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「症状がないなら病人ではない」という、忘れ去られた真実

症状はない。

昨日と今日で身体は変わっていない。

変わったのは「自分は健康だ」という認識だけ。

医療の現場では、このようなことが日常的に起きています。

これは、精神科医・岡田尊司氏が、発達障害診断について指摘している問題とも重なります。

岡田氏は著書『発達障害とよばないで』の中で、人の将来や人生に対して「障害」という診断を下すことの重さと、そのラベリングがもたらす心理的・社会的影響について、強い慎重さが求められると述べています。

以下に長いですが、大切なので引用します

今日の発達障害という概念は、平均的な基準から大きく外れると、たとえそれが優れた能力を生み出すものであっても、「障害」と見立ててしまう危険をはらんでいる。

発達障害を早期発見することによって、必要な療育を導入することは重要である。だが、その一方で、非定型発達の子どもに少しでも問題が起きると、「発達障害」という見方をすることは、その子にネガティブな評価を植え込んでしまう危うさをもっている。

ネガティブな評価などではなく、単なる特性だといくら強調しても、「障害」と診断される時点で、負の重石となりはしまいか。

自分が「障害」をもっていることを前向きに受け止められる子どもや家族もいるが、そうした幸運なケースばかりではない。

現実には、子どもが「発達障害」と診断されることで、うつ状態になる親も少なくない。親のうつ状態は、子どもの発達や愛着の安定、精神の安定にマイナスの影響を及ぼすことが明らかとなっている。

その意味でも、発達障害という診断は相当慎重になされるべきであろうが、実際にはかなり過剰診断されていることが指摘されている。

アメリカの専門機関の調査によると、アスペルガー症候群、または高機能自閉症と診断された子どもの四分の一が、正常域と再診断されたという。日本の現状はそれ以上かもしれない。過剰診断され、「障害」というラベリングをされることによる弊害が危惧される。

悲観的な“予言”が現実となる

ピグマリオン効果と呼ばれるものが知られている。
ロバート・ローゼンタールは、小学校の生徒を対象に知能検査を実施した上で、検査結果とは無関係に、無作為に選び出した生徒について、この子は将来有望である旨を教師に伝えた。

一年後、再びその小学校を訪れると、選ばれた生徒の成績は本当によくなっていた!何の根拠もないものであっても、「有望だ」と周囲が信じることによって、その期待が実現されてしまったのである。

このことは、逆の意味でも当てはまってしまうだろう。この子は”障害”を持つ子どもで、将来が暗いと周囲が思い込むことによって、その悲観的な“予言”が現実のものとなってしまう危険である。

非定型発達であるだけで、将来は、むしろ有望かもしれない子どもを“障害”として扱った結果、本人も周囲もその診断にとらわれて、いつのまにか可能性が狭められないか、それが心配されるのである。

人の将来や人生に対して、「障害」という診断を下すには、相当な慎重さが求められるはずであり、そうしたデメリットを考えると、障害が重度かつ回復が困難であるという強い根拠がない限り、安易に「障害」というラベリングを行うのは避けるべきではないかと思われる。

定型的ではないが、そうした発達の仕方も優れた点をもつものとして、優劣をつけることなく受け止め、その子の弱い部分を伸ばし、バランスのよい発達を促すという視点が事実にマッチしているし、子どもの可能性を歪めることなく伸ばしてやれると思う。

子どもの問題を“異常”とか“障害”と診断し、いくらそれに助けになることをしたとしても、すでにその出発点において、もっとも大切な何かを傷つけてしまっているのではないだろうか。

