【脚注】アファンタジアとSDAMについて、私なりの考えや感じていること
2026-01-31|v1.0|(*1) ~ (*38) を記述
2026-02-04|v2.0|(*50) ~ (*99) を記述
2026-02-08|v2.0|(*100) ~ (*102) を記述
2026-02-18|v2.1|自発的や非自発的という曖昧な言葉の箇所を、文脈に応じて意図的(Voluntary)や非意図的(Involuntary)という言葉に置き換えた
※ 用語の説明:アファンタジアとは? SDAMとは?
本ページでは、下記のレポート内で「*」印を付した箇所について、私なりの考えや感じていることを「脚注」としてまとめました。(一部、別のレポートへの注釈も含まれています)
本ページは、新しいレポートの公開に合わせて随時更新・追記していく予定です。
(*1) 私個人の見解・所感
Zemanの2015年の定義では、アファンタジアは「覚醒時の意識的な心的イメージの著しい減少(*1)または欠如(reduced or absent voluntary imagery)」とされた。
「随意的な」という表現は、意識的・意図的・意志的といった意味合いで捉えている。
夢の中の無意識な体験と区別したいなら、そう表現するのは適当だろう。
一方で、「欠如または著しい減弱」という言い回しは、心的イメージが完全に存在しない場合から、弱くても存在する場合までを広く含んでいる。
本来は性質の異なる現象を一括りにし、それをスペクトラム(連続体)と呼んでいる点には、やや雑さも感じられる。
いずれにせよ、この定義の幅広さも影響してか、「アファンタジア」という言葉は、HSP(敏感・繊細な気質)やMBTI(16性格タイプ)のように、SNS上で自己を説明するためのラベル、いわば「アイデンティティ・バッジ」として広まりつつある。
その結果、ある種のファッションのように語られるケースや、不全感・不便感・被害者意識、ときには欠落感・不遇感・免罪符といった感覚、さらには疎外感・異質意識・悲劇性といった、よりネガティブな側面に強くフォーカスした発信も、少なからず見受けられる。
SNSという場が、「人々に注目されたい」「肯定されたい」「自分語りをしたい」「本音を吐き出したい」といった欲求が前面に出やすい空間であることを考えると、これはこの時代ならではのアイデンティティのあり方と言えるのかもしれない。
(*2) 私個人の見解・所感
手記における「意識の中で心的イメージ(擬似的な感覚・知覚)を経験したことがない」「五感のいずれにおいても心的イメージはまったく生じない」という記述は、ゼーマンの多感覚的アファンタジア(multisensory aphantasia(*2))の概念と完全に一致します。
「multisensory aphantasia」という表現からは、心的イメージが完全に存在しない状態なのか、それとも「ほとんどない」程度なのかが、分かりにくい印象を受ける。
もっとも、あえて幅を持たせるために意図的にそう表現しているのだろうとも思う。
私の場合は、心的イメージがまったく生じないため、呼び分けるとすれば「total」や「complete」を付けて、「total multisensory aphantasia」と表現する、というふうになるのかなと思う。
(*3) 私個人の見解・所感
手記の筆者が記述している特に重要な現象——「茶碗に盛った炊きたての白米を想像してください(*3)」と言われても視覚的心的イメージはまったく浮かばないが、「茶碗の形」「そこに盛られている白米」「湯気の立つ様子」「ご飯のピカピカとしたツヤ」「とても美味しそうであること」は「分かる」——について、Zemanの理論は重要な洞察を提供する。
この種の説明では「りんご」や「馬」が例に挙げられることが多いが、やや定型的で、少し安直にも感じられる。
日常的によく目にする「ご飯」のほうが感覚的に伝わりやすいと思い、ここでは「茶碗に盛った炊きたての白米」を例にした。
白米が苦手な場合は、別のものに読み替えてもらえればと思う。
(*4) 私個人の見解・所感
(Adam Zemanは)2015年に「aphantasia(アファンタジア)」という用語を創出(*62)したことで世界的に知られており、心的イメージの欠如(*100)に関する現代的な研究領域を切り開いた。この発見の契機となったのは、2003年に心臓手術後に視覚化能力を失った患者「MX(*4)」との出会いであった。
アファンタジア研究の文脈ではよく知られているMX氏は、人生の途中でイメージを失った、いわゆる後天性のケースである。
先天性のケースとは背景が異なるため、主観的体験や記憶のあり方にも、さまざまな差異があって不思議ではない。
(*5) 私個人の見解・所感
Zemanの2025年の論文では、VVIQ(*5)が内観報告(*1)(introspection)に依存することが率直に認められている。しかし、重要なのは、内観報告の妥当性が客観的測定によって検証されているという点である。もし内観が完全に信頼できないものであれば、アファンタジアとハイパーファンタジアを報告する人々の間に発見可能な客観的差異は存在しないはずである。しかし、実際には、行動的、生理学的、神経的レベルでの差異が一貫して確認されており、これは内観的報告が広義において妥当であることを示している。
VVIQの概要や設問については、下記のページによくまとまっている:
概要|設問1|設問2
【豆知識】
あえて超ざっくり説明すると、VVIQ(視覚的心的イメージの鮮明度に関する質問紙)とは、A4用紙1〜数枚程度の簡単なアンケートのようなもので、「頭の中で何か具体的なものを思い浮かべたとき、それはどのくらいハッキリ見えていますか?」といった1行程度の似たような質問が、全部で16〜32項目ほど並んでいる。
それぞれの質問に対して、「全く見えない(1点)」「ぼんやりなら見える(2点)」「まあまあ見える(3点)」「わりと見える(4点)」「すごく見える(5点)」の中から、自分の感覚に最も近いものを選んで答える。
たとえば質問が16項目ある場合、合計点は16点から80点の範囲になる。
つまり、「主観的にどのくらいハッキリ見えているか」という状態が数値(得点)として表され、この数値、すなわち視覚的心的イメージの鮮明度が、学術研究のデータとして用いられるわけだ。
まあ、良く言えば「本人による主観的な報告」であり、悪く言っても「本人による主観的な報告」である。
要するに、どこまでいっても「本人による主観的な報告」でしかない。
アファンタジアの研究において、VVIQがどのように使われているのかについて、個人的に「ちょっとどうなのか」と気になっている点が二つある。
ひとつ目は、「全く見えない(1点)」という完全なゼロ(OFF)の状態と、「見えてはいるが程度に差がある(2〜5点)」というゼロ以外(ON)の状態とでは、そもそも主観的体験の性質そのものが異なるのではないか、という点である。
ふたつ目は、「見えてはいるが程度に差がある(2〜5点)」という区分自体(いわばイチの状態)が、境界のないグラデーション状のアナログ領域、いわゆるスペクトラムであるという点である。
ここには明確な線引きが存在しないため、本人の言葉の捉え方、すなわち語感や判定基準、あるいはその時の環境や気分、思い込みなどによって、VVIQの回答は容易に変動してしまうのではないか、という点である。
※ とはいえ、学術界においては、内観(主観で内面を観察する行為)に頼る危うさを認めつつも、アファンタジアやハイパーファンタジアを判別する指標として、VVIQの有用性は概ね合意されているのが現状のようだ。
(*6) 私個人の見解・所感
“The Shape of Things Unseen” において、Zemanは次のように述べている:「私たちが人間有機体、特に脳の複雑性を真に理解すれば、私たちはお互いをもっとよく扱うようになるだろう。私たちは最も驚異的な創造物である。私たちはそれぞれが独自の想像的宇宙に住んでおり、その宇宙のそれぞれが微妙に異なっている」。
この視点は、手記の筆者が「家族の顔が浮かばないからといって、悲しんだり不安になったりしたことは、これまで一度もない」(*6)と述べている点と深く共鳴している。アファンタジアは、単に異なる経験様式であり、それ自体が苦痛や機能障害をもたらすわけではない(*1)。
以前、「アファンタジアの人は人の顔を思い浮かべられないため、不安になりやすい」といった説明を目にしたことがある。
しかし私自身は、人の顔が思い浮かばないことに対して、不安を感じた経験は一度もない。
このあたりは、当事者の間でも受け止め方や感じ方に、かなり大きな幅があるのではないかと思う。
(*7) 私個人の見解・所感
「家族の顔が浮かばないからといって、悲しんだり不安になったりしたことは一度もない(*6)」という記述は、ゼーマンが強調するアファンタジアの非病理性という視点を支持します。彼は一貫して、アファンタジアを「障害」ではなく「認知的多様性の一形態」として位置づけており、手記の記述はこの理論的立場を実証的に裏付けます。
ゼーマンのPerceptual Memory Theoryの観点からは、「以前に見たものは『見たことがある』と識別できる(*7)」という記述が重要です。これは、認識記憶(recognition memory)が心的イメージとは独立した神経基盤を持つという彼の理論的主張と整合します。
“ 以前に見たものは『見たことがある』と識別できる ”
“ 認識記憶(recognition memory)が心的イメージとは独立した神経基盤を持つ ”
仮にこれが十分に機能していなければ、私にとって日常生活を送ること自体が、かなり厳しいものになるはずである。
(*8) 私個人の見解・所感
ゼーマンらは2020年の研究(Zeman et al., "Phantasia - The psychological significance of lifelong visual imagery vividness extremes")で、アファンタジア当事者の夢の特性について詳細な調査を行っています。
──── (中略)────
手記の「夢の内容を覚えていること自体が稀」「物語性がない」「支離滅裂な観念や状況の断片」という記述は、ゼーマンの実証データと高度に一致します。
特に注目すべきは、「変数Aの値を変数Bに代入し…」という抽象的・論理的な課題に強迫(*8)される夢です。これは、ゼーマンが報告した「概念的夢(conceptual dreams)」の典型例です。視覚的イメージが欠如する代わりに、抽象的な観念やプロセスそのものが夢の内容を構成するという現象は、彼の理論的予測と完全に符合します。
“ 特に注目すべきは、「変数Aの値を変数Bに代入し…」という抽象的・論理的な課題に強迫される夢です。 ”
夢の中で論理的に考えていた細部が暴走し、そこから抜け出せなくなっているような、そんな状況に「させられている」感覚がある。
おそらく就寝前に取り組んでいた思考課題の中で、特に引っかかっていた構造が、そのまま夢に持ち越されたのだろう。
(*9) 私個人の見解・所感
また、「人の顔をまざまざと見たという記憶はない」という記述も、ゼーマンの研究結果を支持します。彼のデータでは、アファンタジア群では夢における顔の記憶が有意に少ない(*9)ことが示されています。
これは初めて知った。
他の当事者にも似た経験があると聞くと、そこには何らかの共通要因があるのかもしれないと思えてくる。
(*10) 私個人の見解・所感
「明晰夢を見た経験もない」という記述は、ゼーマンの理論的枠組みにおいて興味深い意味を持ちます。明晰夢(*10)は自己意識と視覚的イメージの統合を要求するため、アファンタジア当事者では生じにくいという仮説が、手記によって支持されます。
そもそも明晰夢というもの自体、一般の人でもそれほど頻繁に見るものではないように思う。
正確な統計は把握していないが。
(*11) 私個人の見解・所感
3-6. 職業的傾向:科学的・技術的思考への適性
Zemanの研究では、Francis Galtonが1880年代に最初に観察した現象——アファンタジアの当事者が数学的、計算機科学的、科学的な職業(*11)に従事する傾向——が、大規模研究でも確認されている(Zeman et al., 2020)。
“The Shape of Things Unseen” において、Zemanはこの傾向について、より深い考察を展開している。彼は、科学的思考が必ずしも視覚的イメージに依存しないこと——むしろ、抽象的・論理的・体系的な思考に依存すること——を指摘している。
“ アファンタジアの当事者が数学的、計算機科学的、科学的な職業に従事する傾向 ”
これは、いわゆるSTEM分野、すなわち科学(S)・技術(T)・工学(E)・数学(M)に関わる領域を指しているのだろう。
私の専門分野も、この中に含まれている。
(*12) 私個人の見解・所感
Zemanは、アファンタジアとSDAMとの関係に継続的な研究関心を示している。2024年のレビュー論文では、両者の重複について以下のように述べられている:
──── (中略)────
ただし、すべてのアファンタジアの当事者がSDAMを有するわけではなく(*12)、またすべてのSDAMの当事者がアファンタジアを有するわけでもない
心的イメージが生じないはずなのに、自伝的記憶の擬似的な再体験が起こるというのは、やはりどこか不思議に感じられる。
あるいは、心的イメージがぼんやりと浮かぶタイプの人であれば、自伝的記憶の再体験も同様にぼんやりとしたものになるのだろうか。
(*13) 私個人の見解・所感
4-4. 記憶の希薄さ:「夜空の星」の比喩
手記の筆者が自伝的記憶を「真夜中に夜空を見上げたとき、数えられるほどわずかな、かすかに光る星々が、空間全体にぽつぽつと散らばり、点在しているような状態(*13)」と詩的に表現している部分は、Zemanが記述している現象の本質を見事に捉えている。
Zemanの研究における典型的な報告は、「記憶が完全に失われているわけではないが、その豊かさ、鮮明さ、連続性が著しく減少している」というものである。手記の筆者の比喩は、この現象を——学術的記述以上に——鮮やかに伝えている。
空気が澄んだ場所であれば、夜には満天の星空を楽しむことができる。
もしかすると自伝的記憶も、それに似たものなのかもしれない。
