?
これは2025年8月24日の話である。
私はなぜか長崎県長崎市にいた。あらかじめ決まっていた旅ではない。
むしろ、まったく予定していなかったはずの場所に、気づいたらオープンワールドにスポーンしたように立っていた。

JALには「どこかにマイル」という仕組みがある。
マイルを使って、JALが提示してくる4つの候補地のどこかに“あてがわれる”という、ほぼ運試しみたいな旅行サービスだ。
私はそれを申し込んだ。
そうしたら長崎が当たった。……そういうことだ。

問題はそこからで、決まったのが10日前。
8月後半の連休ど真ん中。宿も決まっていない。何を見に行くかも決まっていない。どうするつもりだったんだろう私は。
滞在は短い。
8月23日夜に長崎入りして、26日の朝には東京に戻っていなければならない。
実質フルで動けるのは24日と25日の2日間だけ。
そのうち、まるまる一日使える24日は何をしようか、と考えたときに、真っ先に浮かんだのが「軍艦島」だった。

軍艦島。正式名称・端島。
炭鉱の島として栄え、今は無人で、コンクリートの集合住宅が海に浮かんでいる。書籍やテレビ番組の中で何度も見た場所。巨大廃墟としても有名だ。
私はとりあえず、そこに行くことにした。
軍艦島ツアーは運任せ
ただし軍艦島は、「行きたいです!」と言ってすぐ連れてってもらえるような、気軽な観光地ではない。
まず船を予約しないといけない。
そして「上陸」には長崎市の許可がその都度必要らしい。
天候や波の状態で許可が出ないことも多いそうで、「島までは行ったけど船から降りられずにそのまま戻った」という話はよくあると聞いた。
そういう事情もあって、ツアー会社はどこも大人気だ。
私は「せっかくだから一番いいコースにしよう!」と思って、ちょっといいプランをウキウキで探したのだが、日曜日ということもありどこも満席。
ギリギリ、残り1席というツアーに、すべり込むように予約できた。これを逃したら今回たぶん行けなかった。

当日、長崎港の桟橋へ向かう。
軍艦島ツアーと書かれたのぼりがはためき、観光案内風の建物もある。
私はそこで「ここですか?」と聞いた。すると「あなたが予約している会社さんはそこじゃなくて、もうちょっと先の小さい桟橋ですよ」と言われた。

そこには本当に小さな船と、こぢんまりした桟橋があった。
他の船会社は常設の待合施設があり、エアコンもあった。
私の乗る船は、豪華クルーズ船というより、がんばってる地元船、という感じだった。

受付を済ませると、団扇を手渡される。すでに暑い。まだ午前なのに暑い。
ちょっと居心地の悪い座席と立派な港
乗船すると、指定された席は進行方向とは逆向きの、壁側の席だった。
教室で言うなら、みんなが黒板の方を向いているのに、私だけ先生の席から後ろ向きに運ばれていく、そんな感じである。
正直、あまりよい席ではない。

船内のモニターでは「軍艦島の歴史ビデオです」というVTRが流れている。でも私は体をひねらないと見えない。
ひねると今度は右隣の席の女性(学生さんっぽい)に近づきすぎて、なんとなく申し訳ない気持ちになる。
私は「この1時間どうしよう」という不安な船出だった。
長崎港は“現役”
スピーカーから、ガイドさんの方の声が流れる。
「右手をご覧ください。こちらが三菱重工業長崎造船所になります」
長崎港は、ただの港ではなかった。
日本の近代造船の出発点のひとつであり、幕末に長崎製鉄所(1857年、幕府が建設に着手)がつくられて以来、造船と重工業の拠点であり続けている場所だという。
明治期には東洋最大級のドライドック(第三船渠、1903年完成)を擁し、ここで後に戦艦「武蔵」の建造・艤装が行われた、と説明が入る。

