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【一氣読み・長編小説】「さくら、舞う」

こちらは長編小説「さくら、舞う」(全19話)を通しで読めるようにまとめた記事です(番外編&AI音楽は含まれません)。
テーマは「父と娘&年の差恋愛」です。
常識を壊す挑戦的な内容です。是非、ご一読ください!


第一章(約30,000字)

1.<祐仁ユージン

 思いつきで言った「六人でバンドを組む」と言う案が、まさかこんなにも早く実現するとは思っていなかった。「サザン×BBビービー」という新しいバンド名は、麗華れいかさん、拓海たくみさん、智篤ともあつさん属する「サザンクロス」と、オレたちきょうだいのバンド「Black Boxブラックボックス」の頭文字を組み合わせたもの。メジャーとインディーズの中間に位置する音楽事務所、「ゆうび奏社」に在籍しているオレたちは現在、リアルイベントを中心に全国各地を巡っている。

 ここ数年は兄妹仲きょうだいなかが悪く、バンド活動を続けていけるかどうかすら怪しかったブラックボックスが復活できたのはすべてサザンクロスの、中でも麗華さんのおかげだとオレは思っている。姉さんがいなければ、途中でメジャーの音楽事務所に引き抜かれた弟を連れ戻すことは出来なかったと思うし、そのまま解散していたとも思う。

 その出来事を抜きにしても、共演ライブが終わる頃には麗華さんの歌声にオレ自身が虜になっており、ライブ終了と同時にそれぞれの活動に戻っていくのが寂しいと感じるまでになっていた。思わず飛び出した「一緒に活動しませんか?」と言う台詞には誰よりもオレが一番驚いたが、麗華さんたちがあっさり了承してくれたのは正直に言って嬉しかった。

 この先もずっと麗華さんの歌声を間近で聞ける……。こんな幸せなことはない。もちろん、麗華さんには拓海さんという、これまた素晴らしい人間性を持つ恋人がいるし、美声と優れたギターテクニックを持つともさんも麗華さんを好いているらしいから、オレみたいな若いのが何を言ったってライバルにすらなれないのは分かってる。しかし、だからといって黙って眺めているオレではない。自分の想いは常に表に出していく、それがミュージシャンであるオレのポリシーだ。

「どうっすかねぇ、麗華さん。オレの新しい楽器テクニック。エレキだけじゃなくてドラムも叩けるなんて、多彩な才能を持ってると思いません?」

 今日はサザンクロスの三人が住む家の一角にある音楽スタジオに来ている。六人組になってからドラムに転向したオレは、他のメンバーより多く練習する必要があるため、以前にも増して彼らのスタジオに厄介になっている。そんなオレのために新しいドラムまで用意してくれた麗華さんには感謝の言葉しかない。

「素晴らしいと思うわ。アコギ以外を弾けと言われてもあたし、無理だもの」

「……惚れちゃったり、しません?」

「そうねぇ、何でも出来る人って尊敬しちゃうわね」

「もう! レイさまったら!」

 姉さんの様子を端で見ていた妹のセナが、イライラした様子で口を挟み出す。

「お兄ちゃんはそういう返事を期待してるんじゃないのよ。レイさまに、『ユージンのことが好きよ』っていって欲しいのよ!」

「……え? ユージン、あたしのこと、好きなの? まぁ、嬉しい。ありがとう」
 麗華さんは妹のストレートな言葉を聞いてもどこか他人事のように答えた。理由は分かっていたが続く言葉を聞いて、やはりと思う。

「んー、だけどごめん。あたしには拓海や智くんがいるから……。それに、好きだと言ってくれるのは嬉しいけど、あんまりにも年が離れすぎてるわ。ユージンは若いんだから、もっと年の近い子に恋するべきだと思う」

「見た目年齢的には変わらないじゃないっすか……」

 実年齢は親のちょっと上くらいだが、今はなぜか二十代の容姿になっている。本人たちにも理由は分からないらしいが、見た目だけで言えばオレたちと麗華さんとは同年代。一緒にいても何ら違和感はない。

「ふーん……。ユージンって案外、情熱的なのね。知らなかった」
 麗華さんはオレの不満を聞いても冷静に対応する。

「……ねぇ。見た目があたしにそっくりで、年がユージンに近い子を紹介してあげましょうか。もしかしたら氣が合うかもしれないわ」

 彼女には子供はいないはずだが、その条件を満たす人間などいるのだろうか……? 首をかしげているとすぐに答えが示される。

「あたしの弟の娘。つまりはあたしの姪っ子で、名前はさくらちゃんって言うの。もう何年も会ってないけど、あのライブはどこかで見てくれてたっぽいのよね。実は、彼女の名前でお花をいただいていて。『水沢さくら』名で届いてたから未婚だとは思うんだけど……。ああ、ちょっと待ってて」

 麗華さんがその場をあとにすると、そばにいた弟のリオンに肘で小突かれた。

「……今日は拓海兄さんと智篤兄さんが風邪で寝込んでるからって、急にアピールしちゃって。おれたちが一緒についてきてなかったらどうなってたことやら……」

「……想いを伝えるくらい、いいじゃんか。ライバルが不在の時にやらずして、いつやるってんだ?」

「まぁ、それもそうか。しっかし、まさか兄ちゃんが熟女好みだったとは……」

「……素敵な声の女性がたまたまそういう年齢だっただけだよっ!」

「たまたま、ねぇ……。おれは姉さんの言うように、年の近い姪っ子さんの方がまだいいと思うけどな」

「麗華さんが推薦する人だからって、見たことも会ったこともない人だぜ? 姉さん込みで会うのなら話は別だけど」

「もちろん、あたしも同席するわ。いきなり二人にするなんて、さすがにあたしもそこまで鬼じゃないわよぉ」

 どこからか古いアルバムを持って戻ってきた麗華さんは、「この写真。ほら見て、そっくりでしょう?」といって指し示した。

 確かにその人物は麗華さんと言われても納得してしまうほど似ていた。しかし隣には、今の見た目より少し年のいった麗華さんと、先日会った麗華さんの弟さんが写っている。

「この人が、さくらさん?」

「そう。かわいいでしょう? 弟が離婚してからはあたしも疎遠になっちゃってたんだけど、いただいたお花に、差出人名と電話番号が書いてあったから連絡を取ることは出来るわ。ちょうど久しぶりに会いたいと思ってたところなの。連絡がついたら、一緒に来る?」

「会ってみろよ、兄ちゃん」

「そうよ、レイさまが紹介してくれる人だもの。一度だけでも会ってみたらどう?」

「…………」
 リオンとセナが面白がるように言った。もう一度、写真のその人を見る。

「……何か、寂しそうな顔してるな」
 どこか、影がありそうな表情。こういう人を見るとなぜか放っておくことが出来ない。

「じゃあまぁ、会いますよ。ただし、一回だけ。それと、会った帰りはオレとデートしてください。それなら会います」
 
「いいわ。……うふふ。ユージンとデートすると知ったらあの二人、どんな顔をするかしらね?」
 こっちは真剣なのに、やっぱり姉さんはオレを子供だと思っているのか、弄ぶように笑った。



2.<さくら>

 シンガーソングライターのレイカが伯母であることを、私は誇りに思っている。売れない画家である私は絵を描く以外何の取り柄もないが、彼女が身内だと思うだけで強くなれる。だから、レイカがアコギバンド「サザンクロス」のメンバーとして再出発し、更なる進化を遂げたと知ったときはめちゃくちゃ嬉しかった。自分から直接会いに行ったり、連絡を取ったりする勇氣はないが、代わりに楽屋に花を贈り、ライブ会場に足を運んだ。これからも影ながら応援しているという、その氣持ちをほんのちょっとでも伝えたくて。


◇◇◇

 相手がミュージシャンとは言え、自分の伯母のポスターやグッズを買い込むのはおかしなことだろうか。たとえ母でもこの部屋に上げたくないと思ってしまうほど、ライブ後の部屋は「サザンクロス」のグッズで溢れかえっている。


◇◇◇

 そんなある日のこと。私のもとに知らない番号から電話がかかってきた。人見知りなので普段だったら無視するところだが、今日だけはピンときてすぐに通話ボタンを押す。

『あ、もしもし。水沢さくらさんの携帯電話ですか?』

「はい」

『ああ、良かった。あたし、麗華よ。水沢麗華』
 予感は当たった。やはり麗華ちゃん、、、、、、だった。私はなぜか幼い頃から彼女のことをそう呼んでいる。妹が欲しかった彼女はちゃん付けで呼ばれるのが嬉しいらしく、姪の私が大きくなってもそう呼ぶことを許してくれていた。その麗華ちゃんが嬉しそうに言う。

『先日はお花をありがとう。おかげさまでライブは大成功だったわ』

「会場で聴いたよ。ますます進化した麗華ちゃんの歌声を聴いて痺れちゃった。グッズもたくさん買ったんだ。おかげで人には見せられない部屋になってるー」

『やっぱり来てくれてたんだ、嬉しい! ねぇ、久しぶりにどこかで会おうよ。ライブの裏話とか、色々してあげる』

「え、ホント?! 会いたい、会いたい!」

 十年以上話していなくても、ひとたび会話が始めれば最後に会ったときにまで時間がワープするのが女というもの。つい長電話になりそうだったが、適当に話を切り上げて残りは直接会った時にと言うことで会う日を決め、電話を切った。


◇◇◇

 クリスマスが終わり、街が一氣に正月モードに変わろうかという日に私たちは都内のとあるカフェで会うことになった。もこもこのパーカーにだぶだぶのジーンズという、普段通りの冴えない格好。伯母と会うだけだからと高をくくったのが間違いだと氣付いたのは、彼女の隣に男性が立っているのが目に入った時だった。

(やばっ、彼氏も一緒……?! 聞いてないんだけど!!)

 こんなことならもっと氣張ってくれば良かった、と慌てても時既に遅し。諦めた私はため息を吐きつつも、小さく手を振ってぺこりと頭を下げた。

「……って言うか、麗華ちゃんだよね? 最後に会ってから十数年が経つはずなのに、その時より若く見えるのは氣のせいかな?」

「氣のせいじゃないわよ。なぜか分からないんだけど、ある出来事をきっかけに若返っちゃってね……」

「それで若い彼氏を……?」

「え……? ああ、違う違う! 彼はバンド仲間のユージン。今日はあなたと会わせたくて連れてきたのよ」

「私に会わせたくて……? どういうこと……?」

「まぁまぁ。詳しいことはあとで話すわ。寒いから早く中に入りましょ」
 先陣を切る彼女の後に続く。いったい何がどうなっているのやら……。

 彼女の、一本の白髪もない後頭部を見つめながら思う。ライブの時は後ろの方の席で、はっきりと顔を見ることが出来なかったから、まさか自分と同じくらい……いや、私よりも肌や髪がキレイだなんて思いもしなかった。バンド仲間だという男性は本当に恋人ではないのだろうか? もし麗華ちゃんが恋をしているなら、若々しい肌艶はだつやをしている理由も分かるのだけど……。

(それにしてもこの男性、どこかで見たことあるような……?)

 一度でも話せば顔と名前は覚えられる。しかし、テレビで見ただけの人や紹介のみで言葉を交わさなかった人のことはすぐに忘れてしまう悪癖がある。きっと彼も「見たことがあるだけ」に該当するのだろうが、一体どこで見たのだろう? 思い出せない……。



 店に入ると、真っ先に目に入ってきたのはクリスマスツリーだった。

「いらっしゃいませ」

 そう言った店員はクリスマス用の飾りを正月用の飾りに変えている最中だった。なるほど、長く利用するためにツリーの色は白なのか。画家の目から見ても配色センスが良いと感じる。店内のテーブルクロスやカーテンの色も落ち着いた色に統一されており、麗華ちゃんが、大人氣でなかなか予約が取れないと言っていた理由も分かる。

「時間制限もないから好きなだけしゃべれる。遠慮しないで飲んで食べてしゃべりましょ」

 メニューを見ながら盛り上がる麗華ちゃんを余所よそに、私も連れてこられた男性もどう振る舞っていいやら分からず、注文した料理が運ばれてくるまではお互いに無言だった。しかし食事が始まり、先日のライブの話が出始めてようやく麗華ちゃんから男性を紹介される。

「こちら、音村祐仁おとむらゆうじんくん。普段はユージン、って呼んでるわ。先日のライブに来たなら分かるわよね? 司会進行とエレキを弾いていたのが彼」

「……ああ! どうりでどこかで見た顔だと思ったら……!」

 会ってから三十分以上が経ったというのに、今ごろ目の前にいるのがブラックボックスのギタリスト、ユージンその人だと氣付いて赤面する。顔を覆っている私の前で彼はがっくりと肩を落とした。

「まぁ、この前のはサザンクロスのライブだったから、オレの顔見てもすぐに分からないのは仕方ないかもだけど、ちょっとショックだなぁ……。もっと表に出ないとダメってことか……」

「ごめんなさい……! 私、子供の頃から『レイカ』のファンだったもんで、正直今回も麗華ちゃんのことしか見てなくて……」

「なんとなく、分かる。その、バッグにじゃらじゃら付けてる麗華さんのグッズを見れば」

「…………!」
 見せびらかしたつもりは一切ないが、氣付かれていたことにまたまた恥ずかしさを覚える。再び赤くなった顔を覆うと、なぜか彼はふふっと笑った。

「よっぽど好きなんっすね、麗華さんのこと。実はオレも好きなんっすよ。いやぁ、恋人がいるのは分かってるんだけど、どうしても自分の氣持ちを伝えたくて先日、さりげなくアピールしたら軽く流されました……。で、ふて腐れてたら顔の似てる姪っ子を紹介してあげる、って言われて……」

「ああ、それで……。っておかしくない? 麗華ちゃん。どうしてそれで私を紹介するって流れになるのよ?」

「んー? だって二人ともあたしが好きなんでしょう? 共通点があれば話も合うかなーって。年も近いし」

 言われて「確かに」と思ってしまった私がいた。よくよく観察してみると、ユージンさんもさっきから麗華ちゃんの顔ばかり見ている。私に負けず劣らず、彼女のことが好きなのはその様子からも窺える。

「……ねぇ、どう? ユージン。さくらちゃんと話せそう?」
 麗華ちゃんに突っつかれた彼は「そんなのまだ分かんないっすよ」と答えた。

「まぁ、麗華さんの話で盛り上がれそうだなってのは分かりましたけど、それだけじゃあね。きょうだい関係とか、普段何してるのかとか、親しくなるにはそういうのも知らないと……。でしょう? それと、オレは別に恋人作りたくてここに来たわけじゃありません。このあとの麗華さんとのデートを楽しみに出てきたんですからね!」

「もう、わかってるってば。……だけど、せっかく出会ったんだからさ。連絡先くらい交換したら? ああそうだ。あたしもさくらちゃんのメアド聞いちゃお」

 世話を焼きたがる感じがいかにも伯母さんのそれに見えて、やはり実年齢は父と同じくらいなのだなと痛感する。

(両親に離婚されたのを知った麗華ちゃんが、私を不憫ふびんに思って世話しようってことなのかな……?)

 しかし私も三十二歳。親や親戚に身の回りの心配をしてもらうような年ではない。ましてや「お見合い相手」を紹介してもらうつもりもない。私はきっぱりという。

「ユージンさんを紹介してくれたのは嬉しいよ、だけど……。今日はユージンさんの氣持ちを大事にしてあげて。だってユージンさんが好きなのは、顔の似てる私じゃなくて麗華ちゃんなんだもの」

「……変わってないね、その性格。そうやっていつも人のことばかり心配するところ。そろそろ自分を幸せにすることを考えてみない?」

「……心配しないで。私は大丈夫だから」

「そうは見えないけど? 痩せてるのを隠すみたいにだぶついた服着てるみたいだし、悩みがあるならあたしが相談に乗るよ?」

 麗華ちゃんが言ったことはすべて当たっていた。だからこそ、腹が立った。

「……大丈夫!」
 怒りたいのをなんとか我慢し、それだけを言い放った。


3.<ユージン>

 その後、さくらさんが画家をしていること、売れずに苦労していること、父親とはずっと会っておらずどんな人かも忘れかけていることは教えてもらった。しかし情報はそれだけで、二時間ほどいたうちの大半はオレと麗華さんのおしゃべり。さくらさんはそれを聞くだけだった。向こうがそれを望んでいたのが最大の理由だが、さくらさんの口数の少なさには正直びっくりした。

 彼女の背中を見送りながらその話をすると、麗華さんは「やっぱり?」と言って頷いた。

「何だか、自分のことはあまり話したくないって感じだったものね。まぁ、昔から無口な子ではあったけど、もっと自己アピールしないと絵描きで生計を立てるのは難しいな、とは思った」

「ですよね……。なんとかなりませんか、麗華さんの歌の力で」

 過去に何度もその歌声で奇跡を起こしてきた麗華さんなら、さくらさんを積極的な性格に変えることだって出来るのではないか。そう思って提案したが、首をかしげられた。

「意識を変えることは出来ると思う。だけど、時間はかかるでしょうね。あたしを恨み続けていたともくんも、幽体離脱した拓海に説得されたから赦してくれたけど、それがなかったら今でもあたしのこと、恨んでるんじゃないかな。『歌で人を救う』と口で言うのは簡単だけど、実際にはすごく難しいわ」

「そうなんですか……?」

「歌の力を信じてくれるのは嬉しいわ。でも、あたしにも救えなかった人はいるのよ」

「まさか。そんなの、嘘でしょ?」
 疑いの眼差しを向けたが、麗華さんは首を横に振って小さく笑った。

「歌はきっかけに過ぎない。一番大事なのは本人が心を開くこと。……ユージンは出来ると思う? 音楽であの子の心を開くことが」

「…………」
 難しい問いだった。歌手歴の長い麗華さんでも即答できないのに、どうして若造のオレが「出来る」と答えられるだろうか。

「麗華さんとなら……。みんなで力を合わせればあるいは……」
 しばらく悩んで出したオレの答え。甘っちょろいと言われるかもしれないが、今はそれしか考えられなかった。

「六人で新しいバンドをやろうって言いだしたユージンらしい答えね。うん、あたしもそう思ってた。……ユージンのそういう発想、好きよ」

 麗華さんはクスクス笑ったかと思うと、いきなりオレの腕を取って寄り添った。

「れ、麗華さん……?!」

 あまりにも急だったので心臓が飛び出しそうになる。しかし麗華さんはとぼけた様子で、「あら? さくらちゃんと会ったあとはデートするんじゃなかった?」と言ってますます身体をすり寄せる。

 ドキドキは最高潮に達していたが、こうなったら勢いに任せちゃえ! と思いきって恋人つなぎをしたら、微笑みと共に握り返された。

「……もしかして麗華さん、普段から拓海さんや智さんともこうしてるんっすか?」

「そうだけど?」

「……それぞれにいい顔してたら嫌がられません?」

「別に? 二人は、、、それを了承してるから。あたしがどっちかに偏らないことも知ってるし」

二人は、、、、ですか……」
 暗黙のルールにオレが入っていないことを思うと、あとでどんな目に遭うかちょっぴり恐ろしくなるが、二人が寛容であることを祈るしかない。

「あー、麗華さん。このあと港公園に行きません? 夜景が綺麗な穴場スポット、知ってるんです」

「あら、素敵! ぜひ連れて行って!」
 その目はまるで子供のようだった。

(ああ……。少なくとも三十年早く生まれていれば……)
 せっかくのデートだって言うのに、自分と麗華さんの年の差を思うとどうしても素直に喜べなかった。



 何度も良い雰囲氣になったが、そのたびに拓海さんと智さんの怖い顔が脳裏に浮かび、言いたいことの半分も言えないままデートは終わった。不完全燃焼のオレの隣で麗華さんは「もう、かわいいんだからぁ」と落ち込むオレをからかった。

「拓海と智くんのことは忘れて、二人きりの時間を楽しめば良かったのに……」

「そうもいかないっしょ。もし……もしオレが麗華さんと夜通し過ごしたーなんてことになったら、組んだばっかりのバンドも解散の危機ですよ」

「ユージンったら、そんなこと考えてたの?」

「例えば、の話ですっ! ……って言うか、オレが麗華さんの中で一番惚れてるのは歌声であって……」

「はいはい、わかってますって。そんなに本氣で怒らないでよぉ」
 膨らましたオレの頬を麗華さんが人差し指で突いた。
「じゃあお詫びに、ユージンのために歌ってあげるから年末恒例のライブが終わったあとはうちに泊まりにいらっしゃい。これで許してちょうだいな」

 思いがけない誘い。オレは頬を膨らませたまま固まった。

「ご実家に帰るなら無理にとは言わないけど。リオンとセナ、それからさくらちゃんも誘ってさ、みんなでワイワイ過ごそうよ」

「もちろん、喜んでお伺いします。オレのために歌ってくれるなら尚更行きます」

「良かったー。実はさっきからずっとそのことを考えていて、いつ言おうかタイミングを見計らってたのよねぇ」
 麗華さんは心底ホッとしたように胸に手を置いた。


◇◇◇

 ライブハウス「グレートワールド」の年末恒例ライブは、サザンクロスもブラックボックスも毎年出演している。昨年末時点ではほとんど交流していなかったオレたちが、一年後に六人組バンドを組んでいるなんて誰が想像できただろうか。

 今回のライブでサザン×BBビービーのお披露目をする、と言う案もあったのだが、新曲がない状況ではインパクトも薄いし、それぞれのバンドの曲を聴きたくて集まるファンが多いだろうということで、サザンクロスとブラックボックスに別れて出演する。ただし、互いにバック演奏したりハモったりはする予定で、最後に新バンドの紹介をして締める算段になっている。

「じゃ、お先に。僕らがサイコーに目立つように、引き立て役を頼むぜ」
 やけに機嫌のいい智さんが、力強くオレの肩に手を置いた。

「智さん、やる氣満々っすね」

「そりゃあな。古巣でやる久々のライブだし、一年前に抱いていた怒りや負の感情を捨てた状態で立てるからな。ワクワクしないはずがない」

「なるほど」
 つまり、人は一年もあれば別人級に変われる、と言うこと。端から見ても智さんの表情は一年前のそれとはまるで違う。その智さんが、声の出ない拓海さんリーダーに成り代わって言う。

「レイちゃん、今日もその美しい声で僕を、聴衆をとりこにしてくれ。そして拓海の生歌が聴けるよう、奇跡を起こしてくれ」

 拓海さんは病氣が原因で声を失っているが、ライブなどの特別な環境下で一時的に発声可能になる場合があるらしい。智さんの言う「奇跡」とはそのことだ。

「ええ、もちろん!」
『俺だって歌う準備はバッチリだぜ!』

 麗華さんは美声で、拓海さんは手話でそれぞれの意氣込みを語った。一緒にいる時間が長くなってきたからか、最近では簡単な手話なら通訳無しでも分かるようになってきた。

 前のバンドの演奏が終わった。引き上げてくる彼らに拍手を送りながらサザンクロスの三人がステージに飛び出す。

「お待たせー! サザンクロス、今年最後のライブ、楽しんでいってくれ!」
 フロア一杯のお客さんから大歓声が上がった。歓声を割るように一曲目がすぐに始まる。人氣曲、「羅針盤コンパス」からだ。


声をなくした、歌手だけど
未練がましいミュージシャン
俺にはギターがあるからさ
こいつで思い、伝えんだ

曇りきったこの世界
歌とギターで晴らすまで
俺たちゃ歌い続けんだ

みんなが右へならえ、ったって
俺たちゃ絶対向かねえぞ
心の羅針盤はりに従って
自分の道、進むんだ

他人だれかの言葉にゃ価値がないって
氣づいたやつから目覚め出す
「ホントの自分」の声、動き出す世界、
名もなき男の戯れ言ざれごとを聞いてくれ

……

「あぁ……。智篤兄さまの声っていつ聴いても素敵よねぇ……」
 妹のセナがステージ脇で目をうっとりさせながら言うと、双子のリオンが鼻で笑った。

「ったく……。兄ちゃんと言いセナと言い、どうしてそう年上好みなんだか……。そりゃあ二人ともいい声してるけど、年の差を考えろよなぁ」

「歌の上手い下手、声のいい悪いに年齢は関係ない。だよなぁ、セナ?」

「そうよ。それに、そういうリオンだって拓海兄さまの復活した歌声にはシビれたって言ってたじゃない!」

「…………! あれは、普段声を出せない兄さんが歌ったから感動した、って意味で……」

「お前ら。あいつらのことを褒めてる場合じゃねえぞ。そろそろ出番だ」
 しゃべっているところへこの店のオーナーがやってきた。ビクついていると「ほら、いけ!」と背中を押される。

 氣を引き締め、堂々とエレキをかき鳴らしながらステージに出る。智さんの歌の邪魔をしないよう、しかしオレらブラックボックスの存在を示すようバランスを取りながらアピールすると、会場は一層盛り上がった。

 続けてサザンクロスの曲を二曲、主役を交代してオレらブラックボックスの曲を三曲演奏したのち、新バンドの紹介をしてオレらのステージは終わった。



 すべてのステージが終わってお客さんが帰ったあとは、出演バンドだけの忘年会。これも毎年恒例のこと。例年、常連バンドと新規バンドが五組ずつほど集まってオーナーのおごりでどんちゃん騒ぎをする。

「去年は聞けなかったことを今年は全部聞かせてもらうぜ。なんでシンガーソングライターのレイカとバンドを組むことになったのかとか、突然若返っちゃったのかとか、疑問に思ってることは山ほどある」

 拓海さんと智さんが「ウイング」というバンド名で活動していた頃からの大先輩が二人の間に座り込む。しかし智さんは、しゃべれないのを良いことに逃げようとする拓海さんとともに「悪いな。すべてを語るには一日あっても時間が足りない。また今度にしてくれ」と言ってバーカウンターに酒を取りに向かった。

「ユージン、ロングカクテルを二杯。何でも構わない」

 逃げてきた智さんに声をかけられたと思ったら、なぜか注文された。
「えー? オレはもうここのバイトじゃないんっすけど?」

「お前の作るカクテルが飲みたいんだよ。いいだろう?」

「しゃーないなぁ。それじゃあ……」
 仕方なく、手近にあったジンとソーダとレモンジュースでジンフィズを作る。
「はい。一杯だけっすよ?」

「サンキュー」
 礼を言った智さんだが、立ち去ることもなくその場でちびちびとやり出す。拓海さんも同じようにグラスを握ったままオレをじっと見つめている。

「……あのー、何か?」

『お前、麗華のことどう思ってんだよ? この前二人きりでデートしてきたの、知ってるんだからな』

 拓海さんからいきなりそんなことを言われたオレは、持っていたカクテルグラスを危うく落としそうになった。

「だ、誰から聞いたんですか。オレは麗華さんが姪っ子に会わせたいって言うからついてっただけっす」

「レイちゃんが、この会のあとうちに来るって言ってた子のことか?」

「そうっす。さくらさんって言うんですけど、オレたちに負けず劣らず麗華さんのことが好きみたいです。この前のライブで販売した麗華さんのキーホルダーや缶バッジをバッグにじゃらじゃら付けてました。どうやら子供の頃からのファンらしくて、それを知ってる麗華さんが、オレと氣が合いそうだってことで引き合わせたんです。……あー、言っときますけどオレが好きなのは麗華さんの『声』なので!」
 
 最後の部分を強調すると、二人は「分かった、分かった」と手をひらひらさせた。

『姪っ子も麗華のファンなのか……。しかし、だからってなんでこの忘年会のあとに呼びつけるんだ? 今の話から察するに、俺らのファンってわけでもないんだろう?』

「それはー……」
 返事に困っているところへ麗華さんが現れて助け船を出してくれる。

「独り身の姪っ子の身を案じちゃ悪いの? 三十過ぎて、正月にひとりぼっちってのは本当に寂しいものよ? あたしには分かる。だから誘ったの。それだけのことよ」

『……なんか妙に説得力あるな』

「ああ……」
 二人はそれ以上、追及しなかった。

「じゃあまぁ、そういうことにしておいて、その姪っ子のことはレイちゃんに任せるか。その間、僕らは僕らでワイワイやろう。ユージンもこっちに加わるだろう?」

「あ、はい」
 返事をした直後、麗華さんにぐいっと引っ張られる。

「あら、だめよー。ユージンにはあたしが歌を歌う約束してるんだからー。怒らせちゃったお詫びをしないと。ねぇ?」

「怒らせたって……。レイちゃん、いったい何をやらかしたの?」

「んー? ホテルに誘われたけど断った」

『おいっ……!』
「ユージン、お前……!」

「ちょっと、麗華さん! 冗談きついっす!!」
 酔っ払った麗華さんの笑えない冗談のせいで、二人からしばかれたのは言うまでもない。


4.<さくら>

 ライブハウスは熱心なファンで溢れかえっていた。特にサザンクロスとブラックボックスのファンが多いのか、彼らが登場すると会場が震えるほどの大歓声が起きた。

(ライバル、多し……。)

 しかし、私はこのあと彼らの家に行く。これほど優越を感じることはない。伯母が名のあるミュージシャンで本当に良かった、とつくづく思う。

 サザンクロスが「羅針盤コンパス」を披露していると、あとからブラックボックスの三人が出てきてバックで演奏し始めた。先日会ったメンバーの一人、ユージンさんはエレキを弾いている。

(球場ライブの時は遠かったからよく分からなかったけど、間近で見たらカッコイイじゃん……。って言うか、全員に惚れそう……。)
 
 麗華ちゃんの時もそうだった。親戚同士が集まる席では普通のおばちゃんなのに、ひとたびステージに立つと全くの別人。その瞬間、一目惚れした。

 そう、私が好きなのは歌手のレイカただ一人……! 浮氣は禁物だ。自分に言い聞かせるが、盛り上がる周囲の雰囲氣も手伝って、見れば見るほど、聴けば聴くほど彼らの音楽に惹かれていく……。

(つまり、彼らの音楽にはそれだけの力があると言うこと……?)

 先日聞いた話では、病氣で余命幾ばくかの仲間を救うことが出来たのは歌の力があったからだ、と。まさか、歌っただけで病氣の人を治せるはずがないと思ったが、目の前の二人が大真面目に語っているのであからさまに否定も出来なかった。今日はその仲間に会わせてくれるらしいから、実際にこの目で確かめてみようと思っている。

 サザンクロスとブラックボックスのステージはあっという間に終わってしまった。お目当てのライブを見終わった私は会場をあとにし、麗華ちゃんと待ち合わせる予定の駅前で時間を潰した。



 合流できたのは間もなく日付が変わろうかという頃。年越しのカウントダウンをしている人たちの横を通り、麗華ちゃん宅に向かう。

 歩きながら私は、誰と、どのくらいの距離感で歩けばいいのか模索するのに忙しかった。今日は麗華ちゃんのバンドメンバーと四人で新年を迎えるつもりでやってきたのに、ブラックボックスの三人も一緒だと知って混乱しているのだ。狭い街路に七人。悩んだ結果、最後尾を歩くことにした。ここが一番、落ち着く。

 しかしホッとしたのもつかの間。
「あれ? さくらちゃんはどこ? ついてきてる?」
 酔っ払った麗華ちゃんが大袈裟に私を探し始め、最後尾の私を見つけると腕を掴んだ。

「今日は一人にはさせないんだから! ほら、年の近い女の子もいるよ。あたしより、よっぽど話が合うと思う。今夜はたっぷり時間があるんだから、友だちになっちゃいなさい」

「…………」

 無理やりひっつけられても何を話せばいいか分からない。それは彼女も同じらしく、「もう、レイさまったら。年が近いって言ったって十個くらい離れてるんじゃなかったっけ?」と困惑気味に言った。

「十個差は近い方じゃない。あたしとセナなんて、いくつ離れてると思って? それでも仲良くやれてるのよ? だったら大丈夫よー」

「ん、もう……! 酔っ払ったレイさまはテキトーなんだからー」

「……それは同感」
 意見が一致した点は、まさかの麗華ちゃんの酒癖の悪さだった。



 子供の頃から、親戚の集まりで大人たちが酔って騒ぐ姿を見ては興ざめしていた。だから、大人になってもお酒は飲まないと心に決めて今に至る。大学生になって「飲めないわけじゃないんでしょう?」と執拗に誘われた時期もあるが、断り続けるうちに誘われなくなった。つまらない子だと認定されたのだろう。いやいや、私からすれば酒を飲んで笑い転げている方がどうかしていると思うのだけど、理解してもらえたためしがない。

 今日だって同じだ。既に出来上がっている六人と、しらふの私では温度差がありすぎる。一応、こういう場での振る舞い方は心得ているが、面白くないことに変わりはない。夜遅いこともあり、私は彼らの話を聞いているうちに眠氣に襲われあくびを連発してしまう。

「あー、さくらちゃん。もう寝る氣? 今日は徹夜するって言ってるじゃない! そうだ、そろそろ歌を歌おう。ユージン、リクエストして。あなたのために歌うわ」

 強引な麗華ちゃんが、眠くてウトウトしている私を無理やり立たせて音楽スタジオに連れ込んだ。ユージンさんは機嫌がいいのか「それじゃあ、『LOVE LETTERラブレター』を。あのしっとりした歌声が好きなんっすよー」と即答した。

 七人入ったスタジオは狭く、隣同士でくっ付かなければいけないほどだった。酒臭い人たちの間近にはいたくなかったが仕方がない。しかし、そんな私の心情が伝わってしまったのか、麗華ちゃんに指摘される。

「歌を聴いたら、酒飲みは面倒くさいなぁって氣持ちも変わるはずよ。だからしっかり聴いててちょうだい」

 思わず居住まいを正す。拓海さんが何やら手を動かしたが麗華ちゃんは手を前に出し、「ああ、大丈夫。この曲は弾き語り出来るから。みんなでゆっくり耳を傾けてて」と言った。そのあとで何やら手話を使った麗華ちゃん。それを見た拓海さんは私の隣に座り直した。

「それじゃあ、ユージンのリクエストに応えて『LOVE LETTERラブレター』を歌います」

 麗華ちゃんはそう言うと、今の今までふざけていたのが嘘のように真顔になってギターを弾き始めた。その瞬間に場の空氣も変わり、まるでソロライブ会場にいるかのような緊張感に包まれる。マイクの前で麗華ちゃんが息を吸い込む。


あの時、君はなぜ去ってしまったの?
追いかける僕を振り返りもせず
涙は涸れて大地は乾いた
かすれた声で歌い続けた

君への愛を憎しみに変えて
暗闇の中で もがき続けた日々
むしばまれた心と体
死が連れてきた君を
ずっと僕は赦さないと
泣きながら誓う

憎しみの涙を流せたら
救われるだろう僕は
だけど流せないのは君のせいだと
言わなければきっと壊れるだろう僕は

君を赦すとき
僕は赦されるだろう
赦された僕は
安らかに死ぬだろう

だけどその前に伝えたいんだ、愛を
ずっと素敵になった君にこの想いを
僕の声を愛してくれた君へ
ずっとずっと愛していると……

「……いい曲だろう? これは俺らの書いたラブレターをもとに麗華が作詞したんだぜ」
 
 左隣の拓海さんに突かれて顔を向けたが、声は右隣の智篤さんから発せられた。なるほど、普段からこうして智篤さんが拓海さんの声役こえやくをしているのか。

「そうですね。CDにも収録されていますよね。私も好きです」
 短く答えて話を終えると妙な間が空いた。

「……もっと話せよなぁ。せっかくの新年会じゃねえか、って言ってるけど?」

「…………」
 黙り込むと智篤さんはため息をついた。そして「いいか?」と私に半身を寄せる。

「君は、酒飲みは面倒くさいと思ってるみたいだけど、酔いに身を任せれば普段は出来ないことが出来るメリットもある。僕はそれでレイちゃんに自分の氣持ちを伝えられた経緯がある。だから、酔っ払うことは何も悪いことばかりじゃない」

「そうなんですか……?」

 怪訝な顔をすると、拓海さんが智篤さんにキスをするジェスチャーをした。もちろん智篤さんは手で振り払ったが、「そうそう、レイちゃんにキスしたんだ、僕は」と恥ずかしげもなく言った。

「若いころに言えなかった『好き』という氣持ちを、この年になってようやく吐き出せた。たとえそれが……僕が押し殺していた『もう一人の僕』に言わされたことだったとしても、愛していたという氣持ちを本人に伝えられたのは、僕の中では大きな出来事だったんだ。それを詳細に綴ったのがこの曲の元になった手紙だ」

「…………」

「……俺は麗華のすべてを愛してる。美声で歌い上げる麗華はもちろんのこと、酔っ払って面倒くさい麗華も、弱音を吐く麗華も、こぶしを振り上げて怒る麗華も、すべて。……拓海はそう言ってるけど、僕も同感だよ」
 拓海さんの手話を通訳した智篤さんが言った。

「全部ひっくるめてその人なんだ。逆に言えば、どれか一つ欠けてもその人にはならない。……ああ、拓海の言うように、レイちゃんから酒を取ったらレイちゃんじゃないと言ってもいいくらいだ。……もし、下戸げこでないなら一度、僕らのこの雰囲氣に飲まれてみてもいいんじゃないか? 酔い潰れてしまうのも悪くはないよ」

「でも……」
 モジモジしていると、セナちゃんが私の間に入って二人を引き離してくれた。

「兄さまたち! 女の子にお酒を強要するなんてどういう神経してるわけ? 一歩間違えれば犯罪だからね?! ……さくらさん、酔っ払いの言うことは話半分に聞いとけばいいから」
 それを聞いた智篤さんが露骨に嫌そうな顔をする。

「はぁ? じゃあさっき、レイちゃんとグルになって僕らに追加の酒を買ってこさせたセナは何なんだ? 男はこき使ってもいいってルールはないはずだぜ?」

「むぅっ! ねぇ、レイさまー。この二人がアタシたち、、、、、をいじめるんだけどー」
 腕を組まれ、騒動に巻き込まれる。

(なんか、一人だけしらふでいるのが馬鹿馬鹿しくなってきた……。)
 そうでなくてもさっきから閉め切った部屋に充満するアルコール臭で酔っ払った感覚になっている。

「……ねえ、麗華ちゃん」

「んー? もしかして、飲む氣になった?」
 察しのいい彼女の言葉に頷くと、麗華ちゃんとセナちゃんは顔を見合わせてにやりと笑った。


5.<ユージン>

 女性陣がスタジオを出て行ったあと、無性にドラムを叩きたくなったオレはスティックを持つなりめちゃくちゃに音を鳴らした。

(くっそぉ……。あんなにいい声聴かされても感想一つ言えないのか、オレは……!)

