「未知の未知」をどう扱うか|諸行無常 × 認知の限界 × 想像力
諸行無常
この世の現実存在(森羅万象)はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。
<僕の考え>
認識された重要事項については追跡可能である一方、認識されていない重要事項は検討の俎上に載らないという課題が顕在化したと考えられます。
定例会の実施は再発防止の有効な手段の一つと考えられますが、認識されていない重要事項をどのように抽出・可視化するか、その手法の整理が求められます。
<意見>
認識していないもの(重要事項やそれ以外含めすべて)に対する抽出・可視化は物理的に無理では?(多数の目で見ても・AIを使っても難しい?)
僕の組織でトラブルが起きました。
僕は当事者だったので顛末をまとめ、最後に意見を書き添えました。
それに対するやり取りが上記。
僕は「未知の未知」について、こう考えています。
人が認識できる領域は限定的。
だから、自分が認識している外側にも、今は気づいていないだけで、きっと大きな何かがある。
ただ、
未知の未知の構造学|見えていない層が世界と組織を動かしている
で書いたように、人は視覚情報を優先するので、あるかないか分からないものに脳のリソースは使われにくい。
結果、「未知の未知」に対する理解が成されにくくなる。
これが現状ではないかと思うのです。
それは置いときましょう。
話を僕の方に戻します。
僕は物事を捉える時に、大きな前提があります。それは、
目に見える事象は絶対的なものではない
です。
さっきの件と関係しますが、
人は視覚情報に引っ張られてしまうだけで、本当はその認識の外側にも多くの事象が複雑に絡み合って存在していることに気づきにくい
そう思っているのです。
諸行無常
この世の現実存在(森羅万象)はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。
仏教の視点を借りれば、諸行無常そのものです。
つまり、「未知の未知」を真に理解するには、諸行無常の神髄に触れなければならないと感じているのです。
これ、僕ができる/できないという意味ではないですよ。
知識として、ということで理解ください。笑
知らないことを知っている
世間でよく聞きますが、この言葉、本当はもっと深いと思うのです。
世の中、知らないことってたくさんあるよね。
知ってるつもりは視野を狭くするよね。
自分は完璧じゃないし、知らないこともあるよね。
みたいな単純なことではなく、認知している外側を認知しようという、メタ的な視点がその神髄だと思うのです。
人間の認識・認知には限界があるのでしょうか?
物理的にはある、と思います。
ただ、これは突破できる。
「想像力」というホモ・サピエンス特有の資質をフルに活用すれば。
その先には、今とは違う世界の見え方があるように思えます。
みなさんはどう思いますか。
