《葬送のフリーレン》涙の別れが似合わない僕達(ヴィアベルの台詞と対比して)
はじめに
ヒンメルの印象的・感動的な台詞のなかには、私にはイマイチその良さがピンと来ないものがあります。
たとえば、アニメ第1期最終話(第7巻60話)の「涙の別れなんて僕達には似合わない。だってまた会ったときに恥ずかしいからね」です。

よくわからない点は二つあります。
今生の別れってのは何も死別だけじゃない
一つは、このヒンメルの発言が、すぐ前の第7巻59話でのヴィアベルの名言「出会いは大切にしろよ。今生の別れってのは何も死別だけじゃない」と逆のことを言っているように感じることです。

ヴィアベルの台詞は言い換えれば「一期一会」でしょう。もう会うことはないかもしれない(だから「出会いは大切にしろよ」)と言っています。
それに対してヒンメルは「また会うことだってあるだろう」と言っているからです。(だからといって、出会いを蔑ろにしても構わないとは言っていませんが)

たとえば、「善は急げ」と「急がば回れ」のように反対の意味を持つ「ことわざ」はいろいろとあり、どちらも真理を含んでいて何の不思議もありません。
けれども、ヴィアベルとヒンメルのこの台詞は第59話と第60話で連続して登場するために、ヴィアベルの台詞に感動してすぐにヒンメルの台詞に感動させられることになります(アニメS1-EP28では約10分後です)。でも、落ち着いて台詞の意味を考えてみると「あれ?逆のこと言ってない?」となります。ですから、この「矛盾」が凄く引き立つというか目立つというか、気になります。(この二つの台詞の配置は偶然でしょうか?作者の意図したものでしょうか?)
きっとヴィアベルは、死別ではないけれども今生の別れになってしまうような、再会を望めない別れを経験しているのでしょう。例の初恋の人でしょうか?(第5巻42話)

それとも北の果ての戦場で何かあったのでしょうか?かつての仲間と敵と味方に分かれて戦うことになってしまったとか??
ヴィアベルのバックグラウンドに関する想像はこの程度にして…
正直に言えば私の感覚はヒンメルよりもヴィアベルに近いです。皆さんはどうでしょうか?
ヴィアベルの感覚はかなり一般的・普遍的で、「言われてみれば本当にその通りだなぁ」と素直に納得できると思うのです。「一期一会」という言葉があるくらいですから。
それに対して、ヒンメルの感覚はちょっと特殊で、間違っているとは思いませんが、わかったようなわからないような奇妙な感覚を覚えます。
旅の途中で出会った人たちと再会する可能性がないわけではありませんが、常識的に考えて、今生の別れとなる可能性の方がずっと高いように思います。なのに、再会を前提にして「恥ずかしい」というのは私には今一つピンと来ないのです。
僕達には似合わない?
もう一つよくわからないのは、ヒンメルが「僕達には似合わない」と言っていて、自分一人の感覚で勇者一行を勝手に代表していることです。
だって、フリーレンは「凄くあっさり人と別れるよね」とヒンメルの態度に違和感を表明していますし…

アイゼンはフリーレンに同意して「まあらしくないとは思うな」と疑問を呈しているのです。

ですから、ヒンメル自身を除くパーティー三人のうち少なくとも二人はヒンメルの態度にどことなく居心地の悪さを感じています。
※なお、アニメ版ではアイゼンの台詞の後にハイターを含む次のやり取りが追加されています。ハイターは「それに」と言っていますから、アイゼンに同意なのでしょう。
ハイター:それに彼とは毎晩のように酒を酌み交わしてそれはもう…
フリーレン:生臭坊主
ヒンメル:フフフッ。そうだね。でも旅を続けている以上また会うことだってあるだろう。(以下略)
なのにヒンメルは「僕には似合わない」ではなくて「僕達には似合わない」と言い切ります。
僕達四人には涙の別れは似合わない…。まるで、ハイター、アイゼン、フリーレンの三人が知らないことまでヒンメルはよく知っているかのような口振りです。
ヒンメルは「僕達(の旅)」について何を知っていて、どう理解しているというのでしょう?
ちょっと不思議です。
※「旅を続けている以上」という所も気になります。なぜなら、旅は終わるものだからです。ヒンメルは晩年まで精力的に活動していましたが、ハイターやアイゼンは旅は止めて落ち着いた生活をしていたようです。ここで私が想起するのは「今でも(中略)戦いは続いている」という南の勇者の伝説です。南の勇者の戦い(旅)は今も終わっていない、永遠に続いているわけですね。(第7巻63話)

二度目の旅?
「ヒンメルはタイムトラベラーなのでは?」という疑念が念頭にあると、ここで思い付くのは、「これはヒンメルにとって二度目の旅なのでは?」ということです。
だとすれば、「涙の別れ」なんて気恥ずかしい、だってこれは二度目の別れなのだから…という感覚は腑に落ちます。(いや、もしかするとこの物語は「ループもの」で、二度どころか何度も出会いと別れを繰り返しているのかもしれませんが…。こうやって感覚が摩耗してゆくのがタイムトラベラーの悲哀ですね)
また、アイゼンはヒンメルの態度を「らしくない」と言っています。今までの旅を通して理解したヒンメルの人物像からすれば、別れに際してもっと名残り惜しんだり悲しんだりするはずなのに、なぜこんなにあっさり別れるのだ?妙だな?とアイゼンは疑問を感じています。言い換えれば、アイゼンの知らないヒンメルがそこにいるわけです。これも、アイゼンの知らないヒンメルの真実(ヒンメルがタイムトラベラーであり未来人であること)が背景にあるのだとすれば納得です。
「一期一会」(二度と繰り返されることのない一生に一度の出会いだから、その出会いを大切にしようという心構え)を意味するヴィアベルの台詞と対照するかのようにヒンメルの台詞が並べられていることも、何か作者の意図があるのではないか?と感じられてきます。ヒンメルはタイムトラベラーであるのに対して、ヴィアベルはそうではない一般人の人生観を持っているからです。
では、なぜヒンメルは「僕達には似合わない」と言うのか?となると、ヒンメルだけではなくて「僕達」すなわちハイター、アイゼン、フリーレンもタイムトラベルをすることになるからだ、ということでしょうか?
実際にフリーレンは「女神の石碑編」でタイムトラベル(タイムリープ)をします。
ハイターとアイゼンがタイムトラベルをする感じはしませんが、二人はキーノ峠でフリーレンのタイムトラベルの事実を知るわけで、そういう意味では時空を超える旅の協力者です。
「涙の別れなんて僕達には似合わない」とは、四人が時空を超える旅人であることをヒンメルが知っているからこその発言なのかもしれません。
おわりに
先日、第13話「解放祭」のヒンメルの台詞「僕達は確かに存在したんだ」(過去形)について、少し奇妙な発言ではないか?しかし、ヒンメルがタイムトラベラーだとすれば腑に落ちるという話をしました。
これと同じように、ヒンメルがタイムトラベラーだとすれば納得ができるという描写は他にもないだろうか?という視点で読み直すと、まだ見つかるのかもしれません。
《葬送のフリーレン》に関する記事は下記のマガジンにまとめています。
160本以上の記事がありますが、最初の考察記事としてお勧めなのはこちらです。
