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《創作大賞2024・恋愛小説部門》「Hydrangea」第1章 ひとりぼっちのカタツムリ 第3話 不機嫌な彼

第1章 ひとりぼっちのカタツムリ

第3話 不機嫌な彼

 職員室の真っ白な蛍光灯の下、わたしはぼんやりとクラス名簿を眺めていた。
 出席番号の最初から順に、一人一人の名前を指先でなぞっていく。

 やがて、爪の先がある生徒の名前でぴたりと止まる。
 声には出さず、くちびるをそっと動かして、その名前を口の中だけで呼んでみた。

 ……ああ、だめだ。
 思い出してしまう。
 彼の顔を頭に浮かべるだけで、さっきのあの子たちのせせら笑う声が、耳の奥で何度も繰り返し響いて――離れてくれない。

『あいつ、いつもこうだから。』
『すごく地味で、根暗で、じめじめしてて、いてもいなくても変わんないの』
『ナメクジっていうよりカタツムリじゃない?』
 
「――あの、」

 ふいに声をかけられた。
 はっとして顔を上げる。
 とっさに返そうとした声は裏返り、思わず間の抜けた返事になってしまった。

 目をぱちぱちと瞬きながら、その顔を見る。

「な、つの、くん」

 途切れ途切れに名前を呟くと、彼は不機嫌そうに眉をひそめながら、ノートを差し出してきた。

「……日誌」
「え」
「学級日誌。言われたとおり、持ってきました。……これで日直の仕事は終わりですよね」

 視線を落とすと、手渡されたのは、ホームルームのあとにわたしが渡した日誌だった。
 ……さっきまで、彼が教室で無言のまま『聞こえないふり』をしながら書いていた、あのノート。
 
「あ、ああ……日誌ね。うん、はい、ありがとう」

 言葉がもつれるようにお礼を口にして、日誌を受け取る。
 すると彼は、無言で軽く頭を下げると、そのまま踵を返した。

「失礼します」

 ……ああ、もう帰っちゃうんだ。
 みんなみたいに、わたしとは話をしてくれないんだ。

 心の中でそう呟いて、さらりと揺れる彼の襟足を目で追う。

 どうやら彼は、わたしにちっとも興味がないみたいだった。
 つねに素っ気なくて、目も合わせてくれなくて――他の生徒たちみたいに、わたしと他愛のない話をすることもない。

 必要最低限のやりとりだけで、すべてを終わらせてしまう。
 それは、教室の中でも、今この瞬間でも、変わらない。

 どれだけわたしが気にして声をかけても、結局返ってくるのは「はい」か「わかりました」だけ。

 きっと、頑張ったってその先へは進めないんだ。
 ……わたしは、ちゃんと話したいって思ってるのに。
 
 静かに扉が閉まり、その余韻が耳に残った。
 椅子から立ち上がったわたしは、すぐに彼を追って職員室を飛び出す。

 前を歩いていた学ランの背中に向かって、思わず声を張った。

「ま、待って!」

 ぴた、と足音が止まる。
 彼はゆっくりと振り返り、無表情のままこちらを見た。

「……なんですか」

 その声も、目つきも、態度も――どこまでも冷たい。
 思わず胸がすくみ、わたしは喉をこくりと鳴らした。
 
 ああ、まただ。
 こんなふうに見られたら……うまく喋れなくなる。
 
 ごまかすように視線を泳がせて、それから頬をかいた。
 曖昧な笑みを浮かべながら、思いつくままに声をかける。

「あ、ええと……もう帰るの?」
「帰りますけど。……どうしてそんなことを聞くんですか」
「ど、どうしてって……」
「まだなにか、やらなきゃいけないことがありますか」
「そういうわけじゃ、なくて……」
「それなら、なんですか」

 すっと目を細める彼に、わたしは言葉を失った。
 わずかに開いていたくちびるを、そっと閉じる。

 もうなにも言えない。
 続く言葉も、浮かんでこない。

 ああ、どうして呼び止めたりなんかしたんだろう。
 彼がどんな反応をするかなんて、最初からわかっていたはずなのに。

 わたしは、一体なにを期待していたんだろう。
 ……こんなの、ただ、悲しくなるだけなのに。
 
 わたしは小さくうなずいて、一歩だけ後ずさる。

「そ、そうだね。……なにもないよ。呼び止めちゃって、ごめんね」
「そうですか。それじゃあ」
「……うん。気をつけて帰ってね」

 軽く手を振る。
 夏野くんはわたしを一瞥して、再び背を向けた。

 もう振り返ることはなく、無言のまま、一定の歩調で遠ざかっていく。
 その背中を、ただ見つめていた。

 やがて彼の姿は、廊下の角でふっと消える。
 わたしはひとつ、ため息を吐いた。
 振っていた手が、自然と力なく降りていく。

 ほんの少しでも、言葉を交わせたら。
 ほんの少しでも、心を開いてくれたら。
 そんなふうに思った。
 彼が、どこか……寂しそうに見えたから。

 ……でも、それも、きっとただのおせっかいだったんだろうな。


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