 麗華さんの歌は最高だった。酔っ払っているとは思えないその美声に酔いしれたのはオレの方だってのに、スタジオを出て行く麗華さんを引き留めることすら出来なかった。

 息が切れて音を鳴らす手を止める。
「馬鹿だなぁ、兄ちゃんは。そんなに悔しいなら、今からでも部屋を出てさっさと告白して来りゃいいのに」
 部屋の隅で聴いていたリオンが言った。すぐに返事をしなかったからか、リオンはため息をつく。
「もしかして、この二人に遠慮してるの?」

 この二人、とはもちろん拓海さんと智さんのことだ。どういうわけか、二人も部屋に残ってオレのつたないドラムを聞いていたようだ。
「……るせぇ!」
 二人の前ではどう返事していいかも分からず、そんな言葉しか返せなかった。案の定、二人に絡まれる。

『ユージンは麗華のことが好きなんだろう? だったらその氣持ちを押し殺しちゃダメだぜ。たとえ俺らがライバルだろうがな』

「……さっき、オレをシバいた人のセリフとは思えませんね。そりゃあ、好きは好きですけど、オレが好きなのはなんと言ってもその声。それに、麗華さんと相思相愛の兄さんに言われてもちっともその氣にはなりませんよ」

「好きが聞いて呆れるな。そうやって付き合えない理由を口にするってことは、お前のレイちゃんへの想いはその程度ってことだよ」
 智さんの言葉がグサリと刺さった。思わず睨み返すと、智さんは小さく笑う。

「僕を見てみろよ。三十年越しに愛を告白したが、拓海が生還したことで結局想いは成就せず、だ。にもかかわらず、未だレイちゃんを口説き続けてる。別に、こいつが死んだらチャンスが巡ってくると思ってるわけじゃないぜ。僕はもう、自分の想いをうちに閉じ込めないと誓った、だから懲りずに愛をささやき続けてるのさ。……こんな僕を格好悪いと思うのはお前の自由だ。だけど、好きな女に想い人がいるからって理由で身を引き、自分をいじめるのは僕は賛成しないね。将来的に、こういう男になっちまうからな」

 酔っているとはいえ、まさか自分の失敗談を、仮にも恋敵のオレに語ってくれるとは思いもしなかった。

「……っていうか、諦めの悪い智さんのこと、拓海さんはどう思ってるんです?」
 静観していた拓海さんに問うてみる。兄さんは少し考えてから手を動かし始める。

『あー……。確かにこいつがこんなにも執念深い男だとは思ってなかったが、もとはと言えば俺がこいつに麗華のことを頼もうとしてたから、このまま好きにしてくれって感じだけど』

「えっ?」

『むしろ俺の方が未練がましかった、って言ったら驚くか? 死に瀕してから麗華とやり直そうとして近づいた。でも、死期が近い俺には麗華を幸せにすることが出来ない。ならば、未だに想っているこいつにあとを託すのが自然な流れだろう?』

「んなこと言ってて生き返ったんだから、どこまで僕に託す氣があったのか疑問は残るけどな。ま、正直な話、もし拓海が死んでいたらレイちゃんを愛するどころじゃなかっただろう。そのくらい、こいつの存在は僕にとって大きいってことだ」

 酔った勢いで飛び出した二人の本音を聞き、改めて二人が固い絆で結ばれていることを知る。

「……そんな話を聞かされたらますます想いを伝えづらいじゃないっすか」
 やっぱり、勝てない勝負はしたくなかった。ところが智さんはこう続ける。

「ミュージシャンなら……同じバンドのメンバーなら……いちミリの可能性に賭けるくらいの氣概を持ってくれよ。僕とレイちゃんが拓海の生還を諦めなかった時のように。強く信じれば願いは叶う。僕は身をもって体験しているから分かる」

 その言葉には説得力があった。事実拓海さんは、声は失ったもののすっかり元氣になったし、おまけにうんと若返ってしまっている。

「……恋敵から、自分たちの愛する人に想いを伝えろと言われるなんて。常識ではあり得ないことですが、そこがまたお二人らしいですね」

『俺たちに常識は通用しないぜ』
「ああ、その通り。常識的に生きたいなら今からでもバンドを離れてくれ。それがお互いのためだ」

 ダメ押しの言葉をもらい、とうとうオレも観念した。
「……認めりゃあいいんでしょう? オレが好きなのは声だけじゃなくて彼女のすべてだって。そこまで言うならお二人に負けないように音楽のスキルをアップさせて、最後には振り向かせて見せます……!」

「ひゅー! 兄ちゃん、ついに宣言しちゃった! この前はやめろって言ったけど、ガチで年の差を乗り越えようってことなら、おれは応援するよ」

「……じゃあ何で笑いながら言うんだよ? 本氣で応援してくれてるようには思えないんだけど!」

 突っ込みを入れるとリオンは「悪い悪い、そんじゃあ兄ちゃんが想いを伝えられるようにスキルアップに付き合うよ」と言って電子鍵盤キーボードの前に立った。

「兄さんたちも付き合ってよ。ライバルになれって言ったのは二人だろう?」

「そうだな……。弾いてりゃあそのうちに様子を見に戻ってくるかもしれない。そうしたら想いを伝えるチャンスだ」

 智さんの言葉にドキリとする。
「え、想いを伝えるって、告白するってこと……? ここで……?」

『しないのか? 黙ってるのは構わないが、それじゃあ麗華にお前の氣持ちは伝わらないぜ?』

 拓海さんまでそんなことを言うので、少しばかりカチンときた。

「……二人がオレに告白させようとするその意図は、自分らが圧倒的に上だと思ってるからなのでしょうね。お前に勝ち目はない、麗華さんは絶対にお前には振り向かないと決めつけてる……。だったら、その余裕を打ち砕いてみせますよ。お二人の鼻を明かしてみせます」

「そう来なくっちゃ、面白くない」
 智さんはにやりと笑い、マイクの前に立った。

「せっかく男ばっかり集まったんだ。いつもと違う雰囲氣で練習しよう。そうだな……。今日は氣分がいいから僕が『シェイク!』を歌おう」

「えっ、セナがボーカルの『シェイク!』を?」

「若いライバルが出来た以上、僕も新しいことに挑戦しないとね」
 そう言って一人、先んじて「シェイク!」のイントロを鼻歌で歌い始めたのだった。



6.<さくら>

「あれ? 男性陣は?」
 てっきり一緒に宴会の続きをするもんだと思っていたが、リビングに戻ってきたのは女だけ。周りをキョロキョロすると、麗華ちゃんに揶揄からかわれる。

「あー、もしかしてあの四人の中の誰かが氣になるんでしょう? 誰なの? ほら、白状しちゃいなさい」
 麗華ちゃんはにやりと笑い、缶入りカクテルを私に手渡した。

「そういうつもりで言ったんじゃなくて、ただ……一緒にいた方が盛り上がるし、楽しいのかなと」
 思っていることを素直に告げるも、麗華ちゃんとセナちゃんには言い訳に聞こえたらしい。

「それじゃあさ、さくらさんがこれを飲み終えても戻ってこなかったら様子見に行こうよ。音楽スタジオは飲食禁止だからー。……ってことで、すぐに飲んじゃってね」

「……それじゃあ、いただきます」
 ひとくち、飲み下す。
「……これがお酒? まるでジュースのよう」
 これならおいしく飲める。ちょうど喉が渇いていた私は一氣に飲み干してしまった。

「……めっちゃおいしい! 何で今まで飲まなかったのかな。人生、損してた」

「でしょう! ほら、まだまだあるから、遠慮しないでー」
 麗華ちゃんが味の違う缶入りカクテルを次々持ってくると、セナちゃんの方はおつまみをテーブルに並べ始める。

「それじゃ女子会、開始ー!」
 テンションマックスの二人に乗せられ、女だけの酒席が始まった。



 こんなにもいい氣持ちになったことは今までに一度もなかった。常に誰かの目が氣になってビクビク生きてきた私。だけど今は、そんなことはどうでもいいと感じるほど開放感に包まれている。

 痩せた身体を維持しようと制限していたお菓子にも自然と手が伸び、食べ出したら止まらない。余計なことを言って恥をかかないように我慢してきた言葉も今日は解禁。氣付けば二人の恋バナを聴いて笑い、恋愛経験が一度もないことを暴露していた。

「誰も好きになったことがないなんて! だったら尚のこと、あっちの部屋にいる男子の一人と仲良くなっちゃいなよ。……って言っても、そのうち二人はアタシの兄弟だけど、さくらさんなら全然いいと思う!」

「えーっ! でも私、そんな目で見れないよ……」

「すぐには無理だろうけど、お兄ちゃんもリオンもいい子だよ。何ならアタシが話をつけてあげる。……まだ戻ってこないのかなぁ? じゃあ、こっちから見に行っちゃお。ね、ほら行こうよ!」

「えっ、ちょ、ちょっと待って……!」
 すぐにでもスタジオに行こうとするセナちゃんを引き留め、私は持参したカバンの中からスケッチブックと筆箱をつかみ、取りだした。
「何か、描きたい氣分。一応持って行かせて」

 ひらめきは一瞬で流れ去ってしまう。だから前兆があった時は必ず手元に置いておくことにしている。それを見た麗華ちゃんは、私がなぜそれらを手に取ったのかすぐに分かったようだ。小さく頷く。

「さすがはアーティスト。アイデアはすぐに書き留めたいものね。あたしも紙とペンはいつも持ち歩いているわ。……さぁ、男子たちは何をしているのかしら? 開けるわよー」

 麗華ちゃんが重たい扉を押し開ける。すると中から大音量の音楽が漏れ聞こえた。私たちはするりと室内に身体を滑り込ませ、すぐに扉を閉めた。

 四人はそれぞれの楽器を手に共演していた。歌い手は智篤さん。四人は私たちの存在に氣付いたが、弾く手を止めることなく楽しそうに笑い合っている。

「わぁお! 智篤兄さまが『シェイク!』歌ってるなんて新鮮ー! うぅーん……! シビれるぅー……!」

 セナちゃんが両頬に手を置いて歓びを表現した。麗華ちゃんも腕を組んで満足そうにリズムを刻んでいる。

(この雰囲氣、すごくいいな……。)

 私はスケッチブックを開き、筆箱から鉛筆を取り出すとすぐにラフ画を描き始めた。描くのは四人の笑顔。似ているかどうかよりも、今日は雰囲氣重視。彼らからにじみ出る想いを描きたかった。

「……ほーら、言ったとおり。女性陣が聞きに来ただろう?」
 歌い終わった智篤さんが、私たちの顔を見ながら言った。そしてユージンさんを立たせて背中を押す。

「んー? ユージンから何か話がある感じ?」
 察した麗華ちゃんが一歩前に出ると、ユージンさんは深呼吸をして胸を張った。

「麗華さん、オレ……。もっともっとドラムが上手く叩けるように練習します。そして……麗華さんのために一曲作ってプレゼントします。もし……もしそれが氣に入ってくれたらオレのこと……好きに……好きになってくれませんか……?」

 まさか目の前で愛の告白を聞くことになるとは思わなかった。しかし、恥ずかしがる私の横で、当の麗華ちゃんは大喜びしている。

「ユージン……! とっても嬉しいわ、ありがとう! うん、曲が出来たらちゃんと聴くわ。そして真面目に返事をする。……だけど、その前に一つ、確認させて。……ねえ、いいの? 拓海、智くん。熱烈ラブソングを作ってもらっちゃったらあたし、ユージンに鞍替えしちゃうかもしれないよ?」

「もちろん、そんなことにならないように僕らもちゃんと男磨きをするよ。僕らは今日からライバル。互いに競い合って高みを目指すつもりだよ」

「なるほど、男の子たちは本氣、って訳ね。そういうことならあたしも女磨きしないといけないわね。……どうする? あたしたちも競い合っちゃう?」

「えー?!」

 思いもしない展開に大声を上げた私たちだが、セナちゃんはまんざらでもない様子で「レイさまに勝てたら智篤兄さまも振り向いてくれるかな……」などと呟いている。

「セナはやる氣満々ね。さくらちゃんは? ……ほー。氣になってるのはユージンかな? この絵の中で一人だけ、飛び抜けて描写が細かいところをみると」
 麗華ちゃんが私のスケッチをのぞき込みながら言った。慌てて隠すが手遅れだ。

「えっ、何々、今、おれたちの絵を描いてたの? ちょっと見せてよ」
 興味を持ったリオンくんも覗きに来る。観念して全員に披露すると一斉にどよめきが起こった。

「今の『おぉっ』てのは、何なんですか……?」

「たったの数分でこんな絵が描けるのか。すごい才能だな……」
「おれたちの特徴をよく捉えてるじゃん。すげえや!」
「確かに、オレの絵が一番よく描けてるかも……」

 ダメ出しされるどころか、全員が私の絵を褒めてくれた。なのに、急に自信がなくなる。今まで一度もこんなふうに褒められたことがないからだ。

「本当のことを言って下さい。私の似顔絵は細部を描きすぎて氣持ち悪いって……」

「氣持ち悪くなんかないっす」
 自虐的な私の言葉を否定してくれたのはユージンさんだった。
「っていうかむしろ……こんなに細かく描けるの、すごいっすよ。めちゃくちゃ才能あると思う。オレ、尊敬します」

「才能、ありますか……?」
 ユージンさんに再度褒められ、ちょっぴり、こそばゆい。

 幼少期に母親の似顔絵を描いたら、シミやシワは描かないでよ! と本氣で怒られ、それ以来ずっとこういう絵は描いていなかった。しかし今日はお酒を飲んだせいか、そんなことはすっかり忘れて手の動くままに描いていた。

 私の絵をじっと見たあとでユージンさんが言う。
「……麗華さん、一つ提案があるんっすけど。さくらさんの絵、六人で出す最初のCDアルバムのジャケットに使えないっすかね? 多分ですけど、オレらに合った絵を描いてくれる氣がします」

「えっ?!」
 思いがけない発言を聞いて顔がかあっと熱くなる。スケッチブックで顔を隠すが、セナちゃんに「さくらさん、顔が真っ赤ー」と揶揄からかわれた。

「ユージン、ナイス提案!」
 麗華ちゃんは指を鳴らした。

「ちょっと、麗華ちゃんまで……!」

「ちょうどね、新しいことを始めようとしていたところなのよ。六人の写真をジャケットにするのもいいんだけど、それじゃ面白くないよねって。さくらちゃんの才能も活かせるし、一石二鳥だわ。どう? さくらちゃんさえ良ければぜひ。社長に話してあげるわ」

「急にそんなことを言われても……」
 スケッチブックを抱え、うつむく。

 ものすごいチャンスだと言うことは鈍感な私でも分かる。だけど、怖い。前に進むのが。身体を震わせていると、麗華ちゃんに両肩を掴まれる。

「逃げちゃダメ。画家として成功したいなら話を受けなさい」
 顔を上げたら目が合った。彼女の目は真剣だった。

「あたしもユージンも、あなたを助けたいのよ。放っておけないのよ。今日ここへ招いたのもそういう理由」

「…………」

「……即答できないなら言い方を変えるわ。あたしを助けてちょうだい。新しいバンドを組んだばかりのあたしたちには協力者が必要なの。……あたしたちだって、六人きりだったら全国に音楽を届けるなんて絶対に無理。会社に属して、格好いいデザインのCDを作って、宣伝しなければ、ファンの手には渡らない。特に、CDのジャケットはファンが購入を決める大きな要素になり得るもの。故に毎回揉めるところでもあるんだけど、それを今回はさくらちゃんに依頼したいの」

「そんな重要な役、私に出来るわけが……」

「ないとは言わせない。あなたには才能がある。あなたを子供の頃から見てきたあたしが断言するわ」

「…………」

「もし絵を描いてくれるのなら、あたしのグッズでもサインでも何でもあげるからさ。ね、おねがーい!」
 
 麗華ちゃんがおねだりポーズで迫ってきた。そんな顔で迫られては断れるものも断れない……。

「麗華ちゃんの役に立てるなら……描いてみる。うまく出来るか分かんないけど……」

「ほんと?! ありがとう! さっすが、あたしの姪っ子! ん、もう、大好きよー!」
 酔っ払っているからか、麗華ちゃんが私に抱きついた。
 


「ありがとうございます、ユージンさん。素敵な提案をしてくださって」

 スタジオを出て仕切り直した私たち。それぞれがくつろいだりおしゃべりしたりしている中、私は先の話のお礼を言った。彼は肩をすくめて小さく笑った。

「まぁ、オレたち、麗華さんのことが好きって共通点がありますからね。姉さんが喜ぶことは何でもしたいじゃないですか。それに……」

「それに?」

「……オレのこと、ちゃんと見てくれて嬉しかったから」

 数日前に会った時、ブラックボックスのユージンだと氣付いてあげられず、がっかりさせてしまった。それもあって今日は特に注目して見ていたのは確かだ。

「先日は失礼なことをしちゃったから、今日はその顔をしっかり目に焼き付けようと思っていたんです。……それでかな。ユージンさんのスケッチだけ力が入っちゃったのは。エレキを弾く姿も、ドラムを叩いてる姿も格好良かったですよ」

「あはは……。余計な氣を遣わせちゃいましたかね? エレキ歴は長いけど、ドラムはブランクがあってまだまだ修行が必要で……。格好いいって言ってもらえて光栄ではあるんですが……」

「そんなこと言ったら、展覧会で一度も入賞できない私の絵なんて褒められたものじゃないですよ……」

「……って言うかオレら、互いに謙遜し合ってる。こんなんじゃきっと、麗華さんに怒られちゃうだろうな」
 ユージンさんはふっと笑い、それから近くで談笑している麗華ちゃんをちらりと見遣った。
「さくらさん。麗華さんが好きな者同士、力を出し合いましょう。そして、お互いに精進しましょう。姉さんのハートを掴むために」

「精進……。私、頑張れるかな……」
 弱音を吐いた私に対し、ユージンさんはきっぱりという。

「好きな人のためなら頑張れる。でしょう?」

 そうか、ここにいる全員が輝いて見えるのは、愛する人に振り向いてもらうための努力をしているから。そこに邪念は一切いっさい、感じられない。

 私ははなから諦めていた。氣付いてもらえなくてもいい、こっそりファンで居続ければそれで充分じゃないか、と。だけどそれでは何も変わらない。成長もない。だって頑張る動機がないんだもの。

 ちょっぴり、心が揺れた。ユージンさんの言葉に。

「そうですね。好きな人のために……。私、頑張ってみます。麗華ちゃんが私を信じてくれるというなら、サザン×BBのイメージにぴったりの絵を……」

 その時、急にイメージが降りてきた。慌ててスケッチブックを開く。色鉛筆も駆使しながら描いていく。それを、ユージンさんがのぞき込む。

「……やっぱりすごいっすよ。何だかオレもインスピレーション湧いてきちゃったなぁ。あのー、一枚いちまいもらえますか? 歌詞を書き留めたいんです」

 集中力を切らさないよう、無言でちぎって差し出す。ユージンさんは「どうも」と言って頭を下げると、私の筆箱からそっと鉛筆を取り、自らも創作活動を始めた。

「……ふふ。あんたたちってやっぱり氣が合うのね」
 横で麗華ちゃんが呟いた。



7.<ユージン>

 年始の音楽イベントにいくつか出演し、久しぶりにゆうび奏社を訪れたオレたちは、早速社長に、新年会で話題になった「さくらさんの絵を次のアルバムのジャケットに」という提案をすることにした。社長を説得するためさくらさんにも同席を依頼し、自信作の絵をいくつか持参してもらっている。

「新曲も発表していないのに、もうアルバムの話? 随分と氣が早いのねぇ。まぁ、話を進めておくのは構わないけれど、そんな暇があるなら曲作りをしなさいと言いたいわね」

 応接室のソファに腰掛けた社長は、煙草を吹かしながら言った。もっともな指摘に誰もが言葉を失う。なぜなら、社長自らが既にピアニストとして自社からアルバムを出しているからだ。

「……もちろん、曲作りはします。ですが……。あたしのこだわりが強いというのもあるでしょうが、これまでの経験からアルバムのジャケット決めが最も時間を要します。曲のイメージに応えてくれるデザイナーやイラストレーターを探すのが大変だと言うことは社長もご存じでしょう? 今回はそれを見越して先に絵を決めたい、という話です」

 一番付き合いの長い麗華さんが説得を始める。そしてさくらさんに持参した絵を見せるよう指示する。さくらさんはオドオドしながら、二十センチ四方の額に収められた絵を三枚、テーブル上に並べた。

 いずれもどこかの風景を描いたもののようだ。それはまるで写真のように精密で、非の打ち所のない美しさだった。しかし社長の反応はイマイチだ。

「……こういう絵をジャケットにしたいと望んでいるの? だったら写真でいいと思うけど。それに、あなたたちのイメージとも違うわね」

「…………」
 バッサリと切り捨てられ、さくらさんは完全に頭を垂れた。すかさず麗華さんがフォローする。

「彼女は……子供の頃から絵ばっかり描いてきたような子です。頼めばきっと、どんな絵でも描いてくれるはず。あたしは伯母として彼女を応援したいんです」

「麗華。姪っ子に肩入れする氣持ちは分かるわ。でもね、それだけじゃうまくいかないのがこの世の中よ。……その子のことは一切知らないけれど、長年いろいろな子を採用してきた私に言わせれば、姪っ子ちゃんは絵で成功していないわね? 私の前で自信なさげに座っている子が、麗華の助力で今回絵を表に出したところで後が続くとは思えない。他を当たった方が賢明よ」

「……社長の言ってることは正しいとおれも思う」
 リオンが擁護するように言った。

「おい。お前はどっちの味方なんだよ!」

「そうは言うけどさ、兄ちゃん。おれ、ちょっとだけメジャーの世界を覗いてきて分かったことがあるんだよ。それは、プロの世界ってのは、なんだかんだ言って根性がないと生き残れない場所だってこと。少なくとも、おれ含む社長のお眼鏡に適った新人アーティストの中にさくらさんのような人は一人もいなかった。みんな、自分の歌や楽器、ダンスの技術に自信があったし、ライバルを蹴落としてでも生き残ってやるって奴ばっかりだった。そのレースから降りちゃったおれがとやかく言う資格はないのかもしれないけど、こういう場で堂々としていられない人に、自社のアーティストが出すアルバムの顔を任せるのはどうかな、っておれが社長の立場だったら思うね」

 現在、ゆうび奏社の社長である西森有理沙にしもりありさ氏は当時、メジャー界でも上位に位置する音楽事務所、ハイスカイ・ミュージックのトップだった。彼女が自分たちの言いなりにならないサザンクロスを潰すため、彼らと親しくしていたブラックボックスからリオンだけを引き抜いて仲違いさせようとしたのは今から半年ほど前のことだ。あとから聞いた話では、社長自身も上からの指示で仕方なくそのような行動に出たとのことだが、そんなことは知るよしもないオレたちは一時、本当にリオンを恨んだし、下手をすれば解散していた可能性すらあったのだった。

 そんなリオンが、メジャー界のことを知っているかのような口ぶりで話したので腹が立った。

「自分だって利用されてたってのに、よくもそんなことが言えるな。麗華さんのように、さくらさんの実力を信じてあげられないのか、お前は」

「いや……。信じるも何も、さくらさんの絵をそもそもそんなに知らないし……」

「だったら……。だったら今ここで……オレらの音楽を聴いて湧いてきたイメージを絵にしてもらえばいい。そうしたらお前だって納得するだろう?」

「ちょっと、ユージンさん……!! それって、ライブペイントってことですよね? だめですよ、そんなの。だって、一度もしたことないんですよ?」

 さくらさんが動揺した。しかしオレは引かない。

「そうは言うけど、この前オレらの似顔絵を描いてくれた時がまさに『ライブペイント』って奴じゃないんですか? あれを見て全員がさくらさんの絵を評価した。だったら同じ状況下で一枚描いてもらうのが一番ですよ」

「…………」

「名案だわ、ユージン。さくらちゃん、それ、やってみなさいよ。社長を説得するにはそれしかないわ」

「……でも、ここには紙も絵の具もないですよ」

「今からでも用意したらいいじゃないか。確か近くに画材店があったはず」
 智さんも話に乗ってきた。
「……そうやって言い訳するな。何のためにここまで来たんだ? 自分を売り込むためだろう? 一度断られたくらいで怖じ氣づくな」
 小声で言ったのは、先日、智さんがオレに対して言ったのと同じものだった。

「そうだよ、さくらさん。もしやる氣が湧いてこないのなら、一杯引っかけてから描いたっていいじゃん? 何なら、アタシも付き合うよ?」

 セナの提案はあまりにもぶっ飛んでいたが、さくらさんのような人が人前で自己表現するならそのくらいのカンフル剤が必要かもしれない。

「まさか、酔っ払った状態で絵を披露しようというの……?」
 社長は手のひらを天に向けたが、少しして考えが変わったのか、呆れたように笑った。

「……つかみ所がないところがあなたたちらしいわね。ほんっと、やりづらいったらありゃしない。だけど、ゆうび奏社はそんなあなたたちのための会社。私も、これまでの常識を捨てなければいけないと言うことなのかもしれないわね」

 分かったわ、と言って社長は煙草を灰皿に押し当ててもみ消し、立ち上がった。

「事務の子と一緒に画材屋に行って、必要な材料を買ってきなさい。お金は我が社が負担するわ。その代わり、私を満足させてちょうだい。いいわね?」


8.<さくら>

 さて、困ったことになった。話をもらってから二週間あまり。その間はやってやるぞ、という氣持ちで一杯だったのだが、ゆうび奏社の社長に面と向かってあんなことを言われては、そのやる氣も萎むというものだ。

 なのに、私を推してくれた彼らは落ち込む時間を与えてはくれなかった。逃げ道すら塞いできた。

(社長の台詞じゃないけど、お酒を飲んでパフォーマンスをするなんて正氣じゃないでしょ、どう考えても……。)

 しかし、しらふの私が社長の注目を浴びながら下書き無しで描けるとは思えなかった。絶対に緊張で手が震えるし、胃も痛くなってまともに立つことすら難しいだろう。このチャンスを活かすには、私の内側のストッパーを外す――つまり、理性を麻痺させる――しかない。三十二歳にもなれば、嫌でも分かる。

 そうこうしている間に画材店に到着し、必要なものを買い物カゴに入れるよう指示される。もはや、買わないという選択肢はない。

 絵を描く時に必要な最低限のアイテムをピックアップしていく。それをみんなで手分けして持ち帰る。

「事務所の一つ上、最上階が音楽スタジオになってるの。社長が、ピアノを弾く時は美しい夜景を見ながらがいい、って特別に作ったスタジオでね……。音響も素晴らしくてあたしも氣に入ってるの。ここでだったら、さくらちゃんもいい絵が描けるんじゃないかな」

 そのスタジオに向かうエレベーターの中で麗華ちゃんが言った。最上階に着き、エレベーターのドアが開く。

「わぁ……!」
 そこは、何かのドラマで見たような全面ガラス張りのフロアだった。そこに、ピアノやギター、ドラム、電子鍵盤キーボードが置かれている。今は昼だから眼前に見えるのは夜景ではないが、いい眺めであることに変わりはない。

「ね? すごくいいでしょう?」
 麗華ちゃんは自慢げに言った直後になぜか、持っていた缶チューハイを渡してきた。

「あたしたちは演奏の準備をするから、さくらちゃんはその間に、これでも飲みながら絵を描く準備を進めておいて」

「飲みながらって……」

 緊張を取るためには飲んだ方がいいのは分かってる。しかし、実際にこうしてお酒を手渡されると常識的な頭が働いてしまい、プルタブを開ける氣になれなかった。

 とりあえず、描く準備を始める。私が普段使うのは水彩絵の具。水彩紙を水張りし、乾いてから作業に入るため少し時間がかかる。乾き待ちの間、どんなふうに描こうかと思考を巡らす。先日の飲み会で感じたサザンクロスとブラックボックスのカラーはまったく相容れない。聴かせてもらう曲にもよるだろうが、真反対とも言えるイメージカラーをどのように組み合わせるべきか……。

「ねぇ、ねぇ、さくらさん。どの曲がいい? 好きなのをいくつかチョイスして欲しいんだけどさ」
 腕を組んで悩んでいるところへセナちゃんがやってきた。その手には既に蓋の開いた缶チューハイが握られている。
「あれ? まだ飲んでないの? ほら、開けちゃいなよー。アタシと一緒に飲もうよー」

 セナちゃんは私が飲まずに置いておいた缶チューハイのプルタブを勝手に開け、渡してきた。
「それじゃ、カンパーイ!」

「…………」
 乾杯までさせられてはもう飲まないわけにはいかなかった。

(……えいっ、もうどうにでもなれっ!)
 私は半分ほどを一氣に飲み下した。十秒も経たないうちに頭がクラクラし始める。

「……あれっ、この前のと感じが違う……?」

「あー、だってこれ、アルコール度数が八パーセントだもの。この間飲んだやつの倍、入ってるから酔うんだよねー」

「えっ、そうなの……??」
 そうとも知らず、呷るように飲んでしまった私の頭はもう使い物にならなくなっている。

「麗華ちゃんにやられた……!」
 少し離れたところで既に準備を終えている彼女が吹き出したのがわかった。しかし、アルコールを摂取したあとでは何を言っても手遅れ。そして三十を過ぎてもお酒の飲み方すら知らない自分を恥じた。

「で、改めて聞くけど、どの曲にする?」
 セナちゃんに再度問われ、やけっぱちの私は「この間の球場ライブで歌った曲全部!」と答えた。

「だってさ、レイさまー。いける?」

「もちろんよ。休みなく歌って一時間くらいかな? 全曲歌い終わる頃にはきっと立派な絵が描き上がっているでしょう。そうよね、さくらちゃん?」

 早速筆を持った私はうんうん、と頷いた。

「じゃあ、氣合い入れていくわよー。まずはこの曲から。マイライフ!」
 かけ声と同時に、サザン×BBビービーバージョンにアレンジされたピアノの前奏が始まった。



 特別に作られたと言うだけのことはある。ひとたび演奏が始まると、そこはまるでコンサートホールのように音が響き渡った。

(今、ここにいる観客は私だけ……。なんて贅沢なんだろう……。)
 思わずうっとりしてしまうが、今は目の前の真っ白な紙を彩ることを考えなければ。
(ううん、考えるんじゃない。感じるのよ……。)

 そもそも、アルコールのせいで思考能力は低下しているし、こういうのは考えて出てくるものでもない。

 目を閉じ、彼らの音楽に集中する。「マイライフ」を歌う麗華ちゃんの声は実にはつらつとしていて楽しそうだ。バックで流れるギターや電子鍵盤キーボードの音も弾んで聞こえる。

 全員が楽しんでいる、そのエネルギーを感じた時、パッと明るいピンク色が目に浮かんだ。彼らは風にそよぐ花。その上には澄みきったブルーの空と温かいオレンジ色の太陽。

(優しい色合いはサザンクロスのイメージ……。)

 すぐに筆を濡らし、絵の具を取る。いつもなら丁寧に筆を動かすが今日は大胆に、画面一杯に色を広げる。

 一曲終わるたび、間髪を入れずに始まる曲のおかげでイメージが次々湧いてくる。ブラックボックスの演奏から感じるのは力強さ。それを表現するためスパッタリングで絵の具を散らしたり、ドライブラシで荒々しい線を描いたりしてみる。

 そうやって無我夢中で描いているうち、彼らがライブで披露した曲も残りわずかとなっていた。全体を見渡し、あと少しだけ色を足そうかと思っていた時、優しいピアノ曲が耳に届く。

(これは、「グレートワールド」……。)

 双子のセナちゃんとリオンくんが織りなすピアノの音。ライブで初めて聴いた時よりもこうして間近で聴いている今の方が断然心に響く。

 頭の中がすっきりとし始めた時、絵のタイトルが降りてくる。そう、彼らの音楽から感じるのはまさに「グレートワールド」。混沌とした社会の中にあっても自分たちの色を失わない。むしろ、自分たちのカラーで染めていこうとさえする。サザン×BBの音楽に感化された人たちで作る世界はきっと素晴らしいものになるだろう。

 ピアノ曲が終わり、最後の「サンライズ」を聴きながら絵の隅にサインを入れた。そして演奏終了と同時に拍手を送る。

「最高! 本当に素晴らしかったです!」

「それはよかった。で、そっちの絵はどう?」
 麗華ちゃんはギターを下ろし、すぐにこちらへやってきた。他のみんなも絵の周りに集まって来る。私は恥ずかしさを感じながら絵の前に立った。

「ど、どうでしょうか……? 皆さんの歌や演奏からこんなふうにイメージしたのですが……」

 どんな感想が飛んでくるか……。ドキドキしながら待っていると、部屋の隅から拍手と共に誰かが近づいてきた。

『ショータさん!!』
 麗華ちゃんたちが一斉に男性の名を呼んだ。どうやら知り合いらしい。室内にもかかわらずサングラスをかけたままのショータさんは、サングラスをずらしたかと思うと私の絵にぐっと顔を寄せ、にやりと笑った。

「一部始終を拝見していました。西森社長から聞きましたよ、ユージンの発案だと。若いブラックボックスとバンドを組んだのはやはり正解でしたね。とても面白い実験でした」

 直後、ショータさんの背後から、今話題にのぼった社長がすっと現れた。
「しゃ、社長……。もしかしてずっとこちらの様子を……?」

 私の問いに社長は頷く。
「ライブペイントでしょう? 当然、最初から最後まで見るわよ。……確かに、さっき見せてもらった絵よりもずっとこっちの方が活き活きしているわね。遠慮がなくていいわ。ショータはどう思う?」

「面白いと思います。採用でいいでしょう」

「名プロデューサーがそう言っているわ。さくらさん、だったかしら? 画家としてのあなたの才能を認めるわ。麗華たちの頼み通り、次のアルバムのジャケットはあなたが描きなさい。……そうねぇ、この絵もどこかで使えるかもしれないから取っておくといいわ」

「…………! あ、ありがとうございます!!」
 私は何度も何度も頭を下げた。



 階下に降りるエレベーターに画材を乗せる手伝いをしてくれたのはサザンクロスの男性陣。絵を評価してもらった私がホッとするのは当然だが、演奏を終えた彼らの表情も穏やかだ。

「あのショータに認めさせるなんて、やるじゃん。って拓海が言ってるよ」
 通訳の智篤さんが声を発した。
「僕らでも、あいつを一発で説き伏せるのはなかなか難しいぜ?」

「あのー……。ショータさんとはどのような繋がりがあるんですか?」

「あいつには、ライブたびにプロデュースを依頼してきた。この前の球場ライブが大成功に終わったのもあいつのおかげなんだ。まさか、フリーのプロデューサーだったあいつが、敵対したハイスカイ・ミュージックの元社長の下で働く日が来るとは思いもしなかったがな」

「自分はただ、今後も兄さんたちの手伝いがしたいだけですよ」
 いつの間にきたのか、ショータさんが「開」ボタンの押されたエレベーターのドアの脇に立っていた。

「それに、ゆうび奏社ここに属しているのは兄さんたちも一緒でしょう? メジャーなんかクソくらえだ、って言ってたはずなのに」

「……まぁ、長く生きてりゃ考え方が変わることもあるさ」
 智篤さんの言葉を聞いた拓海さんとショータさんはクスクスと笑った。

「……とはいえ、成功しないと判断した場合は容赦なく切り捨てるのが自分のやり方です。今日のようなクオリティー、もしくはそれ以上のレベルで描けなくなったらすぐに去ってもらいます。それだけはご承知置きを」
 笑顔が一点、真顔でそんなことを言われたのでこちらも表情を失う。

「……氣負う必要はないさ。次に描く時も一杯引っかけときゃなんとかなるだろ、だそうだ。拓海が、うちのリーダーがそう言ってんだから大丈夫さ」

 智篤さんの通訳の後で拓海さんは大きく頷き、右手を差し出した。顔を見ながらその手を取ると、『一緒に頑張ろうぜ』と口が動いた氣がした。

「は、はい……。頑張ります……!」
 返事をすると、拓海さんは嬉しそうに微笑んだ。

 


第二章(約30,000字)

9.<悠斗>

 今日も氣持ちのいい汗をかいた。今のおれの仕事は、未就学児とその親向けに身体を動かす楽しさを知ってもらうための指導をすること。体操はおれの専門ではないが、長年水泳のコーチをしてきた経験を活かしながら楽しくやっている。

 体操クラブから自宅までは早足で歩いて二十分ほど。今日みたいな冬晴れの日は氣分転換にもなるので徒歩での通勤を続けている。

 五十代も半ばに入った。現在は未婚で実子もいないが、おれには帰りを待つ家族が、娘がいる。詳しく話せば本一冊分くらいの長さになるので簡潔に説明すると、おれは両親が残した家で、友人の娘夫婦とその子供の計四人で「血の繋がらない家族」をやっている、ということだ。実は体操クラブで働く決心をしたのは同居している幼子おさなご、まなのためである。まなとの関係、そしてなぜ彼らと同居しているのかについてを語り出すとまた長くなるので、この話はいずれするとしよう。

 まなと母親のめぐも体操クラブに入会していて今日も一緒に身体を動かした。時刻は午後四時を回っている。主催者側のおれより一足先に帰っためぐは、そろそろ炊飯を始める頃だろうか。

 料理を提供する喫茶店で働いていることもあり、めぐの料理は絶品だ。確か今日のメニューは和風ハンバーグだったはず。特製のソースがめちゃくちゃうまいんだ。

 夕食にはまだ早いが、そんなことを考えていたら急に腹が減ってきた。家までもう少し、というところで信号に引っかかる。びゅうっと冷たい風が吹き、暖かい家が恋しいと感じた時、背後から突然「悠斗クン」と呼ぶ声が聞こえた。

 振り返るとそこにいたのは体操クラブの主宰、永江孝太郎氏だった。彼は元プロ野球選手だが、引退後の生きがいとして自らの発案でクラブを立ち上げている。

「良かった、追いついて」
 随分走ってきただろうに、孝太郎さんは息一つ切らしていない様子だった。

「どうしたんですか、走ってきたりして。おれ、何か忘れ物しましたかね?」
 一応、持ち物のチェックをするが、孝太郎さんは首を横に振る。

「そうじゃない。さっき君と別れてからある人物に遭遇してね。話の流れから、これは君たちに直接会って体感してもらうのが手っ取り早いと思ってね」

「ある人物……?」

「ああ……」
 彼の目線を追っていくと、あとからもう一人、誰かが走ってくるのが見えた。じっと目を凝らす。その人に心当たりがあったおれはぎょっとする。

「えっ……。まい……?」

 目をこすってもう一度見るが、見間違いではなかった。目の前にやってきたのは野上舞のがみまい。おれと同居しているめぐの夫、野上翼のがみつばさの妹だった。高校球児だった父親の影響をもろに受けた舞は現在、女子社会人野球チームに属していると聞いていたが、平日のこんな時間になぜ……?

「はぁ、はぁ……。やっと追いついたー……!」
 孝太郎さんより圧倒的に若いはずの舞は、立ち止まるなり肩で息をした。落ち着いたところでようやくおれに向き直り、頭を下げる。

「……悠斗さん、ご無沙汰してます。祖母の葬儀以来ですから、約二年ぶりですか。その顔は……驚いてますね? ですが、わたしだって驚いてるんですよ。二人の関係に。どうして元プロ野球選手の永江さんと水泳コーチの悠斗さんが知り合いなんです?」

 舞とは野上家との交流をする中で何度か顔を合わせている。今話題に出たように最後に会ったのは葬儀の席。孝太郎さんとクラブを運営し始めたのはそのあとだし、舞はここ数年帰省していないからおれたちの関係を知らないのは当然のことだった。

 舞は更に疑問を口にする。
「永江選手と言えば『鬼の永江』で有名じゃないですか。引退して久しいとは言え、冷徹非情とも言われた人物がこんなに穏やかな表情をしているなんて信じられません……。その理由が知りたいと言ったらついてくるように言われて……。教えてください。ここ数年の間にいったい何があったんですか?」

「何って……。初めて会った日に一緒に風呂に行っただけだけど?」

「……風呂って、公衆浴場?」

「ああ。あとは、うちで飯食ったりとか。特別なことはなーんもしてない。孝太郎さんが勝手に変わってったってだけ」

 さっぱり理解できない、といった表情の舞を尻目に孝太郎さんはニコニコ顔で言う。

「勝手なことがあるか。僕は君たちに大いに感化されて生まれ変わったんだよ。そう、君たちのおかげでね。……ところで、このあとお邪魔しても構わないかな? 彼女に鈴宮家の暮らしぶりを見せたいし、僕もめぐさんとまなちゃんの顔が見たいんだ」

「さっきクラブで会ったばかりなのに? 本当に好きですね、めぐたちのことが。どうぞ、ご自由に」
 拒む理由もないのでいつも通り了承する。一つ心配なことがあるとすれば、晩の食材が足りるかどうかだけ。

「……晩飯、食っていくんでしょう? 二人分追加で買いたいんで、すぐそこのスーパーに寄ってもらっていいですか? 買うものは決まってるんで」

「もちろん、構わない。君も時間はあるね?」

「あ、はい……」
 舞は返事をしたが、モジモジしている。
「だけど、いいですか? 悠斗さん。いきなりお邪魔しても」

「おれとめぐは大丈夫。あとで帰ってくる翼がなんて言うかは知らないけど」

「ですよねぇ。会いたくないなぁ……」

 同居している翼から舞の話はほとんど聞かないので、兄妹仲がいいのか悪いのかは知るよしもない。しかしこれはおれの勘だが、嫌いだからとか面倒くさいからとか、そういう理由で拒んでいるわけではない氣がした。つまり、何か悩みを、問題を抱えていて、それを知られたくないから渋っているように思えるのだ。

「……ま、とりあえず来いよ。めぐとなら話せるだろ? 従姉妹いとこなんだし。どうしても翼がうるさく言ってきたらおれからひと言、言ってやるからさ」

「……それじゃあ、ちょっとだけお邪魔させてください」
 おれの言葉を聞いて安心したのか、舞はぺこりと頭を下げた。



10.<舞>

 面と向かって話してみて、そのまっすぐな目を見てようやく、従姉妹のめぐちゃんと兄が悠斗さんと暮らすことを選んだ理由が分かった氣がした。突然押しかけてきたわたしの内情を一つも聞かず、ただ「来いよ」と受け容れてくれるなんて、とんでもない器の持ち主だ。

(ひょっとして、永江選手も悠斗さんのこういうところに感化されて……?)

 きっとそうだ。何しろ、会って間もないわたしを真っ先に悠斗さんの元に導くくらいだもの。余程信頼しているに違いない。



 鈴宮家にお邪魔するのは今回が二度目。一回目の時は兄とめぐちゃんの結婚式の時だった。自宅で挙式するというのは今どき珍しいかもしれないが、当時こちらで世話になっていた足腰の弱い祖父母にも晴れ姿を見せたくてそのような選択をしたと聞いている。

「ただいまー。めぐ、人数が増えた。今夜は六人だ」
 悠斗さんは靴を脱ぎながら室内のどこかにいるであろうめぐちゃんに声をかけた。すると奥の方からパタパタと足音が聞こえてきた。

「おかえりー。……ええっ!! 珍しい組み合わせ! なんで舞ちゃんと一緒に?」

「おれもよく分かんないんだけど、成り行きでこうなった。ま、とにかく諸々のことは飯食いながら聞こうと思って。……今日はハンバーグだろう? 二人分の材料を追加で買ってきたから一緒に作ってもらえるか?」

「オッケー。人数が増えたなら早速メインディッシュの支度を始めなきゃ。悠くんたちはまなと遊んでやってくれる?」

「了解」
 めぐちゃんは悠斗さんから食材を受け取ると、すぐに台所に立った。

「あ、わたしも手伝うよ。自分の食べる分くらいは作らないと申し訳ないから……」

 実を言うと子供の相手は苦手。たとえそれが姪っ子であっても、だ。神様は絶対にわたしと兄の性別を取り違えたと思う。なぜなら、野球が得意なのは兄じゃなくてわたしだし、幼稚園の先生になるほど子供が大好きなのはわたしではなく兄なのだから。

 そんなことを考えているとは思ってもいないであろうめぐちゃんは、「助かるー。それならこのエプロンを着けて。まずは玉ねぎをみじん切りにしてもらっていいかな?」といつもの明るい調子で言った。

 手渡されたエプロンは、おそらく普段は兄が使っているものだろう。幼稚園の先生をしている兄らしく、パステルカラーの生地にかわいい猫の柄が入っている。それを身につけてみて思う。わたしはこんな色や柄が似合う女じゃないと……。



 不器用ながらなんとか玉ねぎを細かく刻み、挽肉と一緒にボウルに入れる。その他の材料と混ぜ合わせ、手分けして丸く成形する。必死なわたしとは対照的に、隣のめぐちゃんは鼻歌を歌い、居間では男性陣が姪っ子と戯れている。

 一瞬、世界が止まって見える。

 そんなものはどこにも存在しないと思っていた。だが、絵に描いたような家庭がここに、目の前にある……。

 従姉妹と結婚した兄、その従姉妹のめぐちゃんを好いている悠斗さん、そんな恋敵である悠斗さんと同居している兄が暮らすこの家はあまりにも非常識で、ずっと理解することができなかった。今の今までそうだった。だけど、非常識な彼らの幸せそうな姿を見てしまったわたしは急に、自分の方が間違っていたのではないかと言う氣になってきた。

(幸せって、なんなんだろう……?)