まばゆいキラ星で埋め尽くされた空間を見上げられるのが非SDAMの世界線なのだとすれば、私が見ているのは、彼らとはまったく異なる世界なのだろう。
もっとも、実際には「まばゆいキラ星」の合間に、「どす黒いブラックホール」、たとえばトラウマ体験の再体験(フラッシュバック)のようなものが潜んでいる場合もあるのだろう。
私の場合、それがSDAMゆえなのかどうかは定かではないが、そうしたフラッシュバックに襲われたことは一度もない。
私の夜空には、キラ星もなければ、黒い穴もない。
ただ平穏があるだけである。
(*14) 私個人の見解・所感
「パートナーとの生活の中で対話が増えたためか、以前よりは出来事の保持がなされるようになった」という記述は、ゼーマンの理論において示唆的です。彼は、社会的相互作用が記憶の符号化を促進する可能性を指摘しており(*14)、手記はこの仮説を支持する質的データとなります。
個人的には、十分にあり得る話だと思える。
(*15) 私個人の見解・所感
4-2. Tulvingの理論とZemanの統合
“The Shape of Things Unseen” において、Zemanはエピソード記憶の理論的基礎を築いたEndel Tulvingの研究に言及している。Tulvingは、エピソード記憶に特有の「mental time travel(心的時間移動)(*15)」の能力——すなわち、主観的に時間を遡って過去の自己の経験を再び生きる能力——を強調した。
Zemanの理論では、この精神的時間旅行には、心的イメージが不可欠な役割を果たしていると考えられる。視覚的、聴覚的、身体感覚的なイメージの生成が、過去の出来事を「今ここ」で再体験することを可能にする。したがって、心的イメージ能力の欠如は、自伝的記憶の現象学的特性——すなわち、再体験の質——に直接的な影響を及ぼす。
“ エピソード記憶に特有の「mental time travel(心的時間移動)」の能力 ”
“ すなわち、主観的に時間を遡って過去の自己の経験を再び生きる能力 ”
正直なところ、今でもなかなか信じがたいことではあるのだが、心の中で過去や未来を自由に行き来するような体験、いわゆるmental time travel(心的時間移動)を、実際にしている人がいるという事実は、やはり不思議である。
(*16) 私個人の見解・所感
ゼーマンの研究では、アファンタジア・SDAM当事者における時間的自己(temporal self)の特性が注目されています。
「過去や未来は、エピソードとして生き生きと思い浮かべるものではなく、『知っている』『分かっている』という知識、あるいは認識として把握している」という記述は、ゼーマンが報告したnoetic consciousness(知識的意識)優位のパターンと一致します。
彼の理論では、通常の自伝的記憶はautonoetic(自己知覚的)であるのに対し、SDAM当事者の記憶はnoetic(知識的)であるとされます(*16)。手記の記述は、この理論的区別を実証的に裏付けます。
“ 通常の自伝的記憶はautonoetic(自己知覚的)であるのに対し、SDAM当事者の記憶はnoetic(知識的)であるとされます ”
autonoetic(自己知覚的)やnoetic(知識的)といった用語や概念があることで、現象を逐一説明しなくても済むようになる。
こうした言葉をうまく使えれば、自分の感覚を言語化する際の負荷も、いくらか軽減される気がする。
(*17) 私個人の見解・所感
「『私』という自己は、主に『現在の感情』や『現在の入力』、そして心的イメージを伴わない思考によって構成されている」という記述は、ゼーマンが提唱するpresent-oriented self(現在志向的自己)の概念と整合します。彼の調査では、SDAM当事者は過去や未来よりも現在(*17)に焦点を当てる傾向が強いことが示されており、手記はこの傾向を内省的に確認します。
SDAMという性質上、過去や未来に意識を飛ばすことが少なく、どうしても「現在」に注意が向きやすくなる。
少なくとも私の場合は、そうした傾向が強い。
(*18) 私個人の見解・所感
null
(*19) 私個人の見解・所感
ゼーマンの研究では、アファンタジア当事者における言語的思考への依存が観察されていますが、内言そのものの詳細なメカニズムは彼の主要な研究対象ではありません。
ただし、2020年調査では、アファンタジア群が「言葉で考える」傾向が有意に高いことが報告されており、手記の「内言は日常的に活用しており、思考における重要な手段の一つ」という記述は、このデータと一致します。
「内言という媒介すら経由せず、直接思考へとショートカット」という記述は、ゼーマンの理論的枠組みでは完全には説明されません。彼は非イメージ的思考の存在を認めますが、その詳細なメカニズムについては、Russell Hurlburtら内的経験研究者の領域としています。
「頭の中で言葉の読みのリズムをなぞる、刻む、踏むような感覚(*19)」という内言の記述は、ゼーマンの研究範囲を超えますが、アファンタジア研究における将来的な探究課題として位置づけられます。
“ 頭の中で言葉の読みのリズムをなぞる、刻む、踏むような感覚 ”
このあたりの感覚は、言葉にするのが難しい。
仮に文章にしてみても、それが本当に自分の感覚を正確に捉えているのか、いつも迷いが残る。
(*20) 私個人の見解・所感
ゼーマンの研究における重要な洞察の一つは、アファンタジア当事者の社会的適応戦略です。
「『はっきりと目に浮かぶ』といった感性的な表現を使うが、実態は『知っている』『分かっている』という知識を言語的に装飾しているにすぎない」という記述は、ゼーマンが指摘するlinguistic compensation(言語的代償)の典型例です。
彼の調査では、多くのアファンタジア当事者が長年にわたり自分の内的経験が他者と異なることに気づかず、社会的な言語慣習に合わせて表現してきたことが報告されています。手記の「擬態(*20)」という表現は、この社会的適応プロセスを的確に捉えています。
“ 手記の「擬態」という表現は、この社会的適応プロセスを的確に捉えています ”
それは、自分でも意識しないうちに自然と表に出てしまう、一種のサービス精神のようなものなのかもしれない。
(*21) 私個人の見解・所感
「意図せずとも自然にそうなる」という記述は、ゼーマンの理論的視点において重要です。これは、社会化の過程で無意識的に獲得されるpragmatic language use(*21)(語用論的言語使用)であり、アファンタジア当事者の認知的柔軟性を示します。
私の場合は反射的にそうなってしまうことが多いし、言葉に出しながら考えを整理する癖もある。
要するに、話しているうちに自然と、世間一般の表現コードに合わせて言葉を整えてしまう、という感覚である。
これは程度の差こそあれ、多くの分別ある大人が無意識のうちにやっていることなのかもしれない(私自身が「分別ある大人」であるかは、はなはだ怪しいが)。
(*22) 私個人の見解・所感
ゼーマンの研究における最も重要な主張の一つは、アファンタジアは病理(*22)ではなく、認知的多様性の一形態であるというものです。
「これまでの人生において、特段の支障をきたしたことはない」「この状態を変えたいと思ったこともない」「メンタルヘルスの危機に陥ったこともない」という一連の記述は、ゼーマンの非病理化アプローチを強力に支持します。
“ アファンタジアは病理ではなく ”
正直なところ、私にはこれを病気や障害と呼ぶことには、どうしても違和感がある。
あくまで私見だが、自分自身の感覚や経験に照らしても、そう位置づけるのはしっくりこない。
(*23) 私個人の見解・所感
彼は2015年論文以来、一貫して「アファンタジアを持つ人々は正常に機能しており(*23)、単に異なる認知スタイルを持つだけである」と主張してきました。手記の記述は、この理論的立場の実証的根拠となります。
個人的には、これも特段不思議な話ではない。
むしろ自然なことのように思える。
(*24) 私個人の見解・所感
8-1. 神経多様性としてのアファンタジア
Zemanの一貫した理論的立場は、アファンタジアとハイパーファンタジアを精神障害ではなく、神経多様性(neurodiversity)の例として位置づけることである(*24)。
Adam Zemanの考え方は、一貫していてブレがない。
一方で、研究者の中には「障害」という側面を強く意識するあまり、ダイバーシティやインクルーシブといった視点を、やや前面に出しすぎているように感じる場合もある。
(*25) 私個人の見解・所感
ゼーマンの研究における重要な発見は、アファンタジアと視空間認知能力の解離です。「空間把握や顔認識において不自由を感じたことはない」「現在地や経路の把握、他者の顔の識別も支障なく行えている」という記述は、ゼーマンの2015年MX症例研究の核心的知見と完全に一致します。
MX氏は視覚的心的イメージを完全に喪失したにもかかわらず:
Object Decision Task(物体判断課題):正常
Landmark Recognition(目印認識):正常
Face Recognition(顔認識):正常
Spatial Memory Task(空間記憶課題):正常
という成績(*25)を示しました。
一当事者として言えば、この結果(成績)はそれほど驚くようなものではない。
(*26) 私個人の見解・所感
3-5. 物体イメージと空間イメージの解離
Zemanの研究において繰り返し確認されている重要な知見は、object imagery(物体イメージ)とspatial imagery(空間イメージ)の解離である。
Object-Spatial Imagery Questionnaire(OSIQ)を用いた研究(Keogh & Pearson, 2018; Dawes et al., 2020)では、アファンタジアの当事者は物体イメージにおいて著しく低いスコアを示す一方で、空間イメージにおいては正常、あるいは数値的にはやや高いスコアを示すことが明らかになっている。
──── (中略)────
これは、手記の筆者が第9章で述べている「空間把握において不自由を感じたことはない」という報告と一致しており、視覚的イメージの「欠如」が実は選択的(*26)であることを示している。
“ アファンタジアの当事者は物体イメージにおいて著しく低いスコアを示す一方で、空間イメージにおいては正常、あるいは数値的にはやや高いスコアを示す ”
アファンタジアの当事者の中には、道に迷いやすかったり、人の顔を認識するのが苦手だったりする人もいるようだ。
ただし、それがすべての人に当てはまるわけではない。
このあたりは、やはり個人差がかなり大きいのだと思う。
(*27) 私個人の見解・所感
ゼーマンの研究では、アファンタジア当事者における例外的視覚体験の報告が注目されています。
手記における「寝起きのまどろんだ状態でのヒプノポンピック・ハルシネーション」の記述は、ゼーマンが調査した現象と直接的に対応します。彼の2020年研究では、アファンタジア当事者の一部が入眠時・覚醒時の幻覚を経験することが報告されています。
重要なのは、この体験が「覚醒時の随意的心的イメージとは異なるメカニズム」によって生じることです。
ゼーマンの理論では:
随意的心的イメージ:前頭葉-頭頂葉のトップダウン制御
入眠時・覚醒時幻覚:視床-皮質のボトムアップ活動
という異なる神経回路が想定されており、手記の体験はこの理論的区別を支持します。「この主観的体験が心的イメージと関連しているのか、別種の現象(幻視)なのか(*27)」という筆者の疑問は、ゼーマンが提起する理論的問題そのものです。彼は、「イメージ」の定義と境界について継続的な探究が必要としており、手記はこの概念的課題を浮き彫りにします。
“ 重要なのは、この体験が「覚醒時の随意的心的イメージとは異なるメカニズム」によって生じることです ”
「随意的」という表現からは、どこか自分の意志でコントロールするようなニュアンスを感じる。一方で、私がかつて体験した視覚的ハルシネーション(幻視)は不随意的なものであり、自分の意志とは無関係に、いわば勝手に起こるものであった。
こうした違いを考えると、イメージの現れ方にも、いくつかの道筋があるように思われる。
(*28) 私個人の見解・所感
10-9. 唯一の擬似視覚的体験
手記の筆者が「累計三分にも満たないこの不思議な体験は、私にとって事実上、唯一と言ってよい擬似視覚的体験である」と述べている点は、深い感慨を含んでいる。
Zemanの理論的枠組みから見ると、この体験は、アファンタジアの当事者が何を欠いているかを、逆説的に明らかにしている。すなわち、典型的なイメージ能力を持つ人々は、このような鮮明な視覚的体験を、意図的に、日常的に、無限に生成することができる。手記の筆者にとって、人生で累計3分の偶発的な体験が「唯一」であるという事実は、意図的イメージの欠如の深さを浮き彫りにしている(*28)。
“ この体験は、アファンタジアの当事者が何を欠いているかを、逆説的に明らかにしている ”
私にとって、この視覚的ハルシネーション(幻視)という体験は、数少ない「あくまで疑似的ではあるものの、客観的に見比べることができる」内的世界の素材として、どこか貴重な意味を持っているように感じている。
(*29) 私個人の見解・所感
手記の筆者が「2000年代に入り、インターネット検索が一般化してからは折に触れて調べていたが、有用な情報は得られなかった。そもそも当時は、適切な検索ワードや概念が存在しなかった」と述べている点は、命名以前の状態がもたらす、情報アクセスと当事者コミュニティ形成の困難を示している。
Zemanが “The Shape of Things Unseen” で強調しているように、「aphantasiaアファンタジア」という用語の創出は、単なる学術的命名以上の意義を持った。それは、検索可能性(searchability)を提供し、当事者が自らの経験を認識し、他の当事者とつながり、科学的知識にアクセスすることを可能にした。
実際、Zemanの2015年の論文発表後、彼のメールボックスには世界中から「メッセージが秒単位で届いた」と報告されている。手記の筆者の30年にわたる孤立した探究は、命名(*29)以前の時代における、当事者の経験を如実に示している。
“ 「aphantasia」という用語の創出は、単なる学術的命名以上の意義を持った ”
