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《創作大賞2024・恋愛小説部門》「Hydrangea」第2章 雨の月 第4話 幼なじみ

第2章 雨の月

第4話 幼なじみ

 お腹すいた。
 ぐう、と腹の虫が鳴いたころ、ようやく自宅にたどり着く。

 玄関の前でドアノブに手をかけながら、頭の中で夕飯を予想する。
 ……きっと、クリームシチューだ。
 一人でそう決めつけて、くすっと笑いながらドアを開ける。

 玄関をくぐった瞬間、ふわりとホワイトソースの香りが鼻をくすぐった。

 ほらね、やっぱり。
 その優しい匂いに、思わず頬がゆるむ。

 母のつくるクリームシチューは、ずっとわたしの大好物だ。
 幼稚園の注射の日、小学校の運動会、高校受験――わたしがなにかをがんばったその日の夜には、いつもこの味が待っていた。

 だから、今日もそうだと思った。
 だって今日は、先生として初めて教壇に立った日。
 とっても、とっても、がんばった日だから。
 
「ただいまー」

 リビングの扉を開けると、キッチンから母がひょこりと顔を出した。

「晴花、おかえり。初勤務はどうだった?」
「楽しかった! ……けど、すっごく疲れたぁ……」

 肩の力を抜くように息をつくと、母は「そうでしょう」と優しく笑った。

「これからは、きっともっと大変になるわよ。なんていったって先生なんだから。それでも、いつも笑うことを忘れなければ、ちゃんと乗り越えられるわ。だって晴花のセールスポイントは……」
「笑顔、でしょ」

 言葉をかぶせて、二本の指で口角を持ち上げてみせる。
 すると母は嬉しそうにうなずいた。

 たしかに、笑顔をほめられることはよくある。
 でも自分では、そこまでだろうかと思ってしまう。

 それでも、こうして強みだと言ってもらえるのなら、これからも忘れずにいよう。
 笑っていれば、きっといいことがある。
 わたしにとって、笑顔はおまじないみたいなものだから。
 
 ……とはいえ、今日は本当にぐったりだ。
 体を動かしたわけじゃないのに、なんだか本当に疲れている。

 まあ、それもそうか。
 生徒たちに囲まれて、あれこれ質問攻めにされてたら、そりゃあ疲れるに決まってる。
 年齢とか、彼氏の有無とか……あんなの、普通聞くかな?
 思わず変なことを口走っちゃわないか、不安だった。
 高校生ってホントに容赦ない。

 着替える気力も残っていないまま、スーツ姿のままソファに座り込む。
 そのまま背中を預けるようにして、ぐたっと横になる。

 ふと、テーブルの上に置かれた箱が目に入った。
 薄いピンクの小さな箱。
 かわいらしいロゴに、どこか見覚えのある洋菓子店の名前。

「なにこれ、ケーキ?」
「ああ、それね、さっきお隣さんからもらったの。晴花が今日から先生になったお祝いだって」
「えー、嬉しい。ありがたいなぁ」

 ぱっと起き上がって箱を開ける。
 中に並んでいたのは、宝石みたいにかわいくておしゃれなケーキたち。
 ふわりと甘い香りが広がるだけで、一気に目が覚めた気がした。
  
「すごいっ、どれもおいしそう!」
「隣町のケーキ屋さんのなんだけど、このあいだテレビで紹介されたんだって。すごい行列だったらしいわよ」
「ええっ、そんな貴重なケーキ、もらっちゃってよかったのかな……?」

 なんて言いながら、目はもうキラキラ。
 すでに食べる気満々。

「迷うなぁ……全部食べたい……」
「食べるのは食後にしなさいね。今夜は晴花の大好きなクリームシチューなんだから。お腹いっぱいで食べられなくなっちゃうわよ」

 そんなの、言われなくてもわかってる。
 わたし、もう子どもじゃないんだから。

 ……と、ぶつぶつ反論しつつ、でも一個くらいならいいかな、なんて甘い考えがよぎる。
 疲れてるときは糖分が必要だし。
 
「夕飯の前に、お隣さんにお礼してきたら?」
「あ、うん。そうだね」
雨月うづきくんも、もう帰ってきてるでしょう?」
「あー……うん、そうだね」

 ケーキの箱を、じっと見つめる。
 それから、ふっと息を吐いて立ち上がった。

「ちょっと行ってくるね」

 着替えは……このままで、いいか。
 せっかくなら、先生になったこのスーツ姿を、おばさんにも見てもらいたいし。

 玄関を出ると、夜の風がやわらかく肌をなでる。
 空には、いくつかの星が静かにまたたいていた。

 近所の窓からこぼれる、あたたかな橙色の光。
 子どもたちの笑い声が窓から聞こえて、夜に弾ける。

 道のまんなかで大きく伸びをして、深呼吸をひとつ。

 ……うん。
 向かいのおうちはハンバーグ。
 その隣は……からあげかな。
 こっちは、カレーの匂いがする。
 シチューもいいけど、カレーも捨てがたいよね。
 
 そんなことを考えながら、隣の家のインターホンを押す。
「はーい」という声が聞こえて、わたしが名乗ると、すぐに扉が開いた。
 にっこり笑って、おじぎをする。

「おばさん、こんばんは」
「あら、ハルちゃん。やだわ、スーツなんて着ちゃって。このあいだまで学生さんだったのに、もうすっかり先生ねぇ」
「あはは……まだちょっと、慣れないけど」

 照れ隠しに頬をかくと、おばさんは嬉しそうにほほえんだ。
 小さいころからずっと憧れていた夢――その姿を見せられて、きっと、おばさんも喜んでくれている。

 そうだ、と気づいて、もう一度丁寧に頭を下げた。

「おいしそうなケーキ、ありがとうございました。あんなにたくさんいただいちゃって……いいの?」
「ああ、もちろん。お祝いだからね。それに、うちは私以外みんな甘いものを食べなくて。評判がよかったから、ぜひ食べてほしくて」
「わあ、嬉しい。ありがとう!」

 にこっと笑って返事をすると、おばさんはすぐにリビングのほうを指差した。

「上がっていくでしょ?」
「……あ、でも、夕飯の準備で忙しい時間帯だから」
「気にしないで。……も、ちょうどさっき帰ってきたところなの。少し話してあげて」
 
 お礼だけで、おじゃまするつもりはなかった。
 ……でも、せっかく誘ってもらったのだから、と玄関をくぐる。

 昔から何度も遊びに来ているこの家は、わたしにとって、まるで「もうひとつの家」みたいな場所。
 漂うにおいも、やわらかな空気も、どこか懐かしくて――ほっとする。

 靴を脱ぎ、いつものようにスリッパを取り出して足を通す。
 そして、そのままリビングへ。

 部屋の真ん中、ふかふかのソファに座っていたのは――冷たいカフェオレのグラスを片手に、本を読んでいる、制服姿の男の子。

「ほら雨月、お隣のハルちゃんが来たわよ。本なんて読んでないで、ちゃんとおもてなしして」

 おばさんの声に、彼は手にしていた本をぱたんと閉じた。
 前髪をピンで留めた額があらわになっていて、学校で見たときとはまるで印象が違う。
 そして、ゆっくりと顔を上げたその瞳に――はっきりと、わたしの姿が映った。

「……いらっしゃい、
「おじゃまします、……

 ――夏野雨月。
 それが、彼のフルネーム。

 彼は、わたしの家のお隣に住んでいて。
 わたしが受け持つ、初めての生徒で。
 ……そして、なにより。

 わたしの、大切な。
 年の離れた、幼なじみだ。


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