「武蔵」は、太平洋戦争時に日本が建造した世界最大級の戦艦の一つである。建造中は軍事機密のため、巨大な船体をヤシの葉などで覆って隠していた、という話も紹介される。
当時の日本の底力と同時に、国全体がそこに賭けていた時代の空気が透けて見える。
私は広島県呉市で「大和」のドック跡を見たことがある。
だから「大和」と「武蔵」、この二隻の建造地が、それぞれ具体的な港の地面として頭の中でつながった瞬間だった。
「教科書を大人になって学び直す」なんて贅沢で楽しいことだろう。

そして長崎は、いまも軍港としての顔を持っている。
窓の外には、見たことのないような船が並んでいた。

海上自衛隊の最新鋭護衛艦、いわゆるステルス艦だという。
船体はつるりと角ばっていて、ほとんど窓がない。
ドアもほとんど外から見えない。普通の船の「生活感」が根こそぎ剥がされたような、無機質で、むしろ生き物っぽい怖さがある。「あれ、どこから乗るの?」と本気でわからない。

その横では、巨大なイージス艦がドック入りしてメンテナンスを受けている。

イージス艦というのは高性能レーダーを積み、ミサイル防衛の要でもある。日本の防衛のど真ん中。その艦が今まさに長崎港で整備されている、という事実に、私は「いまの日本」が急に立体で迫ってくるのを感じた。
さらに、港の奥にはとんでもなく大きなクレーンが3基ほど並んでいた。

明治時代から稼働してきたクレーンもあり、世界遺産の構成要素にもなっているという説明が入る。100年以上前の鉄の仕組みが、いまも海の上で息をしている。

この港はまだ現役なのだ。長崎港という場所は、単に“昔はすごかった”ではなく、いまも海の安全と、国の防衛を、がっちり支えている。
観光船の窓からそれを目の当たりにすることになるとは思わなかった。

マリア像と鳥居が並ぶ岸
しばらく進むと、進行方向右側(まあ私にとっては左だが)の小さな岬に、白いマリア像が見えた。
海を向いて、祈る姿勢のマリア像。そのすぐそばには神社の鳥居まで立っている。鳥居とマリア像が同じ岩の上に同居しているように見えるのだ。

ガイドさん曰く、これは神ノ島のあたりで、フランシスコ・ザビエルの長崎上陸から400年を記念して昭和23年(1948年)に建てられたマリア像だという。航海安全を祈るための像だそうだ。そのすぐ横に神道の祠と鳥居がある。
神様とマリア様が、ほぼ隣り合わせで海を見ている。
長崎の土地の特性が一瞬でわかる光景だった。
長い迫害の歴史と、隠れるように守られた信仰と、もう隠さなくていい時代になったあとに生まれた折りと重なり。
この土地は、ひとつの正解にたどり着くのではなく、全て抱えたまま生きてきたのだろうなと感じた。
花見へゆく島
前方にはぽこりと浮かぶ小さな島。
ガイドさんの説明によると、そこは軍艦島の人たちが花見をするために渡っていた島だという。

軍艦島には緑がほとんどない。桜もない。だから春になると、みんな船を出して、対岸の島まで行ってピクニックをしたらしい。
「島の子どもたちは、この日が楽しみだったんだろうな」と思う。
船の上でお弁当を抱えてわくわくしていた子たち。海の向こうに、桜と広い地面があることを知っていることそのものが、どれだけときめいたことか。
軍艦島到着
40分ほど進んだところで、ついにそれは見えてきた。海の上に、灰色の塊が浮かんでいる。遠目でも「それだ」とわかる。

海面に浮かぶその輪郭は、本当に戦艦のようだ。
テレビや図鑑で何度も見たシルエットが、目の前で横たわっている。
船は速力を落とし、船長さんが「デッキへ上がっていいですよ」と許可が出た。
私は甲板へ出てスマートフォンを握った。他の乗客も一斉になだれ込む。
真夏の直射日光はもう容赦がない。空気が刺すほど熱い。
玉の様な汗が吹き出す。
船員さんが「写真、撮りましょうか」と声をかけてくれる。
みんな順番にスマホを渡して、いわゆる“聖地を背負った記念写真”を撮ってもらう。私も例に漏れずお願いした。