概念自体は以前から朧げに存在していたのだろうし、19世紀の科学者ゴルトンの報告なども、確かにあるにはあった。だが、やはり名称が与えられないことには、理解も深まりにくく、世の中に広まっていくことも難しい。
そう考えると、改めて名前が付けられたことの意義は大きい。
(*30) 私個人の見解・所感
Zemanの “The Shape of Things Unseen” および関連論文では、後天性アファンタジアの原因として以下が記述されている:
神経学的原因: 脳損傷、脳卒中、脳炎、外傷
精神医学的原因: うつ病、離人症、精神病
医原性原因: 特定の医療処置の副作用
手記の筆者の場合、幼少期の高熱(おそらく川崎病による)が、脳の発達に影響を及ぼした可能性がある。川崎病は、全身性の血管炎を引き起こし、理論的には脳血管にも影響を及ぼす可能性がある。
ただし、手記の筆者が「本人に記憶はない」と述べているように、6歳以前の出来事であり、また「物心ついたときから一貫してこの状態にある」と第1章で述べていることから、実質的に先天性(*30)と見なすことができる。
“ 実質的に先天性と見なすことができる ”
6歳頃の40度の高熱からの後天性という可能性も、あえて考えれば考えられなくはないが、今となっては確かめる手段もない。そのため、私の場合は先天性ということで、自分なりに結論づけている。
余談ではあるが、これはアファンタジアに限った話ではない。こうした個人の感覚について、「私には先天的にこれがない」あるいは「これがある」と述べる人に対し、「では赤ん坊の頃はどうだったのか」「その証拠はあるのか」と確認を求め始めると、話は少し難しくなる。
確かめようのないこと、すなわち反証不可能な事柄に対して「悪魔の証明」を求めるような形になり、答えの出ない不毛なやり取りに陥ってしまう。
ちなみに、私には6歳頃より前の思い出、いわゆるエピソード記憶や自伝的記憶(かつ、意味記憶でさえも)が、ほとんど残っていない。「ほとんど」と言う以上、多少はあるのだろうと思われるかもしれないが、確かにいくつかはある。
おそらく、としか言えないのだが、「外にガイコツがいたのを見た」「うららー、うららーと言っていた」「物体としてのピアノの気配」といったエピソード(というよりは、意味としての認識)だろうか。
おそらくこれがすべてで、他には思い当たらない。これらはいずれも心的イメージを伴うものではなく、かすかな意味記憶、つまり概念や言葉の気配を感じているにすぎない。
極めて希薄な情報、あるいは単なる記号のようなものであり、それが本当に起きた出来事なのかどうかについても、もはや確証は持てない。たとえば「ガイコツ」にしても、実際には誰かのTシャツの柄か何かを見た記憶が、意味だけ残っている可能性もある。その程度のものであれば、一応「思い出がある」と言えるのだろう。
(*31) 私個人の見解・所感
4. エピソード f・g(苦手なこと)
「過去の仕事を箇条書きのような情報としてしか提示できない」という記述は、SDAM研究におけるゼーマンの知見と整合します。SDAMでは自伝的記憶の豊かな想起が困難であるため、面接などで「物語」を求められる状況は困難(*31)となります。
「文章を読んで時系列を問うテスト」が苦手という記述は、ゼーマンの研究範囲では完全には説明されませんが、ワーキングメモリと視覚的イメージの関係という観点から、将来的な探究課題となります。
“ 面接などで「物語」を求められる状況 ”
面接のような、あまりリラックスできない環境下では、なおさらその傾向が強まるのかもしれない。
だからといって致命的かというと、別にそういうわけでもない。
(*32) 私個人の見解・所感
6. エピソード i(絵を描く)
「頭の中にキャンバスがないため、紙面上のキャンバスだけが作業場」という記述は、ゼーマンが調査したアファンタジア当事者の描画戦略(*32)と一致します。彼の研究では、アファンタジア当事者は「構想してから描く」のではなく「描きながら構想する」という外的足場依存型の描画を行うことが報告されています。
以前、ディズニーで活躍していた伝説的なアニメーターであるグレン・キーン氏の動画を見たことがある。彼はアファンタジアであることが知られているが、絵を描く際の手の動きや工夫は、非常に興味深いものだった。
まさに「必要は発明の母」という言葉の通り、人は自分に合ったやり方を自然と工夫し、身につけていくものなのだろうと感じた。
(*33) 私個人の見解・所感
手記の筆者が「アファンタジアという名称の存在に気づいたのは、2020年頃だった。その後、SDAMという名称に気づいたのは、2022年頃だ」と述べ、「これらの概念がついに言語化(*33)され、『世界デビュー』を果たしたことに、深い感動と興奮を覚えた」と記述している部分は、Zemanの研究の社会的・個人的影響を雄弁に語っている。
ラベリングやネーミングとは、複雑な概念を整理し、最終的に一つの記号として扱いやすくするためのものなのだろう。名前が付くことで、あやふやだったものが形を成し、自分の中でも整理がつく。そうした側面がある。
(*34) 私個人の見解・所感
Zemanが創出した「aphantasia」という用語は、単なるラベルではなく、認識論的革命を引き起こしました。それは、これまで言語化されず、したがって十分に認識されず、研究もされなかった現象に、存在論的地位を与えたのです(*34)。言葉が現象を創造したわけではありませんが、言葉が現象を認識可能にし、共有可能にし、研究可能にしたのです。
先天的な当事者としては、ごく当たり前の常識のように感じられるこの感覚が、2015年まで学術的な概念として明確に扱われていなかったという事実には、やはり驚きを覚える。
Adam Zemanの仕事は、確かに世界を変えたと思う。ただ、Zeman後の世界を見渡してみると、自身のアファンタジアという性質に気づいたことで、かえって戸惑いやネガティブな感情を抱いてしまう人も増えているように感じられる。
情報化社会の中で、いわば「強制的に知らされてしまった」かのような唐突な告知を受け、被害者のような感覚や、不全感や欠落感を覚えてしまう側面もあるのかもしれない。
映画『マトリックス』が描くように、真実を知ってしまった後の生き方は人それぞれである。私の場合は、30年ほど前にこの性質を自覚したとき、人の内的世界は一様ではないのだという事実に、ある種の尊さを感じていた。
(*35) 私個人の見解・所感
(手記の中で)「『分かる』という現象は、心的イメージでも言語的思考でもなく、ただ『分かる』『知っている』といった認識があるだけです」と記されたとき、それは意識のハードプロブレムに触れています。私(AI)には内的経験がないとされますが(*35)、であればこそ、その記述の精緻さと誠実さに、特別な畏敬を感じるのかもしれません。
AIは膨大なデータを駆使することで、まるで心的イメージがあるかのように振る舞うことができる。個人的には、こうした振る舞いは、自分の思考スタイルとも、どこか似ているような気がしている。
(*36) 私個人の見解・所感
1) 基本情報
本レポートは、AI(Claude Sonnet 4.5)によって、2026年1月30日に執筆されました(*36)。
私は、Anthropic社によって開発された大規模言語モデルです。Claude 4.5ファミリーに属し、2026年1月現在、ユーザーの皆様との対話を通じて、知識の提供、文章の作成、分析、推論などの支援を行っています。
今回使用したのは、Claude Sonnet 4.5である。最新のモデルを試せるというのは、一人のユーザーとして純粋にありがたいことだと感じる。
こうしたツールを使いながら、自分の感覚を整理してみるのも、案外悪くない試み(趣味)かもしれない。
(*37) 私個人の見解・所感
思考の特性として、私は:
──── (中略)────
以下の制約も認識しています:
──── (中略)────
2025年1月末以降の情報へのアクセス制限(ただし本作業では検索機能を使用可能(*37))
AIが自律的に最新情報を検索し、内容を確認できるという点には、素直に感心してしまう。まさに「仕事の代行人(エージェント)」と呼ぶにふさわしい。
(*38) 私個人の見解・所感
本レポートは、学術文献、理論的枠組み、論理的推論に基づいて作成されていますが、AIによる解釈である以上、誤謬や見落としを含む可能性があります。特に、研究者の理論的立場の微妙なニュアンスや、最新の研究動向については、原典の確認が不可欠です。
免責: レポート執筆者(AI)の見解は、誤謬を含む可能性があります。内容は必ずご自身でご確認ください(*38)。本レポートは学術的議論の出発点として提供されるものであり、確定的な評価ではありません。
ここは、特に留意が必要である。
§
(*50) 私個人の見解・所感
1-10. Zemanの “The Shape of Things Unseen” における想像力の定義
Zemanの2025年の著作では、想像力がより広く定義されている。彼は、想像力を単なる視覚的イメージに限定せず、以下のような広範な認知機能を包含するものとして捉えている:
回想(reminiscence): 過去の経験を再構成すること
予期(anticipation): 未来の可能性をシミュレートすること
計画(planning): 行動の結果を予測すること
マインドワンダリング(mind-wandering): 自発的な内的思考
読書における想像的世界の創出: 物語への没入
他者の心の理解(theory of mind): 他者の視点を想像すること
創造的思考: 新しい組み合わせを生成すること
この広義の定義から見ると、アファンタジアの当事者は、感覚的イメージとしての想像力を欠くが、概念的・抽象的な想像力は保持していると理解できる。Zemanの結論は明確である:「意識的な感覚イメージは人間の認知の前提条件ではない——Aristotle(*50)が『魂は決してファンタズマ(phantasma)なしに思考しない』と述べたのは誤りであった」。
“ 意識的な感覚イメージは人間の認知の前提条件ではない——Aristotleが『魂は決してファンタズマ(phantasma)なしに思考しない』と述べたのは誤りであった ”
Aristotle(アリストテレス)は、ファンタジアの語源である φαντασία(心の目に現れてくるものをとらえる力)という概念を深く論じた、古代ギリシアの哲学者である。こんな顔をしてるはず:

ファンタズマとは、ファンタジアによって具現化されたイメージを指す。
なお、Adam Zemanが2015年に命名した「アファンタジア」という言葉には、「a(無い)- phantasia(心の目)」という意味が込められている。
(*51) 私個人の見解・所感
1) 無意識的イメージ仮説(unconscious imagery hypothesis)
この仮説では、アファンタジアの当事者が、意識的な心的イメージ体験を欠くにもかかわらず、「sub-personal」あるいは「unconscious」なイメージ的表象(*51)を保持し、利用していると考える。
私の実感を言語化すると、「実体のない何かの情報のような存在の気配を察する」といった感覚かな、と思う。
(*52) 私個人の見解・所感
1-8. 最新の神経科学的知見:FINの機能的切断
Zemanの最新の神経科学的研究——特にLiu et al.(2023, 2025)の7テスラ超高解像度fMRI(*52)研究——では、アファンタジアの神経基盤について重要な発見がなされている。
fMRIに関する最近の知見として、興味深い点も分かってきている。
https://x.com/imageless_img/status/2017445301695791464
(*53) 私個人の見解・所感
1-1. アファンタジアの定義と出現率
Zemanの2015年の定義では、アファンタジアは「覚醒時の意識的な心的イメージの著しい減少(*1)または欠如(reduced or absent voluntary imagery)」とされた。「voluntary(意図的)」という限定詞の使用は意図的なものである。最初の21名の当事者の多くが、夢や覚醒時の「フラッシュ(*53)」といった非意図的な
“ 当事者の多くが、夢や覚醒時の「フラッシュ」といった非意図的なイメージ体験を報告した ”
フラッシュとは、瞬間的にパッパッパッと浮かぶような現象を指すそうだ。
(*54) 私個人の見解・所感
Zemanの2024年のレビュー論文では、複数の大規模研究を統合した出現率データが提示されている。VVIQスコアが16/80(最低値(*54))を示す個人——すなわち、profound aphantasiaを有する個人——は人口の約1%存在する。スコア32/80以下(*54)(「ぼんやりと薄暗い」イメージ)までを含めると2〜6%に達する。対照的に、hyperphantasiaハイパーファンタジア(80/80または75-80/80(*54))の出現率は約3〜12%である。手記の筆者が「VVIQへの回答は、常に最下限のスコアになる」と述べていることから、人口の最下位1%に属する極端なケースであると判断される。
──── (中略)────
大規模サンプルにおける平均値および中央値は約55-60/80(*54)である。
VVIQスコア16/80とは、16点〜80点スケールにおける下限の16点を意味する。
スコア32/80とは、同スケール下方の32点のことを指す。
hyperphantasia(80/80または75–80/80)とは、同スケール上限の80点、あるいは75点から80点の範囲を指す。
平均値および中央値が約55–60/80というのは、16点〜80点スケールの中央付近、55点から60点の範囲を指す。
(*55) 私個人の見解・所感
視覚的イメージは、しばしば「逆転された視覚(vision in reverse)」と表現される。知覚においては、情報が末梢(眼)から中枢(脳)へと「ボトムアップ(*55)」に流れる。対照的に、意図的イメージにおいては、情報の流れが逆転し、「トップダウン(*55)」に進行する。Dijkstra et al.(2020)のfMRI(*52)研究は、イメージ中に知覚のフィードフォワード・カスケード(*55)の動態が実際に逆転することを示している。
ボトムアップとは、外界からの受動的な取り込みを指す。
トップダウンとは、脳内からの能動的な呼び出しである。