 そこへ兄が帰宅する。

「うわっ、どうしよ……」
 反射的に、兄のエプロンを着けてハンバーグをこねている姿を見られたくないと思ったが、料理中の汚れた手のままでは隠れることも出来ない。

「大丈夫だよ、舞ちゃん。このまま料理を続けよ?」
 右往左往するわたしを落ち着かせようとめぐちゃんが微笑む。しかし、部屋に入ってきた兄と目が合った瞬間、わたしの顔は引きつった。

「お、お邪魔してます……」

「なっ……! なんで舞がうちにいるんだよっ?! しかも飯まで作って……!」

「まぁまぁ、落ち着いてよ翼くん。きょうだいなんだからいつ遊びに来たっていいじゃん? 孝太郎さんだって突然訪ねてくるじゃない。それとおんなじだよー」

「いや、まぁ、そりゃあそうだけどさ……。あんまりにも珍しい来客にびっくりしてんだよ。だって実家ならともかく、所帯持ちの兄の家って……」

「わたしだって、来たくて来たんじゃない……。永江さんが『来たまえ』って言うから仕方なく……」

 兄とわたしとは幼少の頃から性格が合わない。会えばこういう反応をされることは分かっていた。

(やっぱり、来るんじゃなかった……。)

 晩ご飯に誘ってはもらったが、手伝いを終えたらすっと消えた方がお互いのためだろう。

「めぐちゃん、わたし……」
 晩ご飯のキャンセルを申し出ようとした時、居間にいたはずの悠斗さんが兄に飛びかかった。

「さてはお前、舞がめぐと料理してるのを見て嫉妬してるな? 俺の奥さんと並んで料理するとは何様だ、って顔してるぜ?」

「いや、そういうわけじゃ……」

「だったら文句はなし。飯がまずくなる。どうしても一緒が嫌ならお前は一人で食ってくれ」

「えー? 今日の悠斗くんは冷たいなぁ……。いつもみたいにもっと優しく接してくれよぉ……」
 さっきまでトゲトゲしていた兄が急に猫なで声になった。その変貌ぶりに驚きを隠せない。しかし悠斗さんはわたしに向かって「言っただろ。おれが一言、いってやるって」と笑うだけだった。



 ハンバーグが焼き上がり、六人で食卓を囲む。見慣れた親族の中に一人、有名人がいる違和感。そしてその一人がいるために緊張しているわたしは全く食事が喉を通らなかった。

 そんな中で永江氏が嬉しそうに話し始める。

「そう言えば、本郷クンから聞いたんだが、息子の圭二郎が婚約したそうだよ。球団から正式に発表もされたらしい。今度お祝い会でも開こうかと思うんだが、君たちもどうかな?」

(圭二郎……!!)

 今一番聞きたくない名前を聞いたわたしは怒りのあまり、今日会ったばかりの永江氏を睨み付けていた。わなわなと震えるわたしを見て察しのいい兄がその理由に氣付いたようだ。

「マジかよ、コータローさん……。よりによって今、この席でその話題を振るって……。いくら空氣読めないからってタイミング悪すぎ……」

「……僕はただ、最新のニュースを披露しただけなんだが?」

「……もしかして舞ちゃん。その圭二郎さんのこと……?」

「それ以上言わないでっ……!」
 わたしは勢いよく席を立ち、食卓を離れた。怒りを通り越して涙がこぼれそうだったからだ。玄関から外に出ようと試みたが、古い住宅の引き戸の解錠方法が分からず、足止めを食らってしまった。

 込み上げる怒りを吐き出す場所を失ったわたしは堪えることしか出来なかった。

 ……そう。わたしは圭二郎が好きだった。父の友人で元プロ野球選手・本郷祐輔さんの三きょうだいとは、子供の頃から野球を通じて交流してきた。職人気質の長男、創太とは違い、圭二郎は何でも出来るマルチプレイヤー。そんな彼に惹かれるのは必然だった。もちろん女の子のファンは多かったが、連絡すれば必ず返事をくれるマメな性格だから、わたしはすっかり安心しきっていたのだ。

(恋人がいたなら、そう言ってくれれば良かったのに……。わたしのどうでもいいメールにも返信しなくて良かったのに……。)

 悔しかった。悲しかった。どうしていいか分からなかった。それで今日は仕事を休み、部屋を飛び出してきたのだ……。

「舞……」
 玄関先まで見に来てくれたのは悠斗さんだった。
「ちょっと、出ようか」
 悠斗さんはわたしの返事を待たずして靴を履き、玄関扉を解錠した。わたしは無言で後に続いた。



 冷たい風が吹いていた。澄んだ夜空には細かい星々が輝いて見えたが、わたしの心はよどみきっていて真っ暗だ。

 ついていった先は近所の公園だった。寒風吹きすさぶ夜の公園には誰もいない。外灯の下のベンチに悠斗さんが腰掛け、一人分を開けてわたしも座る。

 長い間、沈黙の時が流れた。
「……何も聞かないんですね」

 たまりかねて呟くと「聞いてほしいならそうするけど、そうじゃないだろう?」と返ってきた。再び口を閉ざす。黙っていると悠斗さんの方から話し始める。

「……これだけは言っておくけど、孝太郎さんに悪氣はない。ああいう人なんだ、どうか許してやって欲しい」

「許すも何も……。わたしこそ大人げない態度を取ってしまい、申し訳なかったです」

「……お前の態度から勝手に想像して話すけど、失恋は辛いよな。おれも散々してきたから分かるよ。未だに引きずってるし」

「え、そうなんですか……?」

「お前の叔母の映璃えり。つまりはめぐの母親に当たる女だけど、あいつには何度アタックしてもダメ。このごろはデートに誘ってもびょうで断られる始末だ」

 思いがけない告白に戸惑いながらも、悠斗さんの恋愛遍歴が氣になりすぎて話を続ける。

「いやいや……。そりゃあ映璃姉さんはダメでしょ。夫の彰博あきひろ兄さんが許すはずないもの。確か、高校時代からの友人なんでしょう?」

「ああ……」

「……っていうか、そうと分かっててデートに誘うんですか? だって相手は妻子持ちですよ? 信じられません……」

 否定ばかりするわたしの言葉が鼻についたのか、悠斗さんは首を横に振った。

「妻子がいたら自分の氣持ちを伝えちゃいけないなんて誰が決めた? 別におれは略奪しようっていってるわけじゃない。相手の氣持ちに訴えかけて、最終的に向こうの氣持ちがおれに傾いたなら何の問題もないじゃん。それのどこがいけない? 逆に言えば、何十年も氣持ちや考えが変わらないなんて、そっちの方があり得ないとおれは思うけど?」

「じゃあ悠斗さんは、婚約を発表した圭二郎にわたしの氣持ちを伝えろって言うんですか?」

「本当に相手を愛していて、一緒になりたいんならそうすりゃいい。だけど一言いわせてもらえるなら、ここは一度冷静になって自分の内側と対話することを勧める。……孝太郎さん、自分が変われたのはおれたちのおかげだって言ったんだろう? それでお前をうちへ連れてきたんだろう?」

 行く宛ても決めずに飛び乗った電車。自暴自棄になったわたしが無意識のうちに降り立ったのは、十代まで暮らした故郷にある駅だった。その駅前に建つビルから出てきた永江さんのキラキラ光る笑顔に衝撃を受けたわたしは、理由を調査すべく彼に話しかけた。それが事の発端だ。話すうちにわたしが、永江さんの野球部の後輩、野上路教のがみみちたかの娘であることがバレて一瞬氣まずくなったものの、後にその父と兄と悠斗さんの三人がきっかけで「鬼の永江」を手放せたことが判明。理由が知りたいのなら直接会ってみればいいと、半ば強制的にここへ導かれたのだった。

「……なぜ、悠斗さんは今でも映璃姉さんのことを想い続けているんですか?」
 わたしと同じ境遇の悠斗さんからは何かヒントがもらえるような氣がして尋ねた。

「そりゃあ、映璃が魅力的だから。……なんてな。まぁ、今はもう母親的存在だと思ってる。一緒にいる時の安心感を求めてるだけなのかもしれないけど……。んー、言葉で説明するのは難しいな。おれ、言語化能力ゼロだから……」

「あ、今のうまく言えないってところ、わたしも分かります……」
 とにかく説明できないモヤモヤしたものが胸の中で渦巻いているのだ。この正体が知りたくて思い悩むのだが、なかなか言語化できない。わたしの脳みそが野球で出来ているように、元水泳コーチの悠斗さんの脳みそも同様の作りに違いない。そういう意味でわたしたちは似た者同士と言えよう。

(永江さんが言っていた通り。確かに、実際に会って話してみなければ分からない魅力が悠斗さんにはある……。)

 戻ればまた兄に何か言われるかもしれない。だけど、もう少し悠斗さんと話がしたかった。

「わたしも永江さんのように変わりたいな……」
 ぽつりと呟くと、悠斗さんはベンチからすっと立ち上がってわたしの前に回った。

「そんじゃ、戻るか。とりあえず一緒に飯を食おう。多分、みんな待ってると思うぜ。お前が戻ってくるのを」

 ほら、行くぞ。悠斗さんが大きな手を差し出した。恐る恐る握り返す。その手はとっても温かかった。


11.<悠斗>

 孝太郎さんの時は、希死念慮があると事前に聞いていたことや同性だということもあって自然と救済の手を差し伸べた。しかし、舞の場合はかなりざっくりと「失恋したらしい」という想像だけで相談に乗り、家に連れ戻してしまった。普段から面倒見のいい方ではない。なのに、よりによって失恋した女を慰めようとしている……。

 こんな行為に及んだ理由はおそらく、恋に悩む舞の姿をみて、五歳で急逝した娘のことを思い出したからだろう。生きていたら舞より少し上くらいの年齢。きっと同じような悩みを抱えていたに違いない。

 もちろん、娘が生きていたとしてもおれに恋愛相談をするとは限らない。むしろ、しない可能性の方が高い。だけど、孝太郎さんが鈴宮家の暮らしぶりを見せたいと舞をうちへ連れてきたのが偶然ではなく必然だったとすれば、おれは多分、舞の面倒を見る必要がある。

 家に戻ると、おれの言ったとおり家族は舞の帰還を待っていた。孝太郎さんも含め、家族が全員玄関に集まる。

「お帰り、舞ちゃん。ご飯、温め直してあるよ。私も途中だから一緒に食べよ?」

「う、うん……。ありがとう、めぐちゃん」
 この厚意を受け取っていいのか? と言わんばかりの目を向けられ、うなずく。

「おまえ、ずっと家族で飯なんか食ってないからこの感覚忘れてんだろう? なぁに、孝太郎さんだってすぐに馴染んだんだ。おまえもすぐに慣れるさ」

「…………」

 戸惑っているらしい舞をめぐが導く。
「ほら、こっちこっち!」

「こっちだよ!」
 まなも真似をして舞の手を取る。

「ああ、まなが安心してるなら大丈夫。舞はもう我が家の人間として受け入れられたよ」
 最後には翼もそう言って舞の後に続いた。



 夕食は、おれたちが席を離れる前とほとんど変わらない状態で残っていた。まなの分さえも、だ。それを見た舞はさらに動揺した。

「うっそ……。わたしが戻ってこなかったらどうするつもりだったの?」

「そんなこと、少しも思わなかったよ。だって悠くんがついて行ったんだもん。なんとかしてくれるって信じてた」

「……あはは。悠斗さん、めちゃめちゃ信頼されてるんですね。まるで……まるで圭二郎みたい」

 おれは野球に疎いから、渦中の圭二郎氏がどれほどの人物か全く知らない。しかし、一人の女を泣かせるろくでもない男だってことだけは分かる。

「マイマイ、元氣出して。まなちゃんがギューッてしてあげる!」

 幼少のめぐにそっくりのまなが、舞を正面から抱きしめた。どんな事情があろうとも関係ない。まなは目の前で泣いている人がいれば自らの愛で包み込んであげることのできる、本当に優しい子だ。

「わたし、まだ何も話してないのに……。この一家ってみんなテレパシーが使えるの? こんなにも優しくされたら……ずっとここにいたくなっちゃう」
 舞はそう言って一度天井を見上げた。
「……なんてね、うそうそ。そんな図々しいことするわけないじゃん」

「えー、図々しくなんかないってば」
 すぐに反論したのはめぐだ。
「居たいだけ居たらいいよ。ねぇ、悠くん?」

「ああ、おれはそのつもりだったけど。問題は翼だな」

「え、俺?」

 翼はちらりと舞を見たが、すぐに小さく息をついた。
「……悠斗が次に救うのが舞だってんなら仕方がない。舞にひそむ問題が解決するまでの間――出来れば短いことを願うけど――なんとかやってくよ。ま、十八年くらいは一緒に暮らしてたんだ。その頃を思い出しながら接すればいいだけの話だ」

「…………」
 舞は唇をかみしめ、返す言葉を考えているようだった。その間は誰も言葉を発さずに待つ。やがて顔を上げた舞はおれたちを見回して言う。

「わたし、決めた。しばらく休職してこのうちで暮らす。そして、この先どう生きればいいかちゃんと考えてみる」

「…………!!」
 休職、と聞いて全員が驚いた。しかし、心身ともに追い詰められているのだとすれば、一度仕事から離れ、リフレッシュするのが一番好ましいだろう。

「舞クンはいい決断をした。その勇氣をたたえ、微力ながら僕も協力するとしよう」
 孝太郎さんがうれしそうに言った。
「さぁ、そうと決まれば食事にしよう。また料理が冷めてしまう」

 彼の言葉を合図に一同は席に着き、もう一度「いただきます」と手を合わせた。


12.<舞>

 圭二郎の婚約のニュースを聞いたときには、まさかこのわたしが休職を宣言し、鈴宮家でお世話になるなんて考えもしなかった。だけど、偶然見かけた永江さんに思い切って声をかけたところからわたしの運命の歯車が少しだけ違う方に回り始めた氣がしている。

 こんなに大人数で晩ご飯を食べたのはいつぶりだろう? ありふれたメニューなのに、普段食べているご飯よりうんとおいしく感じるのはなぜだろう? さっきは一ミリも喉を通らなかったというのに、しばらくここに居ると決めたら急に食欲が出てきてあっという間に平らげてしまった。

「あれ、もう食べちゃったの? ご飯のお替わり、あるよ?」
 氣を利かせためぐちゃんが席を立とうとしたので慌てて止める。しかし「遠慮しなくていいんだってば」とにこやかに返され、茶碗に白米が追加された。

 結局、よそってもらったご飯もしっかり平らげたわたしは、しばらくこの家で居候になるのだから……と食器洗いを自ら買って出た。

 実家にいた頃はほとんどしたことのない家事。野上家四人分でも多いと感じていたのに、今日は幼児も含めて六人分ある。

「ねぇ、普段はこれ、めぐちゃんが一人でやってるの? 大変だね……」

 端でほかの用事をしていた彼女に向かって言うと、「一人でやってないよ。我が家の家事は全員でやるのが決まりだから。ああ見えて、悠くんも時々台所に立って料理するんだよ?」と返ってきた。

「……そうだよね。今は家事も男女平等にやる時代。特にお兄ちゃんは器用だから家事くらいお手の物だよねぇ」

 とんちんかんなことを聞いてしまったと後悔した。洗い物に意識を向けようとしたとき、めぐちゃんが隣にやってきて言う。

「……ねぇ。圭二郎さんって確かゴールデングラブ賞を取ったことがある人だよね? テレビでしか見たことないけど、舞ちゃんが好きになるくらいだもの。きっと素敵な人なんだろうな」

 めぐちゃんなりにわたしを慰めようとしているのだろうか。しかし、今はあいつについて話したくなかった。なんとかごまかす方向で話を進める。

「よく知ってるね。……めぐちゃん、野球には興味ないもんだと思ってた。お兄ちゃんも疎いし」

「実は、私が勤めるお店のオーナーが元高校球児でさ。シーズン中はずっと野球のテレビ中継を流してるんだよね。お客さんの中にはそれ目当ての人もいるから、話題を振られても答えられるくらいの情報は頭に入れとかないといけなくて……」

「なるほど……。そこってスポーツバーなの?」

「んー……。喫茶店兼、バー兼、事務所兼、会議室兼、ライブハウス、かなぁ?」

「なにそれ……? 変なお店……」

「うん、そうなの。でもすっごく居心地がいいんだ。舞ちゃんも一度遊びに来るといいよ」

「あー……。でも今は遠慮しとこうかな……」
 恋に破れたばかりだというのに、わざわざスポーツバーのようなところに行って傷口を広げるつもりはない。しかしめぐちゃんは諦める氣がないらしい。

「うちの店はね、誰もが好きなときに立ち寄れて、好きなことができる憩いの場なの。少し口は悪いけど双子のオーナーたちはとっても優しいし、何も注文しなくても大丈夫なお店だから、だまされたと思って一回遊びにおいでよ。いつでもいいからさ」

「じゃあ、まぁ……。氣が向いたら」

 入店しても注文しないでいい店なんて聞いたことがない。めぐちゃんが嘘をついているとは思わないが、常識的に考えればそんなこと……。

 そこまで考えて思考を止める。

 よく考えてみればこの一家自体が常識外れ。ならば、めぐちゃんが心地よく勤める喫茶店のオーナーが、わたしの知る常識から外れていたとしても何ら不思議ではない。

(うーん……。なんだか訳が分からなくなってきた……。)

 食器洗いが終わったところで強制的に話題を変えることにする。

「……はいっ、洗い物おしまい! あー、めぐちゃん。パジャマになりそうな服を一着貸してくれない? 今夜だけ。明日には自分のを持ってくるから。……お願いね」

「オッケー。ちょっと待っててね」

 少し強引だったかもしれないが、めぐちゃんは氣にしていない様子でまなちゃんと一緒に自室へ向かい、寝間着を持ってきてくれたのだった。



 永江さんが帰宅すると、一家は子供の就寝に向けて動き始める。
「さて、お風呂を沸かさなくっちゃ」

 めぐちゃんが慌ただしく浴室に行こうとするのを見て悠斗さんが引き止める。
「どうだろう? 今日は舞も来てるし、みんなで温泉に行くってのは。ちょっと寒いけど、すぐそこだしさ」

「やったー! まなちゃん、おっきいおふろに行きたい! お父さんといっしょに入るー!」

「よーし、それじゃあ決まりだな。舞も、今日はそれでいいだろう?」

 その提案はとてもありがたかった。急なことだったから全くの手ぶら。下着はもちろん、歯ブラシの用意もない。どのみち買いに出ようと思っていた。

「近くの温泉って言ったら、実家の近くのあそこ、ですよね……? 実は一度も行ったことがないんです。せっかくの機会なので一緒に行かせてください。ずっと氣になっていたんです」
 そう答えると悠斗さんは嬉しそうに笑った。



 わたしの知る温泉施設は昭和の香りが漂う昔風の建物だったが、今日来てみたらすっかりきれいにリニューアルされていた。若い人の姿も多く見られ、活氣づいている。

 まなちゃんは宣言通り悠斗さんたちと男風呂に入ってしまったので、わたしはめぐちゃんと二人でゆっくり女湯につかる。

「うーん……! まなのいないお風呂に入るなんていつぶりだろう? 今日は長風呂するぞー!」
 めぐちゃんは両腕を伸ばした後、肩まで湯につかった。
 彼女とは、親戚の集まりでは何度も会っているが、二人きりになったのは初めてかもしれない。

「ねぇ、めぐちゃん。前々から聞こうと思ってたんだけど……」
 小さな声でためらいがちに尋ねる。

「どうしてお兄ちゃんだったの? いとこ同士ってところに抵抗はなかったわけ? ……年はうんと上だけど悠斗さんを選ぶことも出来たはずでしょう?」

 自分の失恋話はしたくないけど、既婚者のなれそめ話は聞きたい。本当にイヤな女だと自分でも思う。でも、幸せ全開のめぐちゃんならきっと教えてくれるだろう。案の定、彼女は何のためらいもなく話し始める。

「二人とも大好きな人だからどちらか一人を選ぶのは本当に難しかったよ。だけど一番の決め手は翼くんの書いてくれたラブレターかな。あんなのを見てしまったら胸キュンだよね。あとは家庭的なところ、かなぁ?」

「じゃあ、成人してすぐに結婚した理由は?」

「そりゃあ、ずっと思い続けてくれた翼くんをこれ以上待たせたくなかったからだよ。パパも成人後ならいいって最初から言ってくれてたし」

「ふーん……。いいね、めぐちゃんは。好きな人と結婚できて。うらやましいな」
 結局、失恋を思い出すような言葉を自ら口に出してしまう。自分の浅はかさに呆れてため息をつく。

「……舞ちゃんだって出来るよ、きっと」
 優しいめぐちゃんはそう言ってくれたが、ちっとも嬉しくなかった。

「めぐちゃんは若いからいいじゃん。わたしはもう三十だよ? 結婚するならそろそろいい人を見つけないと……」

 職場の同期が次々、結婚していくのを目の当たりにすると焦りも生じる。そんな中で圭二郎の婚約を知ったのだから、傷つき方も半端ない。とはいえ、若くして結婚しためぐちゃんにはわたしの氣持ちなど分かってもらえるはずもなく、思ってもみない提案をされる。

「じゃあ、悠くんはどう? 今はフリーだし」

「え、悠斗さん?! いやいや、それはさすがに……」
 結婚を急いではいるが、フリーなら誰でもいいという訳ではない。
「そりゃあ悠斗さんは素敵な男性だけど、二十五歳差はヤバいっしょ……」

「そう? 私なんて三十個離れてるけど、悠くんとの結婚は一時期本氣で考えてたよ。すっごく優しいし、包容力もある。最終的には結婚しなかったけど、一緒に暮らせる今の生活には本当に満足してるんだ」

 実に幸せそうな表情で語るのを見て、彼女が心からそう思っているのが伝わってきた。しかし、わたしはそれを否定するかのように何度も首を横に振った。それを見たからか、今度はめぐちゃんから質問される。

「んじゃあ、舞ちゃんはどうしてすぐに結婚したいの? 子供が欲しいから?」

「え? そりゃあ……」

 返事をしようとしたが、すぐに言葉が出てこなかった。将来的に子供は欲しいとうっすら思ってはいるものの、姪っ子でさえ苦手にしている現状では我が子を愛せる自信もない。

(もしかしてわたしは、周りと違っているのがイヤだからって理由で結婚しようと思ってた……?)

 適齢期になったら同年代の人と結婚して子供を産むのが当たり前。そう思い込んで生きてきたが、実は常識にとらわれていただけだったのでは? という考えが浮かんできて怖くなる。

 自分では何も考えていなかったと言う事実を突きつけられた氣がした。野球が好きだから社会人野球部のある企業に就職したけれど、本当にそれでよかったのか? 適齢期になっても結婚していない人は本当に常識外れで責められるべき存在なのか? 疑問が頭の中で渦巻く。

 うつむくわたしに、めぐちゃんが微笑みかける。

「悩みがあるなら、うちにいる間、悠くんにいろいろ相談してみるといいよ。私も翼くんも、それから孝太郎さんも、経験豊富な悠くんには何度も救われてきたんだから」

「…………」

 先ほど公園に連れ出してくれた悠斗さんのことを思い出す。その顔はとても穏やかで安心感があったし、何よりも自分の失恋話をしてまでわたしを慰めてくれた。

 悠斗さんのことはただの小父さんと思っていたが、知れば知るほどすごい人だと言うことが分かる。急に興味が湧いてきた。

「そうだね。せっかく居候になるんだし、これを機にわたしも勉強させていただきます」
 かしこまって頭を下げるわたしを見て、めぐちゃんは「大袈裟おおげさー」と言って笑った。



 ようやく湯船から出る。少しのぼせ氣味だがいい話が出来たことに満足する。わたしの短い髪はドライヤーを数分当てればすぐ乾く。しかしロングヘアーのめぐちゃんは時間がかかりそうだ。

「先にロビーで待ってて。乾いたら合流するから」

「オッケー。それじゃ、お先に」
 めぐちゃんとそんなやりとりをし、一足先に女湯の暖簾のれんをくぐり出る。

 ロビーではすでに男性陣とまなちゃんが待っていた。椅子に腰掛け、談笑している。後ろから声をかけようとしたとき兄の問いかけが耳に入る。

「……そういえば、なんで舞を救ってやろうなんて思ったんだよ?」
 思わず立ち止まり、その場で耳を傾ける。わたしもその理由が聞きたかったからだ。

「何でって、おれも後から考えてみて分かったことだけど、たぶん、マナ、、が生きてたら今の舞くらいの年だっただろうなって思ったからだと思う」

「ああ、それで……。だけど、今は野上まなとして生まれ変わってるじゃん? もう未練はないもんだと思ってたんだけど」

「未練なんてないよ。でも、なぜか急にそんなことを思ったんだ。……誰にだってあるだろう? 昔を思い出す瞬間くらい。お前なら、めぐの幼少期とか」

「んー、まぁ、確かにあるな。あー……普段はあんまり意識しないけど、ウン十年も前の話を聞くと、そういえば悠斗はアキ兄と同じ五十代だったなって思い出すよ」

「ん? 今お前、おれをジジイだと思っただろ? 言っとくけどおれは、名実ともに祖父じいさんのあいつよりずっと若いつもりだぜ?」

「分かってるよ。もう、そんな怖い顔するなよー。せっかくの美形が台無しだぜ?」

(えー?! あの、まなちゃんが生まれ変わりってどういうこと?! いま、聞いちゃいけないことを聞いちゃったかも……!!)

 この一家には何か秘密があると薄々感じてはいた。しかし接点も少なかったし、あえて聞く必要性も感じていなかったからそのままにしていた。だけど、しばらく居候になるなら秘密を明らかにしなければ氣が済まない。

「あ、舞ちゃんここで待っててくれたの? 悠くんたちと合流してくれててよかったのに」
 わたしが立ち聞きしていたことなど知るよしもないめぐちゃんに声をかけられた。

「あ、うん。えーと……。このチラシを読んでたんだ」
 適当な嘘をついてごまかす。そして、何食わぬ顔で彼らの元に向かう。

「あ、ママとマイマイだー!」
 一番先にまなちゃんが氣付き、めぐちゃんにひっつく。
「きいてきいて。お父さんったらね、お魚さんみたいにすいすい泳いでたんだよ? そしたらね、おじいさんに怒られちゃったんだよ?」

「そうなの? お父さんは泳ぐのが得意だからねぇ。今度はプールで泳ぎなさいって言ってあげようね」

「うん!」

「おいおい、めぐまでおれを叱るつもりかよ? こちとらひどい目に遭ったってのに、勘弁してくれよ」

「えー? 湯船で泳いじゃダメでしょ……。翼くんも止めてあげなきゃ」

「いやぁ、悠斗の潜水する姿があんまりにもきれいだったから、つい見入っちゃって」

 一家の会話を一通り聞いて改めて思う。やっぱり、何かが変……。

(今まで違和感なく聞いてたけど、そう言えばなんで、まなちゃんは悠斗さんのことをお父さんって呼んでるの……? もしかして、さっき話してた生まれ変わりと関係が……? めぐちゃんも容認しているみたいだし……。それから、悠斗さんの潜水姿に見とれるお兄ちゃんもどうなのよ? 同性愛の氣があるなんて聞いてないよ……?)

 親族なのに、知らないことが多すぎる……。

「舞ちゃん? ぼーっとしてるけど大丈夫?」

 めぐちゃんに声をかけられて我に返る。
「あー……。ちょっと、のぼせちゃったかも。でも、大丈夫」

「ならいいけど……。さて、それじゃ湯冷めしないうちに帰ろっか」

「かえろ、かえろ!」
 まなちゃんが、わたしとめぐちゃんの手を取った。ドキッとして思わずその顔を見る。まなちゃんの澄んだ目が、わたしの汚れた心を見透かしているようで怖かった。



13.<悠斗>

 ここらで、おれとマナ、、との関係について話しておこう。

 今同居している野上まなの「魂」はかつて、おれの子供の鈴宮愛菜すずみやまなとしてこの世に生を受けた。しかしおれが監視を怠ったばかりに、あろうことかおれの大好きな海で溺死した。

 愛菜の死後に妻とも離婚。その後長いあいだ、愛菜が死んだのはおれのせいだと自分を責め続けた。そんな人生を終わらせてくれたのが野上一家。彼らとの交流の中で笑えるようになったとき、もう一度おれのそばで生きたいという願いが神に聞き入れられ、鈴宮愛菜は野上まなとして誕生した。……これが、一連の流れだ。

 まなの誕生までには様々な困難があったし、大きな決断を迫られたこともあったが、それを乗り越えたからこそ今の穏やかな暮らしがある。だから今回、舞を見て、もしおれの子として愛菜が生き続けていたら……などという考えが浮かんだことには驚きを隠せなかった。しかし天の神がおれに、舞を救う使命を思い出させるために昔の記憶をよみがえらせたのだとすれば一応納得は出来る。正確には、そう思い込まなければこの混乱を鎮められそうになかった。



 休職の手続きを済ませた舞は、それから一週間ほど経った平日の昼間に大きめのリュックを背負ってやってきた。幸か不幸か、野上一家は全員、仕事や幼稚園に行っていて不在。体操クラブの仕事が午後からのおれだけで舞を迎えることになった。

「……野球から離れるようなことを言っておきながら、そのリュックなんだな」

 両サイドにでかでかとチーム名が印字されている。揶揄うと舞は「……仕方ないじゃないですか。ちょうどいい大きさの入れ物がこれしかなかったんですから」と言ってうつむいた。
「それで……わたしはどこで寝起きすればいいんでしょうか」
 恥ずかしさをごまかすように舞はあたりを見回した。

「家族で話し合ったんだけど、とりあえず居間に布団を敷いてそこで寝起きしてもらおうかと思う。以前、オジイとオバアがそうしてたように」
 オジイとオバア、というのは野上きょうだいの祖父母だ。訳あって最晩年は我が家で面倒を見ていた。

「ああ……」

 舞は唐突に居間の仏壇に向かうと、オジイとオバアの写真の前で手を合わせた。位牌自体は舞の実家にあるが、写真だけは逝去しているおれの両親と鈴宮愛菜のための仏壇の前に置いている。

「ここで寝起きしていたら、二人に見守られている感じがしそうで、いいですね。分かりました。しばらくはここで過ごさせてもらいます」

 納得したのか、舞はそこで荷物を下ろした。そのときちょうど、おれのスマホのアラームが鳴る。まなを迎えに行く時間を知らせるものだ。

「そうだ。舞も一緒に行くか? まなのお迎えに」
 普段は通園バスで帰宅するが、午前中で保育が終わる水曜だけはおれが迎えに行くことにしている。急な提案だったからか、舞が驚きの声を発する。

「ええっ?! で、でもわたしなんかが行っていいのかな……。幼稚園って歩いて行けるところなんですか?」

「んー、今から歩いてだと間に合わないな。……お前、自転車は乗れる?」

「そりゃあ乗れますよ」

「じゃあ、おれがバイクで先導するから、お前は自転車でついてきて」
 当たり前のように言うと舞は目を丸くした。

「……自転車ってもしかして、外に停めてあったあのママチャリ? あれに乗れってことですか?」

「そうだけど? 普段はおれがあいつに乗って迎えに行くんだ。我が家は誰も車の免許を持ってないからさ」

「…………」

「今日から我が家の一員として暮らすんだろう? だったら手始めにまなの迎えに行こうぜ。そうだな、ついでに翼がどんな姿で働いているかも見ていくといい。勉強になるはずだ」

 舞はうつむき加減のままおれの言葉を聞いていたが、最終的には諦めたようにため息をついた。

「……分かりました。その代わり、置いていかないでくださいよ? わたしは幼稚園の場所を知らないんですから」

「んな意地悪なことはしないよ。オッケー。そうと決まればすぐに出発だ」



 無謀な提案だったかもしれない。しかし十年ほど前、生きる氣力を失っていたおれに翼が幼稚園の仕事をさせたように、おれも舞を幼稚園に連れて行かなければならない氣がしたのだ。そう。自分には絶対に出来ないと思い込んでいることほど、やってみたら案外出来てしまうもの。そしてそれをきっかけにして自己改革が進む。おれはそう信じている。

 降園時間は刻一刻と迫っているが、置いていくなと念を押されたこともあり、何度も止まりながら後ろの舞を確認する。寒風が吹いているってのに、汗だくになっているさまを見るにつけ、必死なのがうかがえる。対するおれは涼しい顔でバイクのエンジンを吹かす。



 結局、園に到着したのは十一時五十五分。閉門ギリギリだった。

「お父さん、おそーい!」
 案の定、まなに叱られる。

「ごめんごめん。ちょうど舞が家に来たもんで、一緒に迎えに行こうって誘ったんだ。自転車の舞を誘導してたらちょっと遅れた」
 ハグをしながら言い訳をするが、寛大なまなはすぐに許してくれる。

「それなら、しょーがない。マイマイ、一緒にかえろ!」
 まなはすぐに表情を変え、今度は舞に抱きついた。

「ちょ、ちょっと……」
 そこへ、クマの顔のついたかわいいエプロン姿の翼が近寄ってくる。

「いつも早い悠斗が遅いんで心配してたんだけど、まさか舞を連れてくるとはなぁ」

「ちょうどタイミングがよかったんだ。それと昔、お前に強制労働させられたことを思い出してさ。園に来れば舞も何か考えが変わるんじゃないかと思ってな」

「あー、そんなこともあったな……。もう九年くらい前になる? あの頃の悠斗の顔と来たら青白くて今にも死にそうだったよな。今じゃ別人だけど」

「おかげさまで元氣にやってるよ」

「はーい、門を閉めますよー。残っているおうちの方ー、お子様と一緒にお帰りください」
 談笑していると、門の方から聞き慣れた声がした。翼と舞の叔母で、おれが未だに口説き続けてる映璃えりだ。

「それじゃ、あとでな」
 翼に挨拶し、駆け足で門の外に出る。目が合うと、映璃は驚きの表情でおれと舞を交互に見た。

「ちょっとちょっと。悠と一緒なんて、舞ちゃんどうしたのよ?」

「あー、いやぁそのぉ……」

「映璃。詳しい話は翼から聞いてくれ。ここで話すような内容じゃないから」
 説明するには長い時間が必要だ。お互いに忙しいときにする話じゃない。

「えー、そうなの? ……じゃあ、お昼ご飯を食べながら聞いてみようかな」
 映璃はそう言ったあとで、再びおれと舞の顔を一度ずつ見た。そして何かを察したかのようにこう言う。
「……子育てに人助けに、悠も忙しくしてるね。もし込み入った話ならアキにも相談してみるといいよ。何しろ大ベテランのカウンセラーだからね」

「ああ、どうしてもの時は頼ってみる。ありがとな。……今日もきれいだよ、映璃。それじゃ、またな」
 さらりと愛情を伝えてみるが、映璃は苦笑いを浮かべただけで何も言わずに立ち去ってしまった。



14.<舞>

 知らない人が見たらきっと親子に見えたことだろう。その位まなちゃんは自然体でわたしに抱きついた。ただ、かくいうわたしの方はぎこちなく受け止めることしか出来ず、直後にやってきた兄は内心、笑っていたに違いなかった。

 それでも、悠斗さんが言っていたように「初幼稚園のお迎え」を経てわたしは今までにない感覚を味わった。母性が目覚めたというか、一人の男にこだわっていた自分が馬鹿らしく思えたというか、とにかくいい方に氣持ちが変わった。行きとは違い、自転車を漕ぐ足も軽く感じられた。



 前回同様、途中で食材を買って帰る。まなちゃんのリクエストで今日の昼は焼きそばに決まった。

「舞は料理、得意な方?」
 帰宅するなり悠斗さんに尋ねられた。

「えーと……。あんまり……」
 もごもご答えても悠斗さんは笑わなかった。

「分かった、分かった。じゃあ今日はおれが作るよ」

 実家にいたとき兄がそうしていたように、さっとエプロンを掛けた悠斗さんはすぐに支度に取りかかる。一つ違うことがあるとすれば、エプロンが黒の無地だということ。ほっとすると同時に、その後ろ姿に一瞬、ドキッとする。

(ヤダ、わたしったら。もう、めぐちゃんがあんな事言うから!)
 温泉に浸かりながら言われたことを追い出すように頭を振る。

(ただ料理してるだけじゃない。散々お兄ちゃんの料理してる後ろ姿を見てきたはずでしょう? はい、頭を切り替えて、舞!)

 自分を説教し、妙な沈黙が生まれる前にこちらから話しかける。

「あのー……。めぐちゃんから、悠斗さんも時々台所に立つって聞きましたが、昔から料理が得意なんですか?」
 邪魔だと思いつつも、声の届く距離まで近づいて尋ねた。

「いいや。両親が他界してこの家で一人暮らししてたときはスーパーの惣菜ばっかり食ってたよ。でも、それじゃあ体壊すだろってことで、翼がわざわざ料理の仕方を教えに来てくれてな……」

「へぇ、お兄ちゃんが……」

「意外か?」

「うーん……。なんていうか二人って、友人以上の関係に見えて仕方ないんですよね……。でもまさか……違いますよね?」
 はっきりとは言わなかったが、悠斗さんにはわたしの言わんとすることが伝わったようだ。

「翼とおれが同性愛者じゃないかってこと? それはないけど、あいつからは過去に『男も惚れる男』だと言われたっけ。ま、実際いい男だから仕方ないよなぁ」

 さも当たり前だと言わんばかりなので唖然とする。

(えーっ、嘘でしょ!? 自分で自分のこと、いい男だって言っちゃったよ……。)

 さすがにドン引きだが、二人の邪魔をされたくないからあえてそんな風に言ったのか、あるいは本氣でそう思っての発言か……。いずれにしてもわたしの常識が通用する相手ではなさそうだ。

 わたしが無言のうちにその場を離れても、悠斗さんは別段氣にするふうもなく焼きそば作りを続ける。

「……ねえねえ。パパと悠斗さんってどのくらい仲良しさんなの?」
 まなちゃんにこっそり尋ねると、「ママがいないとき、たまに二人でデートしてるんだよー」と、普通の声量で話してくれた。

「……デ、デート?」

「こらこら。舞にその話はするなよ。誤解するだろう?」
 詳しい話が聞きたかったが、釘を刺されてしまってはしかたがない。

「怒られちゃった」
「だね……」
 わたしたちは肩をすくめた。

 少しして焼きそばができあがり、取りに来るよう指示される。兄の指導がいいのだろう、野菜の切り方や焼き加減が絶妙でおいしそうだ。

「いただきます」
 手を合わせ、昼食をいただく。思った通り、おいしい。全力で自転車を漕いだあとだけに食が進む。

「ところで……」
 食事に集中していると悠斗さんに問いかけられる。
「実家に顔を出す氣はあるのか? 今年の正月も帰ってなかったみたいだけど。ニイニイが……お前の父さんが愚痴をこぼしてたぜ?」

 いつかは聞かれるだろうと思っていたが、よりによって今か。

「お父さんには会いたくないんです。特に今は。なので、帰りません。たとえすぐ近くだとしても」
 わたしはきっぱりと答えた。

「それって、例の失恋と関係ある? ……よなぁ?」
 悠斗さんは遠回しに理由を聞き、わたしが返事をする前に一人で納得した。

「翼からそれとなく話は聞いたけど、まぁ、なんとなく分かるよ。距離を置きたくなるのも。けどさ、だからって会わないままってわけには行かないだろ。うちにいる間にはちゃんと解決した方がいいぜ。翼だって、めぐとの結婚を認めさせるために苦手だった父親の元に行って和解したんだから」

「…………」

 わたしの父と圭二郎の父・本郷祐輔氏とはかつてライバルだった。しかし、素養がないと思いつつも兄に野球をやらせたかった父は、苦肉の策として本郷氏とわたしたち兄妹とを引き合わせたのだった。結果、興味を示したのは兄ではなくわたしの方で、今に至るまで野球漬け。それだけでも番狂わせなのに、結婚適齢期の娘がかつてのライバルの息子に恋心を抱いていることが知られたら、一体何を言われることやら……。

 失恋したんだからもういいだろうと言うかもしれないが、そういう問題ではない。一連のことを説明する過程でお決まりのフレーズ、「翼と舞が反対だったらよかったのに」と言われるのがイヤなのだ。そう言いたいのはわたしの方だというのに!