写真では見えないが、サングラスまで汗が滴り落ちている。暑い。
島をぐるっと周回
船は軍艦島の外周をゆっくり回る。
ガイドさんが一つひとつの建物を指しながら説明する。

まず驚いたのは、あれがもともと「小さな岩礁」だったということだ。
端島は自然の島というより、もともとはほんの小さな岩の塊で、そこに埋め立てや護岸を重ねて“島を育てた”ものだという。
炭鉱の採掘が本格化したのは三菱が島を買収した1890年以降で、海の底に向かって縦に、横に、坑道が伸びていった。
海面下1000メートル、東西南北に2キロ単位で坑道が走っていたという。

地図で見ればただの海なのに、その下はまるごと人間の通路だったのだ。
私はそれを聞いて、自分がいま見ている「海」が信じられなくなった。そこはかつて人間が働き、汗を流していた場所の“屋根”なのだ。

見えている建物の多くは、集合住宅だった。
1916年には日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパート(30号棟)が建てられている。日本で最初のRC高層アパートが、東京でも大阪でもなく、この長崎の沖合いの小さな島に建ったという事実。これは本当に衝撃だった。

島はとにかく狭いので、横に広がるのではなく、縦に積む生活になっていった。屋上や長い廊下は子どもの遊び場だったという。
学校も病院も映画館もパチンコもあった。1959年には人口5,267人。当時の東京都の9倍以上という人口密度だそうだ。

そして、聞けば聞くほど、ここは「豊かな暮らし」があったことがわかる。
1950年代後半〜60年代、日本の本土ではまだテレビの普及率が低かったころ、軍艦島ではいわゆる“三種の神器”(白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫)がほぼ全家庭に行き渡っていたと言われる。
炭鉱労働は命がけの仕事だったので、賃金は高く、配給も優先的に回った。水も1957年には日本初の海底水道が整備され、真水が安定供給されるようになった。70mの高さまで、沖合の陸地からサイフォンの原理で水を運んできたという。

電力は島内の自家発電でまかなわれ、電気代は個別契約ではなく給与から天引き。だから、電気を贅沢に使えることそのものが、島の“標準”になっていった。

ただ、それは裏返せば、それだけ過酷な現場だったということでもある。
坑内は気温30〜35℃、湿度95%。全身が炭じんで真っ黒になって、共同浴場に駆け込むと、労働者たちの体から流れ出す煤で湯がみるみる黒く染まったという。
島の風呂は「黒い風呂」と呼ばれた。

そしてもう一つ、信仰の話も出てきた。
島の一番高いところには端島神社という小さな神社があった。
炭鉱の安全、海の安全を祈る場所である。ガイドさんは「いまは社殿は崩れてしまっていて、残骸だけが残っています」と教えてくれた。私はこの話を聞きながら、ふと思い出したイメージがあった。

鶴巻和哉監督の『龍の歯医者』だ。

龍が戦艦のような姿になっていて、その背中にちいさな神社が載っている、というビジュアルがある。

あれは“科学と祈り”が同居しているイメージとして、ずっと記憶に残っていたのだが、端島神社の話を聞いた瞬間に「ここかもしれない」と思った。

巨大な鉄の城(=戦艦のような島)の背中に、ちいさな祈りの場所がちょこんと乗っている。まるで同じ構図だったからだ。
人は、どれだけ近代化しても祈りを捨てない。むしろ過酷な場所ほど祈るのだと思う。
聞けば、台風などの時は、高波が強烈に打ち付けるそうだ。
最もひどい時は、高波は島そのものの高さを超えて襲来し、全てを丸呑みにしてしまうことすらあったそうだ。
こう言ったときはきっと、この当時最も進んだ街に住む彼らでも、神様に手を合わせたのだろうと思う。