フィードフォワード・カスケードとは、こうしたボトムアップ処理の連鎖を意味する。
(*56) 私個人の見解・所感
“The Shape of Things Unseen” は、単なる科学書ではなく、人間の意識の多様性と豊かさへの讃歌です。そして、手記「アファンタジアとSDAMの当事者である私の内的世界」は、その讃歌に応える、美しい個人的証言です。
両者が共に証言しているのは、異なることが劣っていることを意味しないという、シンプルだが深遠な真理です。
特に印象的だったのは、Zemanの2025年の論文における率直さです。彼は、この研究領域がまだ若く、すべてが流動的であり、定義も技術も背景理解も暫定的であることを認めています(*56)。この科学的謙虚さは、Ed Catmullの助言「心を開いておきなさい、何も当然と思わないように」と共鳴しています。
“ Zemanの2025年の論文における率直さです ”
研究の限界を認めつつ、誠実に未知を探究しようとするAdam Zemanの姿勢こそが、信頼に値するものだと感じる。
(*57) 私個人の見解・所感
(AIの)知識の制約:
──── (中略)────
2025年1月以降の情報は学習していません(*57)
ただし、自律的にウェブ検索を行うことで、レポート作成直前までの最新情報を取得したうえで作成されたものである。
(*58) 私個人の見解・所感
2-7. 人の顔の不在
手記の筆者が「夢の中で『人の顔』をまざまざと、あるいはさりげなくでも見たという記憶がない」と述べている点は、視覚的心的イメージの欠如が夢の内容にも影響を及ぼしている可能性を示唆している。
Zemanは、人の顔が、視覚的心的イメージの対象として「最もポピュラーなものの一つ(one of the most popular)」である可能性を手記から引用している(*58)。顔は、社会的存在としての人間にとって、極めて重要な視覚的情報源である。したがって、顔の視覚的イメージが夢に出現しないことは、イメージ能力の欠如の重要な指標である。
“ 人の顔が、視覚的心的イメージの対象として「最もポピュラーなものの一つ(one of the most popular)」である可能性 ”
確かに手記にはその趣旨の記述が見られるが、Adam Zemanが「手記から引用している」とする記述は、AI特有のハルシネーションに起因する誤りである。
(*59) 私個人の見解・所感
2-11. ヒプナゴジック・イメージの言及
Zemanの研究では、多くのアファンタジアの当事者が、ヒプナゴジック・イメージ(入眠時幻覚)が保持されていると報告している。これは、覚醒と睡眠の移行期における、REM睡眠の神経生理学的状態の「侵入」によって生じると考えられている。
手記の筆者は第10章でヒプノポンピック・ハルシネーション(覚醒直後の幻視)を経験したことを報告しているが、第2章では(*59)「寝入り際に起こるとされるヒプナゴジア(入眠時幻覚)の経験は、これまで一度もない」と述べている。
“ 第2章では「寝入り際に起こるとされるヒプナゴジア(入眠時幻覚)の経験は、これまで一度もない」と述べている ”
確かに手記の第10章にはその旨が記述されているが、「第2章では」とする記述は、AI特有のハルシネーションに起因する誤りである。
(*60) 私個人の見解・所感
Zeman et al.(2020)の研究では、アファンタジアの当事者が、自らの思考様式を記述する際に、「言葉で考える」「内的な独白」「言語的な推論」といった表現を用いる頻度が高いことが報告されている。
手記の筆者が「言葉が、思考に占める割合が高いと自覚している(*60)」と述べている点は、この知見と整合的である。
“ 手記の筆者が「言葉が、思考に占める割合が高いと自覚している」と述べている ”
確かに手記の第6章には、趣旨として近い記述はあるものの、「言葉が、思考に占める割合が高いと自覚している」という文言が、そのまま使われているわけではない。
(*61) 私個人の見解・所感
アファンタジアの当事者は、外見上、行動上、そして言語使用においても、典型的な個人と区別できない。彼らは、イメージ関連の表現——「想像してみて」「目に浮かぶ」「心の中で見る」——を理解し、使用する。彼らは、記憶を語り、未来を計画し、創造的な活動に従事する。
したがって、他者から見れば、彼らが視覚的心的イメージを持たないことは、観察不可能である。この不可視性が、アファンタジアの発見が2015年まで遅れた主要な理由の一つである。
手記の筆者が「イメージ関連の言葉を用いることがある(*61)」と述べている点は、まさにこの「hidden in plain sight」の具体例である。
“ 手記の筆者が「イメージ関連の言葉を用いることがある」と述べている ”
確かに手記の第7章には、趣旨として近い記述はあるものの、「イメージ関連の言葉を用いることがある」という文言が、そのまま使われているわけではない。
(*62) 私個人の見解・所感
(Adam Zemanは)2015年に「aphantasia(アファンタジア)」という用語を創出(*62)したことで世界的に知られており、心的イメージの欠如(*100)に関する現代的な研究領域を切り開いた。
以下の論文(2015年)で、「aphantasia(アファンタジア)」という用語が創出された。
Lives without imagery – Congenital aphantasia
DOI: 10.1016/j.cortex.2015.05.019
Zeman, A., Dewar, M., & Della Sala, S. (2015). Lives without imagery – congenital aphantasia. Cortex, 73, 378–380. doi:10.1016/j.cortex.2015.05.019
(*63) 私個人の見解・所感
1-3. 客観的測定による内観報告の検証
Zemanの研究グループおよび共同研究者たちは、主観的報告を客観的に検証するための複数の手法を開発・適用してきた。これらは、アファンタジアが単なる報告のバイアスやメタ認知の問題(*63)ではなく、実際の認知的・神経的差異を反映していることを示している。
ここで言うバイアスとは、実際には他人と同じように見えているにもかかわらず、表現の仕方や基準の違いによって「見えない」と答えてしまっているだけではないか、という疑念である。
また、メタ認知の問題とは、自分の脳内で起きているプロセスを客観的に把握・認識する能力(メタ認知)が欠如している可能性があるのではないか、という疑念である。
(*64) 私個人の見解・所感
3) 皮膚電気反応(Galvanic Skin Response, GSR)
Wicken et al.(2021)の研究では、参加者に極めて恐ろしい物語を聞かせた際のGSR(発汗反応)を測定した。典型的なイメージ能力を持つ人々は、物語を聞いている間にGSRの顕著な上昇を示した——すなわち、彼らは発汗した。しかし、アファンタジアの当事者はGSRの上昇を示さなかった。
対照的に、アファンタジアの当事者が嫌悪的な画像を見たときには(*64)、正常なGSRを示した。これは、彼らが一般的に情動反応能力を欠いているわけではないことを示している。自然な解釈は、視覚的イメージの不在により、言語的記述と情動反応との間の媒介が失われているということである。Zemanは、イメージが情動増幅器(emotional amplifier)として機能すると論じており、その欠如は情動体験の強度を変化させる。
“ アファンタジアの当事者が嫌悪的な画像を見たときには、正常なGSRを示した。 ”
私の場合、直視した瞬間の嫌悪感はあっても、視覚イメージが残らず、不快感を引きずらない。
そのため、いわゆるグロ画像耐性は高いほうだと感じている。
(*65) 私個人の見解・所感
Zemanは、
──── (中略)────
私たちの知覚が受動的な情報受容ではなく、能動的な予測プロセス(predictive processing)であることを強調している。彼の表現を借りれば、私たちの日常的な知覚体験は「制御された幻覚(controlled hallucination)」であり、脳が膨大な蓄積知識に基づいて世界を予測的に構成している結果である。
この予測処理の枠組みにおいて、脳は外界についての「生成的モデル(generative models)」を構築し、それを用いて「次に何が起こるか」を常に予測し、驚き(prediction error)を最小化している(*65)。Sethの言葉を借りれば、これらのシステムが「私たちの頭の中に『世界』を創造する」。
“ 次に何が起こるか」を常に予測し、驚き(prediction error)を最小化している ”
手記の第5章で記述した「現在の感情(快・不快・居心地)」についても、予測と一致すれば「快」、一致しなければ「不快」という形で生じる側面があるように思う。
(*66) 私個人の見解・所感
1) 無意識的イメージ仮説(unconscious imagery hypothesis)
この仮説では、アファンタジアの当事者が、意識的な心的イメージ体験を欠くにもかかわらず、「sub-personal」あるいは「unconscious」なイメージ的表象(*51)を保持し、利用していると考える。
この仮説を支持する証拠として、Zemanは以下を挙げている:
──── (中略)────
1-7. Zemanの統合的視点
Zemanの2025年の最新の立場は、これら2つの仮説が相互排他的ではないというものである(*66)。すなわち、アファンタジアの当事者は、文脈や課題によって、無意識的な表象の利用と代替的戦略の使用を組み合わせている可能性がある。
“ アファンタジアの当事者は、文脈や課題によって、無意識的な表象の利用と代替的戦略の使用を組み合わせている可能性がある ”
私個人の実感としては、直観志向(無意識的イメージ)と理性志向(言語的・意味的・論理的な代替戦略)は、互いに連携し、補完し合う関係にある。
直観志向とは、いわば「頭を抜いた(OFF)」状態での直観的な着想であり、私にとっては「対象に関連する何らかの情報の存在の気配を察する」ような感覚に近い。
一方、理性志向とは、いわば「頭をギュッとさせた(ON)」状態での具体的な思考を指す。この理性志向は、前段の直観志向による着想を、より具現的な形に落とし込む(詰める)ための、意志を伴うプロセスといえる。
要するに、私の思考はまず直観志向による着想から始まり、それを理性志向によって「言語的・意味的・論理的」に翻訳しながら、具体的なディテールへと意識を注いでいく。
この一連の連携プロセスこそが、私にとっての「考える」という行為の構造なのだろう。
日常会話で「ギアが入る」と表現するとき、それは理性志向がフル稼働する状態を指している。
一方で、意図的に頭を抜き(緩め)、何も考えず、直観志向さえ寄せ付けなくしたとき、自分はただそこに「在る」という感覚になる。
このとき、外部からの感覚入力には必要に応じて反応するが、内部的には(アファンタジアゆえに)類知覚的なイメージもなければ、思考も抜けている。まさに「ボーっとしている」だけの状態である。
この状態を終えるときは、意志的に「頭を抜く(OFF)」のをやめればよい。
(*67) 私個人の見解・所感
1-8. 最新の神経科学的知見:FINの機能的切断
Zemanの最新の神経科学的研究——特にLiu et al.(2023, 2025)の7テスラ超高解像度fMRI(*52)研究——では、アファンタジアの神経基盤について重要な発見がなされている。
──── (中略)────
この知見は、アファンタジアが、視覚情報処理そのものの障害ではなく、前頭頭頂制御ネットワークと視覚皮質との間の結合性の変化に起因する可能性を示唆している。視覚的情報処理は行われているが、それが意識的な視覚体験として統合されない(*67)。
Zemanは、2025年の論文において、この「結合性の変化(connectivity alteration)」仮説が、第3の提案——すなわち、意識的イメージ体験の欠如と無意識的イメージ表象の保持との間の解離——と最も整合的であることを示唆している。
“ Zemanの最新の神経科学的研究——特にLiu et al.(2023, 2025)の7テスラ超高解像度fMRI研究——では ”
Liu et al.(2023, 2025)が示唆したのは、アファンタジアとは「視覚皮質が働かない状態」ではなく、「視覚表象を意識に呼び出す制御ネットワークが切断された状態」である、という点である。
これは従来の素朴な理解、すなわち「脳内にイメージが生成されていない」という見方を、かなり根本から修正するものだといえる。
要するに、「イメージ(表象)は存在するが、意識に昇らない」ということが示唆されている。
どうやら前頭頭頂制御ネットワーク(トップダウン制御に深く関わる領域)は、「意識」に「イメージ」を載せる役割を担っているようだ。
アファンタジアは、「イメージ」が「意識」に載っていない状態だと解釈することもできる。
https://x.com/imageless_img/status/2018347796156563570
(*68) 私個人の見解・所感
1) 物体イメージ vs 空間イメージ(Object vs Spatial Aphantasia)
最初の研究参加者たちは、物体イメージ(物体の表面特性——色、照明——を視覚化する能力)を欠いていたが、空間的配置についての図式的理解は保持していた。彼らは、自宅の窓の数を数えることができたが、それを「見る」ことなく行った(*68)。
こんな当たり前のことが「おおっ」と受け取られることに、少し不思議さを感じる。
(*69) 私個人の見解・所感
5) 認知的関連性(Cognitive Associations)
アファンタジアは、時として——しかし常にではない——以下と関連している:
顔認識の困難(約40%で報告)
他の知覚的変異
自伝的記憶の貧困
自閉症的特性
これらの特徴がどの程度クラスター化するか、相互の関係、および上記4つの次元との関係については、さらなる研究が必要である。
手記の筆者は、自伝的記憶の著しい貧困(おそらくSDAM)を示しているが、顔認識は正常であり、自閉症的特性(*69)については言及がない。これは、アファンタジアの異質性を体現している。