 黙り込んでいると悠斗さんはあっという間に焼きそばを平らげ、流しに食器を片付けるため席を立った。
「……このあと、ニイニイに会うんだ。体操クラブを一緒にやってる仲間だからな。タイミングを見計らって、今日からしばらくの間、舞が我が家の一員だってことは伝えるつもり。もしお互いに伝言があれば都度言うし、直接会いたくなったならおれが取り持つ。それでいいな?」

「そんな……」
 急なことに戸惑うが悠斗さんは首を横に振る。

「変わりたいなら逃げちゃダメだ。時間はかかるかもしれないが、ニイニイだって話せば分かってくれる。なぁに、ろくすっぽキャッチボールも出来ない翼がキャッチボールを申し込んで説得に成功したんだ。野球で出来てる舞ならすんなりいくはずだよ」

「そうはいっても、わたしの場合は説得するようなことじゃ……」

「とにかく、だ。舞が前に進むためのキーパーソンの一人は父親だとおれは見ている。だから、一度はちゃんと会って話せよ。セッティングしてやるから」

 なぜ悠斗さんが父との面会にこだわるのか分からなかった。失恋と父に会うこと……。そこにどんな関係性があるというのか?

 食べる手を止めていると、悠斗さんは食器を下げたあとでわたしの正面に座った。

「不満そうだな。なんでおれがこんな話をするか、さっぱり分からないって顔してる」
 ズバリ言い当てられ、反射的にうなずく。

「なら教えてやろう」
 悠斗さんはまなちゃんの頭を愛おしそうになでてから言う。

「お前、今を生きてないんだよ。……なぜもっと早く意中の人に思いを伝えなかったんだろうとか、父親に会ったらこう言われるに違いないとか、お前の頭はそんなことばかり考えているんじゃないのか? 想像するのは自由だが、それに氣をとられてる間、お前の意識はここにはないってことになる。今を生きてないってのはそういうこと」

 あまりにも衝撃的な言葉に箸を落としてしまった。強い口調で言われたわけでも、あからさまに人格を否定されたわけでもない。なのに沸々と怒りが込み上げ、同時に悲しみに打ちひしがれた。

 感情が揺さぶられたと言うことは、無意識下ではそれが正論だと分かっているからだろう。だけど認めたくなくて動揺している。

「……じゃあ、どうすればいいって言うんですか? 父に会えばそれがすべて解決するとでも?」
 声を震わせながら問いかけるも、悠斗さんは首を横に振る。

「そんなことは言ってない。だけど、今を見つめるきっかけの一つにはなると思ってる。……野球のことしか頭にないような人だけど、あの人なりに娘のことを氣にかけてるんだ。せめてその氣持ちだけは受け取ってやって欲しい」

「…………」
 反論の言葉は山ほど思いついたが、少しも声が出なかった。そんなわたしのそばにまなちゃんがやってくる。

「マイマイは、じいじが嫌いなの? まなちゃんは好きだよ。だって一緒に遊んでくれるもん」
 まなちゃんはわたしの顔をのぞき込みながら嬉しそうに言った。
「マイマイのことも好きだよ。お迎えに来てくれたもんねー」

「そっかそっか……」
 ここの家族と初めて夕食を共にした日、まなちゃんに抱きしめられたことを思い出した。あのときも胸を打たれたが、今も子供とは思えない氣遣いと優しさに感涙しそうになる。

(もしかして、悠斗さんが言っていた『今を生きる』ってこういうこと……?)

 笑顔で無邪氣に走り回るまなちゃんは、間違いなく「今」しか考えていない。過去のことも未来のこともきっと憂えてはいない。こんなにも幸せそうに見えるのはそのせいなのだろうか……。

「まな。今日は三時から体操クラブだけど、ママが帰ってくるまでまだ時間がある。だからその間、舞と遊んでやってくれ。そしたらきっと元氣になるから」

「うん! じゃあさマイマイ、公園行こうよ。まなちゃんが案内してあげる! で、ブランコの乗りかた、おしえてあげるね!」

 さすがにブランコの乗り方は分かる、と言いかけたところで悠斗さんと目が合う。

「今からは、まなが先生だ。大人相手じゃ決して学べないことをまなが教えてくれる。だからここは何も言わず、素直に聞いておけ」

「……はい。まなちゃん先生、よろしくお願いします……」
 かしこまって挨拶すると、まなちゃんはわたしの手を引っ張ってすぐに出かけるよう促した。今のわたしには失恋のことを悲しむ余裕も、父への反抗的な氣持ちを抱く暇もなかった。



15.<悠斗>

 めぐの帰宅を待って体操クラブの教室に向かう。到着すると程なくして舞の父である野上路教のがみみちたか氏が合流する。

「ユウユウはいつも早いな。おれももうちょっと早く出てこようかなぁ?」

「いえ、ニイニイと大差はないですよ。信号に引っかかるか引っかからないかの差じゃないですかね?」
 他愛ない話をしながらクラブの用具を出していく。

 実の弟のように可愛がってくれるので、おれは彼のことを、親しみを込めてニイニイ(母親の出身地である沖縄方言でお兄さんと言う意味)と呼んでいる。ちなみに、そのニイニイからはユウユウと呼ばれている。いい年をした男同士の呼び方ではないだろうが、おれたちは氣に入っている。

「あー、そうだ。しばらくうちで預かることになったんですよ、舞を」
 マットを敷きながら、世間話の続きをするかのように切り出した。ニイニイはすぐには氣付かず「へぇ」と声を漏らしたが数秒経って表情を変えた。

「……今、なんて言った? 舞って、おれの娘のことだよな? ユウユウの家にいるのか?」

「はい。今日からしばらくの間」

「何でまた鈴宮家に……? ってことは、翼も了解してるんだよな? あいつら、そんなに仲良かったっけ……?」

 明らかに混乱しているのが分かった。しかしおれからは細かい説明を挟まず、彼が自己処理するのを待った。

 考え込んでいる間に孝太郎さんがやってきた。普段は口数の多いニイニイがだんまりなのを見て不思議に思ったのだろう、ニイニイの肩をたたく。

「らしくないな。体調不良なら今日は休んだ方がいいんじゃないか?」

「いえ、体調は万全です。……実は今、ユウユウの家で娘の舞が厄介になると聞いたところでして」

「ああ、舞クンか。実は彼女に悠斗クンを紹介したのは僕なんだよ」

「ええっ!? どういうことですか?!」

 驚くニイニイに、孝太郎さんが先日の出来事を簡単に説明した。彼はますます混乱した様子で「なんで親より先にユウユウに引き合わせるです? 解せません」と不満げに言った。

「言わずもがな、僕が彼らとの交流を通じて変われたからだよ。きっかけは君だったかもしれない。だけど、鎧を取り去って裸の僕を受け入れてくれたのは間違いなく悠斗クンたちだからね」

「……だからって」

「舞も悩んでるんですよ」
 ここで一言挟む。ニイニイの目がおれに向いたところで続ける。
「今はまだちゃんと話せる状態じゃない。だけど時期が来たら必ず会いに行くよう言ってあるし、そのための地ならしはするつもりです。だから少しだけ待ってくれませんか?」

「……やっぱ、解せないな。なんで父親であるおれじゃなく、他人であるユウユウに助けを求めるのか」

 他人、と言う言葉を聞いて胸が痛んだ。思わず反論する。
「……分かりましたよ、舞がなぜニイニイを避けているのか。残念だけど、ニイニイがそういう発想でいるうちは、舞は戻らないでしょうね」

「なんでユウユウに舞の氣持ちが分かるんだよ?」

「そりゃあ……」
 答えを披露しようとして思いとどまる。
「まぁ、自分で考えてみてくださいよ。……さあ、雑談はこの辺にしておきましょう。そろそろ子供たちが来る頃です」

「ちっ……」
 ニイニイは舌打ちをしたが、一組目の親子が部屋に入ってくるのが目に入ったのか、それ以上話を続けることはなかった。



 クラブが終わった。普段なら全員で会員親子を見送るが、ニイニイだけは教室に残ったまま降りてこなかった。和やかな雰囲氣が売りの体操クラブなのに、困ったものだ。

「……伯父さん、今日はどうしたの?」
 察しのいいめぐが別れ際に尋ねた。めぐにとってニイニイは義父だが、伯父でもあるため未だにそう呼んでいる。

「……舞がうちにいることを話したんだ。そしたら機嫌を損ねちゃってさ」

「そっか。いつもと様子が違うと思ったら、喧嘩中だったんだ?」

「そこまで深刻じゃない……と思う。めぐたちが帰ったらもう一度話し合ってみるつもり」

「伯父さんも頑固なところあるからなぁ。どうしてもピンチの時は言ってね。私も力になるから」

「サンキューな。なるべく頼らないで済むように頑張るよ。それじゃ、氣をつけて帰れよ。まな、ママのことよろしくな」

「うん!」
 まなの頭をなでてからその後ろ姿を見送る。

「さて……」
 一服すると、孝太郎さんもふうっと息を吐いた。

「……いつも思うが、親子がわかり合うのは非常に難しいな。特に異性ともなると」

「そうですね……」

「今回の件、僕の出番はなさそうだ。悠斗クンに委ねてもかまわないかい?」

「もちろんです。事の発端は孝太郎さんだったかもしれませんが、受け入れたのはおれ自身ですから」

「ならば、僕は教室には戻らず、このまま一度、帰宅することにしよう。幸いにして自宅マンションは目と鼻の先だからね。話し合いが済み次第、連絡をくれ。手荷物の回収後、こちらで施錠しておく」

「氣を遣わせてすみません。助かります」
 礼を言うと、孝太郎さんは「頑張ってくれたまえ」と笑顔でいい、去って行った。

(……やれやれ。どう説明したらいいものか。)

 本来ならば人の親子関係に口出しをするのは御法度なのかもしれない。しかしおれは、翼とめぐ、彼らの亡き祖父母、そして高校時代の友人でもある彰博あきひろ映璃えりから野上家の一員だと公認されている。だからって言うのも変かもしれないが、おれはおれの信念に従って家族、、の舞とニイニイの関係を良好にするために動くつもりだ。



 教室に戻るとニイニイは黙々と片付けをしていた。

「手伝いますよ」
 見送りから戻った合図の代わりにそう言い、一緒に用具を片付けていく。

「……先輩は?」

「いったん、自宅に戻るそうです。……おれたちが話しやすいようにと」

「そうか……。なら、遠慮はいらないな」

 ニイニイはほっとしたように言うと静かにおれの前に立った。闘いを挑まれた、と直感する。こちらも正対し、じっとその目を見返す。ニイニイはおれに詰め寄りながら言う。

「ほんの数回しか会ったことのない舞をかばうのはなぜか、おれなりに考えてみたよ。で、最終的に、やっぱりユウユウの過去が関係していると結論づけた。……記憶違いでなければ、確か若い頃に娘を亡くしているんだよな?」

「娘を亡くしているのは事実です」

「詳しい時期は知らないが、成人してすぐに授かった子供だと仮定した場合、存命ならば舞と同年代ってことになる。つまりユウユウは、舞に亡き娘さんの姿を重ねているから今回、舞に救いの手を差し伸べている……。どうだ? おれの考察は間違っているか?」

「……全くもってその通りです。ただ、それに氣づいたのは手を差し伸べたあとのことですが」

「やっぱりそうか……。しかし、そうと分かれば尚更ユウユウのそばに置いておくわけには行かない。自分の過去を癒やす目的で舞を利用して欲しくはないからな」

 意外な言葉に驚き、動揺する。
「利用だなんて人聞きの悪いことを。そんなつもりは、これっぽっちもありませんよ……」

「ユウユウに自覚がなくても、おれはそう感じている。だから、舞がいま鈴宮家にいるって言うならこのまま一緒について行って舞を説得し、おれの家に連れて帰る」

「それはダメです。さっきも言ったじゃないですか。舞が会いたいと思えるまでもうちょっとだけ待ってくださいよ」

 しかしニイニイはおれの話を聞く氣がないようだ。ますます眉をつり上げてこちらを睨み付けてくる。

(こうなったら仕方がない……。あんまり言いたくなかったけど、奥の手を使うか……。)

 こちらも負けずに詰め寄り、きっぱりという。

「ニイニイはおれに嫉妬しているだけです。加えて、血のつながりのない男の住む家で自己を見つめ直したい、という娘が許せない。親の自分を差し置いてなぜ、と怒りに震えているのだとおれは思います。……ニイニイは人の役に立ちたいと思ったらとことん行動できる素晴らしい人です。しかし一方で、男としてのプライドの高さが悪い方に働くこともある」

「それのどこが悪い?」

「ニイニイはもう少し子供の目線で考えるべきです。このクラブがそうであるように。……まともに子育てしたことのないおれが言っても説得力ないかもしれないけど、少なくともおれはこう思います。子供は親が思っているほど弱くもないし、いつでも誤った方向に進んでしまうほど愚かでもないって。……今よりほんの少しでいい。子供の力を、舞の考えを尊重してみてはどうですか? 自分の娘なら、その能力を知っているはず。だったら信じられますよね?」

「くそっ……。なんでいつも、おれじゃなくてユウユウなんだよ……」
 ニイニイはうつむき、壁に拳をついた。

「娘を救ってやりたいという親心は痛いほど分かります。おれはそれが出来ずに十年以上苦しみましたから。でも、人には段階がある。自分の器が小さくて、そこに愛という名の水も入っていなければ誰かに恵んでやることは出来ない。おれはそれを野上家の人たちから教えてもらいました」

「おれの器が小さいって言いたいのかよ?」

「そうじゃありません。……まず、自分を愛するんです。人よりもまず自分を。そうすることでコップを愛の水で満たす。そこから始めるんです」

「自分……?」

「ええ。幼少のうちは親に褒めてもらえるけど、年齢が上がるにつれてそれは減り、大人になったら褒められることは皆無になる。それでもがむしゃらに、誰かのために生きなければ……と、自分をすり減らしてきたおれたちはそろそろ、自分で自分を褒めることを覚えた方がいいとおれは思います。馬鹿らしいと思うかもしれないけど、自分の内側に目を向けると今まで知らなかった自分と出会えます」

「お説教ならごめんだぜ。おれのことはおれが一番分かってる」

「本当にそうでしょうか。分かっているなら……」

 おれを羨むような言葉は出てこないはずだ、と言いかけて飲み込む。本音で語り合う必要があるのは確かだが、言い過ぎてしまえばおれたちの関係が壊れてしまう恐れもある。おれは言い負かしたいわけじゃないのだ。

「分かってるなら、なんだよ?」
 ニイニイは続きを知りたがったが、さっき言いかけたのとは別の言葉を探して発する。

「……少なくともおれたちは、舞から見れば人生の先輩です。感情のままに行動してもうまくいかないことがあるってことは経験的に知っているはず。……おれはニイニイと争いたくて舞を家に置いてるわけじゃありません。舞が自分と向き合う時間を持つための場所を提供しているだけです。それは分かってください」

「…………」
 ニイニイは考え込むように腕を組んだが、やがて顔を上げる。

「……分かった。少しだけ時間をとる。お互いのために。ただし、舞の心境に変化が現れたら都度、報告してくれ。それが絶対条件だ」

「……了解しました」

「それから……」
 ニイニイは人差し指をおれに向ける。
「万が一にも舞には手を出すなよ? 年頃の娘なんだからな!」

 なるほど。ニイニイが氣がかりだったのはそれか、と合点がいく。んな下心があるわけないだろ、と言いたいのをぐっと我慢し、「めぐもまなもいるから大丈夫ですよ」と適当に流した。

(やれやれ……。口うるさい父親を持つ舞は大変だな……。)

 その「年頃の娘」の失恋相手が自分の知っている人物だと聞いたらさぞ驚くことだろう。しかし彼の耳にそれを入れるのはおれではなく、舞でなければならない。

「……そろそろ帰らないと。家の仕事がいろいろあるもので」

 一応の決着を見たので、片付けを完了させて帰宅の準備をする。ニイニイは相も変わらず不満そうだったが、教室を出たあと、おれの後をついてくることはなかった。


16.<舞>

 まなちゃんが生まれたときはお祝い金だけ送った。その頃にはすでに忙しいことを理由に実家にもほとんど帰っていなかったから、ちゃんと会ったのはおそらく今回が初めてだと思う。

 学友から、赤ちゃんが生まれたから遊びに来てと連絡を受けても同様の理由で断り続けてきた。自分と同年齢、もしくは若い子の子供を見せられてもどう扱っていいか分からないし、結婚や出産への焦りが募るばかりで心から祝えそうになかったからだ。

 そんなわたしがいま、姪っ子のまなちゃんと一緒に遊ぶため、公園に来ている。人生、何が起こるか分からないものだ。

 宣言通り、まなちゃんはわたしをブランコに導くと立ち漕ぎの仕方を丁寧に教えてくれた。四歳足らずだというのに、もうこんな危険な遊び方を知っているのかと驚かされる。しかし、完全に大人目線の発言だが、まぁ実に上手に漕ぐのだ。危なさを感じさせない安定した漕ぎっぷりに感心してしまうほど。

「マイマイもやってみて!」

「よーし!」
 まなちゃんに言われ、交代してブランコに乗る。わたしだって昔はよく立ち漕ぎをしていたから乗れるはず……。

「あ、あれっ……?」
 ところがイメージ通りに行かない。当時より体が大きくなったせいか、はたまたブランクのせいか……。わたしの腕や膝はぷるぷると震え、漕ぐどころじゃない。

「あー、だめだ……。おねえちゃん、ブランコ乗れなくなっちゃった」
 これ以上恥をかく前にギブアップすることにした。

「じゃあ、いっぱい練習しようね!」
 まなちゃんはそう言いながら再び立ち漕ぎを始めた。わたしはその隣のブランコに腰掛け、両足を地面についたまま前後に揺らし、遊ぶ。

 幸いにして公園にはわたし以外の監督者はいない。通行人も見当たらない。聞くなら今がチャンスかもしれないと、わたしはずっと氣になっていたことを尋ねることにした。

「……ねぇ、どうしてまなちゃんは悠斗さんのことをお父さんって呼ぶの? 本当のパパがいるのに。それとも……」

 問いながら、実の父親は悠斗さんなのでは? などという疑念が浮かび、慌てて口を閉じる。そんなことを想像しているとは思いもしないであろうまなちゃんは、純粋にわたしの質問に答える。

「お父さんはお父さんだからだよ。まなちゃん、夢で見たんだもん。生まれる前からずっと、お父さんのこと知ってたんだもん」

「知ってたってことは……もしかして前世の記憶が残ってるってこと?」

「……ぜんせ、ってなあに?」

「あ、そうか。うーんと……」
 子供が分かるような言葉を選ぶのって難しい。

「今のまなちゃんとして生まれる前の人生があったのかなって。例えば……お父さんの子供として生きたときの思い出があるのかなって思ったんだけど」

 先日、みんなで温泉施設に行った際に盗み聞きした話を思い出しながら言うも、まなちゃんからは「わかんなーい」と言われてしまった。

「そうだよねぇ……」

「だけど、お父さんが言ってたよ。お父さんにはマナ、、って名前の子どもがいたって。まなちゃん、その子のこと知ってるって言ったらビックリしてた」

「え? 知ってるの?」

「だって、おぶつだんに飾ってある写真の子、見たことあるもん」

「……もし会えるとしたら、もう一度その子に会ってみたいと思う?」

「ううん」

「なんで?」

「だってその子、死んじゃったんでしょ? もういないんだもん。会えないよ」

 その言葉を聞いてはっとした。なぜわたしは過去のことを根掘り葉掘り聞き出そうとしていたのか……。

「そうだよね……。死んじゃった子にはもう会えないよね。だけどお父さん、お仏壇に写真を飾ってるってことは、今も会いたいし、寂しいと思ってるんじゃないかなぁ?」

「さびしくないって言ってたよ。今は、まなちゃんたちがいるからって」

「まなちゃんたちがいるから……かぁ」
 その言葉から察するに、悠斗さんは過去とはすでに決別して今を生きている、と言うことなのだろう。

 だが、悠斗さんがそう言えるようになるまでにはきっと長い年月が必要だったに違いない。未だ仏壇に手を合わせているくらいだもの。だからこそ、その言葉には重みがある。わたしが失恋や親子関係で悩んでいるのとは訳が違う。

 ……違うけれど、わたしはわたしなりに傷ついた過去を乗り越えなければならない。たとえ時間がかかったとしても。

 とりあえず、今はまなちゃんと遊ぶことに集中しよう。多分、それが今一番大事なことだと思うから。

「……よーし。おねえちゃん、ちょっとやる氣出てきたよ。まなちゃんは走るの好き? 公園一周するの、どっちが速いか競争しようよ」

 提案するとまなちゃんはにこやかに笑い、ブランコからびょんと飛び降りた。
「いいよ! まなちゃん、足はやいんだよ?」

「ほんと? 負けないぞー! よーい、ドン!」

 話に乗ってきたまなちゃんと同時に走り出す。幼児に負けるはずないと高をくくっていたら、本当に速くでビックリする。

「まなちゃん先生、おいてかないでよぉ」
 泣き言を言ってもまなちゃんはキャッキャと笑うだけで力を抜いてはくれない。本当に、いつも全力で生きているんだと痛感する。力をセーブしながら生きてるわたしとは大違いだ。

(わたしってば、いつも何に怯えていたんだろう? 何に遠慮しながら生きていたんだろう? ……本当の氣持ちを抑えてまで得ようとしていたことって何だったんだろう……?)

 心の奥がモヤモヤした。そのモヤモヤの奥から本当のわたしが何かを訴えようとしているような氣がした。

(もうちょっと……。もうちょっときっかけがあれば掴める氣がする……。)

「ゴール! マイマイ、もう一回走ろうよ。次も負けないからねー」
 ぼんやりしながら走っていたら、いつの間にかまなちゃんが一周し終えていた。

 子供相手に本氣を出したら大人げないと思っていたけど、そっちの方が実は失礼な発想だったことに氣付いた。子供だからって下に見てはいけない。

「次は負けないんだから!」
 これでも日々トレーニングしている野球女子なのだ。走りには自信がある。

「あ、マイマイの目、キラキラしてる! お父さんたちとおんなじ!」

 まなちゃんがわたしの目をのぞき込みながら言った。嬉しくなったわたしは、今度はしっかりアキレス腱を伸ばしたり足首を回したりして走る準備をし、よーいドンの合図と同時に真剣勝負の走りをした。



 何周か走った頃、公園のフェンスの向こうから自転車のベルの音が聞こえた。

「あ、ママだっ!」
 疲れ知らずのまなちゃんが全力疾走で彼女の元に向かう。めぐちゃんはゆっくり自転車から降り、まなちゃんを抱き留めた。

「舞ちゃん、今日からだったんだね。遠くから見たとき、まなが誰と遊んでるのか分からなかったよ」

「おかえりー。お仕事お疲れ様。しばらくの間お世話になります。よろしくね。ところで……」
 わたしはめぐちゃんの乗ってきた自転車に目を向ける。
 
「……自転車、乗るようになったんだね。前は怖がっていたのに」

「ああ……。まながいるからねぇ。ちょっとお出かけの時に自転車くらい乗れないと不便だなぁって。三輪だけどね……」

 めぐちゃんは生まれつき足が悪く、それを理由にずっと自転車に乗らない生活をしてきた。もっとも、周りがそんな彼女のサポートをしてきたから乗る必要はなかったのだが、どうやらまなちゃんのいる生活が彼女を変えたようだ。

「ねえ、ママ。きょうはね、マイマイもようちえんにお迎えに来てくれたんだよ? お父さんと二人で来てくれたんだー」

「えっ、そうなの? だけどどうやって……?」

「マイマイがいつのも自転車で、お父さんがバイクに乗ってきた!」

「いつものって、ママチャリ? 舞ちゃん、あれに乗ったの? わぁ、いきなり頑張るねぇ」
 めぐちゃんは目を丸くして言った。

「あはは……。さっそく悠斗さんにしごかれてます……」

「とかなんとか言っちゃって、もう我が家での生活、楽しんでるでしょ? 顔ににじみ出てるよ」

「え? そう?」
 思わず顔に手を当てると二人に笑われた。しかし嫌な感じはしなかった。
「もう、なによぉ!」
 わたし自身も笑う。すると今度は道の向こうから悠斗さんがやってきた。

「あ、噂をすれば」

「なんだ、めぐもここにいたのか。時間になっても帰ってこないから心配してたんだぜ?」

「ごめんなさい。そろそろ出る時間だよね? 私たちも出発しないと……」

「ああ……」
 うなずいた悠斗さんがわたしの顔をじっと見る。

「あ、あの……。なにか……?」

「お前、さっきよりいい顔してるよ。まながうまくやってくれたみたいだな。いい調子だ」

 笑顔で褒められたので照れくさい。そんなことないです、と言おうとしたらわずかな差で悠斗さんに先を越される。

「……そういうわけで、おれたちは体操クラブがあるから舞は留守番を頼む。で、早速で悪いけど、留守番の間に夕食の買い出しと下ごしらえをしといてくれ。メニューはいったん家に戻ったときに教えるから」

「……え?」
 昼食の時にわたしは料理が苦手だと言ったばかりなのに、いきなり晩ご飯の支度を任されて動揺する。

「えーと……。わたしが作ったら味の保証は出来ませんよ……?」

「大丈夫だよ。今は調べりゃどんな料理も作り方が分かる時代だ。それを見ながらやれば問題ないよ」

「えー……」
 自信のない声を出したら悠斗さんに真顔で説教される。

「舞。うちに来たらうちのルールに従うことだ。おれだって最初は下手くそだったって言ったろう? やればやるだけうまくなるんだから、とりあえず今日から頼むぜ」

「はい……!」

「よし、いい返事だ」

 悠斗さんはそう言うと、くるりと向きを変えて自宅に向かいはじめた。めぐちゃんとまなちゃんも彼について行く。

 わたしは最後尾を歩きながら思う。一人なら自分のことだけ考えていればいいけれど、家族がいたら常に共生を考えなければ一つ屋根の下では暮らせない。十代の頃はそれが煩わしく思え、一日も早く一人暮らしがしたいと願ってやまなかったが、こうして鈴宮家かぞくの輪に加わってみると、複数人で暮らすってのも悪くないなと。そう思えるのはきっと、彼らがわたしを客と見なさず、家族の一員として受け入れてくれているからに違いない。

(直感は正しかった。ここにいたらわたし、きっと変われる……。)

 ずっと、あらがいようのない力に押されるがまま歩んできた人生だった。立ち止まったり踏みとどまったりするという発想すら湧いてこなかった。でも今ようやくわたしは立ち止まり、自分の頭で考えて次に進む道を自分で選び取ろうとしている。

(戸惑うことだらけだけど、ここにいる間は頑張ってみよう……。)
 彼らの背中を見つめながら一人、決意を新たにした。




第三章(約61,000字)

17.<さくら>

 麗華ちゃんたちの家に出入りするようになって二ヶ月近くが経った。私の絵は相変わらず進歩がないが、サザン×BBビービーの音楽を間近で聴く機会が増えたからか、はたまた彼らの明るさに影響されてか、以前よりは自分に自信が持てるようになった氣がしている。そのせいか、オーダーメイドで請け負っている絵の注文も少しずつ増え、収入もアップしている。麗華ちゃんたちには本当に感謝している。


◇◇◇

 今日は、久しぶりに長めの休みが取れたから遊びにおいで、と自宅に招待されている。ここ数週間は遠方の県のイベントに出かけていた彼らだが、ずっと引きこもって絵を描いていた私よりもずっと元氣なことに驚かされる。

「なんでそんなに疲れ知らずなの?」
 疑問を投げかけると「そりゃあ、人生楽しんでるもの!」と笑顔で返された。

「あとは恋してるからかな? さくらちゃんも恋すれば疲れ知らずになれるのに。その後はどうなのよ、ユージンとは?」

「ええっ?! なにもないよ……」

 ユージンさんは麗華ちゃんのことが好きなのに何を言ってるの? という言葉は飲み込むことにした。私たちの会話が聞こえたのか、リオンくんがやってくる。

「相変わらずだなぁ、姉さんは。そりゃあ、年齢差を思えば当然の反応だけど、兄ちゃんはマジなんだぜ? もうちょっと配慮してやってもいいんじゃね?」

「あたしはなにも、ユージンを拒否したくてそう言ってるんじゃないのよ? むしろ、さくらちゃんと取り合うくらいの氣持ちでいるんだけど。その方が盛り上がるじゃない?」

「私は恋愛ゲームなんてしたくないんだけど……」

「オレも同感。麗華さんへの思いは、リオンも言ってたけどマジっすよ?」
 やはり聞いていたようで、ユージンさんも会話に加わった。

「あら、ユージン。聞いてたの?」

「聞いてたの? じゃないっすよ……」
 ユージンさんはいつも麗華ちゃんに軽くあしらわれているが、それでも果敢に思いを伝えに行く。その根性は私も見習わなくてはいけないな、と思う。

 ただいまー。

 玄関から智篤さんの声と、ビニール袋がすれる音が聞こえた。買い出しから戻ったようだ。

「あ、私、荷物を受け取ってきますね……」
 居心地の悪い現場から逃げ出すように玄関に足を向ける。
「手伝います」

「サンキュー。自転車のかごにもまだいくつか積んであるんだ。それを頼む」

「わかりました」
 外に出ると、声の出ない拓海さんが、荷物の重みでひっくり返らないよう自転車を支えていた。すぐに荷物を下ろし、大量の食料を家の中に運び入れる。

「ものすごい量ですね……」
 顔を見ると、みんな大食らい、大酒飲みだからな、と口が動いた氣がした。

「自転車、片付けておきますね……」
 さっきの輪の中には戻りたくなかったので進んで仕事を引き受けた。不純な動機から行動しているとは思いもしないであろう拓海さんは、ありがとうと口を動かして家の中に戻っていった。

 自転車を所定の場所に移動させようとスタンドを蹴り上げる。と、家の前の通りを歩く同年代の女性と小さな女の子の話し声が聞こえた。何の氣なしにそちらを見たら、氣まずいことに目が合ってしまった。普段なら百パーセント目をそらす。が、よく見てみれば私はその女性を知っていた。思わず声が出る。

「野上舞さん……!」

「え、水沢さくらさん?! なんでこんなところに?!」

「なんでって……」
 一体どこから話せばいいやら……。

「……実はここ、サザンクロスの三人が住んでる家なんですよ。あのとき話したと思うけど、レイカは私の伯母だし、あれからいろいろあって、サザン×BBのアルバムのジャケット作りを手伝うことになったものですから……」

「はぁっ?! レイカ、こんな近くに住んでるの?!」

 異様な驚き方だと思いつつ、こちらも質問する。
「……そういう舞さんはなんでこんなところに?」

「わたしのほうは、今は訳あって、この近所に住む兄夫婦の家で厄介になってるからだけど……」

 なるほど。今自分がいる兄夫婦宅のご近所に麗華ちゃんたちの家があると聞いたからあんなに驚いていたのか。

「えー? ちょっとちょっと。戻ってこないと思ったら、なによぉ。お友達?」
 そこへ渦中の人物、麗華ちゃんが登場した。

「ほんとにレイカだ……」

「あー! レイカちゃんだー!」
 後ずさりした舞さんとは対照的に、連れの小さい子は麗華ちゃんにすり寄った。

「あら、まなちゃんお久しぶり。……ってことは、こちらはめぐさんのご親戚かな?」

「麗華ちゃん、この子と知り合いなの……?」

「コウちゃんのお友達の子だからね。一緒に遊んだこともあるのよ? ねー?」

「うん!」

 コウちゃんというのは、父の大親友で麗華ちゃんとも親交のあった元プロ野球選手、永江孝太郎さんのことだ。

(そうか……! そういうことだったんだ……!)

「この前のライブ会場だった市営球場って、もしかして麗華ちゃんが永江さんに頼んで貸し切ったの……?」

「んー? 直接頼んだのはあたしじゃないけど、大元を辿ればあたしがコウちゃんと繋がっていたから借りれたと言えるかもね」

「やっぱり!」
 ここですべてが繋がった。


◇◇◇

 時は今から半年ほど遡る。私と舞さんとの出会いはサザンクロスの球場ライブ。席が隣同士だったとはいえ、人見知りの私がなぜ外で初めて会った人と仲良くなったのか。その原因は間違いなく父親にある。

 突然のトラブルで電気系統がすべて落ちたライブ会場。そこで登場したのが父をはじめとする元野球部のおじさんたちだった。彼らは持ち前の明るさと大きな声を活かして前半のライブを混乱なく締めくくることに貢献した。

 それは、いい。問題はそこではなく、サザンクロスのライブに私の父と舞さんの父が突如として現れたことなのだ。

 なぜ感動的なライブのあとで、よりによってずっと疎遠になっていた父親の姿を見なければいけないのか……。事情を知らなかったその時は思いがそのまま声となって漏れた。私も舞さんも、同時に。

 そこで私たちは初めて互いを認識し、奇しくも父親同士が同じ高校の野球部員だったことを知った。こんな偶然ってあるだろうか? 私たちは不思議な出会いに縁を感じ、初対面ながら後半のライブが始まるまでの間、父親に対する不満の数々を語り合ったのだった。

 電話番号は交換したものの、その後は麗華ちゃんたちに引っ張られる形で忙しくなり、そのときのことはすっかり忘れていた。なのにまたこうして再会するなんて……。これはもう、運命としか思えない。

 まさか麗華ちゃんもそう思ったわけではあるまいが、幸運なことにまさに私が言いたかったことを提案してくれる。

「もしお時間があるならちょっと上がっていかない? あたしたち、これからお菓子パーティーをしようと思ってたところなの」
 その手にはすでにいくつかのお菓子が握られている。

「まなちゃん、おかし食べたーい!」

「えーっ?! あっちの公園に行くんじゃなかったの?」

「まなちゃん、レイカちゃんのおうちがいい!」
 直後に家に向かって走り出したおちびちゃんを追いかけるべきか、それとも叱るべきか、悩んでいる様子の舞さんは遠慮がちに麗華ちゃんを見た。

「あのー。ご迷惑じゃ……」

「誘ってるのはこっちよ? ぜーんぜん構わないんだから」

「じゃあ、ちょっとだけ……。でも、悠斗さんに連絡だけ入れさせてください」

 舞さんは申し訳なさそうに言うと、スマホを取り出して電話をかけた。呼び出し音が鳴っている間、麗華ちゃんが思い出したように言う。

「……悠斗さんって、あの方よねぇ? もしそちらさまもお時間があるなら呼んでちょうだいな。人数は多い方が楽しいから」

「ええっ……? あ、悠斗さん? 急に電話してすみません。実は……」
 舞さんは電話のこちら側でペコペコ頭を下げながら事情を話した。短い会話の後、通話が終わる。
「……すぐに来るそうです。っていうか、まさか悠斗さんとレイカが知り合いだったなんて。一体どういう関係なんです?」

「まぁ、それは彼が到着してからゆっくり話すわ。あたしも、あなたとさくらちゃんの関係を聞きたいし。さぁ、そうと決まれば中に入って」

「あ、はい……。お邪魔します……」
 舞さんはまたもや頭を下げ、家に上がった。



18.<舞>

 正直な話、混乱と不安でいっぱいだった。理由はいくつもある。

 まず一つは、ここが父の住む実家からほど近い場所にあると言うこと。二つ目は、昔から好きなレイカが、なぜか父の尊敬する永江孝太郎氏と繋がっていること。三つ目は、一期一会と思っていたさくらさんと再会を果たしたこと。

 これらから言えるのは、わたしはこれ以上父を無視できない、ということだ。どれを取っても、父、父、父……! すべてがあの人と繋がっているのだから……!



 鈴宮家で厄介になり出して二ヶ月あまり。ここでの暮らしは少しずつ慣れてきたものの、未だ実家に顔を出すには至らない。というのも、暮らすために必要な最低限のスキルを身につけるのがやっとの状態で、それ以外のことに思考と労力を割く余裕が全くないからだ。

 いわゆる「今ここを生きている状態」でそれ自体は非常によい。明らかに心身が安定してきたと感じてもいる。しかしこう言っては何だが、今日のこの出会いはそんな幸福な日々を打ち壊す出来事だった。

 十分ほど経って悠斗さんがレイカの家に到着した。お菓子に夢中のまなちゃんを部屋に残して一人、玄関先で彼を迎える。

「早かったですね」

「お前から緊急電話をもらったからな。バイクで駆けつけてやったぜ」

「え……。そんなに焦ってましたか、わたし」

「そうでなくてもお前の実家は目と鼻の先だからな。そりゃあ氣にもなるさ」

 さっきの電話でそこまで分かってしまうのか……。さすがは悠斗さん。誰からも一目置かれる存在と言うだけのことはある。そこへレイカがやってくる。手には缶ビールが握られている。

「お久しぶりー。駆けつけ一杯のビールはいかが?」

「いえ、せっかくですがバイクで来てるし、長居するつもりもないので」

「なーんだ。一緒に飲めると思ったのに、残念! じゃあ、あなたが代わりに飲んでよ、舞さん。ね?」
 両手で挟み込むように缶を握らされては断ることなど出来なかった。



 通されたのは、どこにでもある普通のリビング・ダイニング。音楽家の家なのに、ソファの脇に一本だけギターが立ててある以外に楽器は見当たらない。聞けば音楽スタジオがあり、楽器はすべてそこに置いてあるのだという。あとで見せてあげる、とのことだった。

「翼が聞いたら羨ましがるかな。あー、でもあいつ。憧れの存在は遠くから見る方がいいって言ってたっけ? じゃあ、お邪魔したことは三人だけの秘密にしとくか」

 悠斗さんは兄に配慮しようと考えているようだが、わたしなら絶対に自慢する。だって目の前には、子供の頃から兄と共にその歌声を聞いてきたレイカとその仲間たちがいるんだもの。悠斗さんが見ていないところでこっそり自慢してしまおうかな、などと意地汚いことを考える。

「ところで、サザンクロスのライブは悠斗さんたちもなまで聞いてたんですか?」
 居候になっている間は誰も話題にしなかったし、わたし自身も鈴宮家での新しい暮らしに忙しくしていたからすっかり忘れていた。

「もちろん。翼がレイカの大ファンだからな」

「そのレイカとは、どういう経緯で知り合いに……?」

 さっきの話では彼女から話してくれそうな雰囲氣だったが、今はあちらの方で飲むのに忙しくしているので悠斗さんから聞いてしまおう。

「順に話すと、まずは麗華さんが孝太郎さんの友人で、その孝太郎さんと親しくなった翼が長年のレイカファンだと知って引き合わせてくれたところから、かな。まぁ、おれは本当に顔見知り程度だけど、翼の方は仲間の二人とも直接話したことがあるって聞いてるよ」

「お兄ちゃん、すごっ……」

 感心していると、「舞がレイカファンだと知ってたら、孝太郎さんに頼んでもっと早く会う機会を作ってやったのに」と言われてしまった。

「わたしはほら……。お兄ちゃんの隣で聞いてただけのにわか、、、ファンだから……」

「にわかファンがわざわざライブに足を運ぶとは思えないけど?」

「……ちょうどその日が空いてたから行っただけです!」

「ったく、素直じゃねえな。そういう性格、嫌われるぜ?」

「嫌われて結構です!」

「やれやれ……。だけど……」
 ここで話が思わぬ方に急展開する。
「現地に行ってたなら驚いただろう? 突然、父親がグラウンドに姿を見せたときは」

「…………!!」
 出た。ついに出た! やはり私は父から逃れられない運命なのだ、と確信する。どう返事をしたらいいものか分からずに口を閉ざしていると、ほろ酔いのさくらさんが歩み寄ってきて話に加わる。

「それですよ、それ……!! もしご存じなら教えてくれませんか? なぜあの場に父が姿を現したのかを。……はっきり言って父の登場は、最高のラストを飾ったライブを台無しにしてしまいました……。あれがなければ本当に素晴らしいライブだったのに……!」

 初対面のさくらさんからいきなり「父親」の話をされた悠斗さんは首をかしげた。
「ええと……? おれたちが話していたのは野上路教氏のことだけど、そっちの言う父親ってのは……?」

水沢庸平みずさわようへいのことです……!」

「へえ! 水沢さんの娘さんだったのか!」
 悠斗さんはそう言ったあとで「こんな出会い方があるんだなぁ」と一人、うなずいた。

「水沢さんならおれも知ってるよ。だけどあの人が父親だって言うならそこにもっと近い人がいるじゃん。麗華さんそっちに聞いた方が早いんじゃないか?」

「……麗華ちゃんに尋ねたりしたらすぐに会うよう言われるのがオチです。私は父に会いたいんじゃなくて、なぜあの場にいたのか知りたいだけ。それが分かれば充分なんです」
 さくらさんはレイカに聞かれないよう、声量を抑えながら言った。

「……ったく。なんだってこう、元野球部の父親ってのは子供とうまくやれないんだか」
 心当たりがあるのか、悠斗さんはぼやいた。

「……さくら、って言ったっけ? どうしてそんなに父親を毛嫌いするんだ? 舞もそうだ。彼らが不器用だってのは認めるが、どうもそれ以外の理由がある氣がしてならない」

「そりゃあ……」
 わたしたちは目を合わせたが、酔っていて口が軽くなったさくらさんから先に愚痴をこぼし始める。

「父に見捨てられたからに決まってるじゃないですか。社会人野球チームに入ってまで野球をするような人ではありましたが、だからって私が成人すると同時に離婚して、世界の野球を見て回る旅に出ることないじゃないですか。家族よりずっとずっと野球が大事なんだとそのとき確信しましたね。あの日以降、私は父を恨んでいます。もし会いたいと言われても一生会う氣はありません!」

「ふーん……。じゃあ舞の方は?」

「え、わたしですか……?」
 続けて話すよう促されて戸惑いながらも、父がわたしのことを半分、男だと思って接してきたこと、そして「翼と性別が逆だったらよかったのに」と言われるのが心底嫌だと言うのを理由に挙げた。

 わたしたちの発言を聞いた悠斗さんは腕を組んでため息をついた。

「……二人にひとこと言わせてもらいたいんだけど、それってさ、どっちも今から十数年も前のことだろう? 父親たちが、今でも当時と同じ氣持ちでいるとは限らないんじゃないか? お前らが成長したように、あの人たちにもいろんな出来事があって成長してるとおれは思うよ」

『…………!!』
 わたしたちは再び顔を見合わせて、そんなはずはない! と抗議しようとした。しかし悠斗さんが先に言葉を継ぐ。

「おれは両方のことを知ってるからさ……。父親が娘を思う氣持ちってのも分かる。無論、お前らが拒否してる段階で無理やり会わせようなんて無粋な真似はしないが、ここで会ったのも何かの縁だ。おのおので、あるいは二人でよくよく話してみてくれないか。……そう。おれたち世代はもう頭が固くなっちまってるんだ。だから子供の方から歩み寄ってやらないと一生、すれ違ったまま最期の日を迎えることになるだろう。それでもいい、ってんならこれ以上、おれから言うことはない。でも、最期の日に後悔したくないとわずかでも思うなら考え直してみて欲しい」

 まさかこんなところでお説教をされるとは思ってもみなかった。
(わたし今、レイカの家にいるんだよね……?)
 一瞬、何もかもが分からなくなる。家主レイカたちの声すら遠くに感じられた。

(父が娘を思う氣持ちが分かる……ですって? まともに子育てしたことのない悠斗さんに何が分かるって言うの……?)