上陸は「許可制」
ぐるっと一周すると、いよいよ上陸の時間が“来るかもしれない”段階になる。ここで船内が一気にそわそわする。
軍艦島に上陸するには、長崎市からの当日許可が必要で、これは本当に当日にならないとわからない。ガイドさんはマイクでこう言った。
「桟橋に2隻、船が見えますよね。あそこに船がついているからといって安心はできません。私たちは、目の前で他社さんの船は降りられたのに自分たちだけ許可が下りず、そのまま引き返したことが何度もあります」
つまり、すぐそこに島があるのに、降りられないことがあるのだそうだ。
私たちは船で桟橋のそばをゆっくり回りながら、そのアナウンスを聞く。
長崎市の担当者と連絡を取っているらしい。船の中は妙な静けさになって、みんな顔だけそわそわしている。
しばらくして、マイクがもう一度入った。
「──長崎市から許可が下りました。皆さん、上陸できます」
わーっと拍手が起こった。
これは後日聞いたのだが、3回行って3回とも上陸できなかった人もいたそうだ。またしても、”運だけで生きている私”のラッキーが発動した。
上陸と灼熱
桟橋を渡って、ついに私は軍艦島に降り立った。
まず、暑い。これはただの「夏だから暑い」ではない。
軍艦島には植物がほとんどない。緑陰がない。コンクリートとアスファルトと鉄しかない。
海の上にいるときはまだ風があったのだが、島に上陸するとほぼ無風になる。熱が逃げない。空気が滞留している。

午前中でも、夏場は平均45℃。タイミングによっては50℃に達することもある、と事前に聞いていた。
まさにそれだった。体にまとわりつく熱気が、アスファルトから立ちのぼる湯気みたいに可視化できそうなレベルでまとわりついてくる。
汗が、じわっと出て、それで終わりではない。吹き出す。
顎から滴り落ちる。背中が一気に濡れる。私は黒いタンクトップを着ていたのだが、みるみるうちに塩が浮いて白くなっていき、私の黒いタンクトップは塩田と化した。

上陸後、私は一応お茶を持ってはいた。
が、船の移動でとっくにぬるくなっていて、ほぼ飲み切ってしまっていた。
そういう客が多いことを、船会社は完全に把握しているのだろう。クーラーボックスを肩にかけたスタッフが、氷で冷やした500mlペットボトルの水を売りはじめた。1本200円。

200円という値段は、正直この状況では「ほぼ慈善」だと思う。
無人の廃墟の上で、氷で冷えた水を手売りしてくれるのだ。私は1本買った。
その水は、たぶん世界最高だった。
冗談ではなく、本当にそう感じた。
口に含んだ瞬間に、喉の奥から一気に全身へと冷たさが駆け抜けて、脳まで「助かった」と言っていた。幸福が液体になって口内に注入されているかのようだった。
気づけば一瞬で飲み干していた。
あまりにうまいので、私は「もう1本いくべきか? 200円は200円だぞ?」と一応悩んだが、これはもう買おう、と決意してスタッフのところに向かった。
ところが、私の一人前で売り切れた。
私は空になったペットボトルを名残惜しくカバンにしまった。
試験的な試みとして、この章にBGMをつけたいと思います。
以降の章を書きながら、ふと思ったテーマ曲は米津玄師さんの「さよーならまたいつか!」でした。再生しながらお読み頂きいただくのも良いのかなと思います。
活気ある街並み
最盛期の軍艦島は、狭い島の上に“街”が縦に積み重なっていた。
前述した通り人口は5,000人超で、東京の9倍以上の人口密度。
階段は坂道の代わりで、長い廊下は子どもの遊び場だった。

島の暮らしは思った以上に“先端”だった。
1957年の海底水道で水が安定すると、家々に洗濯機と冷蔵庫が入り、テレビはほぼ当たり前になった。
商店街には肉屋も八百屋もあり、映画館とパチンコ屋、理髪店、居酒屋。学校があり、病院もあった。
海側には海水プール。

夜は、テレビとラジオの時間だ。
ちゃぶ台の上で白黒テレビが明滅し、となりでラジオが柔らかく鳴る。
私は以前、伊集院光さんのNHKのラジオで、『炭鉱へ送るの夕』をという番組を知った。辛いけれど日本のために一生懸命働く彼らに向けた番組だったそうだ。