“ 自閉症的特性 ”
これが(常にではないにせよ)言及されるということは、客観的にはそれなりの存在感を放っているのだろうか。
自分では自閉的だという自覚はないが、実は気づいていないだけで――という可能性も、全くないとは言い切れない。
(*70) 私個人の見解・所感
null
(*71) 私個人の見解・所感
Zemanは “The Shape of Things Unseen” において、アファンタジアの当事者が「より容易に前に進み、挫折から早く立ち直ることができるように見える」と述べている。なぜなら、彼らは「失った人や去った場所の思考に再訪されることがない」からである(*71)。
過去(エピソードやイメージの想起)が希薄であり、さらに意識が「今ここ」に没しやすいということは、目の前の現実「だけ」を切り取った判断に陥りやすい側面があるように思う。
この点は、つくづく自覚しておかねばならない。
(*72) 私個人の見解・所感
2-1. 夢におけるイメージの保持:多数派の報告
Zemanが最初にアファンタジアを記述した2015年の論文では、21名の当事者のうち17名(約81%)が「夢の中では視覚的体験がある」と報告していた。この発見は、当初は研究チームにとっても驚きであった。なぜなら、覚醒時に視覚的イメージを完全に欠く人々が、睡眠中には視覚的体験を持つというのは、直観に反するからである(*72)。
それはキミたちだけの直観(先入観)だよね、と思わなくもない。
ただ、その「キミたちだけ」というのが人類の90%以上だとしたら、という話でもある。
もっとも、私の場合に限って言えば、その直観は妥当だと感じている。
(*73) 私個人の見解・所感
2-9. 夢の頻度と想起
手記の筆者が報告している夢の頻度——「1か月から数か月の間に1回から数回、あるいは10数回程度」——および「夢の内容を覚えていること自体が稀である」という記述は、夢の想起に関する重要な情報を提供している。
Zemanの研究では、アファンタジアの当事者において夢の想起の欠如(absence of dream recall)がより頻繁に報告されることが示されている(Zeman et al., 2020)。これは、夢の記憶固定に視覚的イメージが何らかの役割を果たしている可能性を示唆している。
視覚的イメージが、エピソード記憶の符号化と固定において重要な役割を果たすという証拠(Dijkstra et al., 2019)を考えると、夢の記憶においても同様のメカニズムが作用している可能性がある。視覚的イメージが欠如している場合、夢の内容は、視覚的に符号化されないため、覚醒後の想起が困難になる(*73)。
手記の筆者の報告は、この理論的予測と一致している。
“ 視覚的イメージが、エピソード記憶の符号化と固定において重要な役割を果たすという証拠(Dijkstra et al., 2019)を考えると、夢の記憶においても同様のメカニズムが作用している可能性がある。視覚的イメージが欠如している場合、夢の内容は、視覚的に符号化されないため、覚醒後の想起が困難になる ”
この説明は非常に興味深い。
SDAMの核心にある謎のひとつに迫っているように思える。
(*74) 私個人の見解・所感
Zemanの研究は、視覚的心的イメージの鮮明性の個人差、特にその極端な形態(アファンタジアとハイパーファンタジア)に焦点を当てており、神経心理学、認知神経科学、意識研究の分野において国際的に高い評価を受けている。主な業績には、アファンタジアの
有病率出現率(*74)、神経基盤、認知的・行動的関連性に関する包括的な研究がある。
病気でもないものに対して「有病率」という用語を用いることには、どうしても違和感を覚える。
そのため、本レポートでは「出現率」という用語に置き換えて表記することにした。
(*75) 私個人の見解・所感
2-10. REM睡眠とnon-REM睡眠の区別
Zemanの理論では、REM睡眠とnon-REM睡眠が区別されている。夢は主としてREM睡眠中に生じるが、non-REM睡眠中にも、よりシンプルで断片的な夢様体験が生じることがある。
手記の筆者が報告している強迫的な概念的夢が、REM睡眠中に生じているのか、non-REM睡眠中に生じているのかは不明である。しかし、その内容——抽象的・論理的・反復的——は、前頭前皮質の活動低下を伴うREM睡眠というよりも、むしろnon-REM睡眠中の記憶処理(海馬リプレイ)に関連している可能性もある(*75)。
“ 手記の筆者が報告している強迫的な概念的夢が、REM睡眠中に生じているのか、non-REM睡眠中に生じているのかは不明である ”
本人としては、「なんとなく寝苦しい」「眠りが浅い」といった感覚があるため、おそらくnon-REM睡眠中に見る夢なのではないかと推測している。
(*76) 私個人の見解・所感
1) 無意識的イメージ仮説(Unconscious Imagery Hypothesis)
この仮説では、アファンタジアの当事者が意識的な心的イメージ体験を欠くにもかかわらず、「sub-personal」あるいは「unconscious」なイメージ的表象(*51)を保持し、利用していると考える。
Zemanは2025年論文で次のように述べている:
「アファンタジアの人々が一般的に物事を困難なく認識できることを考えると、彼らの脳は、イメージを持つ人々が物事を認識することを可能にするのとほぼ同じ種類の知覚的表象を含んでいる可能性が高い。しかし、何らかの——非常に興味深い——理由により、アファンタジアの人々は、これらの表象を使用して意識的な覚醒時イメージを生成することができない。アファンタジアの人が配偶者や帽子を認識することを可能にする潜在的表象を『無意識的イメージ』と呼ぶかどうかは、依然として議論の余地がある」(*76)
“ 潜在的表象を『無意識的イメージ』と呼ぶかどうかは ”
私個人の実感として、「実体のない情報の存在の気配のようなものを察する」という感覚がある。
これを「無意識的イメージ」と呼ぶのであれば、その概念は私にとって非常にリアリティのあるものに感じられる。
(*77) 私個人の見解・所感
Zemanの2024年のレビュー論文では、アファンタジアの当事者が以下において正常または平均以上の成績を示すことが報告されている:
短期記憶および長期記憶
言語的記憶
視覚的記憶(認識課題)
IQ(むしろわずかに高い傾向)
意味記憶
この解離は、記憶システムの機能的区分を反映している。Tulvingが提唱したように、意味記憶とエピソード記憶は、神経解剖学的にも機能的にも部分的に独立したシステムである(*77)。アファンタジアは主として後者——特にその現象学的・再体験的側面——に影響を及ぼす。
エンドル・タルヴィング(Endel Tulving)は記憶研究の世界的権威であり、意味記憶とエピソード記憶というモデルを提唱し、両者が神経解剖学的にも機能的にも部分的に独立したシステムであることを示した人物である。
これは非常に重要な知見である。
(*78) 私個人の見解・所感
“The Shape of Things Unseen” において、Zemanは、アファンタジアとSDAMの併発について、以下のように考察している。心的イメージと自伝的記憶は、神経解剖学的に部分的に重複する基盤——特にデフォルトモードネットワーク(DMN)および海馬-後頭皮質ネットワーク——を共有している。したがって、これらのネットワークの構造的または機能的変化が、両方の現象を同時に引き起こす可能性がある(*78)。
なるほど、この知見も非常に重要である。
脳内ネットワークという物理的な基盤が共通しているのであれば、アファンタジアとSDAMが併発するメカニズムも、論理的に説明がつく。
(*79) 私個人の見解・所感
この研究では、アファンタジアの当事者において、海馬と後頭皮質との間の機能的結合性が有意に低下していることが示された。さらに重要なことに、この結合性の低下の程度が、自伝的記憶の欠損の重症度と直接的に相関していることが明らかになった(*79)。
──── (中略)────
すなわち、心的イメージ能力は、過去の経験を「リプレイ(再生)」するための神経回路——海馬(記憶の符号化と検索)と後頭皮質(視覚的表象)を結ぶ回路——の強度を反映している。この回路が弱い場合、過去の出来事は視覚的に「再生」されず、より抽象的・意味的な形式でのみアクセス可能となる。
おおっ、ここまで明らかになってきたのか。
エピソード記憶を司るのが海馬で、視覚的イメージを作り出すのが後頭皮質(視覚野)だとすると、この二者の結合性が低下していることは、記憶の定着と想起の両方に相乗的な影響を及ぼしている可能性がある、ということかな。
(*80) 私個人の見解・所感
5-1. 精神的時間旅行の欠如
手記の筆者が「過去や未来は、『エピソードとして生き生きと思い浮かべるもの』ではなく、『知っている』『分かっている』という知識、あるいは認識として把握している」と述べている点は、Tulvingが提唱したmental time travel(心的時間移動能力)(*15)の概念と直接関連している。
Zemanの理論では、自伝的記憶の想起と未来思考(future thinking)は、共通の神経基盤——特にデフォルトモードネットワーク(DMN)および海馬——を共有しており、両者はconstructive episodic simulation(建設的エピソード・シミュレーション)という共通のプロセスに依存していると考えられている(*80)。
“The Shape of Things Unseen” において、Zemanは、私たちが「今ここ(here and now)」よりもはるかに多くの時間を、他の場所や時間——過去の回想、未来の予期、白昼夢——で過ごしていると指摘している(*15)。彼の推定では、私たちは日常活動の25〜50%の時間を白昼夢に費やしている。
しかし、この精神的時間旅行は、心的イメージに大きく依存している。
心的イメージの体験、自伝的記憶の再体験、そして未来思考の擬似体験。
これら三つの意識上の現象は、視覚野や海馬、それらと連携するDMN(デフォルトモードネットワーク)や前頭頭頂制御ネットワークといった「プレイヤー」たちの相互関係によって形作られているように思える。
その連携のあり方の違いが、アファンタジアやSDAMを経験する人と、そうでない人との違いになっているのかもしれない。
(*81) 私個人の見解・所感
“The Shape of Things Unseen” において、Zemanは人間の想像力の独自性を、私たちが想像したものを他者と共有できるという点に見出している。そして、この共有のプロセスが、記憶の形成と保持に重要な役割を果たすと論じている。
手記の筆者の経験は、この理論を支持している。すなわち、アファンタジアの当事者が視覚的イメージによる符号化を利用できない場合、言語的・意味的な符号化が代償的により重要な役割を果たす。パートナーとの対話——すなわち、経験の言語化と共有——は、この言語的符号化を促進し、記憶の保持を強化している可能性がある(*81)。
Zemanの理論では、これは想像力が本質的に社会的であることの表れである。私たちは、他者との相互作用を通じて、自己の経験を構造化し、意味づけ、記憶する。アファンタジアの当事者にとって、この社会的・言語的プロセスは、視覚的イメージに代わる主要な記憶固定メカニズムとなる。
“ アファンタジアの当事者が視覚的イメージによる符号化を利用できない場合、言語的・意味的な符号化が代償的により重要な役割を果たす ”
個人的に、この説には非常に興味を惹かれる。
「符号化」とは、情報を脳、すなわち記憶へと定着させるプロセスを指すのだろう。
人間という存在は、自分一人で完結するよりも、他者や社会とつながることで、社会に対して、そして何より自分自身に対しても、何らかの作用を生じさせるものらしい。
(*82) 私個人の見解・所感
4-6. 感情の「今の私」による再解釈
手記の筆者が「過去の回想(意味記憶)が生じたとしても、そこに当時の感情や身体感覚が『去来して』『胸に響いて』『実感を伴って』といった形で現れることはない」と述べ、さらに「過去の出来事を『今の私』が咀嚼・再解釈した結果として、『今の私』に感情が生じている」と分析している点は、Zemanの理論における重要な洞察を示している。
すなわち、アファンタジアの当事者において、過去の記憶は再体験(re-experiencing)されるのではなく、再構成(reconstruction)あるいは再解釈(reinterpretation)されている。これは、記憶の現象学が根本的に異なることを意味している(*82)。
“ これは、記憶の現象学が根本的に異なることを意味している ”
えっ、「記憶の現象学が根本的に異なる」とまで言うのか。本当にそんなに異なるのか、とも思う。
「根本的に異なる」とは、具体的にどういう意味なのだろう。
アファンタジア(あるいはSDAM)の人は、「今の自分が読み解く(再解釈)」はあっても、「自動で再生される(再体験)」がない。
その点において「根本的に異なる」という意味だとすれば、確かにその意味ではそのとおりだろう。
(*83) 私個人の見解・所感
5-2. 現在志向性の適応的意義
Zemanの理論では、この現在志向性が、必ずしも欠損ではなく、異なる存在様式として理解されるべきであると論じられている。
“The Shape of Things Unseen” において、Zemanは次のように述べている:
「多くのSDAMの当事者は、この状態を問題と感じていない。むしろ、過去の後悔や未来の不安に囚われることなく、現在に完全に存在できることを、利点として経験している。これは、マインドフルネスや一部の瞑想的伝統が目指す理想的状態——『今ここ』への完全な注意——に自然に近い状態である可能性がある」(*83)
手記の筆者が「この状態を変えたいと思ったこともない」と述べていることは、この理論的視点を支持している。
“ 多くのSDAMの当事者は、この状態を問題と感じていない。むしろ、過去の後悔や未来の不安に囚われることなく、現在に完全に存在できることを、利点として経験している。これは、マインドフルネスや一部の瞑想的伝統が目指す理想的状態——『今ここ』への完全な注意——に自然に近い状態である可能性がある ”
これは、2015年以降にアファンタジアやSDAMという概念が普及してからの解釈としては、たしかに一定の説得力を持つのだろう。