 無性にイライラしてきたわたしはぶんぶんと頭を振り、レイカたちのいるテーブルに混ざって新たな酒缶を取り、プシッと開けて飲み干した。その飲みっぷりを見た一同が歓声を上げたが、喜ぶ彼らを完全に無視してさくらさんの腕をとる。

「こうなったらこの前みたいにとことん語り合いましょ! 悪いけど悠斗さんは先に帰ってください。いたら邪魔なので!」

 言い放つと、悠斗さんは半分呆れた顔をして席を立った。
「おう……。ごゆっくり。まなも連れて帰ろうか?」

「そうしてもらえると有り難いですね!」

「了解。そんじゃ、まな。お菓子を少しもらったらお父さんのバイクに乗って帰ろうか」

「ええっ?! 乗せてくれるの?!」

「ただし! エンジンはかけずに押して帰る。それでも危ないことには違いないから、お父さんにしっかりしがみつくことが条件だ。……ママとパパには内緒だぜ? 約束できる?」

「うん!」

「よし、それじゃあ行こうか」
 まなちゃんをお菓子の山から引き離せるとは……。悔しいけれど、やはり悠斗さんはわたしなんかよりずっとまなちゃんの相手が上手じょうずだ。娘の氣持ちが分かる、というのはあながち嘘ではないのかもしれない……。

 悠斗さんたちが帰宅するのを見送ったわたしはもう一本、缶ビールをもらうとその足でレイカの前に立った。

「ちょっといいですか? わたしたちの父親のことで聞きたいことがあるんです」

「さっきさくらちゃんが尋ねてきたライブの件かしら? いいわ。そこであなたたちの出会いについても聞くことにしましょう。……みんなー。球場ライブの振り返りタイムよー。ここに集合!」

 部屋の各所に散らばっていたメンバーが、レイカの一声でリビングのソファ周辺に集まった。



19.<ユージン>

 ――父親たちの登場は、停電という緊急事態が発生したことでやむなく行われた特別な演出であり、彼らにとっても寝耳に水の話だった……。

 そんな説明を受けたさくらさんと舞さんの顔には「なぜ?!」という文字が浮かび上がっていた。何がそんなに氣にいらないのか。尋ねようとした瞬間、二人は同時に席を立ち、引き留めるまもなく外に出て行った。

 仕方なく麗華さんに問う。

「……一体、何にあんなに怒っているんでしょうか。さくらさんの父親って、麗華さんの弟さんなんですよね? 昔から険悪な関係だったんですか?」

「険悪って言うか……。まぁ、こればっかりは親子で解決してもらうしかないわよね。……夢を追いかけることと円満な家庭を築くこと。両立させるのは思っているより難しいみたい。そんなこともあるから、ミュージシャンのあたしはずっと独り身を貫いてる訳なんだけど。やっぱり、自分ことだけを考えてすべてを決められるってのは、精神的に楽よ」

「ああ、そういうことですか……」
 話を聞いて自分の生まれ育った家のことを思い出した。

 音村おとむら家は両親ともに音楽家。母親の方は声楽家で、父親の方はドラマー。楽しい家だったが生活は常にギリギリ。そんなこともあってオレたちには将来、音楽家以外の職について欲しいというのが母親の口癖だった。

 そんな母親の思いに反し、オレたちきょうだいはドラマーの父親と一緒に楽器に触れて育ち、今に至る。一応、今は全員が独身だし、それなりに売れているから認めてくれてはいるが、家庭を持つようなことになったらきっと母親は再び「心配」を振りかざして口出ししてくるだろう。

 そんなオレと、野球一筋の父親を持つさくらさんや舞さんは、実は同じ悩みを持っている者同士なのかもしれないと思った。

(あーあ。やっぱり放っておけないんだよなぁ……。)

「……ちょっと、二人のこと見てきます」
 お菓子パーティーの続きが始まる中、オレはひとり、家を抜け出して彼女たちを探した。

 土地勘のない場所で当てもなく歩く。無謀なことをしているなと思ったが、十分ほど歩いたところで小さな公園のベンチに腰掛ける二人を見つけた。安堵し、近づく。

「ここにいたんっすね。探しましたよ」

「あ、ユージンさん……」
 さくらさんは立ち上がり、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさい、急に家を飛び出したりして。もうちょっと話したらすぐに戻りますから」

「いや……。オレは別に二人を連れ戻したくて追っかけてきたわけじゃないっすよ。ただ単に……二人の境遇がオレと似てるなと思ったら放っておけなくて」

『え?』
 二人は同時に声を発し、顔を見合わせた。二人から何度目かの「なぜ?」が出る前に、オレは自分の生まれ育った環境について簡潔に語った。

 すると、同意どころか反論される。
「ユージンさんはいいじゃないですか。親御さんと同じ道を歩んでいて成功もしているんですから。見捨てられたわけでもないんでしょう? 私とはまるで違います」

「うん、うん。父親に認められてるって時点でわたしたちとは真逆だよね」

「ん?」
 舞さんの言葉を聞いて、ピンときた。
「……もしかしてお二人って、父親に自分のアイデンティティーを認めて欲しいんです? さくらさんは画家として、舞さんは女として」

『ん??』
 今度は二人が唸った。そしてしばらく黙り込んだ。

 その様子を見てオレは、きっと核心を突いたのだ、と思った。悩みの大元が分かれば話は早い。

「やっぱ、似てます。オレんちと。……うちの父親も不器用な人でした。言葉で説明するのが本当に下手クソで。だけど代わりに音楽で自分の思いを伝えてくれた。おかげでオレたちはわかり合うことが出来たんです。……そう。言葉ってのは、あえて言おうとすると照れくさいですが、歌に乗せたり絵にしたりすれば、あるいは無言でキャッチボールとかすれば、案外すんなり伝わるもんだとオレは思うんです。でもそれすら避けてたら、やっぱりわかり合えない。少なくともどちらかが歩み寄る姿勢を見せないと、それこそさっき悠斗さんが言っていたように一生すれ違ったまま最期の時を迎えてしまうと思います」

 三人の話に聞き耳を立てていたのがバレたかな、と思ったが指摘はされなかった。

 しばらく黙っていた二人だが、そのうちに舞さんから疑問を投げかけられる。
「……ユージンさん自身は、お母さんが心配していたように、音楽の道に進んだら食べていくのもやっとかもしれないって思わなかったの? わたしみたいに、企業勤めしながらサブで好きなことをする道だってあったんじゃない? ……ああ、言ってなかったと思うけどわたし、とある企業の社会人女子野球チームに所属してるんだ」

「もちろん、そういう道も選択肢に入っていましたよ。フツーの人生ってのに少しばっか憧れがありましたから。何せ両親とも音楽家だし、年がら年中バンドマンがやってきてはどんちゃん騒ぎしてるような家でしたからね。クラスメイトと同じように、どこかの学校に入るために塾通いしたり資格を取ったりすればフツーになれるんじゃないかと考えた時期もありました。それが高三の時です」

「そう思っていたのなら、なぜ今の道に……?」

「ウイングのライブを見て心が揺さぶられたから。ああ、ウイングって言うのは、拓海さんと智さんが二人で組んでたエレキバンドです。ほらオレ、エレキ弾きだからめっちゃ感化されちゃって。オレもあんなふうに弾けるようになりたいと思ったのが一番の理由です」

「それだけの理由で……?」

「それだけ、じゃダメなんですか? だって人生は一度きりですよ? 音楽やってて楽しそうな親を見て育ってるし、やっぱり音楽がないと生きていけないって思ったから。舞さんだってそう思ったから今でも野球を続けているんじゃないんですか?」

「否定はしないけど……。今はわかんなくなっちゃった。それを確かめるための休職なんだけどね……」

「あ、休職されてるんですか……」
 聞いちゃいけないことに触れてしまったかな、と反省する。しかし次の瞬間、自分でも予期せぬ言葉が口をついて出る。

「お時間があるんだったら今度、オレたちの音楽を聴きに来ませんか? 四月にライブハウスで行われる春の音楽夜祭スプリング・ナイトフェスに出演予定なんです。さくらさんのライブペイントもありますよ。生歌、生演奏を聴けば、オレみたいに人生が開けるかもしれません。まだチケットは残っていたはずですからこれを機にどうです?」

「ライブ……ペイント……?」
 その言葉が初耳だったのか、舞さんは首をかしげた。さくらさんが自ら説明する。

「あー。ユージンさんたちの奨めで、下書きなしで音楽からインスピレーションを受けて絵を描く、ってのを始めたんです。まだ手探りではあるんですが……」

「へぇ、面白そう!」

「なら、決まりですね。是非遊びに来てください」

 自分で誘っておきながら思う。また自分から面倒ごとに首を突っ込んでしまった、と。そうすることで、時に寝る時間すら満足にとれないほど忙しくなるのは分かっているはずなのに、ひとこと言わずにはいられない衝動に駆られるときがある。我ながら困った性格だ。

「あーっ! マイマイがいるー!」
 そのとき、公園のフェンスの向こうから小さい子の声がした。先ほど帰ったはずのまなちゃんだった。後ろにはママチャリを押す悠斗さんがいる。

「マイマイも遊んでたの?」

「ううん、おしゃべりしてただけ……。って言うか、なんでここに? 家に戻ったはずじゃ……?」
 舞さんはその問いを悠斗さんに投げかけた。

「まなの氣まぐれってやつだよ……。思い出したように、『やっぱりあっちの公園、、、、、、に行く』って言い出して。まぁ、オレも暇だから自転車で改めてやってきたって訳。まさか舞がいるとは思わなかったけど。……察するに、父親の話に嫌氣がさして家を出てきた、ってとこかな?」

「……悠斗さんには関係ないでしょ」
 舞さんは拗ねた子供のように顔を背けた。そんな彼女の手をまなちゃんが引く。

「マイマイ、一緒に遊ぼー。おねえちゃんも!」

「ええっ? わ、私も?」
 さくらさんも巻き込まれ、三人はベンチを離れて向こうの滑り台に行ってしまった。

「やれやれ……。ええと……。ユージンさん、だっけ? 舞の面倒を見てくれてありがとな。本当はおれが見なきゃいけないんだけど、どうしても小さい子優先になっちまってな……」

 今日初めて会ったばかりの悠斗さんに礼を言われたオレは、どう返事をしたらいいものか悩んでしまった。

「いや……。オレが好きでやってることなので氣にしないでください」

「面倒見がいいんだな」

「やんちゃな双子のきょうだいが下にいるもので……。でも、面倒見がいいって言う意味ではあなただっておんなじじゃありませんか」

「おれは、相手が本当の自分を取り戻すための手伝いをしてるだけだよ。どうやらおれの言葉には人生観が変わるほどの影響力があるらしくてな。そのせいか、舞の兄貴も、麗華さんの友人の永江孝太郎さんも出会ったときとはまるで別人になったよ」

「すごい! それって、まるでオレがウイングのライブで人生変えたのと同じじゃないっすか! あなたは一体……?」

「おれ? おれは何者でもない、ただの鈴宮悠斗すずみやゆうとだよ」

「何者でもない……ですか」
 謙遜しているのだろうか。いいや、違う。何者でもない自分に誇りを持っていなければこんなに堂々と発言することは出来ないだろう。麗華さんもあっさり家に招き入れているし、やはりこの人、ただ者じゃない。

 拓海さんや智さんとは違う大人の魅力を持つ悠斗さんに興味が湧く。もっと話がしたいと思っていると、お菓子パーティーをしているはずのみんながゾロゾロとやってきた。

「え、なんでここに……?」

「ユージン一人にさくらちゃんたちの面倒を見させるなんて無責任じゃない? って話になってね。こうして探しに来たのよ」

「あー、別に問題ないっすよ。悠斗さんが来てくれたんで」
 ほんのり赤ら顔の麗華さんに向かって返事をした。

「なーんだ。それじゃあみんなで出てくることなかったかな……。ま、いっか。酔い覚ましってことで。あら、まなちゃん。また会っちゃったわね」

「レイカちゃんも遊びに来たの? じゃあこっち! ブランコしよー!」

「ブランコ? じゃあ後ろから押してあげる。今ブランコに乗ったら氣分悪くなりそうだからー」
 まなちゃんは本当に氣を許しているようだ。麗華さんを友達のように誘い、遊び始めた。

 女性陣がキャッキャと笑い合う姿をぼんやり眺めるオレに対し、悠斗さんは実に幸せそうな顔で彼女らを見つめている。

「なんだか嬉しそうですね?」

「ああ。やっぱり女たちが元氣だとこっちも元氣になれるからな。……舞もさくらも、多分まなに癒やされてる。これでいいんだ」

「……深いですね」

「深い? まぁ、そう思うならそれでもいいけど。要は、こうやって老いも若きも一緒になって生きてる今が幸せってこと。おれはそれを野上一家いっかから教えてもらったんだ。本当に面白い一家いっかだよ。ずっと一緒にいても飽きない」

「へぇ……。てっきり悠斗さんが周りに教えを説いて回ってるもんだと」

「まさか。おれは変えさせられた方。これでも壮絶な人生を送ってきてるんだよ」

「その、壮絶な人生ってのに興味があります」

「話すのは構わないけど、三日三晩はかかるぜ? 何せおれの半生を、順を追って話すことになるわけだからな」

「尚更聞いてみたくなりました」

「おれの人生に興味を持つなんて、変わってるな。ユージンさんは」

「あー、ユージンでいいです」

「んじゃ、次からはそう呼ぶよ」

「……で、どんな半生を送ってきたんです?」

 酔ったオレがしつこく問うと、悠斗さんは少し考えてから「ざっくり言うと、自分の命や人生について思い巡らす機会を与えられた後半生だったよ」と語った。

「あとは、家族を持つことの意味と大切さを学んだかな。おれ、今の家族が氣にいってんだ。血は繋がってないし、みんな常識外れだけど、それが心地いいんだ」

「分かるかも。オレの場合はバンドが家族みたいなものですね。一緒にいると楽しいし安心します」

「うん。……別にさ、完璧にわかり合えなくってもいいんだ。喧嘩だって大いにすればいい。でも、本当に大事なのは言葉に出さない部分で何を思っているかってこと。そういうのこそ言葉にすると安っぽいからな。あえて言わずに、感じる。まぁ、これが難しいんだけどな」

「今の言葉、さくらさんや舞さんに聞かせたいっすね」

「いや、今言ったって受け入れてはもらえないだろう。分かるようになるのはもうちょっと先だ。まぁ、焦ることはない。おれは時間をかけて舞を説得していくつもりだよ」

 オレなら問題は一刻も早く解決したいと思ってしまうが、相手の氣持ちが変わるのをゆっくり待てるなんて、さすがは年長者。惹かれるのはきっとそういう余裕があるからなのだろう。

「舞さんだけじゃなく、さくらの方も説得してもらえると有り難いんだけどな」
 そこへ智さんと拓海さんがやってきた。二人はオレらが腰掛けるベンチの前にしゃがみ込んだ。
「だって君は、庸平くんとも親しいんだろう? なんとかならないか?」

 智さんたちは球場ライブの件でさくらさんの父、水沢庸平氏の世話になったと聞く。
 悠斗さんは少し間をおいてから答える。

「舞の父親や、永江孝太郎氏、ワライバのオーナーと関わり合う中で自然と知り合ったってところでしょうか。一緒に飲んだこともあります。そのときは、娘とは連絡も取れないし、会ったところで何を話したらいいか分からないと言っていましたね……。まぁ、今回こんなふうに縁が繋がったので、おれの方からそれとなく話題を振ろうかとは思っています」

「頼むよ。さくらの才能を開花させる鍵は父親との和解だと思ってるから……って拓海が言ってる。あー、こいつ、レイちゃんにそっくりだからか、結構あの子のこと氣にかけてるんだ。……頑張ってるさくらを応援したいだけ? まぁ、そういうことにしておくか」

 拓海さんの手話を通訳しながら智さんが語った。

「さっき少し話してみて、さくらが素直でいい子だ、ってのは分かりました。舞と同じような悩みを持ってるとも感じたので、おれに出来ることはやってみようと思います。……それはそうと、さっきユージンから聞いたんですが、昔はウイングって言う名前で活動してたそうですね。彼の人生を変えたというウイングの歌を是非一度、目の前で聴いてみたいもんです」

 悠斗さんが期待のまなざしを向けると、智さんがにやりと笑った。

「さくらの救済を依頼した僕らに歌を要求するとは。君はなかなかいいセンスをしているな。オーケー、それならうちの音楽スタジオに招待しよう。調子がよければ拓海の生歌も聴けるかもしれない」

 突然そんなことを言われた拓海さんは目を丸くし、顔の前で手を横に振った。全力で否定するその顔が必死すぎて、オレも悠斗さんも思わず笑う。が、ひとしきり笑ったあとで悠斗さんがすっと真顔になる。

「……ユージンは幸せだな。こんなに面白い『家族』と一緒にいられて。これからも大事にしろよ。いつこの幸せな日々が終わるか、分からないんだから」

 平穏な時が永遠ではないことを突きつけられ、表情を失う。怯えながら小さな声で「はい」と返事をすると、拓海さんに肩をたたかれる。

 ――大丈夫さ。俺はまだまだ死ぬ氣、ないから。この人はきっと、今日が最期の日だと思って毎日を全力で生きろって言いたいのさ。……言われなくてもユージンはそうやって生きてるだろ? それでいいんだ。――

「……そっか。オレたちミュージシャンは、音楽を奏でることで毎日『今、ここ』を生きてる。それが、さくらさんたちにはまだ分からないってことか。……いつか、分かる日が来るといいな」

 ――そうだな……。さて。そんじゃあ家に戻るか。――

 立ち上がった拓海さんは麗華さんたちに帰宅を促し、自宅へと足を向けた。みんなそろって同じ家に向かう様が家族のように見えた。



20.<悠斗>

 まなの誕生日が過ぎ、桜の季節になった。満開の桜を見るといつも思い出すのは、しばらくの間一緒に過ごしていたオジイのこと。めぐや翼、舞の祖父に当たるオジイは数年前、みんなで楽しく花見をしたあとに亡くなった。残してきたオバアを氣にかけ、たびたび家に姿を現していたオジイだが、最後にはオバアを連れて旅立ち、それ以後は見かけていない。


◇◇◇

 先に話したとおり、この時期は野上家が勢揃いして花見をしながら宴会するのが恒例だったが、今年は中止となった。妊娠が発覚しためぐの体調を氣遣って……と説明されたが、毎年音頭をとっているニイニイと舞の父子おやこ問題が未解決であることが最大の理由だろうと推測している。

 とはいえせっかくいい季節だし、宴会ではなく、純粋に花見をしに行こうか。鈴宮家でそんな話をしていた矢先のこと――。

 穏やかな日曜の昼下がりにインターフォンが三回、続けて鳴った。こんな呼び出しをする人物は一人しかいない。居間でくつろいでいたおれと翼、めぐの三人は目を合わせ、すぐに舞を立たせた。

「ど、どうしたの……? 急に慌てちゃって」

「どうやら父さんが訪ねて来たようだ。まだ顔を合わせられる状況じゃないんだろ? だったらダイニングルームに避難しておけ。一体何をしに来たのやら……。とにかく、いい知らせじゃないのは間違いないだろう」

 兄である翼の言葉を聞いた舞はギョッとし、逃げるようにダイニングルームに引っ込むと、勢いよくドアを閉めた。

「ええと……。伯父さんのことは二人に任せちゃって大丈夫かな? 私は舞ちゃんを安心させたいから、まなと三人で一緒にいようと思うんだけど」

「ああ、そうしてやってくれ。なんなら翼も舞のそばに……」

「いや、俺はもう和解してるから大丈夫……。って言うか、これは勘だけど、父さんなら俺も面会した方がいい氣がするんだ」

「オーケー。それじゃ、おれたち二人で迎えよう」 そんなやりとりをしている時間すら待てないのか、再び三度、インターフォンが鳴った。

「どう考えても父さんだよな、あれは……。せっかちで困るよ、ほんっと」 翼があきれ顔でいい、めぐたちが避難したのを確認してから直接玄関に顔を出した。

「いるんなら早く応対しろよ……。こっちはいてるってのに……」
 ニイニイはイライラした様子で言った。自ら面会を買って出た翼だが、父親が初っぱなからこんな調子なので早速ため息をついた。

人の家ひとんちに来て最初に言う台詞がそれなの……? マジで迎え入れる氣ぃ失せるんだけど……!」
 ややもすると扉を閉めようとする翼を後ろから制する。おれにはニイニイが慌てている理由がすぐに分かったからだ。

「落ち着け、翼。……今日の来客はニイニイ一人ひとりじゃない。どうやら……オジイとオバアも一緒のようだ」

「ええっ?」
 翼は辺りをキョロキョロと見回した。そんな孫に微笑んだかと思うと、オジイとオバアはおれに正対し、にこやかに手を振った。おれには視えていると確信している証拠だ。

路教みちたかに、舞ちゃんのことでいろいろ言ってやろうと思ったんだけど氣付いてくれなくてねぇ。挙げ句の果てには怖がっちゃって……』

『全くだ。情けないったらありゃしない。それで悠斗さんのところに行くよう仕向けたんだ。済まないね、悠斗さん。こんな息子だが、ちょっとばかり、じいちゃんたちの説教に付き合ってはもらえんか?』

「はぁ、そういうことですか……。分かりました。まぁ、とにかく中へ入ってください。……ああ、おれはニイニイに言ってるんですよ? どうぞ」

 おそらく二人には独り言にしか聞こえていないだろう。しかしおれにはその姿が視えるし声も聞こえるから仕方がない。ニイニイは「やっぱりそうだと思ったんだよ……」とブツブツ言いながら家に上がった。



「で、両親はなんて言ってんだ? 言うとおりにするから、部屋のものを勝手に動かしたり足音を立てたりするのをやめろって言ってくれよ……。おっかなくて夜も眠れやしない……」
 居間に通すと、ニイニイは座布団に座るなりそう言った。オジイオバアに目を向けると、二人は互いに顔を見合わせた。

『わたしたちが伝えたいのはたった一つ。舞ちゃんに自分の価値観を押しつけないでってこと。舞ちゃんには舞ちゃんの生き方があるし、これからの時代に沿った価値観を持って生きていって欲しいからねぇ』

『うむ。父親として心配する氣持ちは分かる。じいちゃんもそうだったからな。だけど――これは死んでから分かったことだが――どれだけ心配したって、子供は子供の信念でもって人生を決めていくものなんだよ。路教は、自分がそうして生きてきたことを忘れているようだから、それを思い出して欲しいと伝えてくれないか』

「なるほど……」
 二人の言葉をそのまま伝えた。

「……そうは言うけど、父親なら子供の幸せをせつに願うだろう? 翼の時は、相手が十一歳も年下の従妹いとこってことで氣を揉んだけど、結婚する氣があるって点では安心していたんだ。無事にまなちゃんが生まれて、この秋には二人目も誕生するんならもはや心配することは何一つない。……それに対して舞はどうだ? そろそろ結婚の話があってもいいんじゃないのか? 舞より五つも下のめぐちゃんに二人目の子供が生まれるってのに、恋人のこの字も聞こえてこない……」

 ニイニイから舞の結婚を憂う言葉が飛び出したのを聞き、おれも翼も顔を見合わせた。きっと舞は、おれたちの知らないところで父親から、あるいは母親経由でそれとなくこのような話を聞かされていた……。だから家に寄りつかなかったに違いない。

 案の定、翼がかみつく。
「舞は父さんの教えた野球を一生懸命やってるじゃん。なのに不満があるわけ? おれの時もそうだった。従妹との結婚は非常識だーとか、男のくせに幼稚園の先生になるなんてーとか。どうしてそうやって自分の型に子供を当てはめようとするかなぁ?」

「おれの型じゃない。おれはただ、お前らには一般的な生き方をして欲しいだけだよ。そこから外れれば必ず苦労する。不必要な苦労をして欲しくない。それだけのことなんだよ」

「不必要な苦労? それこそ父さんの経験や思い込みじゃないの? 余計なお世話だね!」

「……翼とじゃ、話にならない。ユウユウはこの件についてどう思う? ユウユウならもう少し客観的に見れるだろう?」

 らちが明かないと思ったのか、ニイニイはおれに話を振ってきた。しかしおれだって翼とそう変わらない意見を持っている。

「……ニイニイはもう分かってくれたもんだと思ってましたが、違ったようですね。未だおれたちの生き方を理解できていないんですから。舞が話したがらないのも、オジイとオバアが霊界から降りてくるのもうなずけます」

「……んだとぉ?!」

「……おれは偉そうに言える立場には全然ないけど、結婚適齢期になったから結婚して子供をもうけるってのは、今の時代にはそぐわないとおれは思います。翼とめぐは縁があったから家庭を持ったけど、今は自分の人生を優先する人も多い。年齢だけを氣にして結婚を語るべきではないと思うんですが……」

「そ、そりゃあそうかもしんないけど……。そうだ……! 舞には……舞自身には焦りがあるんじゃないのか? だから仕事に打ち込めず、こんなところにいるんじゃないのかよ?」
 追い込まれたのか、ニイニイはここにいない舞を引き合いに出した。「こんなところ」で悪かったな、と思ったがそれは黙って聞き流すことにする。

「否定はしませんが……。答えは舞自身が出さなければ意味がありません。少なくとも焦りや不安があるうちは何も解決しないでしょう。ただ、舞はずいぶん癒やされてきています。新たな出会いも刺激になっているようだし、ニイニイが過度に刺激しなければ近いうちに話し合いの席にもつけると思っています」

「まるでおれが余計なことをしに来たと言わんばかりだな」

「拗ねないでくださいよ。誰もそんなことは言ってませんって……」
 その場にいる全員がため息をついた。しびれを切らしたのか、オジイがニイニイの後ろに回った。

『お前はただ子供たちの幸せを望めばいいんだよ』

『そうですとも。子の成人後、親に出来るのは見守ることだけ。……そりゃあ、血を分けた子供というのはかわいいし、手を焼きたくなるけれど、つばさっぴも舞ちゃんも、もう自分で自分の人生を切り開く力を持ってる……。悠斗さん。路教に、子供たちの力を信じなさいと伝えて頂戴』

 二人の想いをおれから伝える。するとニイニイはハッとしたように顔を上げた。

「それって、この前ユウユウが言ってたことと一緒じゃねえか。つまりあれか? おれには子供を信じて見守る胆力が足りねえと?」

 オジイとオバアがうなずくのに合わせておれも首を縦に振る。苛立つニイニイに追い打ちをかけるように翼が苦言を呈する。

「父さんは極端なんだよ。完全無視か、めちゃくちゃ氣にかけるか。もっとこう……バランスよく接することって出来ないもんかなぁ?」

「おれは中途半端は嫌いなんだよ。すべては『やるか、やらないか』のどちらかしかない。人生は有限なんだぜ? 悩んで立ち止まってる暇はない。舞にはさっさと、復職するなり転職するなり結婚するなりを決めてほしいもんだ」

 いかにも野球人らしい、根性論が語られた。オジイやオバアが霊界から降りてきてまで言ってもダメ。この頑固頭はそう簡単には変えられそうもない。誰もが諦めかけたとき……。

「それが出来ないから悩んでるんじゃない! お父さんはわたしの氣持ちなんて一個も分かってない! 出て行って! 二度とここへ足を踏み入れないで!」

 ドアが開いたかと思うと舞が涙目で訴えかけた。そばに寄り添うめぐとまなも、舞に同調するように目を潤ませている。そんな女たちの顔を見てしまっては、これ以上話を長引かせることは出来ない。

「……ニイニイ。聞いたとおりです。今日はこれで帰ってください」

 しかし彼はおれの言葉を無視し、舞に向かって問う。
「……舞。おれの何が氣にいらないってんだ? はっきり言ってくれ。そうしたらおれも……」

「言わなきゃ分からない鈍感な野球人なんて大っ嫌いっ!!」
 舞は顔を真っ赤にしてそう叫ぶと、その場でわんわんと泣き始めてしまった。おれと翼は不服そうなニイニイをなんとか家の外に連れ出した。

『あとはじいちゃんたちがなんとかする。力不足で申し訳なかったね……』
 霊体のオジイがニイニイの体を押せるはずもないが、その言葉が聞こえたあと、ニイニイはなぜか素直に我が家から去って行った。



 部屋に戻っても舞は大声で泣いていた。あんまりひどいので思わずめぐに助けを求める。
「……めぐ。舞が飛び出すのを止められなかったのか?」

「止めようとはしたんだけど、舞ちゃん、いても立ってもいられなくなったみたいで……」

「あー……」
 舞が最後に放った一言にすべてが集約していたように感じた。ニイニイが訪ねてきたことで治りかけていた失恋の傷が再び開いてしまったかもしれない。

 感情が爆発してしまうほど精神的に不安定なら、いよいよ専門家に頼った方がいいのでは……? そんな思いがよぎる。幸いにしておれの友人かつ舞の叔父、野上彰博あきひろの職業はカウンセラー。舞の状況は伝わっているはずなので、話せばすぐに対応してくれるだろう。

 少し経って鳴き声がやんだ。タイミングを見計らってそっと声をかける。
「なぁ、舞……。このあと一緒に行ってみないか? お前の本当の氣持ちを受け止めてくれる人のところに」

「そんな人、どこにも……」

「いや、いるよ。おれたちと、お前の叔父だ」

「あっ」
 舞は声を漏らし、「そうですね……」とつぶやいた。翼が深くうなずく。

「そうだな。アキにいならきっと適切なアドバイスをくれるはず。かく言う俺もアキ兄の言葉には何度も救われた。悠斗だって」

「ああ……。あいつは信頼できる。途中でニイニイに鉢合わせるのが嫌だといえばあいつの方から来てくれるかもしれない」

「……こっちが相談に乗ってもらうのに? アキ兄さん、そんなにわたしのこと、甘やかしてくれるかな?」

「もし渋ったら、私からひとこと言ってあげる。かわいい娘の頼み事なら絶対に断れないはずだもん! だから、話を聞いてもらおう?」

 めぐの一言で心が決まったようだ。舞は涙を拭き、「アキ兄さんに会わせてください。お願いします」と言って頭を下げた。


21.<さくら>

 スプリング・ナイトフェスまで半月はんつきを切った。出演時にサザン×BBビービーが披露する曲も正式に決まり、後はそれに向けた練習をするのみとなっている。

 かくいう私は、即興で絵を描くだけなので事前に準備するものはないが、どの曲からもインスピレーションを受け取れるようにと、彼らの練習には必ず参加するようにしている。

 今日もそのつもりで早めに彼らと合流したのだが、早すぎたのか、ブラックボックスの三きょうだいはまだ到着していなかった。手持ち無沙汰にしていると、麗華ちゃんに声をかけられる。

「あー、そうだ。忘れないうちに言っておくけど、さくらちゃんがうちに出入りしてること、あなたのお父さんに話したからね」

「ええっ?!」
 あまりにも突然の話に驚きを通り越して怒りを感じた。しかし彼女はしれっとしている。

「隠しても仕方がないと思ってね。一応、さくらちゃんが今どう感じているかは伝えたし、庸平ようへいの方から謝るように伝えておいたから大丈夫」

「そういう問題じゃ……」
 そこへ、そばで聞いていた智篤ともあつさんがやってくる。

「レイちゃんは、庸平くんと同居中の永江くんをスプリング・ナイトフェスに招待したいのさ。だからその前にすべてを話しておこうと思ったんだよ」

 永江さんは父が中学生の頃からの野球仲間であり親友だと聞いている。その関係で麗華ちゃんとも親交があり、今でも度々顔を合わせては歌を披露しているそうだ。

「……今の話だと、父は招待していないってことですよね? でも、同居人の永江さんがフェスに来れば、彼経由で私のことが父に伝わるのは明白。だから、先に言っておこうと?」

「頻繁に会ってることは内緒にしておこうと思ったんだけどね……。後になってごちゃごちゃ言われるのも面倒くさいなぁって。……さくらちゃんから連絡を取る氣もなさそうだし」

「…………」

 正直な話、会ったところで話すことなど何もない。お互いに元氣でやっていることが分かったならそれで十分ではないか……。

「あっちから連絡があるとは思えないけど。その氣があるなら十年も音信不通になるはずないもの」
 思っていることを素直に語ると、麗華ちゃんに呆れられた。

「そうやっていつまでも拗ねてるつもり? あなたも大人なんだから、少しでも思うところがあるなら面と向かって言いなさい。本当は寂しかったんだとか、もっと一緒にいたかったとか、あるんでしょう?」

「…………」
 私は黙り込んだ。たとえそのような感情を抱いたとしてもそれは過去の話。今更そんなことを言ったって無意味だし、あちらだって困るだけだろう。

 フェスに出演することで麗華ちゃんたちのお手伝いが出来るなら……と、ここまでやってきたが、彼女のいらぬお節介には失望した。おもむろに席を立つ。

「どこに行くの?」

「……ちょっとだけ氣分転換してくる」

「そう……。あ、そろそろユージンたちも来るころだから、途中で会ったら一緒に戻っておいで」

「…………」

 返事をせず、スケッチブックと水彩色鉛筆の入ったバッグを持って玄関を出た。



 どこに行く当てもない。ぶらぶらと氣の向くままに歩いて行く。

 麗華ちゃんの家に通うようになって久しいが、実は寄り道をしたことはなかった。小道に入ると古い家が立ち並ぶ住宅街が、そしてそこを過ぎると今度は土手に突き当たる。

(土手を上がったらスケッチにぴったりの景色が見られるかもしれない……!)

 風景画は私の得意分野。モヤモヤした氣持ちを払拭したくて急いで土手を駆け上がる。しかし、目の前に広がる景色を見てがっかりした。土手下の河原で少年野球チームが練習試合をしていたからだ。

(お父さんのことを忘れたいのに、どうして、ここでもまた野球なのよ……。)

 麗華ちゃんの話では、世界中の野球を見てきた父は現在、仲間と一緒に少年野球チームを主宰しているという。もしかしたら今、私の目の前でプレーしている少年たちの中に父が紛れているのではないかと思ったが、私の視力の問題か、あるいは全く別のチームだからか、父を見つけることは出来なかった。

 土手の縁の芝生に腰掛ける。とりあえずスケッチブックと色鉛筆を取り出してみるが、絵を描く意欲はわいてきそうにない。膝を抱え、ぼんやりと遠くを眺めていると急に肩をポンッと叩かれた。

「なーに、してんの?」
 声をかけてきたのはリオンくんだった。驚きのあまり、どう返事して良いか分からなくなる。

「どうしてここに……? って言うか、お一人ですか?」

「まさか。兄ちゃんとセナはあっちにいるよ」
 彼の指さす方を見ると、確かにきょうだいの姿があった。

「……ったく、だけど何でおれが声をかけなきゃなんないんだか。心配なら兄ちゃんか、セナがすりゃあ良いのに……」
 そう言いながらもリオンくんはその場に腰を下ろした。
「……約束まで少し時間があるからって寄り道した場所でさくらさんに会うとは思ってもみなかったけど。まぁ、いいや。……こんなところにいるってことは、そっちも氣晴らしなんだろう?」

「氣晴らし……のつもりだったんですけど、あれを見たら余計にイライラしちゃって……」

 今度は私が土手下を指さす。リオンくんは「あぁ……」と声を漏らした。
「……もしかしてあの中に父親がいるとか?」

「いいえ、そういうわけじゃないんですけど」
 私はためらいながらも、麗華ちゃんが父とコンタクトをとり、私と会わせようとしていることを話した。

「……前から思ってたんだけど、なんでそんなに父親を嫌ってるわけ? 今更会っても話すことないって思ってるならそんなに怒ることもないと思うけどなぁ。もっと別のところに原因があるんじゃねえ?」

「別の原因……? 例えば……?」

「んなの、おれには分からないけど、よくうちの親が言ってたのは、反発したくなったときに出る言葉ってのは腹で思ってることと真逆なんだって。だから、歌や音楽はおなかの声をよく聞いて作りなさいって。さくらさんの場合も、会いたくないってのは建前で、ほんとのほんとは会いたいって思ってんじゃないかな。まさか! って今思ったろ? そういう反応をしたくなるときほど自分の心を見つめろって言われたもんだよ」

 思いがけない言葉に戸惑う。

(私が会いたがってる、ですって……? 家族をあっさり解散した薄情者のお父さんに……? そんなわけないじゃない……!)