私はかつてのアパートで聴いているつもりで、目を閉じる。
ナレーターの落ち着いた声、今日のニュース、時局解説。続いて、炭鉱へ向けた家族からの手紙が読まれる。
リクエスト曲も流れたかもしれない。
そんな番組があるほど、この仕事には意味があり、価値があり、そして大変だったのだろう。

そして「閉山」へ
ガイドさんはさらに、この島がどう終わったかを話してくれた。
1974年1月15日。
エネルギー政策の転換~石炭から石油へ~いわゆる「エネルギー革命」によって、炭鉱は次々と閉じられていった。
端島も例外ではない。閉山は突然決まった。
島で暮らしていた人々は、ほとんど準備の猶予もなく、短期間のうちに全員が島を離れなければならなかった。

だから、家具も、日用品も、生活の痕跡も、そのまま置いていかれた。
冷蔵庫もちゃぶ台も、子どものおもちゃも、部屋に残ったまま。人間のほうだけが、島から引きはがされた。
いま私たちが「廃墟」と呼んでいるこの風景は、誰かが“捨てた”街ではない。
誰かが“置いていかざるを得なかった”街のなれの果てなのだ。
「撤収させられた街」の、その翌朝のまま時間が止まっている。そう言っても過言ではないと思った。

そして最後に語られたエピソードが、私には刺さった。
閉山が決まったとき、島を離れる家族の中に、飼っていた小鳥や金魚を連れていけなかった子どもがいた。
引っ越しはあまりに突然で、どうしてもペットを連れていけなかったのだという。その子は、住んでいた部屋の襖にこう書き残した。
「金魚と小鳥をお願いします。餌は少しでいいです。」
私はこれを聞いたとき、あまりにも多くの情景が脳裏をよぎった。
あの子にとっては、端島こそが“世界”そのものだったはずだ。
島の中には友達も、おとなも、店も学校も全部あった。
ここで生まれて、ここで暮らすことが当たり前だったはずだ。
「みんながいなくなる」という想像自体が、おそらくできなかった。
だからその子にとっては、“自分が島を出た後も、この場所はきっと続く”そう思っていたんじゃないかと思う。
きっと誰かが世話してくれるに決まっている。世界は急に消えたりしない。
そう信じて書いた言葉なのだと思う。
そう考えると、その小鳥と金魚は、単なる置き去りのペットではなくて、島そのものの魂のように見えてくる。
さよーならまたいつか
軍艦島は、たしかに写真映えする。
すごい。わかる。
むしろ、反則みたいな見た目をしている。海に浮かぶコンクリートの要塞。夏の白い太陽。
これはもう「撮ってください」と言っているようなビジュアルだ。
でも、ぐるっと一周して、実際に立って、汗で目がしみて、耳でガイドさんの声を聞いて、自分の肌で熱を受けると、だんだん見え方が変わってくる。
ここはただの「廃墟」ではなかった。
誰かの「故郷」なのだ。
いや、きっと「全ての廃墟」がそうなのだ。これは朽ちたフォトスポットじゃない。誰かの「大切な場所だった」のだ。
誰かの職場であり、誰かの台所であり、誰かの遊び場であり、そして誰かの神社であり、誰かが生まれて、誰かが笑って、誰かが恋をして、子どもが花見に行くのを楽しみにしていた、そういう街だった。
日本の高度経済成長を支えたのは、こういう場所だったのだと、頭では理解できる。石炭はただの「産業を回す黒い燃料」ではなく、「人間が汗をかいて持ち帰った熱い魂」だった。
そしてこの島は、急にその役目を終えさせられた。
島ごと、まるごと。人ごと。
私は観光客としてそこに立っていたけれど、今回の訪問で理解した。
「軍艦島はただの廃墟じゃなくて、誰かの故郷だった。ふるさと端島だったのだ。」ということを。

遠ざかる端島を眺めながら、私はそんなことを考えていた。
↓つづく
記事:まるのすけ
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