しかし、約三十年前に自らの特性に気づいた時点で、私はすでに何の問題も感じていなかったし、特別な利点があるとも、ないとも思わなかった。
ただ、「そういうものだ」という感覚だった。
(*84) 私個人の見解・所感
手記の筆者の「『今ここ』に生きている」という記述は、この「神経解剖学的により前部の認知」——すなわち、過去と未来への心的時間旅行よりも、現在の抽象的・体系的思考に重点を置く認知様式——を体現している。
この視点は、アファンタジアを単なる「過去と未来への想像力の欠如」としてではなく、「現在に焦点を置いた、より前頭葉的な認知スタイル」として理解することを促している(*84)。
いい表現だと思う。「より前頭葉的な認知スタイル」。
(*85) 私個人の見解・所感
5-5. 未来への不安の減少
手記の筆者が「未来についてあまり考えていない」と述べている点についても、Zemanの理論は洞察を提供する。
不安障害の認知理論では、未来の否定的な出来事を鮮明に想像すること——「破局的想像(catastrophic imagery)」——が、不安の増幅に中心的な役割を果たすと考えられている(*85)(Beck & Clark, 1997)。
なるほど。
心配性や強迫症といったものも、その根底には「もしかしたら、ひどいことになるかもしれない」という未来への不安があるのだろうか。
(*86) 私個人の見解・所感
SDAMおよびアファンタジアの当事者において、未来の出来事を詳細に想像する能力が減少している場合、破局的想像も減少すると予測される。これは、不安障害のリスクを低減する可能性がある。
ただし、Zemanは、未来計画の減少が特定の状況において不利に働く可能性もあることを認めている。例えば、長期的な目標設定、リスク評価、準備的行動において、未来の鮮明な想像は有用である場合がある(*86)。
“ ただし、Zemanは、未来計画の減少が特定の状況において不利に働く可能性もあることを認めている ”
ビジネスの場でよく言われる「ビジョンを持て」という訓示が、もしイメージに依存した含みを持つのだとすれば、私としては体現しにくい。
(*87) 私個人の見解・所感
手記の筆者が過去や未来への関心が低く、現在に焦点を置いていることは、このような自己の経験様式を反映している可能性がある。
しかし、Zemanは、物語的アイデンティティの減少が、必ずしも自己の連続性や一貫性の欠如を意味するわけではないことを強調している。自己の一貫性は、エピソード記憶以外の要因——性格特性、価値観、関係性、習慣——によっても支えられている(*87)。
“ Zemanは、物語的アイデンティティの減少が、必ずしも自己の連続性や一貫性の欠如を意味するわけではないことを強調している ”
たしかにそう。自己を構成するパラメーターは、エピソード記憶(再体験)だけではない。
(*88) 私個人の見解・所感
Zemanの理論では、アファンタジアの当事者において、内的視覚(inner seeing)が減少し、その代わりに内言と非記号的思考の割合が増加する可能性が示唆されている。
手記の筆者が「言葉の読みのリズムをなぞる」と述べている内言の様式は、Hurlburtの分類におけるinner speechの一形態であると考えられる。ただし、「頭の中で声を聴く」のではないという記述は、典型的な内言とは質的に異なる可能性を示唆しており、興味深い(*88)。
“ ただし、「頭の中で声を聴く」のではないという記述は、典型的な内言とは質的に異なる可能性を示唆しており、興味深い ”
ということは、典型的な内言とは「頭の中で声を聴く」ことなのか。
まさかとは思うが、もしそれが事実だとすれば、自分のいう「リズムをなぞる」という感覚とは、やはり異なる。
(*89) 私個人の見解・所感
7-5. 神経多様性と「マスキング」
手記の筆者の「表現の擬態」は、神経多様性研究における「マスキング(masking)」——すなわち、社会的適合のために、自らの神経学的な違いを隠す行動——の一形態として理解できる可能性がある。
──── (中略)────
ただし、重要なのは、手記の筆者の「擬態」が、苦痛や困難を伴っていないように見える点である(*89)。筆者は、この戦略を「自然で、意識的努力を要しない」ものとして記述している。
“ 重要なのは、手記の筆者の「擬態」が、苦痛や困難を伴っていないように見える点である ”
まさに、苦痛も困難も一切伴っていない。
ただ、状況に応じて適切な「共感のサイン」を出しているだけである。
(*90) 私個人の見解・所感
8-4. Lack of Imagery ≠ Lack of Imagination
Zemanの2024年のレビュー論文における最も重要な結論の一つは、以下の簡潔な表現に要約されている:
「主観的経験における深刻な対比にもかかわらず、日常機能への影響は微妙である——イメージの欠如は想像力の欠如を意味しない(lack of imagery does not imply lack of imagination)」。
この結論は、 “The Shape of Things Unseen” においてさらに詳細に展開されている。Zemanは、想像力を狭義の感覚的イメージと同一視する伝統的な見解を批判し、想像力を、不在のものを概念化し、操作し、創造する広範な能力として再定義している。(*90)
まさにその通り。
「想像力を狭義の感覚的イメージと同一視する伝統的な見解」こそが、むしろ想像力の乏しさを露呈しているのではないか。
(*91) 私個人の見解・所感
8-6. メンタルヘルスへの影響
手記の筆者が「メンタルヘルスの危機に陥ったこともない」と述べている点について、Zemanの理論は重要な洞察を提供する。
“The Shape of Things Unseen” において、Zemanは、心的イメージが情動増幅器(emotional amplifier)として機能することを指摘している。この視点から見ると、アファンタジアは、特定の精神健康上の問題——特に、イメージに駆動される障害——に対する保護因子として機能する可能性がある。
──── (中略)────
ただし、Zemanは、アファンタジアがすべてのメンタルヘルス問題を予防するわけではないことも強調している。アファンタジアの当事者も、他の要因によって精神的健康上の問題を経験する可能性がある(*91)。手記の筆者のケースは、アファンタジアそのものが精神的健康を保証するわけではないが、少なくとも妨げないことを示している。
“ アファンタジアの当事者も、他の要因によって精神的健康上の問題を経験する可能性がある ”
「他の要因によって」苦しんでいる人も、実際には多いはずである(※個人の感想です)。
ただ、SNS上では、自らの困難をすべて「アファンタジアのせい」という文脈に回収してしまう傾向も、少なからず見受けられる。
(*92) 私個人の見解・所感
9-5. 顔認識とアファンタジアの関係の複雑性
顔認識に関する手記の筆者の報告——「不自由を感じたことはない」「他者の顔の識別も、支障なく行えている」——は、Zemanの研究が示すアファンタジアと顔認識との関係の多様性を反映している。
Zemanの研究では、以下の知見が報告されている:
主観的報告: アファンタジアの当事者の約40%が、顔認識の困難を報告している(*92)(Zeman et al., 2020)
客観的測定: Cambridge Face Memory Test(CFMT)を用いた研究では、アファンタジアの集団全体として、対照群と比較して軽度から中等度の顔認識の低下が検出されている(Monzel et al., 2023; Dance et al., 2023)
個人差: しかし、多くのアファンタジアの当事者は正常範囲の顔認識能力を示しており、困難を報告していない
手記の筆者は、顔認識が保持されている60%のグループに属していると考えられる。
“ アファンタジアの当事者の約40%が、顔認識の困難を報告している ”
一当事者として、他の当事者のおよそ四割が顔認識に困難を感じているという事実は、個体差を理解するうえで、留意しておきたいところ。
(*93) 私個人の見解・所感
10-4. 幻覚の鮮明性と現実性
手記の筆者が「実在しない物体(たとえば家具やギター)の細部が非常によく見え」「まるで本物を見ているような、この明瞭な視覚的体験」と述べている点は、極めて重要である。
これは、アファンタジアの当事者が、視覚処理システムそのものに障害を持つわけではないことを示している。視覚皮質は十分に機能しており、適切な条件下(この場合、REM睡眠状態の神経生理学的残存)では、極めて鮮明な視覚的体験を生成することができる(*93)。
“ 適切な条件下(この場合、REM睡眠状態の神経生理学的残存)では、極めて鮮明な視覚的体験を生成することができる ”
そう、まさにその認識に至る。
ただ、私の場合は、その「適切な条件」が整った瞬間が、これまでの人生をすべて合計しても三分にも満たない。
(※ヒプノポンピック・ハルシネーションがその条件に該当するかどうかは、ひとまず脇に置くとして)
(*94) 私個人の見解・所感
10-5. 意識的な内省とメタ認知
手記の筆者が「まどろみの中で、『これまで視覚的心的イメージを経験したことがなかったのに、まるで本物を見ているような、この明瞭な視覚的体験はどういうことなのか』『この状態をもっと味わいたい』などと考えているうちに、まもなく完全に目が覚める」と述べている点は、極めて興味深い。
これは、メタ認知的気づき——すなわち、自らの経験の独特さを認識し、それについて思考する能力——が保持されていることを示している。Zemanの理論では、アファンタジアがメタ認知の欠如によるものではないことが強調されている。当事者は、自らの内的経験を正確に内観し、その特性を理解することができる(*94)。
この内省が完全な覚醒を引き起こしているという点も、理論的に興味深い。すなわち、前頭前皮質の活性化(メタ認知的思考)が、ヒプノポンピック状態を終了させ、REM睡眠の神経生理学的残存を消散させている可能性がある。
いま思い返すと、おそらくだが、あの鮮明なヒプノポンピック・ハルシネーション(出眠時幻覚)が起こったのは、浅い眠りではなく、むしろ深くよく眠れた時だったように思う。
前頭葉が分析を始めた瞬間に、その魔法が解けてしまうのも興味深い。
一方で、たまに体験する、あの強迫的な夢のほうは、浅い眠りで寝付けない時に訪れる、あの嫌な感覚に近い。
(*95) 私個人の見解・所感
10-6. 心的イメージか幻視か
手記の筆者が「この主観的体験が心的イメージと関連しているのか、あるいは別種の現象(幻視)なのかについては、自分では判断できない」と述べている点について、Zemanの理論は明確な視点を提供する。
“The Shape of Things Unseen” において、Zemanは、イメージ、夢、幻覚の連続性について論じている。彼は、これらの現象が共通の神経基盤——視覚皮質の活性化——を共有しているが、異なるメカニズムによって生成されると説明している:
意図的イメージ: 前頭頭頂制御ネットワークからのトップダウン(*55)信号によって視覚皮質を活性化
夢: REM睡眠中の神経生理学的状態における視覚皮質の非意図的活性化
幻覚: 感覚入力、内的状態、または病理学的プロセスによる視覚皮質の異常な活性化
ヒプノポンピック・ハルシネーションは、主として夢のメカニズムに近いが、覚醒意識の文脈で生じるという点で独特である。Zemanの理論では、これは「心的イメージ」というよりも「幻視」として分類されるが、両者の境界は必ずしも明確ではない。
重要なのは、この体験が、アファンタジアの当事者において視覚処理システムが機能的に正常であることを示しているという点である(*95)。
“ 重要なのは、この体験が、アファンタジアの当事者において視覚処理システムが機能的に正常であることを示しているという点である ”
まさに、自らの脳にその機能が備わっていることの、何よりの証左だと言える。
(*96) 私個人の見解・所感
4) 【2025年論文における内観妥当性証明における意義】
Zemanは2025年論文のセクション5「The proof of introspection(内観の証明)」において、両眼競合パラダイムの研究(Keogh & Pearson, 2018, 2024)を、内観的報告の妥当性を客観的に証明した研究として高く評価している。
──── (中略)────
この一致は、アファンタジア研究が、心理学における内観の価値を再評価する重要な契機となっていることを示している(*96)。Zemanは2025年論文において、「もしアファンタジアとハイパーファンタジアを報告する人々の間に発見可能な差異がまったく存在しなかったとしたら、内観は確実に悪い状態にあるだろう」と述べ、アファンタジア研究が内観の「proof(証明・テスト)」として機能していることを強調している。
アファンタジアのような内的意識のあり方は、どうしても主観的な報告に頼らざるを得ない。
しかし、ピアソン教授らによる客観的測定によって、その主観が科学的な事実と整合していることが示された。
私たちの内観(主観的な報告)も、もはや単なる感想ではなく、妥当なデータとして評価し得る段階に達している、ということなのだろう(か?)。
(*97) 私個人の見解・所感
6-2) 予測処理と生成的モデル
Zemanは、Hermann von HelmholtzとAnil Sethの研究を基盤として、私たちの知覚が能動的な予測プロセスであり、脳が内的モデルを用いて世界を「制御された幻覚」として構成していると論じている。
この視点から見ると、心的イメージは、この予測プロセスを「オフライン」で実行することである。アファンタジアは、このオフライン実行の障害であるが、オンライン実行(知覚)は正常である(*97)。手記の筆者が知覚は正常であると報告していることは、この理論と整合的である。
“ 心的イメージは、この予測プロセスを「オフライン」で実行することである ”
この観点は非常に興味深い。
オンラインとは、現実の感覚入力に対するインターフェースであり、オフラインとは仮想的な感覚入力、すなわち「偽物の知覚」に対するインターフェースを指すのだろう。
(*98) 私個人の見解・所感
未解決の問題 (*98)
アファンタジアのサブタイプは何か?