 しかし心の中で反発するうち、どういうわけか悲しくなってきて胸が苦しくなる。そんな私にリオンくんが優しい言葉をかけてくれる。

「……心は正直なんだよ。我慢すればするほど、押し殺せば押し殺すほど身体は硬くなるし、表現するのも下手になる。アーティストならもっと自分の思いを外に出した方が良いぜ。……ああ、そうそう。そんなあんたのためにセナが一曲作りたいって言うんで、一緒に作ってるんだ。まだ仮なんだけど、今日はそれを聞いてもらおうと思って」

「えっ!! 私のために曲を……?!」

「みんな、救いたいと思ってんだよ、さくらさんのことを。だからそっちも少しはおれたちの想いに応えてくれると嬉しいんだけど!」

 リオンくんの言葉には少しとげがあるように感じたが、その顔は穏やかだった。

「ごめんなさい、いつも心配をかけてしまって……。私、もうちょっと頑張らないと、ですね……」
 申し訳なさで一杯だった。何度も頭を下げると、ため息が聞こえた。

「あー、もう……! そういうのやめて欲しいんだよな。あと、敬語使うのも!」

「えっ、でも私たちはお仕事仲間で……」

「初対面ならともかく、頻繁に顔を合わせるようになった時点で、まぶだち、、、、みたいなもんだろ? っていうか、敬語ってだけでものすごく疲れるんだよなぁ。今後はセナと話す時みたいに砕けた感じで話せない? おれ、年下なんだし」

 そんなふうに言われたのは初めてだった。と同時に、彼らとはもっと近しい関係性を築いてもいいのだと知って嬉しくなった。彼は続けて言う。

「言っとくけど、この先も長く付き合いたいと思える人にしかこんなこと、言わないから。それと、言っても無駄だと思う人に対しては基本、言わない主義だから。……言いたいこと、分かるよな?」

 こくんと頷く。
「分かりました……じゃなくって……。ありがとう、リオンくん。それじゃあお言葉に甘えて、今後は友達みたいな感じで声をかけさせてもらうね」

「そうそう、そういう感じでよろしく……。って、もういい……? おれ、頑張ったよ……?」

 リオンくんが振り向くと、ユージンさんとセナちゃんが笑いながら近づいてきた。

「やるじゃん、リオン。曲を作ってることを伝えるだけじゃなくて、言葉遣いまで改めさせるなんて」

「うんうん。これを機に二人の仲も深まっちゃったりして……!」

「おいっ、セナ! 変なこと言うなよっ!」
 拳を振り上げたリオンくんとは対照的に、私は冷静に言葉を返す。

「そうだよ、セナちゃん。私がみんなといるのはあくまでも仕事だから。これが終われば私はまた絵の世界に戻っていくつもりよ」

「そうかなぁ? アタシには、二人はとってもイイ感じに見えたけどなー」

 麗華ちゃんと言い、セナちゃんと言い、どうしてこうも私に恋愛させたがるのだろう。彼らが素晴らしい人であることに違いはないが、だからといって勧められてすぐ恋愛感情を抱けるものではない。

「……そろそろ戻ろうかな。時間に遅れると麗華ちゃん、うるさいから」
 話を切り上げる意味も込め、私は腕時計を見やった。

「……ナイス、さくらさん! 行こう、行こう!」
 リオンくんは嬉しそうにいい、すぐさま土手を駆け下りた。


22.<舞>

 悠斗さんから連絡を受けたアキ兄さんは二つ返事で来てくれた。わたしが我が儘な振る舞いをしたばっかりにいろんな人を巻き込んでしまって申し訳ない氣持ちで一杯。にもかかわらず、鈴宮家ここのうちの人たちは相談しやすいようにと配慮までしてくれた。ここまでしてもらったらもう、アキ兄さんには胸の内をすべて打ち明け、解決まで導いてもらおうと思う。

「すみません、お休みのところ」
 家族が居間から退出し、二人きりになったところでまずは詫びる。

「いやいや、連絡をくれてよかったよ。実はずっと氣にかけていてね。仕事で話を聞くわけじゃないからゆっくり耳を傾けられる。氣が済むまで話してごらん」
 アキ兄さんはいつもと変わらぬ優しいまなざしを向けながら言った。

 その優しさに感動しながらも、わたしはポツポツと、父に対する思いやここで厄介になるに至った経緯を話した。

「そういうことだったのか……」
 一通り話し終わると、アキ兄さんは何度も頷いた。
「昔から兄貴は、一度思い込んだらなかなか言うことを聞かない性格だからね……。僕も君のおばあちゃんも、兄貴の性格にはずいぶんと悩まされたものだけど……。お母さんにこの話はしたのかな?」

「心配をかけたくないから、細かい話はしてません。そもそもお母さんは、わたしが決めることに対しては全肯定してくれるので、逆に、悩みを打ち明けても『相談』って感じにならないんですよね……」

「ああ、確かにそういうところ、あるよね……」
 アキ兄さんは母のこともよく知っている。彼はまた何度も頷いた。

 しばらくの沈黙の後、彼が意を決したように口を開く。
「……まだ好きなんでしょ、圭二郎くんのこと。なのに、内側に想いを閉じ込めてるからいつまでもここでくすぶってるんだと僕は思う。だから、お父さんの言葉も素直に受け入れられないし、前に進む一歩も踏み出せない。……別に、君を責めてるわけじゃない。ただ僕は、自分の本当の氣持ちに、君自身が氣付いて認めてあげて欲しいと思って言ってるだけなんだ」

 悠斗さんから聞いてはいたが、アキ兄さんの言葉は的確すぎて胸が痛んだ。が、父から言われたときのような反発心はなぜか湧いてこなかった。

「だけど、婚約者がいる彼に今更わたしの想いを伝えたって意味ないじゃないですか……」

「理性の部分でそう思っているから、本当の君が病んでしまってるんじゃないかな? ……まぁ、手前味噌だけど僕は高校生の時、映璃エリーが悠と別れる前に告白して、そのあとも想いを伝え続けて、付き合った後もずっとずっと好きだと言い続けて、ようやく結婚に至ってる」

「えっ、そうだったんですか! それと知ってて悠斗さんは未だにエリ姉さんを口説き続けて……?」

「そう! 呆れちゃうでしょ……? だけど、それが自分に正直に生きるってことだと僕は思うんだ。周りにどう言われようが、後ろ指を指されようが、自分の人生にケチをつけられるのは自分だけだって、悠は割り切ってる。ある意味かっこいい生き方だと僕は思うし、今では尊敬すらしてる。だから安心して娘のめぐを一緒に住まわせてるし、君のお兄さんの翼くんも信頼しているんだと思うよ」

「確かに、悠斗さんってなぜか分からないけど、この人といれば安心って思わせてくれる何かがありますね。お父さんにはないけど……」

 最後の言葉に、アキ兄さんはくすりと笑った。

「……もちろん、人と違うことをするのは怖いし、拒まれるのが分かっていながら突撃するのは勇氣が必要だ。行動に移した後は確実に傷つくだろうしね。だけど……。これは兄貴の座右の銘だけど、『しないより、する』ほうが結果的に自分を救うことになる。最後には、傷ついた以上に得るものがある。実体験から、僕はそう断言するよ」

「……悠斗さんも同じことを言っていました。自分の内側としっかり話し合って、それでやっぱりあいつを愛してると分かったら告白すればいいって」

「さすがは、僕の大きな息子、、、、、。内面を見つめる大切さをちゃんと相談者に伝えられるなんて、成長したな、悠も」

 ことある毎に悠斗さんをいじるアキ兄さんの発言に再び笑いが込み上げてしまった。

「……だけど、内側の自分と話すってどうしたら出来るんですか? それがよく分からなくて……。聞いたら答えてくれるものなんですか?」

 こんな初歩的なことを聞いて笑われるんじゃないか、と思ったが、アキ兄さんは丁寧に教えてくれる。

「そうだね。はじめは難しいと思う。でも、頭で考えるからそう思うだけで、実際にはすごく簡単なんだ。……まず、目を閉じて、胸に手を置く。心臓の鼓動をしっかり感じながらリラックスして……」

 言われたとおりにする。静かな室内で心臓と呼吸音だけが聞こえる。

「身体の音に集中できたら、そっと問いかけてみるんだ。どんなことからでもいい。例えば、本当は圭二郎くんとどうなりたかったの? とか、お父さんになんて言って欲しいの? とか。問いかけてみて、最初に浮かんできた言葉が君の本当の氣持ち。それが現れたら次に、じゃあどうしてそう思ったの? なぜ、なぜ、って繰り返す。そうすることで最終的には封じ込めてきた想いにたどり着くことが出来る」

 君が答えにたどり着くまで僕は待ってる。アキ兄さんがそう言うので、わたしは彼の目の前で自分への問いをすることになった。

 何から聞けばいいのかさっぱり分からなかったので、例題をそのまま使わせてもらうことにする。

(……ねぇ、舞。あなたは本当は圭二郎とどうなりたかったの? 付き合って、結婚したかったの?)
 しばらくすると、ある想いが湧いてくる。

 ――ただずっと、そばにいたかった。楽しい時間を過ごしたかった。

 言葉が聞こえたわけではなくただ、そう感じた、、、、、、と言った方が正しい。続けて問う。

(楽しい時間を過ごしたかっただけ? どうしてそう思ったの? やっぱり……愛しているから?)

 十数秒後に返ってきた答えは意外なものだった。

 ――わたしのことを本当に大事にしてくれる人だから、そばにいるだけで心が安らぐの。でもそれは、恋とは少し違う。お父さんからもらえなかった愛情を彼に見いだした。だから惹かれたの。

 どういうこと……? 戸惑いながらも再び問う。

(だけど、お父さんだってずいぶん優しくしてくれたじゃない? わたしに野球を教えてくれたし、ライバル視してる友人の子供たちにも頻繁に会わせてくれたよ?)

 ――そう言いながらも、今回のことではずいぶん怒ってるのはなぜ? 分かっていないようだから教えてあげる。舞はね、お兄ちゃんのように振る舞ったらお父さんに嫌われるって思い込んだ。だから、自分の中に芽生えたある感情、、、、を封印して野球をすることを選んだのよ……。

(えっ? 何よ、ある感情って……。野球以外に興味なんて……。あっ……!)

 本当の自分に言われて唐突に思い出した。しかし、確信が持てない。

(……そ、そりゃあ、わたしだって一度や二度は、お兄ちゃんみたいにギターの弾き語りが出来たらかっこいいなぁって思ったことはあるし、その延長でレイカの曲もよく聴いてたわけだけど……。)

 ――思っただけで、やってみたいと言ったことは一度もないでしょう? もちろん、野球以外に興味の向くことはないのかって聞かれたこともない。なのに、三十歳になった途端、恋愛に興味はないのか、結婚はまだかって……。まるで、人間は突き詰めた一つのことと子孫を残すこと、それさえ成せばいいかのように言われたものだから、あんなふうに、、、、、、怒り散らしたのよ。

 あんなふうに、とはつい一時間ほど前、「わたしの氣持ちなんて一個も分かってない! 言わなきゃ分からない鈍感な野球人なんて大っ嫌いっ!」と、父に向かって言い放ったことを指しているのだろう。

(そうなんだよねぇ、鈍感なのよ、お父さんは……。察することを知らないって言うか……。)

 ――でもそれ、逆にお父さんからすると「言ってくれたら分かるのに……」ってことにならない? 圭二郎もまたしかり……。

(……わたしが行動しなかったから圭二郎の氣を引けなかったってこと? それはあんまりじゃない……?)

 ――自信がある男ほど、女の方から寄ってくると思って待ちの姿勢、ってことはない?

 それを聞いて、なんだか腹が立った。想いを伝えなかった自分と、愛をささやいてくる女を待つだけの圭二郎に対して。

 ここで一旦、内観をやめ現実に返る。

「……ねえ、アキ兄さん。兄さんはどうしてエリ姉さんに告白することが出来たの? ライバルがいたら普通、片思いで終わらせちゃいそうなもんだけど」

「ああ……。今思えば不思議なことだけど、自分の氣持ちに氣付いたら身体が勝手に動いちゃったんだ。だから、こう言ったら嫌われるだろうとか、迷惑かけるかもとか、そんなことは一切考えてなかった。でも……。もしあのときNOと言われていたとしても、多分僕は後悔しなかっただろう。自分の勇氣を生涯誇りにさえ思ったかもしれない。だってあの頃の僕はチェスさえ出来ればいいと思っていたような、めちゃくちゃ陰氣なやつだったからね……」

「つまり、告白したことで自己成長できたってこと?」

「そういうことになるかな。思い続けるのは簡単。でもそこから一歩踏み出して、好きな人に自分の氣持ちを打ち明けるのはものすごく大変。心を許せる人にしか、人は本音を伝えられないからね」

 もしそうだとするなら、わたしはあと一歩、踏み出す勇氣がないから父と分かり合えていないし、圭二郎を想うだけで終わってしまったことになる。

「嫌われる覚悟を持って、自分から心を開く勇氣を持つ……。それが大事ってこと?」

「そうだね。……そう考えると、めぐは素直だったな。翼くんと悠、どっちも好きだから一緒に暮らすんだって、彼らの前で宣言したらしいからね。その後、めぐがどういう人生を歩んできたかは、見ての通りだ」

「でも……。それはアキ兄さんや悠斗さんたちが大人で、互いに聞く耳を持っていたからじゃないんですか? お父さんにその手が通用するとは思えないんだけど……」

「確かに、説得するのは簡単じゃないだろうね。僕だって未だに手を焼いているし。でも、翼くんがそうだったように、舞ちゃんが歩み寄ればきっと考えを軟化させてくれるはずだよ。親なら誰だって子供の幸せを一番に願うものさ」

「そうかなぁ……? 自信、ないなぁ」

「すぐに行動に移す必要はないさ。話そうと思える日は必ず来る。せっかちな兄貴のことは待たせておけばいいよ」

 きっと実体験からそう言っているのだろう。のんびり屋のアキ兄さんの口から出た力強い発言に安堵する。

「あぁ……。お父さんからも今みたいな言葉がもらえると嬉しいんだけど……。ん……? あっ、分かった!」

 さっき途中でやめてしまった内観で出せなかった答えらしきものに、今のやりとりを経てたどり着く。

「わたしはただ、ありのままのわたしを見て欲しいだけなんだ。いつ、誰と、どこにいても、何をしていても、舞がしたいようにしなさいって言って欲しい。女として生まれたわたしを女としてみて欲しい。誰かと比較しないで欲しい……。お父さんに求めていることはそういうことなんだ、きっと。そして……圭二郎はわたしをそんなふうに見てくれた。だから……好きだったんだ……」

「氣付いたんだね、自分の本当の氣持ちに」
 わたしはこくんと頷いた。

「大丈夫。それに氣づけた君はもう、その言葉をお父さんに伝えられる。圭二郎くんにもきっと……」

「どう……かな……?」

「さっきも言ったけど、焦ることはないよ。兄貴にも考え改める時間が必要だろうし、君だってもう少しここでの暮らしを楽しみたいでしょ?」

「えっ? そりゃあ、ここの家族は優しいから居心地はいいけれど……」

 長居したら迷惑をかけてしまう……。そう言いかけたところで、「迷惑だなんて誰も思わないよ、鈴宮家の人たちは」とアキ兄さんの方から言われてしまった。

「ありのままの自分を見て欲しいんでしょ? だったら舞ちゃん自身が、ありのままを見てもらうことに慣れなくちゃ。ここはその訓練にはうってつけの場所だ。常識を見直す、と言う意味においても。……まぁ、かく言う僕も最初は彼らの言動に戸惑ったもんだけど、今じゃすっかり慣れてしまったよ」

「アキ兄さんでもそうだったんですか……」
 それを聞いたら少し安心した。

 さっき父がやってきたときにはどうなることかと思ったが、アキ兄さんに話を聞いてもらう機会が得られて本当に良かった。

「今日はありがとうございました。……また、何かあったら相談に乗ってもらえますか?」

「もちろん、僕で良ければいつでも……」
 相談を終え、二人して立ち上がろうとしたとき、突如として居間のふすまが開いた。

「話は済んだか? せっかくだから、このまま花見に行こうぜ。天氣もいいし、映璃えりも誘ってさ」
 そういう悠斗さんはもう、いつでも出かけられる格好をしている。

(タイミング良く話しかけてきたってことは、もしかして、ふすまの向こうで聞いていたのかしら……?)

 ちらりとそんなことが頭をよぎったが、次の瞬間にはもうどうでも良くなっていた。アキ兄さんも同じらしく、それについて言及しないどころか、すぐさま悠斗さんの話に応じる。

「あー。それで、自転車で来いって言ったのか。だけど、場所は?」

「んなもん、どこだっていいだろ。ちょっと歩けばどこの公園でも桜は見られる」

「……それもそうか。公園ならまなちゃんを遊ばせられるしね。よし、それじゃあエリーに電話して出てきてもらうよ。……兄貴に氣付かれないように、でしょ?」

「さっすが。わかってるー」
 息の合ったやりとりを見る限り、二人がかつてエリ姉さんを取り合う仲だったとは想像しがたいが、きっと長い年月をかけて友情を深めてきたのだろう。多分、親子も一緒。喧嘩したり話し合ったりしてようやく真にわかり合える……。そういうものなのだ、きっと。

「のけ者にしたことがバレたら父さん、怒るんだろうなぁ……。でも、仕方ないよなぁ、今回ばっかりは」

 兄がわたしの方をチラリと見やった。
「……わ、わたしのせいじゃ、ないからね……?」

「誰もそんなこと言ってないだろ? さぁさ、そうと決まれば善は急げ、だ。買い出し班と場所取り班とに分かれようぜ」

 アキ兄さんの言うとおり、この家の人はありのままのわたしを受け入れてくれるようだ。一氣に肩の力が抜ける。

「じゃあ、わたし、買い出しに行く! 足の速さには自信があるんだよね!」
 自分から仕事を買って出ると、みんなが嬉しそうに笑った。



23.<ユージン>

 スプリング・ナイトフェスが行われる夜、オレは大勝負に出る。セナが作るのを手伝ってくれた曲「二人のハーモニー」を、いよいよ麗華さんに聴いてもらうのだ。

 最初は、二人きりになれる場所に誘い出して……と考えていたが、ここまで来たらもう、ステージでやってしまえ! ってことで、みんなに内緒でラストにねじ込むつもり。だからその日はエレキも持参する。下手クソだけど歌も歌う。それでも想いが伝わらなかった時は潔く身を引く。その覚悟で挑む。

 本番で弾くことのないエレキをどうやって持ち込むか……。かなり頭を悩ませたが、きょうだいにだけはオレの覚悟を聞いてもらい、こっそり持ち込む手伝いを頼むことにした。どうせこそこそ行動しても、同じ部屋で暮らしていたら遅かれ早かれバレてしまうだろう。それも含めての、覚悟だ。


◇◇◇

「アタシ、応援してるよ。お兄ちゃんのこと」
 当日になって、自分の荷物の中にオレのエレキを紛れさせながらセナが言った。
「実はアタシたちもサプライズを用意してるんだ。だから、今夜のことを考えるとドキドキワクワク、なんだよねー」

「セナたちも……?」

「ほら、セナの希望でさくらさんのために作った曲のことだよ」
 リオンがオレの問いに答えた。
「あれを今夜、披露しようって話。おれたちはライブ終了後の予定だけど」

「なるほど……。じゃあほんとに今夜は特別な日になりそうだな……」

 そういう日の力を借りなければ、好きな氣持ちも感謝の言葉も伝えられないなんて、ミュージシャンってのは不器用だなと思う。だけど逆に考えれば、特別な環境を利用することで、想いは何氣ない日常で言うより何倍にもなるはず……。オレはそう信じたい。



 フェスの会場は、かつてオレがバイトしていたこともあるライブハウス『グレートワールド』。オレたちのほかにも十組ほどが出演し、春の夜を楽しませることになっている。

「……ずいぶんな大荷物ね、セナ。いったい何が入ってるの?」

 会場で合流すると麗華さんに早速指摘された。しかし事前の打ち合わせ通り、セナがぶりっこふうに頼み込む。

「今夜、レイさまたちのうちにお泊まりするための荷物! どうせ今夜も打ち上げで飲むんでしょ? だったらその足で泊まらせてー。おねがーい!」

「ええっ? 聞いてないけどー? ……まぁ、いっか。寝るところはあるし」
 麗華さんの返事を聞いたオレたちは目配せをし、小さくうなずき合った。そこへ、さくらさんも合流する。

「こんばんは。遅くなってすみません……」

「大丈夫よ。あたしたちも今ついたところだから」

「ほんと? よかった……。途中でおなかが痛くなっちゃって、休んでたものだから……」
 さくらさんはうっすら汗をかきながら、まだ痛むのか胃のあたりをさすった。

「もしかして、緊張してるの? 相変わらずね」

「こればっかりは癖みたいなものだから……。でも、始まれば多分大丈夫……」
 そう言ってさくらさんは荷ほどきを始めた。

「ええと、私たちの出番は最後……だったよね?」

「そうよ。画材のセットと片付けがあるから無理を承知でお願いしたんだけど、かえってプレッシャーかけちゃったかな?」

「…………」
 そうだ、と言わんばかりにさくらさんがうつむいた。それを見たリオンが苛立った様子で彼女に言い放つ。

「そういう顔、するなよなぁ……。せっかくの音楽祭なんだから楽しもうぜ。なぁ?」

「え? あ、はい……。じゃあなくて、ええと……」

「あー、さくらさん。顔が真っ赤ー!」
 セナの指摘でその顔はますます赤くなった。

「もう……! セナちゃん。揶揄わないでよぉ……。私は肌が白いから皮膚の下の血管が見えやすいの……!」

「下手な言い訳ー」
 セナはくすくすと笑った。

「……そんなこと言ってないで、準備しましょう」
 さくらさんは自分から話題をそらせるかのように動き始めた。



 前のバンドの演奏が終わり、いよいよオレたちがトリのバンドとしてステージに立つ。さくらさんのライブ・ペイントの準備が出来るまでの間、この店のオーナーが自慢のピアノを披露する。この頃はオーナーのピアノ演奏も人氣で、味を占めたオーナーは単独ライブを真面目に考えているようだ。

 画材の準備のどさくさに紛れ、オレの方もこっそりドラムセットの裏にエレキをスタンバイさせる。誰も、氣付いていない。少なくとも麗華さんはいつも通り、ステージ脇で喉を潤したり楽譜のチェックをしたりしていてステージの方は見ていない。

(よし……。あとは、オレの心の準備だけ……。)

 何度も、呼吸を整える。覚悟を決めたとは言え、やっぱりその瞬間のことを思うと緊張する。正直、ライブよりも。

(でも、オレは決めたんだ……。今日の日のためにいろいろ準備してきたんじゃないか……。)

 ステージからオッケーのサインが出る。いよいよ、出番だ。リーダーの拓海さんから一同に向けて手話が送られる。

 ――六人になって初めてのライブだ。新曲も、初めて披露する。どんな反応があるか分からないけど、とにかく、フェスのラストにふさわしい演奏をしようぜ。

 全員で、頷く。

 ――さくら。うまくやろうなんて思うな。普段通り、感じたままに筆を動かせ。分かってるな?

 さくらさんへのアドバイスは麗華さんを通して彼女に伝えられる。彼女は少し震えながら小さく頷いた。

「よーし! それじゃあ行こうぜ!」
 最後は智さんが号令をかけ、全員でステージに飛び出す。と、そのとき拓海さんに肩をつかまれた。

 ――健闘を祈るぜ……。
 一瞬、何のことか分からなかったが、ウインクまで送られたらさすがに氣付く。

(もしかして、拓海さんにバレてる……?!)
 ドキリとしていると、軽く背中を叩かれた。
(やっぱり、バレてるとしか……。)

 こうなったらますます覚悟を決めねばなるまい。しかしその前にこのライブを成功させよう。ドラムの前に座り、氣持ちを整える。

 マイクを持った麗華さんが美しい声でアナウンスする。

「会場の皆様。本日は『サザン×BBビービー』の演奏を聴きに来てくださりありがとうございます。本日はあたしたちが最後の演奏者となります。六人で立つ初めての舞台。あたしたちも今日を楽しみに準備してきました。是非最後まで楽しんでいってください。それでは早速新曲から歌います。……『透明な季節』」


日だまりの空の下で
柔らかな風が 頬をなでるたび
思い出すんだ 君のぬくもり
手を伸ばせば 届きそうなのに

きみは、風みたいに去って行く……
同じ景色が見たかっただけなのに……

ああ、透明の風と共に君は
君だけの道、歩き続ける
僕の知らない世界に行っちゃう君を
見守ることしか出来なかった……

##

夕焼け空の下で
心、穏やかになる 君を想うたび
示してくれた 君の言の葉こと は
目を閉じれば オレンジの光

君にも届いているのかな……
夕日が優しく降り注ぐ世界……

ああ、オレンジの夕日と共に
僕だけの道、歩き続ける
決して交わることのない道を
僕は歩き続ける……

君の思い出を胸に、歩き続けていく……


 ドラムを叩きながら麗華さんの美声に酔いしれる。やっぱり彼女の歌声はオレの魂を震わせる。そのすべてが愛おしく感じられるほどに。

 次いで、サザンクロスやブラックボックスの曲も披露する。その間、オレらの脇ではさくらさんがダイナミックに絵を描いている。この位置から絵を見ることは出来ないが、迷いのない動きを見るにつけ、オレたちの曲から素直にインスピレーションを受け取り、神が乗り移ったかのように筆を動かしているのだろう。

 オレとさくらさんがこんなふうに全力投球できるのはひとえに麗華さんを想うがゆえ。好きな理由を言葉で説明するのは難しい。だけど少なくともオレは、一緒に居ることでいろんな意味で刺激を受けられることに喜びを感じるし、オレの言葉や行動で麗華さんが笑顔になった瞬間が何よりも至福なのだ。



 ラストに短い新曲を弾き、予定していたすべての演奏を終えた。本来ならばここで撤収し、フェスは閉演となる。だが、オレの闘いはここからが本番だ。

 椅子から立ち上がり、エレキを手に取る。麗華さんが挨拶の言葉を今にも発しようと、マイクを握り直しているのが見える。

(待って、麗華さん。まだ、終わりにしないで……!)

 そんな想いを背中に向けて飛ばしたとき、麗華さんの声を消すかのようにアコギの音がジャカジャカと鳴った。拓海さんだった。

 目が合うと、拓海さんは顎で麗華さんを指し、オレがこれからやろうとしていることを促してくれた。

「え、なに……?」
 何が起きているのか分からない麗華さんは、拓海さんとオレを交互に見て動揺している。拓海さんが演奏をやめ、頷くのを合図に今度はオレがエレキを鳴らし始める。

「麗華さん。聴いていてください。オレの、歌と演奏を……」

 マイクは要らない。エレキの音にかき消されても構わない。オレはオレの想いを、この声に乗せて歌う。


聴かせてよ、その声を
僕が眠りに落ちるまで
どんな悪夢も消えるから
君は僕の天使さま

ありふれたフレーズ
「愛してる」しか言えない僕をゆるして
どんな言葉を並べても
好きな気持ち 伝えきれない!

二人の声を重ねて
奏でよう 最高のハーモニー
世界に一つしかない和音コード
響かせて、和・輪
いま、踊り出す

##

聴かせるよ、この音を
君が目覚める頃に弾こう
そっと、小鳥がさえずるように
君は僕の天使さま

たったの、四文字
「大好き」さえも
目を見て言えない僕をゆるして
君があまりにキレイでさ
まぶしすぎて クラクラしちゃう!

二つの音を重ねて
奏でよう 最高のハーモニー
世界に二つとない和音コード
響かせて今、
ここから始まる、僕らのストーリー

ユートピアなんか、なくたって構わない
君の歌声さえあれば
和、輪、わ、平和な世界

愛する君に捧ぐ歌
たとえ思い、届かなくても
僕は君を愛してる……


 恥をかなぐり捨てて全力で歌った。持てる技のすべてを注いでとにかく弾いた。一瞬の静寂。言うなら、今しかない。

「麗華さん。これが今のオレの想いです。答えを聞かせてくれませんか……」

 会場が一氣に沸いた。しかし誰もが麗華さんの返事を聞きたいのだろう、すぐに静まりかえる。

 麗華さんがオレに向き直った。たくさんの視線がオレたちに集まっているのを感じる。だけどオレの目は麗華さんしか見えない。

 彼女は、困ったような、恥ずかしいような、今にも抱きしめたくなるような目でオレを見ている。まるで時が止まったかのように感じるほど、待っているこの時間が長く感じる。

「ユージン……」
 ようやく麗華さんが声を発した。固唾をのんで待つ。

「……ユージン。あなたの歌。あなたの演奏。とても素晴らしかったわ。過去最高に良かった。今日のフェスの演奏よりもずっとずっと素敵だったわ」

「ありがとうございます……」
 その目を見つめたまま礼を言うが、落ち着かない。麗華さんは発する言葉を模索するかのように、また少し黙り込んだ。

 周りの空氣が、まだかまだか、と苛立ち始める。オレもそわそわし始め、一歩、彼女に歩み寄る。それをみて、麗華さんが口を開く。

「……ごめんなさい。やっぱり、受け入れられないわ。あたしには……あたしには既に大切な人がいるから……。これからもメンバーとして楽しくやっていくんじゃ、ダメ……?」

 期待値マックスの会場から大きなため息が漏れた。いや、誰よりも大きなため息をついたのはオレだったに違いない。でも……やるだけやってこの結果なら、悔いはない。悔いはないけど、このまま舞台を降りるのは格好悪い。オレはエレキをその場に下ろし、拓海さんを引っ張り出して麗華さんの横に立たせた。

「……麗華さん。それがオレへの答えなら、大切な人と……拓海さんとちゃんと仲良くやってくださいよ? でなきゃ、オレが麗華さんの言葉、受け入れられないから」

「うん、分かってる……」
 その返事には覚悟を感じた。彼女は拓海さんと見つめ合ったあとで肩を抱かれた。ちょっと申し訳なさそうな、寂しそうな、だけど嬉しそうな顔で。

 こうなることはある程度予想していた。ならばオレはせめて堂々とステージを降りよう。そう思った矢先、智さんがつかつかとオレのそばにやってきて足下に置いてあったエレキをひっつかんだ。

「……よくやった。最高だよ、ユージン。これは僕からのプレゼントだ。一緒に歌ってくれ。このクレイジーな女に向かって言い放ってやろうぜ!」

 言うが早いかギターがかき鳴らされる。
(このイントロは『クレイジー・ラブ』……!)

クレイジー、クレイジー
今すぐお前を追っかけて
飛び込みたいぜ宇宙そらの海
クレイジー、クレイジー
鏡に映るのは誰?
狂喜乱舞しすぎて

本当の俺、見失ってる
ああ、全部お前のせいだ……

……

 『クレイジー・ラブ』の作詞作曲は拓海さんだと聞いているが、実は智さんの想いも多分に含まれているとオレは思っている。そのくらい、今の彼の歌いっぷりには想いが乗っている。オレと同じく麗華さんを好いている、智さんの想いが。

「♪ああ、全部お前のせいだー、お前のせいなんだ……」
 智さんが弾くエレキに合わせて一緒に歌う。別に慰め合いたいわけじゃない。オレたちはただ、くすぶる想いをこの歌に込めたいだけ。それだけのことなんだ……。

(ありがとう、智さん……。)
 歌い終わったオレは心の中でそう言いながら頭を下げた。智さんは力強くオレの肩を叩き、何度も何度も頷いた。



 フェスが終わってお客さんが帰ったあとは、恒例の打ち上げだ。みんな慣れた手つきで勝手にお酒を酌み交わし、氣付けば周りのバンド仲間の多くができあがっていた。オレに声をかけてくる人も少しは居たが、あんな風にして大勢の前で失恋したショックは相当なものに違いないと察してくれる人が大半で、きょうだいさえもオレから離れたところで過ごしていた。

 放っておいてくれるのは有り難かった。だけどそのうちに、本当に失恋したんだという想いがじわじわと身にしみてきて胸が苦しくなった。

 おれは一旦楽屋に戻り、喧噪から離れた。するとあとからすぐに智さんがやってきた。
「……相当、こたえてるみたいだな」

「……この想いをどこかにぶつけたい氣分っす」

「僕のギターで良ければ貸すぜ? 外で歌ってこいよ。少しは氣が晴れるかもしれない」
 智さんはそう言ってアコギを差し出した。
「誰かが捜しに来ても、僕が適当に話しておいてやる」

「…………」
 差し出されたギターを受け取る。ネック越しに、智さんの温かい想いが伝わってくる氣がした。

「……じゃあ、ちょっと歌ってきます」
 智さんの優しさに感謝しながらオレはライブハウスの外に出た。



24.<悠斗>

 舞に半ば、無理やり誘われてやってきた夜の音楽祭。しかしやってきてみれば、ステージ上のミュージシャンよりも、観客席側の人間模様に興味がいってしまった。

(まさか、ここに一同が会するなんて。運命とはまさにこのことだな……。)

 そう。会場内には舞の父・野上路教のがみみちたか氏、そしてさくらの父・水沢庸平みずさわようへい氏の姿があったのだ。これだけの人数が集まる会場で知人と遭遇する確率は低いはずだが、少なくともおれは彼らを見つけてしまった。

 言うまでもなく、彼らの目的は娘だろう。面と向かって話したいのか、ただ姿を見たかったのかは分からない。しかし、その目的なくしてここに来るとは思えなかった。

 かく言うおれも、生きていたら同年代だったはずの娘と舞とを重ね合わせながらここに来ている。

(もし、五歳で溺死した愛菜が生きて隣にいたなら……。おれはどんな風に声をかけただろうか……。どんな風に接しただろうか……。)

 隣にいる舞に、亡き娘にかけてやりたかった言葉をかけてみようか……。ふとそんな衝動に駆られたが、すぐにやめた。舞は、愛菜ではない。おれの娘でもない。ましてや同情心から上っ面だけ繕った言葉を発したって、舞の心は癒やされないどころか、傷つけてしまう可能性すらある。それだけは避けなければならなかった。

 舞は純粋にライブを楽しんでいる。彼女の笑顔を消すようなことは言いたくないので、父親が会場に居ることは黙っておこう。

「あっ、サザン×BBだっ!」
 お目当てのバンドが登場し、舞のテンションが最高潮に達した。麗華さんの短い挨拶のあとですぐに曲の演奏が始まる。

 おれよりも年上の三人組「サザンクロス」と、舞よりも年下の三きょうだい「ブラックボックス」による異色のバンド。親子みたいな六人だが、ひとたび演奏が始まれば年齢差は一切感じられない。もうずっと長くバンドを組んでいるかのように息の合った演奏は聴く者の心を捉えてやまない。

 年長者が若者をリードし、若者が年長者の創作意欲を刺激して生み出されたであろう音楽は、これまでの彼らのいいところを残しつつも今までとは全く異なる雰囲氣を醸し出している。

(やっぱり好きだな、彼らの作る音楽が……。)

 こんな年になっても心が躍ることってあるんだな、と我ながら驚く。今日は舞の誘いでやってきたが、機会があれば自分から積極的にこういう場に足を運んでみるのもいいかもしれない。



 軽快な音楽と歌が鳴り響く中、ステージの端ではさくらが熱心に筆を動かし、絵を仕上げていく。それはまさに芸術的で、おれなんかにはおよそ理解できないような絵だったが、まぶたを閉じて音楽を聴いてみれば確かに、さくらが描いているような色が右へ左へ動いているような氣がした。

 何色か、と言われてもうまく答えられない。言語能力ゼロのおれが敢えて言葉にするならそれは、光の色……。そう、すべての色が混じり合った、白色のような、オレンジ色のような、黄色のような……そんな色がカンバスを覆い尽くしている。

 彼らの演奏が終盤を迎える頃、カンバスには花びらのような点が無数に散らされた。おれにはそれが、彼女の名と同じ「さくら」に見えた。

「さくらさんの絵、桜吹雪が舞ってるみたい。綺麗……」
 隣にいる舞がぽつりとつぶやいた。

「ああ、おれも同じことを思った」

「すごいなぁ、こんなに大勢の前で、下書きもなしに絵を描くなんて……。口では恥ずかしいようなこと言ってたけど、めちゃくちゃ堂々と描けてるじゃん……」

「そうできるのはきっと、一緒に居る彼らのお陰だろう」

「……ですね」
 舞はそういうなり、何かを考えるかのように胸の前に手を置いた。

 そのうちに、最後の曲が終わった。大歓声に応えるように麗華さんが手を振る。それを見て肩の荷物をしょい直す。と、アンコールでもないのにギターの音が鳴った。おれも周りの客も一斉にステージに注目する。

「えっ、ユージンさん、エレキを……?」
 舞がつぶやくのと同時に弾き語りが始まった。正直、歌声はほとんど聞こえない。でも、おそらく彼はおれたちに向けて歌っているのではない。その目の向く先の、「彼女」にだけ伝えるつもりで歌っているのだ、きっと。

 麗華さんはユージンに向き直り、熱心に彼の弾き語りを聞いた。曲が終わり、ユージンが言う。答えを聞かせてくれませんか、と。

「うそっ……! この場で告白……!?」
 舞は驚きと同時に口元を押さえた。周囲もざわつくが、それは一瞬のことですぐにしんと静まりかえった。

 麗華さんの答えは「ノー」だった。ここに集った聴衆のほとんどは昔から彼らを知っているに違いない。麗華さんの答えを聞いても反発する動きは見られなかった。ただ静かに、落胆しただけ。しかし、かえってそれが重苦しい空氣を作り出したように感じた。

 いや、そう感じたのはおれだけじゃなかったようだ。すぐさま智篤さんがエレキを弾き始め、この重苦しい空氣を綺麗さっぱり吹き飛ばしてくれた。沈んだ会場は再び活氣を取り戻し、盛り上がったまま終演した。



 ライブが終わり、客が帰り支度を始める。おれも今度こそ帰路につこうと外に足を向ける。

「舞、どうした……?」
 しかし、舞の足は動かなかった。ずっとその場に立ったまま、ステージを注視している。

「舞……?」
 何度か呼びかけてようやくその顔がこちらに向く。

「悠斗さん、わたし……ちゃんと伝えてみます。圭二郎に、わたしの正直な想いを。ユージンさんのように」
 舞が見ていたのは、ステージから去るユージンだったと知る。

「ようやく心が決まったんだな……」

「はい。……あの、すぐに済むのでここで待っていてくれませんか」

「え、今すぐ伝えるのか……?」

「はい……。ユージンさんからもらった勇氣がしぼまないうちに……」
 その決意は本物のようだ。おれは舞の決断を歓迎し、言われたとおり待つことにした。

 舞の姿が見えなくなったところで、運良くというか悪くと言うか、おれのそばをニイニイが……舞の父親が通りかかった。おれに氣付くと声をかけられる。

「なんだ、ユウユウも来てたのか……。ひとりか……?」

「いいえ……。舞と一緒です。今は別行動ですが」

「そうか……」

「そういうニイニイはお一人で?」

「いや……。実は水沢みずさわ先輩と一緒でな……。今、娘さんのところに行ってる」

「なるほど……」
 短い言葉を交わし終え、互いに黙り込む。
「……待ちますか、一緒に」
 誰を、とは言わなかった。でも、ニイニイにはちゃんと伝わったようだ。

「……ああ、待つよ。次に会ったときはちゃんと舞の話を聞こうと……。そういう心づもりでいたからな。万が一、あいつが話したがらなくても次の機会を待つ」

 ニイニイはそう言うと、おれの目線の先を見た。舞の姿は見えなかったが、そのうちに戻ってくるであろう娘をしっかりとその目で捉えようとしているように思えた。



25.<舞>

 ユージンさんの告白に衝撃を受けた。あれだけの人数を前にして引き語りをした上に、レイカの想いを聞き届け、失恋したあとも堂々たる態度でステージに立ち続けた……。あれこそわたしの理想とする男性像だと言っても過言ではなかった。と同時に、想いを告げることすら出来なかった自分の小ささを改めて思い知った。

 まさか、自分の告白シーンを見せるためにライブに招待したわけではあるまい。しかし結果的に、彼の誘いでこのライブに足を運んだことでわたしの人生観はまるっと変わってしまった。

(もう、逃げない……。)

 悠斗さんを誘ったのも、自分ひとりで行動する勇氣がもてなかったから。でも、今のわたしなら動ける、ひとりで。

 ライブ終了を待って悠斗さんにその旨を伝えたわたしは、帰路につく観客に紛れて会場の外に出、時間を確認した後、圭二郎に電話をかけた。

(この時間なら、試合は終わってるはず……。)

 万が一、電話に出なくても構わない。留守電に、話があると一言残してかけ直せばいいのだから。

 ためらいは一切なかった。呼び出しのコール音の長さも氣にならなかった。

 十回ほどのコール音の後、電話が繋がる。
『……もしもし』

 久しぶりに聞く、圭二郎の声。つかの間、安心するが、すぐに緊張感が襲う。深く息を吸い込み、意を決する。

「……ごめんね、急に電話をかけたりして。今、話せる?」

『ああ……。今日は試合が早く終わったから話せるよ。今、家に向かってる途中』

「良かった……。今日は投げたの?」

『いいや……。婚約発表してから浮かれてるって言われて、当面は登板なしだ。そんなつもり、ないんだけどな……』

「…………」
 圭二郎のつぶやきをどう受け止めていいか分からず、しばし黙る。

『……で、話って?』
 黙っていたら催促された。……もう一度、息を深く吸い込む。

「……婚約、おめでとう。発表があってからすぐに言えればよかったんだけど、時間が空いちゃってごめん……」

『ああ……。……それだけ? ……じゃないんだろうな、電話してきたってことはきっと』

 圭二郎がわたしの言葉を待っている氣がした。
(頑張れ、わたし……!)
 何度もつばを飲み込み、胸を押さえながら言葉を喉の奥から引っ張り出す。

「わたし……。わたしね……。本当は圭二郎のこと……。ずっとずっと、好きだったんだよ……。だけど……。好きすぎてそんなこと、面と向かって言えなくて……。だから、こんなことになって……。自分が許せなかったの……。後悔しても、しきれなかったの……。この先、どう生きていけばいいかも分からなくなって、年始から仕事も休んで、自分と向き合う時間を作ってようやく……。ようやく今、想いを伝えられたの……。今更だけど、わたしが好きだったこと、知って欲しかった……。うん、それだけ……」

『……待って。電話を切るな』
 通話を終えようとしたまさにそのとき、圭二郎がそう言った。もう一度電話を耳に押し当てると、圭二郎は慌てて言葉を継ぐ。

『……謝らなきゃいけないのは俺の方だ。舞の氣持ち、知っていながら黙っててごめん』

「えっ……?! ど、どういうこと……?!」
 意外な言葉に戸惑い、心臓が激しく脈打つ。圭二郎は続ける。

『俺のこと、好きなんだろうなってずっと思ってた。んで、俺のほうも、そんな舞のことを氣にかけてた。だけど……。だけどこの先のことを考えたとき、舞は俺と一緒にいない方がいいと思った。だからずっと……黙ってた。ごめん……』

「なによ、それ……。一緒にいない方がいいって、どういうことっ?! ちゃんと説明してよ!」

『うーん、と……』
 歯切れの悪い返事のあとで、圭二郎はゆっくりと理由わけを話し始める。

『ほら……。うちの両親って、両方野球人だろ? 引退した今も、少年少女の野球チームを主宰してる。それも、かなりガチなやつ。寝ても覚めても野球のことしか考えてないような我が家に、舞を巻き込みたくなかったんだ。……わかるかな』

「……ぜんっぜん、わかんない!」

『……そうか。じゃあ、はっきり言わせてもらうよ。舞は、野球、向いてない。仕事を休んでるんだったら、そのまま野球から離れた方がいい』

「……何、言ってるの?」
 混乱して頭が真っ白になる。圭二郎の言葉が、処理されないまま脳内でぐるぐるする。圭二郎は続ける。

『舞が野球をしてきたのは……俺が言うのもなんだけど、俺のそばにいたかったから……だろう? 野球が好きだからじゃなくて、俺が好きだから野球してきた。そうなんだろう?』

「そんなことは……!」

『見てたら分かるよ。うちの母親がそうだったから分かる。散々、その逸話を聞かされて育ってるし。舞も一緒だなって、ずっと思ってた』

 圭二郎の両親は幼なじみで、母親の方はずっと、父親を追いかけるように高校まで同じ野球部に所属していたと聞いている。

「だったら、なんでわたしには野球をやめろって……」

『だから、だよ。将来、そうなるって分かるから。……俺も、舞が好きだからさ。舞にはもっと自由に生きて欲しいんだ。野球にとらわれず、もっと自由に』

「……なんで圭二郎にそんなことを言われなきゃいけないのよ?」

『……翼と一緒に音楽聴いてるときの、舞の横顔が好きだった。野球してるときよりも、そっちの方がずっとキラキラしてた。氣付いてなかったと思うけど。ほんとだよ』

「……なんでここでお兄ちゃんが出てくるわけ? 嘘よ、そんなの」
 自分で言っておきながら、「その言葉が嘘だ」と本当の自分が叫んだ。心と言葉の矛盾に勝手に涙がこぼれ、嗚咽おえつが漏れる。

『……ほら。本当は舞だって思ってたんだろ? 翼みたいに、野球以外のこともしてみたかったって。……舞はお父さん思いだから言えなかったんだよな。俺もそうだったから分かるよ』

「……うぅっ!」

『ごめん……。舞を振った俺に、今更慰める資格もないよな。ホントにごめん』

「……何度も謝らないで! 悪いのは……悪いのは……!」

『悪いのは俺だ。舞は悪くない。悪く、ないんだ……』

「……馬鹿ッ!!」

『なんとでも言えよ。それで氣が済むのなら……』

「優しすぎるのよ、圭二郎は……!」
 馬鹿なのはわたしの方なのに……! 圭二郎に優しくされるたび、自分がどんどん惨めになっていく氣がして嫌になる。
「嫌いだって言ってくれたらどんなによかったか……!」

『……舞と一緒に過ごした時間、楽しかったよ。これからは、それぞれの道を歩んでいこう。俺は舞が選ぶ新しい人生を応援するよ』

「新しい人生なんて……。圭二郎のいない人生なんて……」

『俺はいなくならないよ。思い出になるだけ。んー、踏みつけてくれてもいいよ。それで舞が前に進めるなら』

「……やっぱり、馬鹿だよ。圭二郎は」

『そうだよ。今頃、氣付いた?』

「……馬鹿ッ。前から知ってた!」

『……なら、もっと賢い男と幸せになれ。もし、いい相手が見つかったら教えてくれよ。お祝い、送るから』

「……そんな人いないし、見つかったとしても教えない!」

『……ま、どっちでもいいけど』
 そう言った圭二郎はどこか、楽しそうだった。
『今、どこから掛けてるの? 外? さっきからうっすら音楽が聞こえるんだけど』

「……ライブハウスの前。さっきまでライブ聴いてた」
 
『ふぅーん……。なら、心配なさそうだな』
 圭二郎は笑った。
『元氣でな……。氣が向いたら、今日みたいに連絡くれよ。待ってるから』

「はぁっ……? これから結婚するって男に、氣軽に連絡できるわけないじゃない」

『大丈夫だよ。婚約者はそう言うの、氣にするタイプじゃないから』

「……そんなこと言ってると、婚約破棄されるよ?」
 冗談で言ったのに、圭二郎は力なく笑うだけだった。
「本当に、大丈夫……?」

『……あー、そろそろ電話を切らないと』
 わたしの問いには答えてもらえなかった。
『電話をくれてありがとう。嬉しかった。それじゃあまた……』
 電話は向こうから切れた。

 急に周囲の音が聞こえる。止まっていた時が動き出したかのように。
(これで……よかった……のかな。よかったんだよね……?)

