【エッセイ】居間の虎、風呂場の老婆。
「癖」という言葉を言い換えるなら、「無意識の習慣化」というのが適しているだろう。
勉強習慣を付けたい、運動習慣を付けたい。
そういった望みを叶えるために、ある一点にありったけのエネルギーを注ぎ、体に特定の動作を染み込ませる。
慣れてくればエネルギーを注がずともその動作ができ、臨機応変にオンオフ切り替えられる、というのが習慣化ならば、癖はその逆で「動作の解除」にエネルギーを注がなければならない。
さらに厄介なことに、誰かが肩を叩いて上げないと、当人の「癖」だと気付かないパターンがある。
「当たり前」の認識と現実との齟齬をだんだんと理解したり、他人に迷惑をかけてはじめて自覚したり。
一度自覚したとしても、完全に解除できるわけでもない、難儀な代物。
かく言う私にも、今現在、2つの癖が取り巻いている。
1つは、考えごとをするとき、独り言をしながら歩き回ること。
この癖は高校を卒業したあたりから現れたらしく、家族に「虎みたい」と言われてはじめて自覚するようになった。
作品や情報を一通り摂取し休憩で立ち上がったとき、あるいはどんな文章を書こうか? ここはどんな表現が適切か? と書く手が止まり部屋を出たとき。
次のアクションを起こすまでの数分間、単語や短文を発し、居間を行ったり来たりしてしまう。
どうやらそれが、狩猟本能を持て余し、コンクリートと柵で囲まれた箱庭を、うめき声をあげながらうろつく動物園の虎のようであるらしい。
飼っている猫よりネコ科らしい挙動をしてしまっている。
頭の中に詰め込んだ情報が今にも溢れそうなとき、または定まった答えのないものの追及で悩みが生じたとき、喰らいついてくるそれらを振り払うが如く、虎が暴れてしまう。
今は一軒家に住んでいるので問題はないが、これから賃貸に住むとなったら、この癖は抑えなければいけない。
隣に、あるいは上階に猛獣がいたら、迷惑極まりないだろう。
もう1つは、自分の髪の毛を集めてしまう癖。
特に風呂場で髪を洗うとき、梳かす手や櫛に付いた髪の毛を取っては風呂桶の中に入れ、最後にまとめてゴミ箱に捨てる、というものだ。
鬘を作るつもりなど微塵もない。
私は基本髪を結んでいるので、日中はゴムで抑えられていた抜け毛が、梳かす櫛や水流に引っ張られて次から次へと体から離れていく。
実際、この動作は時間がかかる。
シャワーでまとめて流してしまえばいいものを、わざわざ1本1本集めているのだから。
家族の中で私だけがやっているため、排水口掃除の手間が減るわけでもない。
全てを拾えているわけでもない。
細く短い毛は流してしまっているし、一部は気づかぬうちに水と共に流れているのだろう。
迷惑になり得る癖だから、今すぐにでも矯正すべき。
無意味で生産性がない癖だから、やめるべき。
「動作の解除」を目標としてエネルギーを注げば、それらは多少なりとも沈静化する。
しかし、ただ抑え付ける道中には、必ず否定がある。
境遇や考え方が複雑に絡まり合い、どこかで身についた無意識の産物。
そこには、良かれ悪かれ、個性が、あるいはそれを知る鍵がかかっている。
果たして癖の排除が、その当人のために、私のために、なるのだろうか。
凶暴な虎は飼いならせば、強力な剣となり盾にもなる。
生を貫いてきた老婆の志を享受すれば、思慮と知恵が身につく。
癖をなくすのではなく、自覚した段階でそれを分解することで、習慣として再構築したり、些細な発見につながるのではないだろうか。
1つ目の癖の根幹にあるのは、「一気に多量の情報を処理することが苦手」ということ。
歩くことで神経の働きを活性化させたり、一度言葉の形にたりする動作により、頭の中を整理し、いち早く理解しようと働きかけている。
こうして「虎」の癖が生まれる。
言い換えると、「発声や運動を用いることで、よりよい判断を下せたり、思いもつかなかったアイデアを見出せる可能性がある」というわけだ。