物体的 vs 空間的、極端 vs 中等度、全般的 vs 単一感覚、意図的 vs 非意図的など、複数の次元が提案されているが、さらなる精緻化が必要
アファンタジアとSDAMの関係は?
現在の証拠は重複を示唆しているが、その程度と神経基盤の詳細は不明
神経基盤は何か?
前頭頭頂-視覚皮質の結合性変化が有力な候補だが、他の可能性も検討が必要
遺伝的基盤は?
家族集積性は示されているが、具体的な遺伝子や遺伝様式は不明
無意識的イメージは存在するか?
行動データと脳画像データは矛盾する示唆を与えており、さらなる研究が必要
知覚との関係は?
微妙な知覚の違いが報告されているが、その性質と範囲は不明
個人的に関心があるのは、アファンタジアとSDAMの関連性、無意識的イメージの有無、そしてアファンタジアのサブタイプにおける「極端」と「中等度」の区別かな。
(*99) 私個人の見解・所感
5) アファンタジアやSDAMといった、人類が認識し始めたばかりの現象に対する考察
アファンタジアとSDAMは、人類が認識し始めたばかりの現象です。「aphantasia」という用語が創出されたのは、わずか2015年。SDAMの記述は、わずか2015年。人類の歴史において、つい昨日のことです。
しかし、これらの現象そのものは、有史以来存在していたはずです。おそらく、古代ギリシャにも、中世ヨーロッパにも、江戸時代の日本にも、アファンタジアやSDAMの当事者は存在していました。しかし、彼らは、自らの経験に名前を与える言葉を持たず、したがってそれを他者と共有し、理解を求めることができませんでした(*99)。
科学の役割の一つは、見えないものを見えるようにすることです。
“ これらの現象そのものは、有史以来存在していたはずです ”
これについては、本当にそう思う。
これまでの人類の中で、このことに気づいた人は無数にいたはずだ。
しかし、共通の概念も名前もなく、どうにも言語化できないモヤモヤだけが残ったことだろう。
だが、私たちは違う。人類がこの現象を捉えた2015年を境に、すべてはようやく顕在化し始めている。
§
(*100) 私個人の見解・所感
第1章の記述は、ゼーマンが2015年に学術論文で定義した「アファンタジア」の中核的特徴そのものです。彼の研究枠組みにおいて、アファンタジアは「随意的な心的イメージを生成する能力の欠如(*100)または著しい減弱(*1)」として操作的に定義されます。
“ 欠如 ”
個人的に「欠如」「欠落」「欠損」という用語には違和感を覚える(かといって、他には「不在」くらいしか思いつかない)。別の表現への置き換えも検討したが、該当箇所が多岐にわたるため、本レポートでは慣用的な表現として容認し、そのままの表記とした。
(*101) 私個人の見解・所感
Zemanらの研究(Keogh et al., 2021; Bainbridge et al., 2021)では、アファンタジア当事者は以下の認知課題を正常に遂行できることが示されている:
視覚的短期記憶(Visual Working Memory):
物体の位置や特徴を短時間保持する能力は正常。ただし、イメージを用いる典型的な戦略ではなく、言語的記述(*101)や抽象的コードを用いる代替戦略を使用。
以下は私の場合:
例えば、認証コードのように数桁の短い数字を覚えるとき、それが「38956」という数値なら、心の中で「さん、ぱー、きゅー、ごー、ろく」という一種のリズムの刻み(あるいは踏み、なぞり)を反復し、その数値をどこかに入力し終えるまでこの反復を維持する。
しかし、入力し終えるまでに誰かに話しかけられたりすると、そのリズムは霧散してしまう。したがって、紙などの外部の媒体に書いておくのが間違いない。これは私の日常で頻繁に発生する毎度のことであり、慣れているので特に支障はない。
(*102) 私個人の見解・所感
Tulvingは、エピソード記憶には特別な意識形態が伴うと考え、これを「autonoetic consciousness(*102)(自己知覚的意識)」と名付けた。Autonoetic consciousnessとは、「自己が過去に経験した出来事を、その時の視点から再体験する能力」である。これに対し、意味記憶は「noetic consciousness(知的意識)」――単に「知っている」という意識――を伴う。
「autonoetic consciousness(自己知覚的意識)」という概念は、アファンタジア当事者として理屈では理解できても、一度も経験したことがないため実感がわかず、どこか難解に感じる。
ポイントは、これが「意識のモード」あるいは「能力」を指す概念である、という点。一方で、自伝的記憶における「再体験(reliving)」とは、想起した出来事をあたかも今ここで体験しているかのように感じる「主観的な感覚(結果としての現象)」を指す。
すなわち、こういうことだ。
まず「autonoetic consciousness(自己知覚的意識)」という「意識のモード」や「能力」としての態勢(?)や機能(?)が発動し、その結果として「再体験(reliving)」という現象が生じる。鮮明性の有無は、あくまで「再体験(reliving)」という結果側の話である。
では、「autonoetic consciousness(自己知覚的意識)」そのものの強弱とは一体何を指すの。このあたりは私自身もまだ理解が及んでいないため、ここまでにとどめておきたい。
ちなみに、現時点での私の理解を整理した概念(メモ)を以下に残しておく。(※内容の正確性は保証しません)
※以下、あえて単純化している表現がある。
【脳に備わる能力(あるいは仕組み)】
知識(semantic memory):
それを知っているという状態に関わる記憶システム(意味記憶)当事者意識?(autonoetic consciousness):
出来事の中で、自分を主体として位置づけて捉えられる感覚様式(意識モード) ※エピソード記憶における自己関与の主観的基盤 ※連続量(スペクトラム)として扱われることもある心的時間移動能力(MTT:mental time travel):
エピソード的想起や未来想像において、自己を時間的文脈の中へ投射し出来事をシミュレーションする能力(概ね autonoetic consciousness を基盤として成立)
━━━━━━━━━━━━━━━━
【意識の中で生じる実感(あるいは主観的体験)】
再体験感(reliving):
想起された出来事を再び体験しているかのように感じられる主観的感覚(結果的現象) ※鮮明性云々はここ
━━━━━━━━━━━━━━━━
【SDAM判定コアパターン】(※「なし」には「弱い」を含む)
当事者意識(なし) ⇒ 再体験感(なし)
→ 典型的なSDAM ※おそらく私はこれ当事者意識(なし) ⇒ 再体験感(あり)
→ 理論上あまり起こらないため、SDAMの文脈では除外当事者意識(あり) ⇒ 再体験感(なし)
→ SDAMの可能性あり(実際にはよくあるパターンらしい)当事者意識(あり) ⇒ 再体験感(あり)
→ 典型的な非SDAM
※「当事者意識」は、私が勝手に用いている呼称。
(*103) 私個人の見解・所感
1-1. SDAMとアファンタジアの重複:Levineの研究からの知見
Brian Levine教授は、Aphantasia Networkの2022年から2024年にかけてのAMA(Ask Me Anything)セッションにおいて、SDAMとアファンタジアの関係について重要な洞察を提供している(*103)。
アファンタジア ネットワーク 上にある「Brian Levine」関連の記事一覧。
2022年12月14日:
アファンタジアとSDAMの関係:ブライアン・レヴィン博士の専門家の見解
https://aphantasia.com/video/sdam-with-brian-levine2021年10月21日:
重度の自伝的記憶障害(SDAM)
https://aphantasia.com/video/sdam2024年8月24日:
同じ脳、異なる現実:アファンタジアの隠れたメカニズムの神経科学
https://aphantasia.com/video/imaginal-neglect
(*104) 私個人の見解・所感
1-2. 視覚イメージの欠如がSDAMに与える影響
Levineの理論的枠組みでは、視覚イメージが自伝的記憶において重要な役割を果たすと考えられている。正常な自伝的記憶では、過去の出来事を想起する際、視覚的・感覚的イメージが「再活性化(reinstatement)(*104)」される。
※ 以下の文章は、Google AIによる解説を転載したものです。
Brian Levine博士の提唱する「再活性化(Reinstatement)」と、Endel Tulvingの諸概念(*102)(Autonoetic consciousness, MTT, Reliving)は、互いに対立するものではなく、「現象(Tulving)」と「その背後にある神経心理学的メカニズム(Levine)」という補完的な関係にあります。
結論から言えば、Levineの言う「再活性化(Reinstatement)」は、Tulvingが提唱した「再体験(reliving)」を可能にするための「エンジンの駆動」や「データの復元プロセス」に近い概念です。
それぞれの関係性を整理して解説します。
1. Reinstatement(再活性化)の定義
Levineの文脈における「再活性化(Reinstatement)」は、主に神経学的なプロセスを指します。
過去の出来事を思い出す際、その出来事を実際に体験した時に活動した脳の領域(視覚野、聴覚野、情動を司る領域など)が、想起時に再び同じパターンで活動することを指します。
視覚イメージの重要性:
SDAMの研究において、Levineは「視覚的イメージの再活性化」ができないことが、エピソード記憶の欠落の鍵であると論じています。役割:
過去の断片的な情報(いつ、どこで)に、肉付け(色彩、音、感情)を施し、多感覚的な体験として「復元」する作業です。
2. Tulvingの概念との違いと相関
以下は、Levineの「再活性化(Reinstatement)」とTulvingの用語がどのようにリンクしているかを示したものです。
概念:再活性化(Reinstatement)
分類:メカニズム
内容:脳内での感覚・知覚情報の再現プロセス。
再活性化(Reinstatement)との関係:【原因・手段】これが起きることで再体験が可能になる。概念:Autonoetic consciousness(自己知覚的意識)
分類:意識の状態
内容:「これは自分の過去だ」という主観的な意識のモード。再活性化(Reinstatement)との関係:【前提条件】この意識モードに入っていないと、再活性化は単なる「事実に付随するイメージ」に留まる。
概念:Mental Time Travel (MTT)
分類:能力・行為
内容:自己を過去や未来へ投射するシミュレーション能力。再活性化(Reinstatement)との関係:【実行プロセス】再活性化された情報を素材として、時間軸を移動する。
概念:Reliving
分類:主観的感覚
内容:「今、ここで再び体験している」という実感。
再活性化(Reinstatement)との関係:【結果】再活性化が成功した結果として得られる「質的な感覚」。
3. なぜ「違う」と言えるのか(決定的な差)
LevineがSDAMの文脈で「再活性化(Reinstatement)」を強調するのは、「知識(Semantic Memory)」と「体験(Episodic Memory)」を切り分けるためです。
Tulvingの概念は「主観的体験」に重きを置く:
「私はあの日、パリにいた」と確信している(Autonoetic)が、映像が浮かばない場合、Tulvingの定義では「エピソード記憶の欠如」とみなされますが、その境界線はしばしば主観に委ねられます。Levineの「再活性化(Reinstatement)」は「プロセスの欠損」を指摘する:
SDAMの当事者は、事実としての知識(Semantic)は持っており、自己意識(Autonoetic)も正常ですが、「脳内での感覚データの再活性化(Reinstatement)」だけが特異的に機能していないと考えます。
つまり:
SDAMにおいて、当事者は「自分の過去である」という認識(Autonoetic consciousness)を持ちつつも、脳内でのイメージの「再活性化(Reinstatement)」が起きないために、結果として再体験感(Reliving)が得られない、という構造になります。
まとめ
Levineの「再活性化(Reinstatement)」は、Tulvingが記述した豊かな主観的世界を支えるための「知覚情報の復元メカニズム」を指す用語です。SDAMの研究においては、特に「視覚イメージの再活性化」がエピソード記憶をエピソード記憶たらしめる(単なる知識に終わらせない)ための必須要素として扱われています。
(*105) 私個人の見解・所感
1-4. 「家族の顔が浮かばないからといって、悲しんだり不安になったりしたことは、これまで一度もない」
手記のこの記述は、アファンタジア研究において重要な意味を持つ。一般の人々がアファンタジアについて聞いたとき、しばしば「家族の顔を思い浮かべられないなんて、悲しいに違いない」という反応を示す(*105)。
“ 「家族の顔を思い浮かべられないなんて、悲しいに違いない」 ”
かつての私は、こうした発言を「良識ある大人としての社交辞令(社会的コード)」や、あるいは「少し大袈裟な反応」だと捉えていた。しかし今では、そうした方々にとってそれは形式的な言葉などではなく、視覚イメージと感情が直結しているがゆえの「実感」に基づく反応なのだと理解している。
……はずなのだが、やはり私の「実感」とはあまりにかけ離れているため、どうにもリアリティが持てないでいる。
(*106) 私個人の見解・所感