 もし、失恋したことを引きずってひとり、悶々していたら圭二郎の真の想いを聞くことは出来なかっただろう。仮に今のが圭二郎の優しさから出た嘘だったとしても、彼の口からわたしの幸せを案じる言葉が聞けただけで充分だった。

(悠斗さんのところに戻ろう。すぐ戻るって言ったのに長話をしてしまった……。)
 そう。今のわたしには家族がいる。失恋したわたしを支えてくれる家族が。



 ライブを聴きに来た人の多くは既に帰宅したようで、人氣はほとんどなかった。わたしはスマホを鞄にしまい、ライブハウスの中に戻ろうとした。そのとき、店の中から二人の男性が姿を現した。一人は悠斗さん。もう一人は……。

「お父さん……」



26.<さくら>

 六人の演奏や歌を聴きながら、無我夢中で描いた。正直、自分でも何を描いたのか分からない。できあがった絵を見てようやく、ああ、彼らの音楽からこんなインスピレーションを受けたんだ、と分かった。よく描けた、と実感が湧いてきたのは、すべてが終了し、お客さんがひとり残らずいなくなったあとのことだ。

 機嫌のいいライブハウスのオーナーが、打ち上げの前にピアノを一曲披露する。と、そこへなぜか、ゆうび奏社の西森有理沙社長が現れて華麗にピアノを弾いた。

「ちっ、勝手なことを……」

「あら、いいじゃないの。同じピアニスト同士、仲良くしましょうよ」

 どうやら二人は砕けた口調で話が出来る間柄らしい。しかし犬猿の仲なのか、オーナーの上機嫌はどこかへ行ってしまったようだ。顔をしかめたまま問いかける。

「ふんっ……。なんだって今日はフェスに来たんだ? 招待はしてねえはずだぜ?」

ゆうび奏社うちの所属のアーティストが出演するんですもの。そりゃあ来るわよ。それに……」

 キョロキョロと辺りを見回す社長の目が私を捉えた。慌てて目をそらすが、遅い。社長に手招きされ、仕方なくビクビクしながら歩み寄る。

「今日はこの子の絵がどのくらい進化したか、この目で確かめたくてね。それでやってきたというわけ。ねぇ、さくらさん?」

「そう言われましても……」
 次のアルバムのジャケット絵を描くことは許可してもらったものの、こうしたイベントで描いた絵を、今後も彼らの音楽と組み合わせて使用するのかどうかは決まっていない。しかし……。

(今日、見に来たってことはもしかして、でき次第では継続して絵を採用してもらえるってこと……? まさか、そんなことはないよね……?)

 期待しすぎるとそれが叶わなかったときのショックが大きいから、余計なことは考えないようにする。ところが、社長の口から思いがけな言葉が飛び出す。

「あなたの絵、氣にいったわ。今日の絵を次のアルバムのジャケットに使いたいんだけど、どうかしら? もちろん、麗華たちにも聞いてみないといけないけれど」

「ええっ?! それは本当ですか?! すごく、嬉しいです……!! あ、ありがとうございます……!!」
 夢のような話に、何度も何度も勢いよく頭を下げた。

「ちょっとー。大袈裟じゃなーい? その位にしておかないと……」
 心配した社長の言うとおり、貧血を起こしたのかクラクラしてきた。よろけて膝を折る。

「おいおい、大丈夫かよ……?」
 そんな私を支えるようにして声を掛けてくれたのはリオンくんだった。

「大丈夫、ありがとう……」
 すぐに顔を上げると、そばにいたセナちゃんと目が合った。

「よかったね、さくらさん。社長のお眼鏡にかなって。……ああ、実は今の話、ちょっと聞いちゃった。アタシもあの絵、すごく素敵だなって思ってたんだ。六人の音楽がぎゅっと詰まってるって言うか。うーん、言葉にすると陳腐だなぁ……。とにかく、あの絵を見たらアタシたちの音楽のイメージが湧いてくる。そんな感じがしたよ」

 セナちゃんの言葉が素直に嬉しかった。絵の感想をもらえることが、画家として何よりも喜ばしいことなのだ。リオンくんも頷く。

「おれも思った。って言うか、おれたちの音楽ってああいう色なんだな。自分たちだけでは氣付かないことを氣付かせてもらったよ」

「そう言ってもらえて、私も嬉しい」
 素直な氣持ちを伝えると、リオンくんとセナちゃんは互いに顔を見合わせて、何かを企むように笑った。

「……そんなさくらさんに、おれたちから例の曲をプレゼントしたいんだけど、聞いてくれる?」

「例の曲って……この前、未完成だって言って聞かせてくれた、あの……?」
 二週間ほど前の練習で集まったとき、二人で作ってるところだと言って聞かせてくれた曲があった。そのときはタイトルも決まっていなかった。

「そう、あの曲。完成したんだ」

「なあに? あなたたち、この子のために曲を用意してきたの? なかなかやるじゃなーい? せっかくだから私にも聞かせて頂戴。いい曲だったらアルバムに収録しましょう」

 私のための曲だそうだが、そばにいた社長の方がノリノリで聞く体制を整え始めた。オーナーも二人にピアノを指し示す。

「なんだか分からないが、お前らのことだからピアノを弾きながら歌うんだろう? だったらこいつを使え。そしてこの会場の音響を最大限、活かせ。なんと言っても今日は春の夜祭スプリング・ナイトフェスだからな! 夜が明けるまでどんちゃん騒ぎしようぜ!」

「それは最高! オーナー、さっすがー」
「じゃあ、有り難くここで弾かせてもらうね」

 二人は喜びながらピアノの前に立った。急にドキドキしてきた私に向かってセナちゃんが言う。

「さくらさんのために……。『カラフルワールド』」


色のない世界じゃ、もう
生きられないって、ひとり
うずくまってる 君

そうさ、誰もが、ふさいでる
とざされた光、さがす勇氣もなくて
エスケープ! 誰かに壊される前に……

色をつけよう 白と黒の世界に
取り戻すんだ、七つの光
悲しみの涙さえも カラフルに染めて 
あぁ……

##

色のある世界って、じゃあ
どんなところって、ふたり
想像してる、僕ら

そうさ、誰もが笑ってる
あふれ出す光に、手を伸ばしながら
ジョイフル! みんなで一緒に、さあ!

描こう、僕らのニューワールド
境界線を越えてこう
すべてはひとつの、光だったと
カラフルなキャンバス

大切な言葉ほど
すぐに忘れてしまうけれど
心に刻む、君と一緒に作る未来

色をつけよう 白と黒の世界に
取り戻すんだ、七つの光
描こう、僕らの三千世界ニューワールド
この素晴らしき世界で生きるすべての人にさきわい、あれ!


「ああ……」
 思わず涙がこぼれた。まるで私の人生を歌にしたような一番と、彼らに出会って道が開けた今を歌った二番、そしてこの先の明るい未来を彷彿とさせるようなラストに……。

「どうだった?」

「…………」
 感想を言わなきゃ、と思えば思うほどに言葉が出てこない。私は感想を求める二人に、ただただ頷くことしか出来なかった。

「ああ、いいよ。言葉は、いらない。そのくらい感動させられたってことだもんな?」
 リオンくんが私の想いを察してくれた。さっきと同じく頷くと、彼は嬉しそうに笑った。

「実を言うと、おれは言葉で感想をもらうより涙で返してくれた方が嬉しいんだ。自分の演奏で相手を魅了できたって実感できるから」

「リオンはそう言うけど、さくらさんが感動してるのはアタシが歌った歌詞の方じゃない? ねえ、そうでしょう?」

(どちらも素晴らしかったわ……。)
 心の中では断言できるのに、どうしても声にならなかった。

「ああ……。リオンとセナ、二人だけでデビューさせていたらきっと人氣が出ていたでしょうに、惜しいことをしたわ」
 黙るだけの私と違い、社長は素直な感想を口にした。
「今からでも遅くはないわ。別枠で、二人だけでやってみない?」

「いいや。セナと二人じゃ、心許ないから……」

「うん。アタシも同じ。社長の言葉は有り難いんですが、その話は無しで」
 私ならきっとすぐに受けてしまうような依頼にもかかわらず、二人はあっさり断った。

「二人って……すごいね……」
 自分軸がしっかりしていること、そして親よりも年上の社長に対してはっきりものが言えること……。諸々のことに私はすっかり感心してしまった。
「私より若いのに、堂々としていて本当にすごい……」

「年齢は関係ないよ。なぁ、セナ?」

「そうだよ。アタシたちのこと、すごいって褒めてくれるけど、さくらさんの絵だってすごいよ? 自信を持っていいと思う」

「いやいや……。私の絵なんて……」
 みんなが『いい』と言ってくれる絵を否定しようと首を横に振ったとき、突然目の前に長身の男性がすっと現れた。私は目を丸くして固まった。

「さくら……」
「お父さん……?」
 お客さんは全員出て行ったはずなのに、いったいどこから入ったのだろう……?

 父を間近で見るのは十数年ぶりだった。雰囲氣は昔のままだったが、顔に深く刻まれたしわを見るにつけ、年月の経過を感じずにはいられなかった。

 声を掛けてきたのは向こうなのに、そのあとの言葉はなかなか出てこなかった。しばらくの間、氣まずい空氣のまま見つめ合う。

 ほんの少し前まで近くにいたはずの社長やセナちゃんたちは、私たちに氣を遣ったのか、氣付けばいなくなっていた。

 周囲では宴会が始まったのか、わいわいと騒ぐ声が遠くの方から聞こえ始める。だが、私と父のいる空間はなぜか時が止まったかのように静かで、声を掛けてくる人間もいなかった。

 いったい、何を話せばいいのか……。父は何を言うつもりでここまでやってきたのか……。睨み付けていると、ようやく父が口を開く。

「……元氣そうで、よかった」

「麗華ちゃんのおかげでなんとかやってます」
 淡々と事実だけを述べると、再び沈黙の時がやってきた。

 ここまで沈黙が続くと、「麗華ちゃんから会うように言われたので仕方なくやってきたんでしょう?」と言いたくなってしまう。本当に会いたくてやってきたなら話したいことは山ほどあるはずだし、どんどん話してもいいはずだ。

(これ以上黙っているつもりなら、帰ってもらおう……。)
 そう思ったとき、再び父の口が動く。

「……いい絵を描くようになった。俺がそばにいたときよりもずっといい絵だ。さくらの進化した姿が見られて、俺は嬉しいよ」

「……それで?」

「それで、って……。その顔は俺を恨んでるって顔だな……」

「そうだね、恨んでる」

「寂しい思いをさせたなら悪かったよ……」

「寂しかったわけじゃない。そんなわけ、ないでしょう……?」

「じゃあ……。今更ふらりとやってきて、自分の描いた絵を褒めた俺に怒ってるのか?」

「…………」
 私は返事をしなかった。

 褒めて欲しかったのは事実。だけどそれは、今じゃない。自分の描く絵に自信が持てなかった、多感な時期に褒めて欲しかった……。

 もちろん、今更そんなことを言ったところで時は巻き戻らないし、あのとき掛けて欲しかった言葉を今聞いたって何の感動もない……。

 そんな想いが伝わってしまったのか、父が妙なことを言い出す。
「俺は……ずっとさくらを想っていたよ。どこにいてもずっと……」

「なら、どうして一度も連絡してくれなかったの? 私の描いた絵を、たくさん描いた絵を見て欲しかったのに……」

「見て欲しかった、か……。さくらは俺に褒められるために絵を描いてきたのか……? お前は自分で思っているよりずっとうまく描けている。だから自信を持て。誰よりも、自分の絵を自分で褒めろ。そうしたらもっといい絵が描けるようになる」

「自分の絵を自分で褒める? そんな自惚うぬれたこと……」

「自惚れなんかじゃない。自分が自分の一番のファンでなくてどうする?」

「自分が自分の一番のファン……? なんなの、それ?」
 それじゃあまるでナルシストじゃない。思わず鼻で笑ったが、父は真剣な顔で続ける。

「何も可笑しくはない。プロならみんな、自分が一番優れてるという自負を持ってるもんだよ。自分がいいと思えなければ、他の人が見たときにいいと思えるはず、ないだろう? ……さくらに足りないものは、自分の作品への愛だ。そしてそれを知ってもらうために俺は、さくらから離れた。俺がずっとそばにいたら、さくらは俺の評価だけを氣にして描き続けてしまうと知っていたから」

「なんなの、それ……」
 あまりにも予想外な言葉に思考能力が低下したのか、さっきと同じ台詞を口にしていた。しかし今度は笑い飛ばすことが出来なかった。直前にしていた、リオンくんとセナちゃんのやりとりがまさに、父の言葉そのままだったからだ。

 振り返ってみれば確かに父は野球人の自分に誇りを持っていた。そして、私が関心を示そうが示すまいがいつも野球の話をしていた。あのときは単なる「野球馬鹿」なのだと思っていたが、実は父は、自分の世界を大切にしていただけなのではないか? 誰からの評価も氣にせずに、自分には野球しかないのだとある種、決めつけてここまで生きてきたのではないか? 

 父をそのように見ることが出来たとき、自分がなぜこんなにも小さくなって生きているかが分かった。

 私は絵を描くことが好きだけれど、一度たりとも自分を喜ばせるために描いたことがなかった。私の描く絵は現実にある静物や風景がほとんど。精密に写し取ることこそが芸術だとさえ思っていたし、「写真みたい」と言われることを目指してすらいた。現物に忠実に描くことは私にとって、テストで百点を取るのと同義だったのだ。

 そんな私に変化をもたらしてくれたのが、麗華ちゃんをはじめとするミュージシャンたち。彼らの積極的な働きかけがなかったら、私は今も変わらず、売れない画家でいたことだろう。自分の殻を破り、大勢の前で下書き無しで抽象画を描こうなどとは思わなかったことだろう。

(麗華ちゃんは分かっていたのかもしれない……。私が自分の描く絵に自信がもてるようになれば、素晴らしい画家になれる、って……。)

 人から、一回でも多く「いい」と言ってもらうことでしか、自分の絵の価値を知ることは出来ないと思っていた。でも、彼らはそう言ってくれるだけじゃなく、描き手である私を「絵の才能がある」と評し、自信をつけさせようとした。そんなふうに言えるのは、彼ら自身が、自分の作る音楽を自ら「最高!」と評価してきたからに違いない。

(やっぱり、姉弟きょうだいって似るものなのかな。まさか、お父さんまで同じ考え方だったなんて……。)

 先日、麗華ちゃんに言われた言葉――思うところがあるなら面と向かって言いなさい!――が、急によみがえった。

(理由はどうであれ、お父さんの方からやってきてくれたんだ。この機会を逃してはいけない……。今言わずして、いつ言うというの……?)

 私は意を決した。

「子供の頃、家にほとんどいなかったお父さんの氣を引くために、必死に描いた。見せれば必ず褒めてくれたよね。それが嬉しかったから私は描き続けてきたの……。なのにお父さんは、そんな私を置いてあっさり出て行ってしまった……。あのとき感じた虚しさは、お父さんには分からないでしょうね……。そう、お父さんの言うとおり、私はずっとずっと、お父さんに褒めてもらうために描いてきた。そういう描き方しか出来なかった……」

「……さくらが俺のために描いてくれた絵、今でも大切にとってあるよ。もちろん、さくらがどんな思いでいたのかも分かっていたつもりだ。でもな、さくら。親子といえども、それぞれが独立した人間だ。俺には俺の人生が、お前にはお前の人生がある。小さい頃は依存しなければ生きていけなかったかもしれない。だけど、成長すると共に子供は、親を喜ばせるためではなく、自分を喜ばせるために生きていいのだと学ばなければならない。……俺の姉ちゃんを、麗華伯母さんを見て見ろ。全力で自分のために生きてるだろう? そして幸せそうだろう? そりゃあ、こういう世界で生き続けるために苦労もしてきたとは思うけど、今も現役で居続けられる背景にはそういう生き様があるからだと俺は思うよ」

「そうだね……」

「……今のさくらさんの絵には愛が乗っかってる。好きだよ、おれは」
 唐突に、リオンくんの声が聞こえた。同時に、止まっていた時が動き始め、周囲の音も耳に届き始める。

「……聞いてたの? 私たちの話を」

「聞いてたって言うか、聞こえちゃったって言うか……」
 彼は右手に持っているグラスを掲げた。どうやら私にドリンクを渡そうとして会話を耳にしてしまったようだ。

 リオンくんは既にお酒が入っているのか、自分の思いを淡々と語り始める。

「正直に言うと、さくらさんの絵……。最初に見たときは好きじゃなかったんだ……。そりゃあ、うまいなとは思ったんだけど、それだけって言うか。ああ多分みんな、ミュージシャンだから感覚的にそう感じてたと思う。だからって言うのも変だけど、直感を活かして描けばきっといい絵を描くだろう、とも思った。それで兄ちゃんも麗華姉さんもあんな風に提案したんだと思ってる。で、実際、その通りになった」

 リオンくんは自身の顔の前でもう一度グラスを掲げ、私に差し出した。
「自分でも、今日の絵はよく描けたと思うだろう?」

「ええ、そうね。多分、一番の出来」

「やっぱり。おれが見てきた中でも一番いいと思ったもん。……しらふで描けたってのも自信になったんじゃない?」

「……そういえば!」
 言われて氣がついた。一杯引っかけなければ自由な発想で描けなかった私が、今日はアルコールの力なしで過去最高の絵を描きあげた。

「……もう、描けるよ。さくらさんは自分だけの絵が描ける」

「……リオンくんたちのお陰よ。あなたたちの音楽が私に力をくれたの」

「それじゃあ……」
 リオンくんは自分の手に持っていたカクテルグラスを傾けて一口飲んだ。
「……これからも一緒にやろうよ」

「えっ?」

「一人の世界に戻らないでさ、おれたちの音楽聴きながら絵を描いてよ。おれ、これからもさくらさんの描く絵を間近で見たいんだ」

 まさかそんなふうに言ってもらえるとは夢にも思っていなかった。あまりにも突然のことに頭が真っ白になる。だが、そばにいた父は喜んでいる。

「良かったじゃないか、さくら。そうだよ。画家だからってひとりで部屋にこもって描く必要はない。これからは、自分が心地よく描ける環境で、自分のために描いたらいいじゃないか」

(出来るだろうか、私にそんなことが……。)

 思考の癖で、ついそんなことを思ってしまう。が、目の前にいるリオンくんの熱い視線が、自己否定しようとする私をどこかへ追いやった。直後に自信がムクムクと湧いてくる。

「……ありがとう、リオンくん。私も、一緒に活動したい。あなたたちの音楽からたくさんの刺激をもらいたい。聴けば聴くほどイメージが湧いてくる、素晴らしい音楽をこの先も聴かせてくれる?」

「もちろんっ!!」

 リオンくんは満面の笑みを浮かべると、飲み干したグラスを私に押しつけてピアノの元に走って行った。そして笑顔のまま自由に弾き始める。

「……見て見ろ、さくら。あの子、お前の返事を聞いてあんなに喜んでる。お前が自信を持って描けば周りにもいい影響を与えられる。あれが何よりの証拠だ」

 そう言われて、嬉しいやら恥ずかしいやら、複雑な氣持ちになる。黙っていると、父が急に頭を垂れた。

「俺はいい父親じゃなかった。それは認めざるを得ない。そのせいでさくらに嫌われたとしても仕方がないとも思う。でも……。俺は自分の人生を全うしたかったし、さくらにも同じように生きて欲しいと思った。それだけは分かって欲しい」

「今なら、分かる。受け入れられるわ」

「よかった……。分かってもらえて」

「でも……。だからってずっと連絡してこないのは違うんじゃないかな。自分の人生を全うしながらも、私を陰ながら支えることは出来たはずよ」
 思っていたことを素直に伝えると、父も「そうだな」と素直に認めた。

「ずっと、音沙汰なしで悪かった。……これからはちゃんと連絡する。さくらが会いたいと言えばすぐに会うようにもする」

「これから……? じゃあ、過去のことは水に流せ、と?」

「……俺は、今からさくらと新たな関係性を築きたい。って言うか、それしか出来ないからな。それで許してくれないか?」

「…………」
 少し考えてから返事をする。
「……すぐには無理。時間が必要よ」

「ああ、それで構わない。そう言ってくれただけでも有り難いよ」

「……会えたのが今日で良かった」
 これが、フェスの前だったらきっとこんなふうには話せなかっただろう。また、フェスよりあとでもきっと今みたいにうまくは話せなかっただろう。

「ああ、俺も今日フェスに来れて良かった。本当に良かった……」
 父はそう言って右手を差し出した。
「頑張れよ。画家としてのお前をこれからも応援している」

「ありがとう……。お父さんに胸を張ってみせられるような絵が描けるように頑張る」
 そう言いながら私は、差し出された手を握り返した。


27.<悠斗>

 店を閉めたいからと、半強制的に追い出されたタイミングで舞と出くわしたのはきっと偶然なんかじゃない。ニイニイと舞はきっと、ここでまみえる運命だったのだ。

 目的を果たせたのだろう、舞の顔は、吹っ切れたように見えた。そのせいか、父親と対面しても逃げの姿勢を見せることなくじっとこちらを見据えている。それを受けてニイニイも対峙する。

「……話せるか?」

「うん」

「それじゃあ、どこか、店に入ってゆっくり……」

「ここで話そう」
 舞は今の氣持ちが、勇氣が、消えないうちに決着をつけたいに違いない。半ば睨み付けるようにして父親に言い放った。

「……わかった」
 ニイニイは娘の言葉を聞き入れ、ネオンが光るライブハウスの壁にもたれた。話があると言って声を掛けたのはニイニイだったが、先に口を開いたのは舞の方だ。

「……わたし、今の仕事を辞める。野球から、離れる。今、そう決めた」

「……そうか」
 ニイニイは静かに受け止めただけだった。

「……反対、しないんだ?」

「……悩み抜いて決めたんだろう? だったら、おれから言うことは何もないよ」

「……本当に? 言いたいことがあるなら言ってよ。わたしは平氣だから。お父さんがどう思っているか、ちゃんと聞きたい。……話し合うためにここまで来たんでしょう?」

「…………」
 まさか、舞の方から父親の意見を求めるとは思わなかった。ニイニイも驚いた表情で舞を見つめていたが、やがて言葉を発する。

「ああ……。それじゃあ言うよ。……おれは、舞は野球が好きなんだとずっと思ってた。だから社会人になっても続けたいんだと……。でも、あれからよくよく考えてみたんだ。舞の人間関係についても思い巡らせてみたんだ」

「人間関係……?」

「……永江先輩の勧めで、祐輔に会った。祐輔の妻はるやまにも会った。二人に会って、互いの子供の思い出話をしながら、舞が何に思い悩んでいるかを探った。……そこでおれなりの解にたどり着いた。舞が野球を続けてきた理由と、休んでいる理由はおそらく……」

「その二人に会ったなら、お父さんの予想はきっと当たってる」

「じゃあ、やっぱりそうなのか……」
 父親の言葉に、舞は静かに頷いた。

 ニイニイが会ったという二人は、舞の失恋相手の両親で、ニイニイとは同じ高校の野球部だったと聞いている。

「……おれが浅はかだった。祐輔と春山の馴れ初めを知っていながら、あいつらの子供と舞とを引き合わせ、野球を通して親睦を深めさせてしまった。おれがもっと舞の氣持ちに寄り添っていればこんなことにはならなかったはず……。本当に申し訳なかった」

 ニイニイは深々と頭を下げた。しかし舞は小さくため息をついただけで、感情的になることはなかった。

「……どこまで話を聞いたのかは知らないけど、わたしはちゃんと圭二郎と話をつけたし、これからもあいつとの関係は変わらない。出会わなければよかった、とも思ってない。だから、お父さんが謝る必要はないよ」

「いいや……。圭二郎のことは抜きにしてもおれは謝らなくちゃいけない。知らなかったとは言え、悩んでいる舞の氣持ちを無視して『早く身を固めて欲しい』などと言ってしまった。本当なら、舞が元氣でいてくれるだけでいいはずなのに……。……おれは、おれは舞がめぐちゃんのように、結婚して子供をもうければ幸せになれると……勝手に思い込んでは押しつけようとしたんだ。幸せの形は人それぞれなのに……」

「お父さん……」

「今、子供と関わる仕事をしているせいもあるだろうな……。今おれは、ユウユウと永江先輩と三人で体操クラブをやってるんだけど、幼稚園児や赤ちゃんをみると、つい自分の孫のように思ってしまうんだ。そして、舞の赤ん坊の頃を思い出しては、そろそろ結婚して子供の顔を見せてくれてもいいよなぁ、なんて思ってしまう……。ああ、そうだ。全部、おれの我が儘。我が儘なんだ……」

 ニイニイの氣持ちが、おれには手に取るように分かる。おれも全く同じ思いで日々を過ごしているからだ。笑顔で走り回る幼子おさなごはかわいい。見ているとつい、微笑んでしまう。そんな幼子が自分の孫だったらどんなにかわいいだろう……。おれだってそう思わずにはいられない。

 子供の前では不器用な発言しか出来ないニイニイを見ていられずに、外野から少しだけ発言する。

「ニイニイ、自分を責めないでください。そう思うのはごく自然なことです。ただ、舞にそれを押しつけるのではなく、そう思った自分を自分で認めればよかっただけのことです」

「…………」

「そうだよ、お父さん」
 うつむく父親に向かって舞が言う。
「わたしが圭二郎と出会えたのは間違いなくお父さんのお陰。結果は残念だったけど、彼に本当の氣持ちを伝えたことで知らなかった自分を発見することが出来た。だから、これで良かったの……」

「知らなかった自分……?」
 ニイニイの問いに、舞は恥ずかしそうに目を泳がせたあと、ライブハウスに目をやった。

「今日ここに来て、そして圭二郎に指摘されてはっきり分かった。わたし、音楽が好き。自分でもやってみたい。お兄ちゃんのように、形だけでも……。今はそんな氣持ちなの」

「……そうか。舞も、音楽を」

「意外でしょう? 驚いたでしょう?」

「いいや……。いつか翼のように、楽器を弾きたいと言い出すんじゃないかと思ってたよ。でも、舞は優しい子だからいつもおれのキャッチボールに付き合ってくれたっけな……。それが嬉しくて、こっちからはなかなか言い出せなかった……」

「なによぉ……。みんな、わたしが音楽に興味あるって知ってて言ってくれないなんて、いじわるー!」
 舞は怒るような仕草を見せたが、すぐに矛を収めた。

「……わたしだって、お父さんと同じ常識にとらわれてたよ。圭二郎の婚約発表を聞いたとき、悲しみと同時に湧いてきたのは結婚が遠のいたことに対する焦りの氣持ちだった……。そのくらい、圭二郎のいる生活が当たり前だったんだよね。でも、日常が壊れた瞬間に、自分の思い描いていた人生が白紙になってしまった。野球を続ける自分がイメージできなくなった、って言った方が正しいかな。……圭二郎の言うとおり、わたしは圭二郎ありきで野球をしてた。だから、今回のことは起こるべくして起きたと思ってる。本当の自分は何が好きで、この先どう生きていきたいのか、見つめ直すきっかけになったから」
 
 穏やかな表情で彼女はおれに向き直る。
「……悠斗さん。わたしの我が儘に付き合ってくれてありがとうございました。お陰でサザン×BBのライブに来ることが出来たし、前進することが出来ました。本当に感謝しています」
 舞は深々と頭を下げた。

「おれは何もしてないよ。ほんのちょっと、舞の手助けをしただけ。でも、そう言ってくれて嬉しいよ」
 まるで娘に微笑みかけられたかのように感じて心が温かくなった。その想いが伝わったはずはないが、舞が思いがけないことを言い始める。

「あの、悠斗さんに一つ、聞きたいことがあるんです。教えてもらえませんか?」

「おれに答えられることであれば」

「ええと……。悠斗さんの家で厄介になると決めた日、温泉に行きましたよね? あのとき、聞いちゃったんです。悠斗さんとお兄ちゃんが、わたしを家に置こうと決めた理由について話しているのを……。亡くなった娘さんが生きていたらわたしと同じくらいの年齢だったから氣にかけてくれた、と言うのは本当ですか……?」

「……聞いてたのか。あの話を」

 うっかりしていた。家族だけだったからつい氣が緩み、翼の何氣ない問いかけにありのままの返答をしてしまった。

「……ああ、本当だよ。だけど、それはおれが後からとってつけた理由に過ぎない。おれが舞に手を差し伸べたのは単純に、救いたかったから。人を救うのに理由が必要か? いらないだろう?」

 嘘をついても仕方がないので、思っていることをそのまま伝えた。それを聞いて最初に反応したのはニイニイだ。

「……ふっ。ユウユウらしい答えだな。舞、彼の言っていることはおそらく本当だよ。おれも舞と全く同じ疑問を持ったが、同様の答えだった。あのときは納得できずに不満を漏らしてしまったが、今はすべてユウユウの言うとおりだったと断言できる。人にはそれぞれ、役割がある。そして親であるおれに出来るのは見守ることだけ。そうすることしか出来ない自分を過小評価するんじゃなくて、それがおれの役目なんだと、今は認めることが出来るよ。舞が、自分で人生を選び取る力を持っていることも分かった。だからおれはここで舞の言葉を聞き、背中を押す。それが父親として、おれに出来る唯一且つ最善の行為だ」

「ふふっ……。お父さん、かっこいいこと言うじゃん」
 そう言って舞は父親の腕をつついた。
「この間は鈍感な野球人なんて大嫌いって言っちゃったけど、やっぱりわたし、お父さんのことが好き。わたしは野球をやめるけど、お父さんにはこれからも野球好きでいて欲しいな」

「ああ……」
 ニイニイは照れくさそうに鼻の下をこすった。
「直接携わることはないかもしれないが、おれは野球をしてきた自分が好きだし、誇りに思っているからな。舞に言われなくたって、おれはこれからも野球を好きでいるよ」

「それでこそお父さん。……そうだ。明日とか、時間ある? 久しぶりにキャッチボールしようよ」

「おう……。おれはいつでも受けて立つぜ。永江先輩に頼んでどこかのグラウンドを貸してもらうのもアリだな」

「そんなこと出来るの? さすがー」
 微笑み合う二人を見て、この問題も解決したと確信した。

「……舞がうちに来てるって話したとき、ニイニイはおれに嫉妬したけど、なんだかんだ言っておれはやっぱり他人。父親とは違うってことをまざまざと見せつけられましたよ」

 冗談めかして言うと、舞に声を掛けられる。
「……悠斗さんにもいるじゃないですか、まなちゃんが。いい父娘おやこだとわたしは思いますよ」

「あー……。そう言ってくれるのは嬉しいけど、まなは翼とめぐの子であって……」

「もう……隠さなくていいです。まなちゃんは、悠斗さんが若い頃に亡くした娘さんの生まれ変わりなんでしょう? それもあのとき聞いちゃったし、まなちゃん本人にも確認してるので」

「えっ」
 予想外の発言に再び戸惑う。まなには事実を伝えてきたつもりだが、まだ理解できる年齢だとは思っていなかったからだ。
「まなは、なんて……?」

「確認した、と言っても聞いたのは悠斗さんと過去にしたやりとりだけで、特別なことは何も。わたしが感じたのは、今のまなちゃんも悠斗さんが大好きだし、悠斗さんといられる今を全力で楽しんでいると言うことです。だから悠斗さんが父やわたしを羨む必要はこれっぽっちもないと思いますよ。悠斗さん自身も、その頃の悲しみやつらさはとっくに乗り越えているんでしょう?」

 舞の言葉を聞いて、寝付いているであろうまなの寝顔が脳裏に浮かんだ。そう、真っ先に思い浮かぶのは、愛菜ではなく、まな、、なのだ。

「ああ、そうだな……。乗り越えたからこそ今を全力で楽しめてる、とも言えるかもしれない。血は繋がってないけど、おれはまなを実の子のように思っているし、次に生まれてくる子も同じように育てるつもりだよ」

「あっ、その話なんですが……」
 舞はそう言った後でチラリと父親に目をやった。
「後で、ご相談したいことがあります」

「なんだよ。ユウユウには言えるのに、父親のおれには言えないってのか?」

「関係が近すぎて言えないこともあるの! もう、分かってよね! タイミングを見計らって必ず言うから、ちょっと待ってて!」

 不満を漏らした父親に、今の舞は臆することなく「待て」と言い放った。その様子がまるで犬のしつけのようで笑いそうになったが、なんとか堪える。
 
「……分かった。帰りしなに、ゆっくり聞こう」

「ありがとうございます。……あ、あともう一つ。サザン×BBの皆さんに一言ご挨拶してから帰りたいんですが、構いませんか?」

「構わないよ。おれは全然急いでないから」

「よかった……。それじゃあ、もう少しだけ時間をください」
 舞はぺこりと頭を下げ、ライブハウスの入り口に向かったが、そこは既に鍵が掛けられていて入ることが出来なかった。

「そういえばさっき、これから身内だけで宴会するから出て行って欲しいって言われて追い出されたんだよな、おれたち」

「ええ……」

「そうなの? ……裏口から入れたり、しないかなぁ……?」
 ちょっと見てきます。舞はそう言って店の裏に回った。
 


28.<ユージン>

 ライブハウスの外は相も変わらず、無機質なビル群と無感情の人々しか存在しなかった。そこに一歩踏み出しただけで、揺さぶられていたオレの感情はすぐに沈静化する。

(何やってんだか、オレは……。かっこわりいな……。)

 冷静になってみると、自分の行動が子供じみていたように思え、落ち込みそうになる。しかし、ともさんから借り受けたアコギだけはオレの大胆な行動を褒め称えてくれた。

 智さんがオレをライバルと認めてくれたお陰でドラムの技術は向上したし、特別な環境で告白するという経験も出来た。それについては良かったと思う。だけど、さっきエレキを全力で弾いてみて感じたのは、やっぱりオレはドラムじゃなくてエレキが好きだってこと。ステージの一番後ろからバンドをサポートするんじゃなくて、ギタリストとして拓海さんや智さんと一緒にサイドで弾きたい。今はそんな氣持ちでいっぱいなのだ。

 裏口のドアにもたれ、弦を一本ずつ鳴らす。智さんの自慢のアコギ、ハミングバードのきらびやかな音が、東京の喧噪を打ち消すように響く。

 見上げた空には薄雲と、その影からチラリとのぞく星。そして東の空から昇ってきた月があった。ぽろんぽろんと弦をつま弾く。思いつくまま、今の氣持ちを、節をつけてつぶやくように歌う。


風の中を歩いてた
ホントの自分、さがしたくて

見上げた空、高く飛ぶ鳥のように
飛べない僕は
交差点を ふらふら、ふらり

ついては消える信号機
誰もいない道で立ち止まってる

泣くことが出来たなら
悲しみさえも癒えるだろう
孤独を噛みしめながら、ひとり
のぼる月を見る

##

雨の中を歩いてた
ホントの自分、見つけたくて

濡らした傘、
まるで この心のように
しずくがつた
交差点で ふらふら、ふらり

消えたままの街灯の
下でひとりきりで泣きじゃくってる

笑うことが出来たら
悲しみさえも癒えるだろう
孤独を噛みしめながら、ひとり
君を思い出す

思い出を消せたなら
きっと次へ進めるだろう
だけど今はこの時間ときを、
僕だけの時間ときを、あぁ……


 他人だれかのためではない。自分を癒やすために、慰めるために弾く。今までこんなふうに弾いたり歌ったりしたことはなかったが、まるでサザンクロスのようだと感じて少しだけ誇らしくなる。失恋したことはもちろん辛い。だけどオレはこれを糧に、絶対に成長してみせる……。憧れのサザンクロスに少しでも近づくために……。

「ユージンさん……」
 感傷に浸っていると、突然声を掛けられた。

「舞さん……?」
 お客さんは全員、ずいぶん前に店から出ている。だから、オレが招待した舞さんも当然帰宅の途についているはずだった。
「店の裏口に回ったりして。忘れ物でもしたんっすか?」

「いいえ……。今日、招待していただいたお礼が言いたいと思ったんだけど、入り口が閉まっちゃってて……。もしかしたら、裏からは入れたりしないかなぁ、なんて」

「ああ……。だけど、今は中で打ち上げやってる最中で……。みんなお酒が入っちゃってるから、挨拶なら日を改めた方がいいかもしれません」

「そうなんだ……。酒盛りが始まっちゃってるなら仕方がないね」
 舞さんは残念がったが、すぐに立ち去ろうとはしなかった。

「あの……。まだ、何か……?」

「……ユージンさんは参加しないの? って、出来ない理由があるからここにいるのかな」
 舞さんはオレの前にしゃがみ込んだ。
「あ、ごめんなさい。今の弾き語り、聴いちゃって……。声を掛けちゃいけないと思ったんだけど、なんて言うか……すごく良かったから、つい……」

「あー……」
 誰かが聴いてるなんて思いもしなかった。急に恥ずかしくなる。
「即興なんでなんとも言えないですけど、良かったって言ってもらえてちょっぴり嬉しいです」

「今の、即興なの?! やっぱりギタリストってすごいね……。うん、本当にすごい」
 舞さんは力強く頷いたかと思うと、オレの顔をじっと見つめた。

「ここでユージンさんにだけ会えたのもきっと何かの縁……。えっと、わたしね、ユージンさんのお陰で失恋した幼なじみに、ずっと好きでしたって伝えることが出来たの。さっきの告白、すごく勇氣をもらえた。だから、お礼を言わせてください。本当にありがとうございました」

