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ジークアクス なぜ第1話でメインキャラの名前を出さないのか?(追記)

ジークアクスの第1話では、先に公開されている映画を見たり、事前に番組ホームページを調べたりしていない人(つまり想定されている一般的な視聴者)には、メインキャラである二人の少女の名前がわからないようになっています。

赤髪ショートは注意して見ていれば何とかわかるのですが(プールに飛び込むシーンで先生が「xxxさん!危ないから早く降りて!」と呼びかけていますが、本人のモノローグと被っているため巻き戻し再生しないと聴き取れません)、黒髪ロングはわかりません。

これは明らかに意図的な構成・演出です。(そんなことあり得ませんが、意図的でなければ責任者は懲戒モノの大失態です。通常であれば歩きながらでもお互いの名前を確認するシーンを入れるはずでしょう。例えば「私xxx、君は?」のように。)

では、なぜそんなことをするのか?と言えば、答えは既に私が書いているとおりで、視聴者に彼女たちを名前ではなくとりあえず「赤い方」とか「黒い方」などと呼ばせる経験をさせたいからなのだと思います。(あくまでも私見です。何か気が付いた方はコメントで教えてもらえると嬉しいです。)

そこでガンダム経験者ならすぐ思い当たるのが「赤い彗星」の彼ですよね。

ただ、彼の場合は、畏怖・畏敬の念を込めて敢えて名前ではなく二つ名で呼ばれているわけです。

それに対して、ジークアクスの彼女たち二人が名前で呼ばれない理由は全く逆です。

彼女たちはお互いに自己紹介をしないし(ビル屋上の神社の前で衝突(意味深…)したシーンでは「君、テロリストなの?」と役割を問うだけでした)、だから名前で呼び合うこともしません。

他のキャラから名前を訊かれることもありません。だから名前で呼ばれることもありません(例外的に名前を呼ばれるのは学校という子供のための特殊な社会の中です。しかも彼女たちのうちの一人はその学校にさえ所属していません)。

要は、彼女たちの名前に誰も関心を持っていないのです。(タイトル画像の場面では「てめぇは誰なんだぁ?」と訊かれていますが、これは「運び屋と一緒にいるお前は何者だ?」と役割を問われているだけです。「まだ子供じゃん」とも言われています)

つまり、「赤い彗星」の彼とは異なり、彼女たちは何者でもないから名前で呼ばれないのです。(第1話の時点では)

彼女たちを「背の低い方」「背の高い方」といった適当な名前で呼ぶ経験を視聴者にさせることで、彼女たちがどこにでもいる普通の少女であることを明確にしています。

さて、そこで気になるのは、物語の終わりに彼女たちがどのような存在になっているのか?ということです。

第1話でこういった仕掛けを施すということは、最終話では名前のない何者でもない少女に戻っているのかもしれません。

※第3話で自己紹介のシーンがありました

おもしろかったので、感想文だけ貼り付けておきます。


追記1

Youtubeでこちらの動画を見て、なるほどと感じました。ジークアクスが未来を描こうとしていない(地下鉄やスマホ、身の回りの日用品がまるでこの「現実」と変わらない)という指摘です。

これはつまり「普通の女の子」を描いているのだと私は解しました。赤髪ショートの子のプールでの独白は、美しく重要ですがまったく未来的ではなく、とても現代的でありきたり(言い換えれば普遍的。要は、ここではない別のどこか(彼女にとってはそれが「地球」です。旅行ガイドを持っていました)に行けば本物があるはずだという思春期の発想)です。


追記2

こちらの記事もとてもおもしろくて、勉強になりました。

ここで指摘されていること(例えば、改札で二人が衝突した時に落ちたスマホの転がる方向が逆)について、私は違和を感じることはできたのですが(第1話でカメラの位置が被写体の周りをめちゃくちゃに回転移動していて混乱させられる場面があることはわかります)、正しく言葉にして指摘できるほど明確に理解することはできませんでした。まあ、私の無能については措くとして…。

もしジークアクスが傑作なら第1話には制作者の相当なエネルギーが注ぎ込まれており、意図のない無駄なカットなど一つもないはずです。そう前提できない作品を「読む」ことに自分の時間は使えません。

ではこの不可思議な表現はなんなのだろう…?と考えてみるのですが、わかりません。

鏡像世界であるとか、並行世界であることを示しているのでしょうか?

実際、ジークアクスはガンダムシリーズの「正史」とは異なる「イフ」の世界なわけです。(詳しくありませんが、地球連邦からの独立戦争でジオン公国が勝利した世界です)

だとすれば、その意図は第1話で伝達済みということになるので、こういった表現は第2話以降ではなくなっているはずです。わかりにくくなるし、映像を見る快楽を減じるだけだからです。

※改めて見直してみると、この表現が目立つのは、改札で二人が衝突する場面と、マチュ(あ、言っちゃった)がガンダムに乗り込んで立ち上がる場面だと私は感じます。この二つは、「本来」であればなかったはずの重要な出会いの場面です。