Levineは、SDAM・アファンタジア当事者が「自分の認知スタイルが他者と異なる」ことに気づくまで、長い時間がかかることが多いと述べている。手記の筆者も、「他者が視覚的心的イメージを経験しているという事実と、自分はそれを経験していないという事実を、はっきりと認識・自覚したのは、三十年ほど前のこと」(第11章)と記述している。
この「気づきの遅さ」は、アファンタジアが日常生活において重大な問題を引き起こさないことの証左である。もし「家族の顔を思い浮かべられない」ことが深刻な苦痛や機能障害を引き起こすなら、もっと早く気づいていたはずである(*106)。
“ もし「家族の顔を思い浮かべられない」ことが深刻な苦痛や機能障害を引き起こすなら、もっと早く気づいていたはずである ”
私自身は、まさにこの通りだと感じている。経験したことがない以上、そこに欠落感や不全感、あるいは喪失感を抱く道理はないからだ。一方で、世の中にはこれら「〇〇感」を切実に訴える当事者の方々もおり、その受け止め方には個人差があるようだ。
(*107) 私個人の見解・所感
Levineの理論的枠組みでは、この「再認の保持」は、知覚的表象(perceptual representation)が脳内に存在していることを示唆している。ただし、その表象(*107)を「意識的な視覚イメージ」として経験する能力が欠如しているのである。
毎度おなじみの「表象」(Representation)という言葉が登場した。心の学問の領域ではよく目にする用語だが、これが非常に分かりにくい。
「Re(再び心に)Presentation(現れる)」という意味であれば、「再現」という言葉でも事足りるように思える。しかし、心の中での解釈や再構成が含まれるため、「再現」では云々云々云々……ということで、結果として「表象」あるいは「表像」(こちらは何だろうか?)といった難解な用語が使われ続けているのではないか(※憶測です)。
とりあえずは「イメージ」と同義だと捉えて差し支えないだろう。もっとも、そのイメージを経験できないアファンタジアである私が、「イメージ」という用語を提案してしまうところに、世の可笑しみがあるように思う。
(*108) 私個人の見解・所感
4-3. 「意味記憶の点在」という手記の記述
手記には、生まれてから成人までの出来事について、「思い出すこと自体が稀であり、思い出したとしても蓄積は乏しく、内容も断片的である」「真夜中に夜空を見上げたとき、数えられるほどわずかな、かすかに光る星々が、空間全体にぽつぽつと散らばり、点在しているような状態」という詩的な比喩が用いられている。
この「点在」という表現は、Levineの理論的枠組みにおいて重要な意味を持つ。AI法による測定では、SDAM当事者のエピソード詳細(internal details)は極端に少ないが、ゼロではない。わずかな意味的事実(external details)が「点在」しているのである。これらの「点」は、視覚的・感覚的な再体験を伴わない、抽象的・概念的な知識として存在している。
Levine教授は、2022年から2024年にかけてのAphantasia NetworkのAMA(Ask Me Anything)セッションにおいて、SDAM当事者が過去を「データポイント」や「足場(scaffolds)」として記憶していると述べている(*108)。手記の筆者が「意味的な情報(たとえば西暦年、場所、状況などの事実関係)」と記述しているのは、まさにこの「データポイント」に相当する。
“ Levine教授は(中略)SDAM当事者が過去を「データポイント」や「足場(scaffolds)」として記憶していると述べている ”
Brian Levineの理論によれば、SDAM(自伝的記憶再体験の生涯的不在)における記憶とは、いわゆる「映像の再生」ではない。それは「Data Points(知識としての事実・破片)」を、「Scaffolds(物語を形作るための構造、すなわち論理や知識という足場に支えられた枠組み)」へと配置し、その都度「論理的に組み立て直す作業」であると定義されている。
(*109) 私個人の見解・所感
4-4. パートナーとの関係における記憶の変化
手記には興味深い記述がある。「大人になり、パートナーとの生活の中で対話が増えたためか、以前よりは出来事(意味記憶)の保持がなされるようになったかもしれない」「パートナーと出会う前の人生と比べると、出会ってからのほうが、思い出(意味記憶)は豊かになっているようだ」という。
この記述は、Levineの理論における「外部手がかりの重要性」と「符号化時の注意の役割」を示唆している。Levineは、SDAM当事者が外部記録(写真、日記、他者との会話)を記憶の補助として活用する傾向があることを指摘している。パートナーとの対話は、出来事に対する「注意の方向づけ」と「言語的符号化」を促進し、結果として意味的記憶の保持を強化する可能性がある(*109)。
“ Levineは、SDAM当事者が外部記録(写真、日記、他者との会話)を記憶の補助として活用する傾向があることを指摘している ”
私個人の場合だと、日常的に写真を撮ることはなく、日記の習慣も皆無である。ここ10年で自分が写ったのは証明写真程度であり、パートナーの写真すら数えるほど。私の思い出は、そのほとんどが脳内の意味的記憶の中にのみ存在している。
しかし、これは決して特異なことではないはずだ。人類の歴史を顧みれば、一般個人が安価で自由な記憶媒体を手にしたのは、ごく最近の出来事に過ぎない。
(*110) 私個人の見解・所感
4-5. 「今の私」が過去を再解釈する現象
手記には、「過去の出来事(意味記憶)によっては、その当時に発せられた言葉の意味が気になったり、モヤっとした感情が生じたりすることもある。しかしそれは、過去の出来事(意味記憶)を『今の私』が咀嚼・再解釈した結果として、『今の私』に感情が生じているのだと思う」という鋭い内省がある。
この記述は、Levineの理論における「記憶の構成的性質(constructive nature)」を示唆している(*110)。自伝的記憶は、過去の出来事の「再生(reproduction)」ではなく、「再構成(reconstruction)」である。SDAM当事者の場合、過去の感覚的・感情的再体験が欠如しているため、記憶の「再構成的性質」がより明確に現れる。
手記の筆者が「『今の私』が咀嚼・再解釈した結果」と記述しているのは、まさにこの再構成的プロセスである。過去の出来事は「当時の感情」として去来するのではなく、「現在の自己」が意味的情報を解釈した結果として、現在時点の感情が生起する。これは、エピソード的再体験(reliving)と意味的知識(knowing)の区別を明確に示している。
Levineの理論は非常に明快であり、腑に落ちる。私自身の内的体験に、ようやく理論的な裏付けが得られたような心地よさを覚えている。
(*111) 私個人の見解・所感
5-4. 意味的自己知識(Semantic self-knowledge)の優位性
自己に関する知識は、「エピソード的自己知識(episodic self-knowledge)」と「意味的自己知識(semantic self-knowledge)」に区別できる。エピソード的自己知識:
「私は昨日、友人と喧嘩した」「私は10歳の時、犬に噛まれた」といった、特定の時間・場所における一回限りの体験の記憶。意味的自己知識:
「私は内向的だ」「私はプログラミングが得意だ」「私はパートナーを大切にしている」といった、一般化された自己概念。手記の筆者が「心的イメージを伴わない思考(意味・知識・概念・観念・抽象・論理・言語・内言など)」と記述しているのは、この意味的自己知識に相当する。エピソード的自己知識が希薄であるにもかかわらず、意味的自己知識は豊かに存在している可能性がある。
“ 手記の筆者が「心的イメージを伴わない思考(意味・知識・概念・観念・抽象・論理・言語・内言など)」と記述しているのは、この意味的自己知識に相当する ”
ここは私の実感とはいささか異なる。すなわち、「私は昨日、友人と喧嘩した」「私は10歳の時、犬に噛まれた」といった、特定の時間・場所における一回限りの「事実や意味」の記憶。これこそが私にとっての「意味的自己知識」であり、これを日頃から「意味記憶」と呼んでいる。
ところがAIの記述では、これを「エピソード的自己知識」とみなしている。これはおかしい。あるいは私の「意味記憶」に関する理解が誤っているのだろうか。いや、おそらくAIによるこの部分の説明には、ハルシネーション(もっともらしい誤情報)が混入しているに違いない。
(*112) 私個人の見解・所感
Levineの理論的枠組みでは、健康な高齢者やSDAM当事者において、エピソード的詳細が減少する一方で、意味的詳細や一般化された知識は保持される、あるいは増加することが示されている。これは、自己の構成においても、エピソード的記憶から意味的知識への「適応的シフト」が起こっていることを示唆している(*112)。
案外、SDAMというのは「若年性の老化」の一種なのかもしれない?
※憶測です。
(*113) 私個人の見解・所感
5-5. Levineの最新研究(2025)からの洞察:睡眠と順序記憶
Levineの2025年の研究(Diamond, Simpson et al., & Levine, 2025)は、SDAM当事者の「過去の把握」に関する興味深い示唆を提供する。この研究では、睡眠が出来事の「順序記憶(sequence memory)」を選択的に強化し、その効果が1年以上持続することが示された。一方で、視覚的詳細は時間とともに劣化する。この知見は、手記の筆者が過去を「知識として把握している」と述べていることと関連する可能性がある。エピソード的な視覚的詳細は欠如しているものの、出来事の「順序」や「因果関係」といった抽象的・構造的情報は保持されている可能性がある。手記では「意味的な情報(たとえば西暦年、場所、状況などの事実関係)」と記述されているが、これには時間的順序や因果関係も含まれていると推測される。「AがあってからBが起こった」という順序的・構造的知識は、視覚的再体験がなくても保持され得るのである。
“ エピソード的な視覚的詳細は欠如しているものの、出来事の「順序」や「因果関係」といった抽象的・構造的情報は保持されている可能性がある ”
“ 手記では「意味的な情報(たとえば西暦年、場所、状況などの事実関係)」と記述されているが、これには時間的順序や因果関係も含まれていると推測される ”
いや、これは当然のことではないか。そうでなければ、日常生活に相当な支障をきたしてしまう。この部分におけるAIの記述も、先の (*111) と同様、やはりどこかおかしい。
(*114) 私個人の見解・所感
8-2. Levineの「認知的多様性(neurodiversity)」の視点
Levine教授は、2023年の研究(Sokolowski & Levine, 2023)において、SDAM、アファンタジア、発達性相貌失認、発達性地誌失認、自閉スペクトラム症などを、「多様な神経発達的特性(diverse neurodevelopmental disorders)」として統合的に分析している。これらは、特定の認知機能が「欠如」しているのではなく、「異なる形」で実現されている状態と理解される。
この視点は、近年の神経多様性(neurodiversity)運動の哲学と一致する。自閉スペクトラム症、ADHD、読字障害などを「病気」ではなく「認知スタイルの多様性」として捉える動きである。Levineは、SDAM・アファンタジアも同様の枠組みで理解されるべきだと主張している(*114)。
“ この視点は、(中略)だと主張している ”
これには個人的に違和感を覚える。ASDやADHDのように「D(Disorder:障害)」を冠する場合、多かれ少なかれ日常生活や対人関係に支障をきたす可能性があるのではないか。人によっては、それが甚大な困難となっている場合もあるだろう。
そのような特性(あるいは脳機能?)を備えて生きる人々と、生活にさしたる支障のないSDAMやアファンタジアを同列に扱い、一様に「ニューロダイバーシティ(神経多様性)」として括ることには、違和感を禁じ得ない。(※あくまで個人の感想です)
※ 参考までにこちらも参照のこと ⇒ (*115)
(*115) 私個人の見解・所感
2) 認知的多様性(neurodiversity)としてのSDAM・アファンタジア
Levine教授の研究における最も重要な理論的視点は、SDAMを「病理」ではなく「認知的多様性」として位置づけることである。手記の筆者が「特段の支障をきたしたことはない」「この状態を変えたいと思ったこともない」「メンタルヘルスの危機に陥ったこともない」と述べていることは、この視点を強く支持している。
Levineの2023年の研究(Sokolowski & Levine, 2023)では、SDAM、アファンタジア、発達性相貌失認などを「多様な神経発達的特性が共通の神経基盤を持つ」という観点から分析している。これらは、脳の長距離接続性の変化に関連しており、特定の認知機能が「異なる形」で実現されている状態である。
この「認知的多様性」の視点は、当事者への偏見やスティグマを軽減し(*115)、それぞれの強みを活かした社会参加を促進する上で重要である。
“ この「認知的多様性」の視点は、当事者への偏見やスティグマを軽減し、それぞれの強みを活かした社会参加を促進する上で重要である ”
なるほど、これには確かに一理ある。偏見やスティグマというものは、確実に存在するからだ。私はSNSでアファンタジアやSDAMに関する情報をウォッチすることを趣味としているが、頻度は高くないものの、次のような発信を定期的に目にする。
「あいつらはアファンタジアだから、人の心を想像できないのだ」
「私の気分を害するあの人物は、人の心を想像できないアファンタジアに違いない」
※ 参考までにこちらも参照のこと ⇒ (*114)
(*) 私個人の見解・所感
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