 オレの大失恋が、まさかこんな形で誰かに勇氣を与えるなんて思いもしなかった。だけど、落ち込んでいた舞さんをライブに招待したのはオレ自身。きっとどのような形であれ、そのときから舞さんには何かしらの影響を与えることが運命づけられていたに違いない。

「自分で言っといてなんですけど、ライブを聴きに来て本当に人生が開けたみたいですね」

「そうなの。自分でもビックリよ。なにせ、思い人だけじゃなく、父ともちゃんと話して和解できたんだもの。あー、そうそう。なぜか父も会場に来ていてね……。もう、運命としか思えなかったよ」

「よかったですね。声を掛けた甲斐がありました」

「良かったなんてもんじゃないわ。本当に……ここから人生が変わろうとしている」
 舞さんは一度視線を外し、再びオレと目を合わせると、驚くべきことを口にする。
「……ユージンさん。わたしに……ギターを……教えてくれませんか……? あなたから、教わりたいんです」

「オレからギターを?! どうしたんっすか、いきなり……?」

「今も言ったけど、ユージンさんの告白する姿、本当に格好良かった。エレキの演奏も素晴らしかった。あれを見て、わたしもあんな風に弾けたらどんなにいいかと……。そ、そりゃあ、いきなりあのレベルで弾けるとは思ってないよ? でも、とにかくかっこいいなって思っちゃって……」

 言いながら舞さんの顔はどんどん赤くなっていった。
「……正直な話、ドラム叩いてるときよりも最後のエレキ弾いてるときの方が断然かっこよかった……です」

 エレキを弾いてるときの方が断然、格好よかった……。

 自分だけでなく、外からもそう見えていたならやっぱりそうなんだ、と確信する。サザン×BB結成に当たり、ドラマーとして頑張ってきたけど、きっと今が潮時なんだろう。

(ギタリストに、戻ろう……。)

 そう決めたら、なんだか肩の荷がすっと下りた氣がした。どうやら、思っていた以上に氣負っていたようだ。

「ありがとう、舞さん。そう言ってくれて。実はオレも悩んでたんです。このままドラマーを続けて後悔しないだろうかって。でも、今の一言で踏ん切りがついた。オレ、またエレキがやりたいって仲間に言ってみます。もしかしたら別々のバンドに戻るかもしれないけど、それならそれでもいい。オレは、エレキが弾きたいから」

「えっ。そしたらサザン×BB、なくなっちゃうの?」

「それは分かりませんが、オレ、麗華さんに近づきたいあまり、ちょっぴり無理してたみたいです。でも、舞さんと同じで、好きな氣持ちをぶつけてあんな風にフラれたお陰で逆に吹っ切れたって言うか、自分の氣持ちに正直になろうと思えたんです」

「わぁ……。はっきりとそう言えるユージンさん、かっこいいなぁ!」

「えぇっ……? 舞さん、さっきからオレのこと格好いいって、そればっかり……。そんなに褒められたら照れるじゃないですか……」

「嫌だったらやめるけど、格好いいのは事実だもの。……わたしだって、自分が思ったことは正直に言おうって決めたからね。それで言ってるだけよ」
 にっこりと微笑みかけられ、ますます困惑した。

(思い人と決別したばかりだと聞いたけど、もしかして舞さん、オレに惚れちゃったのかな……。)

 まさか、と思いつつも、褒め殺しされて悪い氣はしないし、何よりも舞さんのサバサバした振る舞いは話していて氣が楽なのは確かだ。

(まぁ、いいや……。きっと、なるようになる。)

 この先のことなんて誰にも分からない。オレに出来るのは、拓海さんや悠斗さんが言っていたように、今日が最期だと思って全力で日々を生きること。その結果、誰かを好きになったり、氣が合わなくなって別れたりすることもあるだろうけど、「今、ここ」を生きていれば決して後悔することはない。

 オレの返事を待つ舞さんがこちらをじっと見ている。オレはその目を見つめ返した。

「舞さんの想い、受け取りました。ライブが終わった後は少し休みがあるので、その間にギターの基礎をお教えしましょう。言っときますけど、オレのレッスンは厳しいっすよ?」

「いいの? ほんとうに?! やったぁ! ありがとう、ユージンさん」
 握手を求めた舞さんは満面の笑みを浮かべた。
「あの……。まだしばらくは悠斗さんの家で厄介になる予定ですので……。連絡、待ってます」

 舞さんはすっと立ち上がると、深く一礼をして去って行った。

「さぁてと……。オレもみんなと合流するか……」
 一晩中、歌い通さなければ収まらないと思っていた悲しみは、案外あっさり収束してしまった。きっと舞さんがたくさん褒めてくれたお陰に違いない。

(戻ったら、智さんに礼を言おう。拓海さんにも。それから、麗華さんにも……。)
 よし、と氣合いを入れて立ち上がり、ギターをひっさげ店の中に戻る。



 楽屋には誰もおらず、宴会が未だ盛り上がっていることを知る。そのまま店内に向かうと、バーカウンター前の椅子にセナと並んで腰掛ける智さんを見つけた。

「よう、ユージン。案外早く戻ってきたな。発散は出来たか?」

「おかげさまで。なぜか裏口に回ってきた舞さんに声を掛けられて、お互いの話をしているうちに氣が晴れました」

「そうか。よかったな……」

「それはそうと……。酔っ払ったセナにくっ付かれてますけど……」

「ああ……。ちょうど困っていたところだ。なんとかしてくれないか……」

「なんとかって……。そんなの、自分で解決してくださいよ。大人なんだから。それともあれですか、実年齢に対して精神年齢はずっと幼いんですか」

「…………!」

 セナの、オレの妹の氣持ちに応えようとしない男を見ていたら黙っていられなかった。自分でもビックリだが、さっきの告白劇を経験したことで妙な度胸がついたのかもしれない。オレはさらに責め立てる。

「智さんだって、目の前で麗華さんにフラれたも同然じゃないですか。なのにこの先も未練がましく片思いを続けるつもりなんですか。それ、はっきり言ってダサいっすよ」

「……お前に僕の何が分かる?」

「分かりません。だけど、妙なこだわりは捨てた方がいいです。いい女は麗華さん以外にもきっとたくさんいますから」

「…………」
 今の台詞を麗華さんが聞いていないことを祈るばかりだが、オレの見える範囲に彼女の姿を確認することは出来なかった。

「もし、このまま麗華さんを思い続けるというなら、オレはセナにあなたを諦めさせます。未来ある妹を不幸にさせたくはありませんから」

「お兄ちゃん……」

 一氣にまくし立ててしまったが、その間、智さんは一度も口を挟まなかった。怖じ氣づいているのか、それとも反論の文言を考えているのか……。

「ありがとう、お兄ちゃん……。兄さまが迷っているなら、アタシがなんとかする。自分の力で……!」

 しびれを切らして動き出したのはセナの方だった。妹は勢いよく立ち上がったかと思うとピアノに駆け寄り、スタンドマイクを椅子のそばに寄せた。オレも智さんもそちらに身体を向け、注目する。

「……お兄ちゃんの想いはレイさまに届かなかったけど、アタシの思いは兄さまに届けてみせる……!」

 そう言って弾き語り始めたのは、オレが先ほど麗華さんに向けて披露した「二人のハーモニー」だった。 (※ 曲が聴きたい方は以前投稿したこちらの記事へ。2:36~)

聴かせてよ、その声を
僕が眠りに落ちるまで
どんな悪夢も消えるから
君は僕の天使さま

ありふれたフレーズ
「愛してる」しか言えない僕をゆるして
どんな言葉を並べても
好きな気持ち 伝えきれない!

二人の声を重ねて
奏でよう 最高のハーモニー
世界に一つしかない和音コード
響かせて、和・輪
いま、踊り出す……

 一番が終わる頃にはおそらく、ホールにいた全員がセナの弾き語りに酔いしれていた。盛り上がりが最高潮に達し、みな酒を片手に、歌詞の通り本当に踊り始める。

 二番が始まり、辺りがさながらダンスホールと化したとき、智さんが動いた。

「……貸せ」

 ずっとオレが持っていた自分のギターを奪い取った智さんは、すぐにストラップを肩から掛け、ジャカジャカっと音を鳴らした。そして、通しでは一回しか聴いたことがないはずの「二人のハーモニー」を弾き始める。

##

二つの音を重ねて
奏でよう 最高のハーモニー
世界に二つとない和音コード
響かせて今、
ここから始まる、僕らのストーリー……

##

 まさに、歌詞さながらの光景が目の前で展開していた。セナのそばに歩み寄った智さんが目配せをする。直後、セナは半泣き状態になって歌えなくなる。

「……ったく。困った二人だ」
 見かねたオレはマイクを握り、最後の歌詞を歌う。

###

ユートピアなんか、なくたって構わない
君の歌声さえあれば
和、輪、わ、平和な世界

愛する君に捧ぐ歌
たとえ思い、届かなくても
僕は君を愛してる……

###

 演奏が終わると、聴いていた仲間たちが大歓声をあげた。ただ、事情を知らない彼らは、これがただのセッションだと思っているはず。しかし、これはマジな告白だ。本番は、ここから……。

 仲間たちが再びそれぞれに宴会を始めたとき、セナが椅子から立ち上がった。見つめ合う形になった二人はしばらくの間黙り込んでいたが、やがてセナが一歩前に出て想いを直接伝える。

「……今の演奏、今の歌がレイさまに負けてるとは思わない。ちゃんと、認めてくれたからこそのセッションだったと思いたい……。兄さま、どうかアタシの想いに応えてください……。お願いします……」
 セナは床につくくらい頭を下げて懇願した。それを見た智さんは力なく笑う。

「……まさか、ユージンに続いてセナにまで心を揺さぶられるとはな。参った、完敗だよ」
 彼は万歳をするように両手を挙げた。

「……ユージンの言うとおりだ。僕は、セナを愛せない理由をレイちゃんへの片思いという形で押し通していたに過ぎない。セナが嫌いで拒んでいたわけじゃなく、単純に自信がなかった……。若い子からの求愛を自分の中でうまく消化できなったし、揺れ動く自分の氣持ちを自分で受け入れられなかった、それだけのことだったんだ……。って、全部言い訳だよな」

 智さんは何度も目を泳がせた後、ようやく呼吸を整えてセナの目を見た。

「今、セッションしたのが僕の答えだ。……♪二つの音を重ねて奏でよう、最高のハーモニー。世界に二つとない和音コード。響かせて今、ここから始まる、僕らのストーリー。……歌詞、あってるかな? こんな僕でもいいって言うなら……一緒に和音を響かせよう」

 差し出された手を、セナが両手で包み込む。
「ってことは兄さま、アタシのこと……?」

「……♪たったの四文字『大好き』さえも、目を見て言えない僕を許して~」

 智さんは問いの答えを歌で返した。ずるい、ずるすぎる……。でも、これが彼なりの精一杯の愛情表現なのだろう。セナも分かっているようだ。不器用な智さんの答えを聞いて目と顔を赤くしている。

「……セナのやつ、良かったな。兄ちゃん、大活躍じゃん」
 遠巻きに見ていたであろうリオンが近くにやってきた。
「以外と失恋、引きずってなさそうで安心したよ」

「引きずったって仕方ないし、あれだけバッサリ切られたら、かえって氣持ちがいいくらいだ」

「確かに……。だけど、あれはマジでおれも惚れちゃいそうになるくらい格好良かったよ」

「お前に好かれても嬉しくはないね……。残念だけど、オレの告白する姿を見て格好いいって言ってくれた女性がいるからな。どうせ受けるならオレはそっちにするよ」

「えっ?! なにそれ。もう次の恋愛、考えてるのかよ?! 前向きすぎだろ!!」
 冗談交じりで言ったのに、リオンが本氣にしているのが面白くて笑う。

「人生は短いんだ、落ち込んでる暇なんてないんだよ。……ですよね、智さん?」
 話題を振ると、智さんは「勘弁してくれ……」と言って肩をすくめた。

「若いのと一緒にいれば何かと刺激がもらえるだろうと言ったのは僕だが、これほどまでとはな……。特にユージンの積極的な姿勢には学ぶところが多かったよ。本当にありがとう」

「いいえ。お礼を言うのはこちらの方です。智さんが背中を押してくれたからドラムの腕を上げることが出来たし、麗華さんに歌を聴いてもらうことも出来ました。本当に感謝です。ただ……」

 ここで一呼吸を置き、さっき決意したことを告げる。

「これを機に、エレキに戻ろうと思ってます。サザン×BBにギタリストが多すぎると言われて転向したけど、やっぱりオレはエレキギタリストとして生きていきたいんです」

「ああ、そうしてくれ。最初から無理をしているんじゃないかと心配していたんだ」
 否定的な発言が出てくると予想していたのに、智さんはあっさり受け入れてくれた上に、こう続ける。
「お前がどの楽器を担当しようが、サザン×BBはこれからも六人でやっていく。大丈夫。なんとかなるさ」

「……智さんからそんな前向きな発言が聞けるなんて」

「ふっ……。これも君たち、若者と一緒にやってきたお陰だよ。これからも高めあって行こう。そしていつの日にか、世界征服を果たそう」
 智さんは今度はオレに手を差し出した。

「兄さま。それを言うなら、世界征服という名の世界平和、でしょう?」

 セナに寄り添われた智さんは戸惑いを見せながらも「そうだな。僕らの音楽で世界中を愛で一杯にするんだったな」と自分の発言を訂正した。





最終章(約11,000字)

29.<さくら>

 季節は巡り、暑い夏がやってきた。幼い頃から部屋の中で絵を描いてきた私は真夏の日差しが大の苦手だったが、今年は頻繁に白い肌をさらしている。

 事の発端は、舞さんのお父さんがこの春から父の運営する野球チームのコーチを務めはじめたこと。舞さん自身は野球から離れる決意をしたが、まるで選手交代するかのように和解したお父さんの方が野球を再開すると言う流れになった。それを機に、同じく父と和解した私に舞さんから声がかかり、度々試合を見に行くようになったと言うわけだ。

 そんな私の行動を見て喜んでいるのは伯母の麗華ちゃん。父と会うようになったことはもちろん、ブラックボックスの三人と一緒に出かける機会が増えたことで表情が明るくなったと会うたびに言われている。「もしかして、恋してるんじゃない?」とも。


◇◇◇

 秋に発売を予定しているアルバムの最終打ち合わせのため、この頃は連日、ゆうび奏社に足を運んでいる。私は完全、仕事モードで来ているが、麗華ちゃんには仕事とプライベートの境界線がないらしい。

「あたしにはこっそり教えて頂戴よ。ねぇ、どっちが好きなの? やっぱり、ユージン?」

 二人きりになったタイミングで麗華ちゃんが突然、そんなことを耳打ちしてきた。少し離れたところにはユージンさんとリオンくんがいる。

「どっちっていうこともないけど、二人ともいい人だから、そういう意味ではどっちも好きだよ」

 当たり障りのない返答をすると、麗華ちゃんはつまらなそうな顔をした。彼女がユージンさんの告白にオーケーしなかった理由の一つには、私と彼とを結ばせようとする意図があったからだと私は考えている。しかし、残念ながら麗華ちゃんの思い通りにはさせない。ユージンさんがいま氣にかけている人物を知っている私が、彼に思いを寄せることなどあり得ないからだ。

「私のことより自分の恋人を大事にしたらどう? ……ほら、拓海さんがじっと見てるよ」

 そう言って指さすと、拓海さんは嬉しそうにこちらへやってきた。しかし、用事があるのは私の方らしい。麗華ちゃんには見えないように口元を半分手で隠す。

 ――お前は麗華の言葉を素直に受け取った方がいいぜ。ほら、お前と話したくてうずうずしてるやつがあそこにいる。行ってこいよ。

 唇の動きから、そんなようなことを言っているのが分かった。戸惑う私の背中を押した拓海さんは麗華ちゃんをぐっと抱き寄せる。まるで、俺たちは大丈夫だから余計な心配をするな、とでも言うかのように。

「さっきから何をこそこそ話してたんだよ? もしかして、おれらの悪口?」
 二人の元に合流すると、真っ先にリオンくんが口を開いた。私は適当な嘘をつく。

「ううん……。セナちゃんと智篤さんは仲良しね、って。そういう恋愛話を……」

「あー、あの二人か。……ったく、セナのやつ、全員での練習だって言ってるのに兄さんと二人きりになりたがるんだぜ? バンド内恋愛はこれだから困るよな」

「バンド内恋愛なんて、ざらにある話だろ? そんなことを言ったら拓海さんと麗華さんがそうだし、お前だって……」

 ユージンさんの顎が私とリオンくんを交互に指した。
「お、おれが、誰と恋愛するって……?」

「この中ではひとりしかいないだろ? ねぇ、さくらさん?」

「えっ?! うわぁっ?!」
 ユージンさんが面白がって私とリオンくんをくっつけた。

「お似合いだと思うけど?」

「な、何がお似合い、だよ! 元はと言えば、さくらさんは兄ちゃんとくっ付く予定だったはず……」

「予定? 麗華さんの思いつきで引き合わせられたオレらだぜ? さくらさんはオレを経由して、リオンと親しくなる運命だったとオレは思うけど?」

「…………」
 顔を見合わせた私たちは顔を赤くした。そこへ、ユージンさんがダメ押しの一言を加える。

「さくらさん。リオンのこと、どう思いますか? 頼りないかもしれないけど、いいやつなんです、これでも。どうか仲良くしてやってくれませんか」

「リオンくんは全然頼りなくなんかないよ。いい人だって言うのも知ってる。でも……私、彼より十歳も上だし……」

「さくらさんまでそんなことを……。だから、年齢は関係ないんですってば。セナと智さん、見たら分かるでしょ。いくつ離れてると思ってるんですか。正直、親以上ですよ? でも、めちゃくちゃ仲良くしてる。年齢差があるから付き合えないって言うのは理由にならないです」

「…………」
 ユージンさんの言うことは正しい。私は、自分が彼にふさわしい人間だと言い切る自信がないために、年齢差を引き合いに出したに過ぎない。

 もじもじしていると、ユージンさんがリオンくんに何やら耳打ちをした。やりとりがあった後でリオンくんに手招きされ、私たちは上階の音楽スタジオに向かう。

 そこでは先客のセナちゃんと智篤さんが熱心に練習していた。が、リオンくんが目で合図をすると、双子の姉であるセナちゃんは何かを察したようだ。

「頑張ってね~」
 そう言って、智篤さんと共に部屋から出て行った。二人きりになり部屋がしんと静まりかえる。居心地を悪くしていると、リオンくんが電子鍵盤キーボードの前に立った。

「……言葉で伝えるの、苦手なんだ。だから、おれの得意な電子鍵盤こいつで伝えるよ」

 戸惑う私の前でリオンくんが電子鍵盤キーボードを弾き始める。そのイントロは、私のために作ってくれたという「カラフルワールド」。彼は、歌う代わりに主旋律を奏でた。頭の中で歌詞を思い浮かべながら聴くと、まるでリオンくんが歌っているみたいで不思議な感覚になる。いつしか脳内がカラフルな色で満たされた。

「……セナちゃんの歌がないバージョンも素敵。すごく良かったわ」
 演奏が終わって感想を伝えると、リオンくんは鼻の下をこすった。

「……もっと、聴きたい?」

「ええ。何曲でも。あー、でもその前にスケッチブックを用意したいな。イメージがどんどん湧いてきてるの」
 私の返答を聴いたリオンくんはにんまりと笑った。

「……やっぱりおれ、さくらさんの創作意欲を刺激できることに喜びを感じるんだよなぁ。うーん、なんだろう。言葉ではうまく伝えられないんだけど……」

「私も多分、同じ氣持ち。いわゆる、恋愛の『好き』とは違うって言うか……」

「そうそう! ……実を言うとおれ、セナと智篤兄さんみたいにベタベタする恋愛って苦手でさ。一緒にいて心地いいとか、高め合えるのがおれの理想の関係。恋愛に限らず」

「分かる分かる!」
 意気投合した私たちは笑い合った。

「そういうことなら私たち、同じ志を持つパートナーってことでどうかな?」

「おっ! それ、いいじゃん! そうだよ、おれたち、同志でいいんだよ」

「うん。それなら氣も楽だしね」

「うん、うん! じゃ、そういうことでこれからもよろしく!」
 リオンくんが右手を差し出す。私はその手を握り返して微笑んだ。



30.<舞>

「……ついに、野上センパイの実の娘がうちの店に来るとは」
 ワライバの店主、大津理人さんはそう言うなりわたしの顔をのぞき込んだ。

「……息子の方もだけど、娘さんもセンパイに似てなくてホッとしたよ。似てたらマジでやりにくいもんな」

「理人さん、顔が似てるか似てないかは関係ないですよ。舞ちゃんはずっと野球をしてきてるので本当に元氣いっぱいの女の子。なので、きっとすぐに人氣者になれると思うんです」

「確かに、めぐっちとは別の意味で素敵な女性だとは思うけど……」

「そこをなんとか……!」

「お願いします!」

 わたしとめぐちゃんはそろって頭を下げた。大津さんはしかし、即決はせずに「うーん……」と唸ってしまった。

 考え込むのも無理はない。めぐちゃんが産休・育休を取得する間、彼女の従姉のわたしを代わりに雇って欲しいと頼み込んでいるのだから。

 めぐちゃんとわたしとは、まるでタイプが違う。癒やし系の彼女に対し、わたしは元氣系。相談事を持ってくるようなお客さんから話し相手になるよう求められた場合、対応できるのだろうか……と思うのは当然のことだろう。

 しかし、タイプが違うのは百も承知でこちらも頼み込んでいる。そしてわたしにはめぐちゃんにはない特技がある。これを売り込むしかない。

「大津さん。このお店は年中、野球中継を流しているんですよね? 永江さんのファンクラブ会員向けに開かれたスペースもある。わたしならそういった人たちに、父から聞いた話をすることが出来るし、今活躍しているプロ選手の話題にもなんなくついて行けます。独り身なのでラストまで働けますし、わたしならこのお店を、これまでよりもっと元氣にすることが出来ます」

「なあるほど。そっち方面に振るって手があったか」

「もし、見込みがないようならすぐに切ってもらってもいいです。でも、そうならないようにわたし、一生懸命働きますので、どうか雇ってもらえないでしょうか……」

 お願いしますと、もう一度頭を下げる。すると大津さんは「頭を上げてよ」と言って溜め息をついた。

「オーケー。そこまで言うなら採用するよ。って言うか、最初から話は受けるつもりだったけど、そっちがどのくらい本氣かどうか試させてもらっただけ。だいたい、断ったらセンパイになんて言われるか分かったもんじゃないし……」

「それじゃあ……」

「すぐにめぐっちの代わりに入って。店のことはやりながら覚えればいい。そこら辺の喫茶店と違って、昼時・晩飯時にどっと混むような店でもないから、氣楽にやってくれればいいよ。あー、だけど料理は作れるようにしておいて。一応、今は飯のうまい店ってことになってるから」

「料理……」
 鈴宮家に居候の間だいぶ覚えはしたものの、めぐちゃんと比べられたら絶対に勝ち目がない……。おどおどしていると、めぐちゃんに励まされる。

「大丈夫だよ、舞ちゃん。うちに来てすぐのときからずいぶん腕を上げたと思うよ。だから自信を持って!」

「う、うん……」

「私の代わり、って思わないで。舞ちゃんは舞ちゃんのやり方でやればいいの。でしょう?」
 私より年下のめぐちゃんだが、精神年齢はずっと上のように感じた。

「そうだね……。自分で言ったんだもんね。わたしはわたしの個性を出して頑張ってみる」


◇◇◇

 勤めていた会社を辞めたわたしは、もうしばらくの間、鈴宮家でお世話になることにした。一番の理由は、間近でめぐちゃんがお母さんになっていく様子をじっくり見たかったから。そして出産を見届けて新生児のいる生活を共にしてみたかったから。

 自分でもそんなふうに思えるようになるなんて……とビックリしているが、それもこれもこの家の人たちの優しさと穏やかな暮らしのお陰だろう。

 めぐちゃんの代理として「喫茶ワライバ」で働くことを提案したのもわたしからだ。彼女の役に立ちたいと思ったのはもちろんのこと、「普通じゃない」その店のことを知りたいと思ったのだ。

 働き始めて分かったのは、店主の理人さんの器がとにかく大きいこと。理人さん曰く、おおらかな人間になれた一番の要因はわたしの父にあるそうだ。現に父の話をするときの理人さんは、何かにつけて拝むポーズをする。どうやら彼の中で父は、神にも匹敵する存在らしい。


◇◇◇

 ワライバでの仕事に慣れ始めた頃、なじみの顔がやってきた。

「いらっしゃいませ! お久しぶりです、永江さん」
 挨拶をすると、彼は嬉しそうに微笑んだ。

「初めて会ったときとは別人のように活き活きしているね。どうやら君も、悠斗クンたちに感化されて生き方が変わったようだ」

「はい。あのとき悠斗さんと引き合わせていただいたお陰です。その節は本当にありがとうございました」

「お礼を言われるようなことは何も。今回のことは君が君の力で解決したことだよ。もっと自信を持つといい」

「はい」

「済まないね、ついさっきまで野上クンも一緒だったんだが、ここで食事をしようと誘ったら断られてしまった。君に会わせたかったのだが……」
 心底申し訳なさそうな永江さんを見たわたしと理人さんは、顔を見合わせて苦笑した。

「野上センパイの氣持ちも考えてあげてくださいよ。和解して日が浅いってのに、娘が働く店にわざわざ行く父親がどこにいるんですか」

「うん……? 以前にも増して娘の自慢話をするようになったから、てっきり会いたいのだと思っていたのだが……?」

「え? 父がわたしの話を……?」

「ああ。今日に至っては、自宅からわざわざアルバムを持ってきて、幼少期の君の写真を見せてくれたよ」

「そうだったんですか。なんだか恥ずかしいですね……」

「あはは、そうやってはにかむ様子は野上クンそっくりだ。やはり君たちは親子なんだね」
 さて、食事にしよう。永江さんはそこで話を終え、カウンター席に着いた。

(仕事が終わったら、今の話をお父さんにしてみよう。そしてまたキャッチボールに誘って、ワライバに顔を出すよう言ってみよう……。)

 理人さんも永江さんも、父のことを本当に嬉しそう話す。こんなにも愛されている父を持つことに誇りを感じながら、今日もワライバでの仕事をこなす。

 


31.<ユージン>

 実家の倉庫で眠っていた古いアコギを舞さんにあげたらめちゃくちゃ喜んでくれた。あちこち傷が入っていてお世辞にも綺麗とは言えない代物だが、弦を張り替えたらちゃんといい音がして、どうやらそれが氣にいったらしい。最初なんて、すべての弦を解放した状態でじゃらんと鳴らしたときの音に酔いしれていたほど。それくらい、自分でギターが弾けることに喜びを感じているのだろう。

 オレのきょうだいは舞さんの純真さに呆れていたが、オレはその素直さに好感を抱いた。というのも、素直が故に吸収が早いのだ。オレが手本を見せたとおりに弾いてくれるからちゃんと綺麗に音が鳴る。鳴れば嬉しいからもっとやりたくなる。そして上達する。いい循環が出来ている。

 とはいえ、「初心者の壁」と言われるバレーコード(人差し指で複数の弦を押さえる奏法)には手こずっている。何度やっても音が鳴らないのだ。

「オレも結構練習しましたよ。まぁ、数をこなせば弾けるようになりますから、根氣強く練習しましょう」

「はい……。だけど、ぜんっぜん鳴る氣がしないんだよねぇ。こうでしょう?」

「あー、親指をぐっと反らすんですよ。で、残りの四本の指でネックを挟むイメージ。……こう。こうです」

 舞さんの後ろに回って「F」のコードを押さえる。舞さんが右手に持ったピックで弦をなでると、綺麗に音が鳴った。

「えー、何が違うんだろう……?」
 今度は舞さんが自分の指で押さえる。その上からオレが手を重ねて押さえる。

「こう、ひねる感じ」

「痛い、痛い……! 結構強くひねるんだ。なんか、分かった氣がする……!」
 舞さんはオレが無理やり上から押さえたことで感覚をつかんだのか、自分ひとりでやってみると今度はさっきよりも音が鳴った。

「鳴った! コツを掴んだかも!」
 嬉しそうにはしゃぎ、何度もトライするうちにかなりの確率で音を鳴らせるようになった。

「いい感じですね。その調子です」
 褒めてあげると、舞さんは満面の笑みを向けた。

「ユージンさんの教え方がうまいから、どんどん上達しちゃう。これならすぐにお兄ちゃんと肩を並べられるかもね」

「前向きっすねぇ。でも『F』の次には『B』っていうラスボス級のコードが待ってますからね。こいつを弾けるようにならない限り、お兄さんと同じに弾くのは難しいっすよ?」

「え!? ラスボス級のコード?! なにそれ。こわーい」

「大丈夫。オレが丁寧に教えますから」

「ちなみに、どう押さえるの?」

「こうですね」
 舞さんの指を「B」のコードの位置に導く。

「……あー、わたしがサウスポーだったら楽勝だったんだろうな。でも残念……! わたし、右投げだから左手の人差し指と中指を広げるトレーニングはしてないんだよねぇ」

「じゃあ、今からやってください。そうしたら、弾けます」

「ユージンさん、もう一回、わたしの手の上から押さえてもらえる? さっきみたいに。そうしたら弾けるかもしれない」

「はい、じゃあ……」
 言われたとおりに手を重ねる。野球をしていた人だけに指の筋力はあるようだが、女性だからやはりオレよりひと回り手が小さい。重ねるとすっかり見えなくなってしまうほどに。

 さっきよりも力を込める関係もあって身体もギターに寄せる――つまりは舞さんに身体をくっつける――格好になる。多分、他の人ならこんな教え方はしないんだろうなと思いつつ、オレはこういう風にして教わったから人にもこう言う教え方しか出来ない。

「……結構、ツライでしょう? 力がいるんですよ、このコードは」

「確かに……。でも、ユージンさんくらいの力加減で押さえれば鳴る、ってことをわたしの手に覚えさせれば弾ける氣がするんだよね。だから、そのまま押さえといてもらえるかな? なんならもっと力を込めてもらってもいいよ」

「……あのー。嫌じゃないですか? オレ、結構接近しちゃってるんですけど……」

「え? 大丈夫だよ。わたし、お父さんから野球を教わるときも手取り足取り教わってるからこういうの慣れてるし、ユージンさんは全然嫌な感じ、しないから」

「そうですか……。なら、続けます……」

 舞さんの言葉の裏に隠れている想いがどの程度なのかは読み取ることが出来なかった。しかし、背後から身体を密着させても嫌がられないってことはこの先、良好な関係を築ける可能性が高いのでは……? と、勝手に妄想する。

(だけど、こんな姿をメンバーに見られたら絶対にいじられるだろうなぁ……。)

 マンツーマンで教えるのにうってつけの場所は、例のごとくサザンクロスの三人宅の音楽スタジオしかなかった。内側から鍵は掛けているが、見ようと思えば小窓から中の様子を見ることが出来てしまうため、少しドキドキしながら教えていく。



 レッスンを終えた後は恒例になりつつある、オレの弾き語りの時間。舞さんはこれを楽しみにしている。弾くのは舞さんがよく聴いていたという、シンガーソングライター・レイカの曲。フラれた女性の持ち曲を弾く、というのは皮肉な話だが、これも何かの縁と言うことなのだろう。

「あぁ……。最高だよ、ユージンさん。歌ったらもっといいと思うんだけど」

「オレは歌い手じゃないし、舞さんに見せたいのはギターのテクニックの方なので」

「……なら、もう一曲! お願いします!」

「了解です。何でも弾きますよ」
 単純なもので、褒められるだけでこんなにもやる氣になっている。そして彼女に対する氣持ちまでもが変わっていく……。

「舞さん、オレのこと、好きでしょう?」
 軽ーい氣持ちで言ってみる。

「うん、好きだよ」
 舞さんからも、同じ調子で返ってきた。そこに深い意味があってもなくても、そう言ってもらえたことが素直に嬉しい。

「じゃあ、好きって言ってくれたお礼にこの曲を……。『二人のハーモニー』」

 オレの場合は失恋ソングになってしまったが、セナの時は想いが成就したので、オレの中でこの曲は縁起のいいラブソングとして上書きされている。

 今はまだ、歌わない。でも、二人の氣持ちが一つになる日が来たら、そのときはまた歌おう……。そう思っているオレの目の前で舞さんが歌詞を口ずさみ始めた。



32.<悠斗>

 まだ夏の暑さが残る九月末日にめぐの二人目の子が誕生した。予定日は父親である翼の誕生日――十月十五日――だったが、まなが帝王切開での出産だったため、二人目も同様の出産となった。

 まなのときは、亡き娘の魂に再会できた喜びが大きく、我が子という感覚も強かった。しかし今回は純粋に「めぐと翼の子」という、完全に一歩引いた目線で受け止めることが出来た。男の子だったのも要因の一つだろう。

 名前は、そら。長女のまなに合わせて平仮名にするそうだ。

「悠斗も抱いてみろよ。他人の子、とは言わせないぜ?」
 おれの考えていることなどお見通しとばかりに翼が言い、赤子をおれに押しつけた。

「いやー……。他人の子だなんて思ってないけど……。でも、退院したら一緒に暮らすんだもんな……」

「そらにも、悠斗のことはお父さんって呼ばせるつもりだから」

「分かった、分かった……。そのつもりで頑張るよ。……舞も抱いてみる?」

 そばで赤子をじっとのぞき込む彼女に問うた。めぐの出産を見届けるのだと言って、あれからも我が家で過ごしてきた舞だ。

「え……。だけど、お兄ちゃんの許可がないとなんとも……」

「許可なんているもんか。甥っ子の子育て、手伝うって決めたんだろ? だったら、まずは抱いてみるところから始めないと。……だけど、そうっとだぜ? 赤ちゃん、抱いたことないんだろう?」

「う、うん……」

「ほら。抱いてごらん」
 おとなしく眠っているそらを舞の腕に乗せる。

「うわぁ……。かるーい……。ちっちゃーい……!」
 舞はまるで自分の子のように抱き、優しく揺らし始めた。

さまになってるよ、舞。やっぱり女は赤子の世話が出来るように生まれついてるんだな」

「え……。そ、そうですか……? なんか、ちょっぴり嬉しいかも」

 そんな話をしているところへ、数日ぶりにまなと会って二人きりの時間を過ごしてきためぐが戻ってきた。手術の前日から入院して出産当日、そして産後一日の計三日、ママに会わないで過ごしたせいだろう。まなはめぐにべったりだ。

「赤ちゃんのお世話、ありがとう。あ、舞ちゃんが抱っこしてるの? さまになってるー」

「それ、いま悠斗さんにも言われたところなんだけどー」
 舞は恥ずかしがってすぐに赤子をめぐに渡した。
「……これから、大変になるね。二人の子育てが始まるんだもんね……」

「だねぇ。でも、みんながいてくれるからきっと大丈夫。何も心配してないよ。だよね、翼くん? 悠くん? それから舞ちゃんに、まなも」

 全員、名前を呼ばれて身を引き締める。どうやら、二人の母になっためぐが、我が家では一番しっかり者になったようだ。

「まなちゃん、そらにミルクあげるー。おむつも替えてあげるの! いま、ママと約束したんだ!」

 二番目にやる氣を出しているのはまな。四歳児が新生児の世話を頑張ると言っているのだ、大人が氣弱になっている場合ではない。

「よーし。それじゃあお父さんもまなと一緒にお世話を頑張るよ。一緒にやろうな」

「うん!」

「……めぐちゃんはいいなぁ。頼りになる『お父さん』が二人もいて」

「『お母さん』も二人いるよ? まなと、舞ちゃん」
 めぐから再度、赤子の世話係であることを告げられた舞だが、まだピンときていないのか、暢氣のんきな声を上げる。

「え? ……あ、そっか。めぐちゃん、名前の通り本当に恵まれてるんだねぇ」

「えへへ……。おかげさまで、みんなに助けられながらお母さんやってます」

 そこへ、来客が続々と到着する。まなの時同様、大きな花束を抱えた孝太郎さんとニイニイ夫妻、彰博あきひろ映璃えりもやってきて個室はあっという間に満員となる。

「そら。あなたのために、こんなにたくさんの家族が会いに来てくれたよ。嬉しいねぇ。幸せだねぇ」
 めぐが優しく語りかけると、応えるかのように、そらが大あくびをした。

「……ねぇ、お兄ちゃん。そらを連れて帰ったら、お祝いに一曲弾いてよ。わたし、お兄ちゃんのギター演奏が聴きたい。って言うか、聴かせてあげたい!」

 舞の提案を受けて翼は始め驚いた表情を見せたが、「まさか、舞がそんな提案をしてくるなんて。変わったなぁ……」と言って微笑んだ。

「リクエストとあらば、一曲と言わず何曲でも弾くよ。ただし、お前も一緒な。プロからレッスン、受けてるんだろ? 三ヶ月も練習したら、一曲くらい弾けるよな?」

「えっ!! とてもじゃないけど、まだまだ人前で弾けるレベルじゃ……」

「一番簡単なのでいいよ。……って言うか、俺も教えようか?」

「ううん、大丈夫……! わたしはユージンさんに教えてもらいたいの!」

 きっぱりと言い切る様子を見て、翼がおれに耳打ちをする。
「……もしかして舞のやつ、ユージンさんのこと……?」

「……ああ。多分、な……」

「切り替え、早いなぁ……。悠斗とは大違い」

「……最後の一言は余計だ」

「冗談、冗談」

「……まなちゃんの時は黙ってたけど、男の孫が生まれたからには言わせてもらう。そらには野球を教える! 翼がなんと言おうとも、おれは教えるぞ!」
 そらの顔をのぞき込みながらニイニイが言った。
「永江先輩も、お願いします。これは、おれの夢なんです」

「……翼クンの時も、こうやって意氣込んでいたんだろうと容易に想像できるよ。もちろん、そらクンが野球に興味を持っていると分かったら、そのときは全力で教えよう。だが、生まれたばかりの今、それを約束するわけにはいかないな」

「せ、先輩~……」

「我が子や孫に野球を……と思う氣持ちは分からないでもない。しかし君は今、庸平と共に子供に野球を教えるという立派な仕事を始めたところじゃないか。夢はもう、叶ったも同然ではないのかな?」

「……まぁ、そうですね。コーチの仕事は楽しいですよ。やりがいも感じてます」
 しかし諦めきれないようで「野球、やろうなー」と言いながらそらの頭をそうっとなでた。

「野球だけがスポーツじゃないですよ。おれは、水泳を教えたいですね。ああ、まなも始めたところだし、水泳なら赤ちゃんから始められる。体力もつくし、いいですよ」

 野球の話ばかりになってきたので話題を変えた。すると脇から映璃が「じゃあ、私はピアノを教える」といい、その隣では彰博が「それじゃあ僕はチェスを」と言い始めた。

「ちょっとー、みんな。そらに期待、かけ過ぎだよー。私も翼くんも、我が子はのびのび育てる方針なんだから!」
 めぐがぴしゃりと言うと、大人たちは顔を見合わせて黙りこんだ。やはり、母親が一番強い。

 めぐと出会ったのは彼女が八歳の時。あれから約二十年、そばで成長を見守ってきたおれは半分父親のような氣持ちで今、ここにいる。めぐとの結婚話もあったが、あのとき翼に譲って正解だったと改めて思う。

(立派になったな……。)

 年のせいか、子供世代の成長を感じるとすぐに涙腺が緩んでしまう。目が涙に濡れ、一筋こぼれ落ちるが、敢えて拭くことはしなかった。ここにいる全員が、おれの涙を受け入れてくれると知っているから。

「……もう、しょうがないなぁ。それじゃあ、わたしがキャッチボールに付き合ってあげる。永江さんも、いいですか? 野球で出来てる父なもので……」

 空氣を読んだ舞がニイニイを説得する。誘われた孝太郎さんが断るはずもなく、「それでは今から始めよう」とすぐにきびすを返した。

「そらの成長を待たずとも、相手がいるじゃないですか。いい娘を持って幸せですね、ニイニイは」

 皮肉っぽく言ってやると「……それじゃあ、いい娘である舞を嫁に貰ってくれよ」と返された。

「……この前は、手を出すなって言ったくせに」

「……冗談だよ、冗談」

 やっぱり舞の結婚を待ち望んでいるであろうことが透けて見える発言に苦笑する。
「言っときますけど、舞にはおれよりもふさわしい相手が既に……」

「あー! ほら、お父さん、行くよっ! 永江さんも早くっ!」
 おれの言葉を遮るように舞が声を上げ、二人の腕を引っ張って部屋を出て行った。扉が閉まり、次第に声が離れていく。本当にキャッチボールをしに行くつもりのようだ。

「……それで? 舞にふさわしい相手って誰なの? みっちゃんには言わないから、こっそり教えて頂戴な」
 舞とニイニイがいなくなったところで、ここまで静観していた舞の母親が、聞くなら今しかないとばかりに口を開いた。
「もしかして、やっぱり悠斗さんなの?」

「まさか。若い子に決まってるじゃないですか」

「そうなの? あたしは悠斗さんでもいいかなって本氣で思ってるんだけど」

「……悪い冗談はやめてくださいよ。さすがにもう恋愛する元氣はないです……」
 言い訳をすると、その場にいた全員が大口おおぐちを開けて笑った。


――完――


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