このことは、以前の記事でお伝えした、癌の過剰診断にも当てはまると思います。

癌に限らず、「肺の結節」「レントゲンで影がある」「結節がある」「血圧が高い」「血糖値が高い」...。これらの検診結果でも同じことが起きています。

たまたま検査で見つかってしまった「異常」のために、経過観察や精密検査の対象となり、その瞬間、人は「自分は健康である」という無意識の自覚を失ってしまいます。

前立腺のPSAスクリーニングによる過剰医療に対するブレーキ役として作成された「PI-RADS」のような分類でも、カテゴリー3,4,5と判定され、「癌かもしれない」「臨床的に有意な癌の可能性が高い」とラベリングされると、もうその人は以前の自分には戻れなくなってしまいます。

家族との関係も変わり、未来の選択肢が狭まることさえあります。 しかし、その人の身体そのものは、昨日と今日とで何も変わっていないのです。

検診の過剰診断・過剰治療の対策としてさまざまな取り組みがなされていますが、結局はシステムの中で「大きな不幸」を「少しマシな不幸」に改善しようとしているに過ぎません。不幸な人を生み出し続けているという構造自体は、何も変わっていないように見えます。

早期発見、早期治療という大義名分のもとで、「異常の摘発」が行われています。

「臨床的に有意」といっても、それは病理学的な見た目の問題であって、寿命に影響するかどうかは別問題です。

発達障害についても、平均から逸脱しているからといって、それはその人の特性であって、必ずしも「障害」と呼ぶべきものではない場合があります。

「症状がないなら病人ではない」

このシンプルな真実を、今の医療は忘れかけています。
この感覚を「無知」というでしょうか。

しかし、PSAスクリーニングでは、特定の病気による死亡は減っても、人の寿命全体は延びないことが示されています。

医療の介入は、その人の寿命を延ばすのではなく、病人として過ごす期間を延ばしていると言えないでしょうか。

少なくとも、「症状がない人が、検査によって病人になること」について、私たちはもっと慎重であるべきではないでしょうか。

そもそも、X線や血液検査が登場する前の長い歴史において、病気とは「本人が苦痛を感じている状態」のことでした。

自覚症状がないのに客観的な「疾患」だけが存在するという概念は、近代医学が生み出したものです。

血圧や血糖値、画像の「影」。これらが平均から外れることを「異常」と定義したことで、かつては存在しなかった「無症状の病人」が大量に生み出されるようになりました。

医学的な異常が認められたとしても、本人が健やかに過ごしているならば、あえて「病人」というレッテルを貼るべきではないのではないでしょうか。私たちはもっと、その人自身の「実感」を尊重すべきではないでしょうか。

医療は本来、苦痛を和らげる場所であれば良いはずです。

検診の結果に対してあれやこれやと思い悩んだところで寿命は延びません。

となると、その「思い悩み」をもたらす検査そのものが、人生における副作用と言えるのではないでしょうか。

人は、科学や医学を信じ、少しでも死を遠ざけようと、検査という名の儀式を繰り返します。しかし、その儀式が、人から「心の平安」を奪い、しかも寿命を延ばしてくれないとしたらどうでしょう。

私は画像診断医として多くの診断に関わってきました。その中には確かに人を救った診断もあります。しかし同時に、残念ながら人を不幸にする診断もありました。

「診断」という行為は、病気を発見するだけではなく、他人の人生を、不可逆的に変えてしまう力を持っているのです。

現在の医療システムのなかでは、不幸の連鎖を止めることは難しく、「少しマシな不幸」を選択せざるを得ないのが現状かもしれません。

それでも、私は皆さんに、「症状がなければ病気ではない」という感覚を、もっと大切にしてほしいと思います。
そして、必要もないのに「不幸になるかもしれない検査」を受けることを避けてほしいと思います。

聖書にはこう記されています。

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」「一本の髪の毛さえ、白くしたり黒くしたりすることはできない」

私たち医師は、診断を下し、病人を作り、他人の人生に深く介入してしまいます。しかし、私たちはそれほどまでに他人の人生に踏み込んでよいのでしょうか。

「その医療は、人を幸せにするだろうか?」「その検査は必要なのか」

私たちは今、改めてこの問いに向き合う必要があるのではないでしょうか。


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