実際、これを思考系のゲームで実践してみた。
画面を見る前に、まずは軽くストレッチ。
プレイ中、分かっている情報と、これから取る択を、言葉に出してみる。
いわば配信者の気分になって、考えを視聴者に共有するように独りで喋る。
すると、勝率は上がった。
特に、割り切る選択ができるようになったことが大きい。
劣勢の場面で保守的になるのではなく、「これが起こったら勝てないけれど、次のチャンスを逃すよりは決めに行った方がいい」と細い糸を手繰ることで勝てたパターンがいくつかあった。
もちろん負けもあるが、最善手を取った上で負け、つまり納得ができる対戦があり、負けることで感じる強いフラストレーションも、負けへの恐れも、少なくなった。
言葉の形で頭から一度放出して、それを再び音声として耳から取り込んで、脳内で咀嚼する。
自分の体だけでなく、自分のいる空間の一部も、情報を並べるテーブルとして利用する。
英語教師が口うるさく「英文は声に出して読みなさい」と言うくらいには、発音には効果はあるのだろう。
試験中や、相手が目の前にいる勝負事で使えるテクニックではないが、協力する場面では自他両方に向けて考えを伝えるときに応用が利くため、スイッチの切り替えができれば大きな強みになると信じ、続けてみている。
もう1つの癖の根幹にあるものは、「自分の髪質を気にしすぎている」ということ。
私はくせ毛で、天候や湿度のわずかな変化であっても、髪質に影響する。
できるだけのケアを尽くすとはいえど、目的地に着くころには綻びができてしまうのが茶飯事だ。
結べる長さに伸ばすことで、くせの緩和できてはいるが、「艶のある」「サラサラした」といった謳い文句からは縁遠い。
実際、抜け毛を見てみると、それぞれが不規則なカーブを描いていて、重力に任せると、緩やかな螺旋状にうねりを上げている。
風呂場で抜け毛をざっと数えると、70本前後。
季節や体質によりけりだが、人の抜け毛は1日100本前後らしい。
朝と入浴後のドライヤーで抜け落ちる分も含めれば、おおよそ正常に入れ替わりが行われていることになる。
髪の毛の健康を、数字という目に見える形で認識することができる。
加えて、発見もあったりする。
私は若白髪でもあるので、抜け毛の中にそれが紛れていることも多々ある。
中学時代、気になって仕方なく、黒染めをしたこともあるが、髪質がより悪化したのでやめた。
要するにジレンマだ。
しかも白髪にはメラニン色素がない分、うねりやすくなるのが厄介。
そういうわけで白髪と共存し、それを1本1本眺めているのだが、先端は白いのに、根元にかけて色素を取り戻しているものがあったりする。
調べてみたところ、白髪はいわば「色素がない髪」でしかないので、髪の毛に栄養が届けば黒くなるらしい。
つまり、元々白髪だった部分も色を取り戻す可能性は十分にあるということだ。
一度白髪になったとしても、黒髪に戻らないわけじゃない。
逆の現象も同じく起こっているのは確かにそうだ。
けれども、体質を嘆き、解決策とのジレンマにうなされる中、わずかな快方を自分の目で確かめられることに、一種の安心を感じているのかもしれない。
箱庭の虎は、本能を抑えられるかわりに、生存の保証と絶え間ない評価が与えられる。
老婆には、生の冬が待ち構えているが、後を活きる者を動かすなにかを遺すができる。
前者が牙を剝き出しにすれば、見世物という役目を為すための躾が待ち受けている。
後者が昔話を持ち出すと、「薔薇色の回顧」「伝記の二番煎じ」と揶揄される。
内側に存在する2つの概念を抹消するのか、それとも昇華させるのか。
自分を知る、その近道は、虎の頭を優しく撫で、老婆の長話をまったりと茶を飲みながら聞いてあげることなのかもしれない。


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